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甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する魏延像
魏延(ぎえん、? - 234年)は、『三国志』登場する蜀漢(蜀)の部将。字は文長。
南陽郡義陽県[1]の人。庶民出身で(後述)、はじめは劉表の一兵卒となるが機会に恵まれなかった。劉備が精鋭を募集するとこれに志願して、「部曲」[2]を率いて大活躍した。その勇猛さを認められて部隊長に任じられた。
211年、劉備の入蜀に従軍し、涪県で龐統の命で劉璋暗殺を目論むが、劉備に制止された。212年、劉備が劉璋と敵対するようになると、劉備の子である劉封[3]・劉公仲兄弟とともに奮戦して功績を挙げたので、牙門将軍に昇進した。
219年、劉備が蜀王(漢中王)になると、将兵に人望があった魏延は古参の張飛を差し置いて、漢中郡太守となり督漢中・鎮遠将軍に任命され、張飛をはじめ周囲を驚かせた。あるとき劉備は朝廷の郡臣の前で、要職に就いた魏延の今後の抱負を尋問した。
すると魏延は「それがしは、わが君に大任された以上は、曹操めがわが国に遠征したおりには、わが君を護衛するために懸命に防戦する所存です。また曹操の各部将が攻めてきた場合はこれを壊滅いたしまする」と答えた。
これを聞いた劉備と郡臣は魏延を頼もしい存在だと絶賛した。ただし諸葛亮と李厳(李平)・劉琰(劉炎)・楊儀らは魏延に対して冷ややかに見ていた。
221年、劉備が漢の皇帝になると、鎮北将軍に昇進した。223年、太子の劉禅が即位すると、都亭侯に封じられた。
227年、丞相の諸葛亮が魏を討伐する北伐で漢中郡に駐屯すると、老将の魏延は督前部・丞相司馬・涼州刺史に任じられた。230年、諸葛亮は魏延に西方の羌中[4]への討伐を命じた。
これに危惧した魏の雍州刺史の郭淮は部将の後将軍の費瑶とともに上邽付近の陽谿で魏延と激突し、激戦の末に魏延は郭淮らを敗退させた。この功績で、前軍師・仮節・征西大将軍となり、南鄭侯に爵位を昇格した。
魏延は、諸葛亮にその実力を認められて要職を委ねされた一方、考えの違いで衝突も激しかった。魏延は「それがしに一万余を授けて、丞相と別行動で潼関で合流して、一気に長安を襲撃すれば、天下統一も夢ではありません」と提案した。
しかし、諸葛亮は「それはかつての前漢の上将軍の韓信の攻略だったが、今の時代では状況が違う。魏は強大国で人口も多く精鋭が多い。仮に長安を占領できても果たして維持できるだろうか?人口が少なく人材も乏しいわが国では不可能どころか、かえって国を滅ぼしてしまう要因にもなりかねない」と言って、これを拒否した。傍らにいた劉琰・楊儀らもこれを支持したので、激怒した魏延は憤慨して退出した。
以降から、魏延は諸葛亮に対して「臆病な丞相が!だからわしの能力が発揮できないのだ!」と陰口を叩いた。魏延は自分の精鋭を養成し、桁外れの武勇を誇り、人一倍自尊心が高かったので、他の各将や大臣たちは腫れものを扱うように魏延に媚びるような対応をした。
ただ、古参の劉琰と諸葛亮の近侍である長史の楊儀だけは魏延に対して、容赦なく口撃したので魏延も激怒して衝突が絶えなかった[5]。
231年、祁山に陣取った魏の郭淮が蜀漢に包囲されたので、郭淮を救援するために司馬懿が諸葛亮を、張郃が王平を討伐した。しかし、かえって司馬懿は魏延・呉班・高翔らによって撃退された[6]。
232年、車騎将軍・劉琰が泥酔して魏延に対する態度が露骨で、出まかせを言いだし険悪な状況となり表面化したので、これを聞いた後主(懐帝)の劉禅は激怒し諸葛亮に対して解任を命じたので、止むなく諸葛亮は劉琰を成都に更迭した[7]。
234年、諸葛亮は再び祁山に出陣し、五丈原で布陣して駐屯した。魏延はその先鋒として五丈原から十里ほど離れた北谷口に布陣した。ある夜に魏延は不思議な夢を見た。翌朝に占い師の趙直に訊いた。
魏延は「わしの頭に大きな角が生えた夢だったのだが、そちはどう判断する?」と述べた。すると趙直は「麒麟の角は象徴であり、普段は必要がないものです。これは魏軍が自然に自滅する予兆に相違ありません」と言った。魏延は上機嫌になった。
しかし、趙直は退出すると、そのまま費禕のもとにおもむき「魏延将軍が“角が生えた”夢を見たので、わたしは適当に述べましたが、実は大変な不吉な夢であります」と述べた。あまりにのことに費禕は身を乗り出して「それはどのような不吉なのだ」と述べた。
趙直は「角の字体は「刀」の下に「用」を合わせた文字です。それを頭の上に刀を用いるのですから、これは首と銅が分離する意味となります」と言った。驚愕した費禕は「このことは誰にも口外するな!」と釘を刺した。
同年秋、重度の過労で危篤に陥った諸葛亮は魏延に内密で、長史の楊儀と司馬の費禕と護軍の姜維に、自分が亡くなったあとに全面撤退の指示を出した。そして、魏延には殿軍の指令を出した。もし、魏延が従わない場合は構わずにそのまま行動に移すように命じた。
諸葛亮が55歳で逝去すると、費禕は北谷口の魏延に諸葛亮の遺命を伝えた。すると魏延は「諸葛丞相亡き後は、このわしが漢軍を統轄する立場にある。丞相の指令を勝手に受けた楊儀は丞相の棺を守って、丁重に葬ればよい。これからはわしが漢軍を動員して、魏と戦うように指示を出す。ひとり人物の死去で全面撤退するとはなんたることか。わしは楊儀ごときの指示を受けて殿軍なんぞできるか!」と叫んだ。傍らにいる魏延の息子たちも「お父上の申される通りです!」と支持したので、費禕は何も言えなかった。
そのまま魏延は費禕と息子たちに命じて、自分を中心とした連名で、各将に告示した。すると費禕は「それがしが、楊儀を説き伏せましょう」と言って、そのまま立ち去り道中で「趙直の夢占いは的中したも同然だ」と呟いた。
費禕から連絡が来ないので、激怒した魏延は先回りして、撤退する楊儀らが通過する吊橋を焼き払う妨害する一方、自分の正当性を成都にいる後主・劉禅に書簡を届けさせた。
あまりのことに困惑した劉禅は侍中の董允と留府長史の蒋琬に意見を問い質した。すると両人はどちらかと言うと魏延のことを快く思わなかったので、一応楊儀を支持した。それでも劉禅は心配なので蒋琬を使節として、魏延と楊儀との調停役を命じて、漢中郡に向かわせた。
一方、魏延は南谷口に布陣して、楊儀らを攻撃した。楊儀は王平に命じて迎え撃たせた。王平が南谷口に到着すると「魏延の士卒らよ。ようく聞け!諸葛丞相亡きあとにこのような行為するのは、反逆だぞ!恥を知るがよい」と叫んだ。これを聞いた魏延の兵士たちは戦意を失い、軍勢は四散してしまった。窮地に陥った魏延は息子たちとともに、拠点の漢中郡の南鄭城に向かったが、楊儀は馬岱に追撃を命じて、ついに老将の魏延父子を斬り捨てて、その首級を楊儀の前に差し出された。
魏延父子の首を見た楊儀は「この馬鹿者めが!もう一度わしに逆らってみるならやってみよ?!」と魏延の首を踏みつけたのである。かくして魏延の一族は処刑されたのである。そのとき、蒋琬が漢中の宿営に到着したが、すでに魏延が殺害されたあとだっだので落胆して成都に引き返した。
しかし、楊儀も[8]魏延以上に執着心が強く狭量で過剰に自己能力を自慢する性格のために悲惨な身の破滅を迎えたのである。
陳寿は「これはあくまでも内紛で、魏延は政敵の楊儀を葬るためにやった行為であり、魏延自身は諸葛亮の後継者と自認し責任感が強かったのだろう。ただ、自惚れ易く自然に身の破滅を迎えたのは自然の成り行きである」と述べて、魏延が“謀反”を起こしたという行為を否定している。この説は裴松之も支持しており彼は「魏延は前漢の韓信のような人物であろう…」と述べている。
魏延の非業の死に関する『石人石馬』という伝奇的な逸話が『三国志平話』か何らかに記されているようである。
それによると、魏延父子が漢中郡に逃亡する前に楊儀の命で馬岱に殺害されたときのことである。首がなくなった魏延父子の胴体からけつして離れなかった魏延の忠実な愛馬がいた。主人の非業の死を嘆いたその愛馬は「わたくしの主人父子はどのような理由で殺害されたのですか?」と漢水の神に訊いた。しかし川神(漢水の神)はすすり泣くだけで返答はしなかった。引き続き愛馬は「わが主人は幾多の功績を残したのです。この仕打ちはあまりにも理不尽ではありませんか?!」と叫んでいると、魏延の配下らしき落武者2人の話し声が聞こえた。
そのうちひとりは「魏延大将軍とご子息は冤罪をかぶされたのだ!」と言い、もうひとりが「大将軍ご父子は、亡き劉封殿下の忠実だった臣下で、政敵だった諸葛丞相をはじめ楊儀らの狡猾な罠に嵌められたのだ!」と言った。この両人は魏延の側近中の近侍だったという。それを聞いて仰天した愛馬が両人の前に現れて「ご両人のお話を聞きました。なぜ、このような危険な場所から逃亡なされないのですか?」と訊いた。すると両人は「わしらはここで魏延大将軍の墓陵・石碑を立てて死ぬまで守り、後世に物語るために留まっているのだ」と言った。
それを聞いた愛馬は「わたしも劉封殿下の非業の死は諸葛亮めの陰謀だと疑っておりました。その忠実な臣下だったわが主人ご父子の墓陵・石碑を共に立ててご一緒にお護りしましょう」と答えた。その日以来、魏延の愛馬と二人の近侍は魏延父子の墓陵・石碑を設立して、その傍らから離れなかった。一年余の歳月が流れ、日照風雨に浴びせられた魏延の愛馬と近侍は次第に馬形や人形の石像と化したのである。
しばらくすると、諸葛亮の後継者となった大将軍・録尚書事の蒋琬がある用事で漢中郡に赴いた。用件が終わって帰途の際に変わった馬形や人形の石像を見た蒋琬は、不思議に思い配下を遣って現地の人々に調査させた。すると「亡き魏延の愛馬と近侍が石化したもの」だったいう。これを怪訝に感じた蒋琬はさらに厳密に調査を積み重ね、その結果「魏延父子は諸葛亮および楊儀らの冤罪によって非業の死を遂げた」ということが判明された。そこで、蒋琬は諸葛亮の名は伏せて、後主・劉禅にこのことを上奏した。たまたま楊儀が中軍師という職務に不満を持って、謀反を起こす噂があった。これを危惧した劉禅と蒋琬は楊儀を懲戒免職にして漢嘉郡に流罪したが、楊儀はますます蒋琬に対する誹謗が露骨になったので、激怒した劉禅は楊儀に死を賜った。同時に亡兄だった劉封の子である甥の劉琳を牙門将軍に任命した。
今日にいたる現在でも、魏延の愛馬と近侍の石像を『石人石馬』と名付けられ、現在の陝西省漢中市南鄭県の博物館に大切に保管されているという。おそらくこの逸話は非業の死を遂げた魏延父子および劉封のことを追悼した漢中郡の人々による鎮魂歌ともいえる伝承だと推測できる。
しかし、この逸話の真相はどうやら諸葛亮の後任者で蜀漢の柱石の蒋琬が基本的に楊儀と馬が合わずに確執関係を持ったことである。非業の死を遂げた魏延父子および、諸葛亮らの陰謀で廃嫡されたかつての太子候補だった劉封に同情し、生前の魏延の功績を偲んで墓陵を立てたものだという。その墓陵を護る石馬・石人を造らせたのは、貴人のみに許された埋葬の作法だったそうである。ついでに劉封の子・劉琳が牙門将軍に任命されたのは、かつての太子候補の遺児として蒋琬が同情したために魏延の『石人石馬』と同じケースとして扱われたと思われる。
『東観漢記』・『元本』[9]・林国賛の『三国志斐注述』を総合した本田透『ろくでなし三国志』をもとに検証する。
結論
魏延も劉封とともに諸葛亮の犠牲者と考えられる。ただし、前述の裴松之は「諸葛亮は魏延の統率力、武勇を認めたため、北伐では要職につけた」と述べている。おそらく諸葛亮の魏延に対する感情は矛盾が複雑に絡んでいたのだろうと思われる。
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