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小人物と揶揄された孟達
孟達(もうたつ、? - 228年)は、『三国志』に登場する部将。はじめは蜀漢(蜀)、後に魏に仕えた。字ははじめ子敬、のちに子度または子慶に改めた[1]。
父は後漢末の涼州刺史の孟他[2]。子は孟興。妻の甥は鄧賢[3]。
扶風郡の人[4]。建安初年(197年)ころ、飢饉のために竹馬の友人の法正とともに、益州牧の劉璋を頼り、そこで別駕従事の張松と出会い、意気投合した。のちに法正・張松とともに劉備を蜀に迎える計画に参加した。
211年、法正の副将として二千の軍勢を指揮し、涪県付近で劉備を迎えた。劉備はよろこび、孟達の軍勢を自軍に吸収し、荊州の江陵郡に駐屯させた。
214年、劉備が蜀を占領し平定させると、宜都郡太守に任命され、荊州西北部の統轄を委ねされた。
217年、法正の進言で、劉備は漢中郡に討伐した。そこで、劉備は子の劉封に命じて、漢中郡から沔水に添えながら、南下して孟達の軍勢を統轄させるように命じた。劉備は内心、孟達を警戒したのである。
218年、漢中郡から魏延の援軍もあり、孟達は劉封の副将として従軍した。軍勢は姊帰県から北上し、荊州西北部の房陵郡太守・蒯祺[5]を討伐した。孟達は蒯祺に降伏勧告の使者を出したが、蒯祺が拒んだため、激怒した総大将の劉封は孟達に房陵城を猛攻撃を命じて、これを陥落させた。孟達は蒯祺一族に猶予を与えるために劉封に進言したが、怒りが収まらない劉封は魏延に命じて蒯祺をはじめ一族を皆殺した。そのため、劉封は諸葛亮の恨みを買った。219年夏のことだった。
同年に、東方の上庸郡太守の申耽とその弟の申儀兄弟を討伐した。蒯祺の件があったので申兄弟は全面降伏し、妻子を成都の人質として差し出した。劉備は諸葛亮の進言で申兄弟に西郡城太守に任命させた。
同時に関羽は南郡の襄陽および樊城で魏の曹仁[6]を包囲し落城寸前だったが、持ち前の傲慢が災いし、勢いに乗って主簿の廖化を援軍要請の使者として幾度も派遣した。廖化は上庸郡に向かい劉封と孟達に援軍を要請した。しかし、劉封は気が進まず、孟達も以前に関羽に罵倒された経緯があったので「われらは当地を占領して治安維持(服属させた房陵郡の山中にいる土豪の動揺を与えないこと)の最中であり、容易に動員できない」と述べてこれを拒否した。廖化は執拗にせがんだが、業を煮やした孟達が強引に廖化を追い出した。そのため関羽は曹操が派遣した徐晃と趙儼の10万の軍勢と、援軍が来て勢いづいた曹仁が副将の満寵・牛金を率いて突撃し、関羽は挟撃されて大敗した。
さらに、魏と同盟を結んだ呉の孫権が派遣した呂蒙の軍勢に襲撃されて、敗走し当陽県の麦城に立て籠もった。間もなく、関羽は敗死し、生き延びた廖化は老母を伴って身を隠した[7]。
もともと孟達は劉封と仲が悪く、諸葛亮とは盟友関係だった。これに不快感を持った劉封は翌220年に孟達の軍楽隊を強引に奪った。激怒した孟達はこのことを盟友の諸葛亮に知らせ、劉備に対しては使者を派遣させて「燕の名将・楽毅の偉業を読む度に、わたくしは何度も感涙します。このわたくしがわが君から楽毅のように、燕の恵王に猜疑されるのはますます痛ましく存じます。あえて恨み言は申し上げませんが、わが君も臣下と平民に慕われるように努力をなさってくだいさいませ」といった訣別状を差し出して、妻の甥の鄧賢と腹心の李輔とともに四千人の配下を率いて魏の曹丕[8]に降伏した。
曹丕ははじめは「君は劉備の老い耄れの刺客ではないのか?!」と疑ったが、孟達はこれまでの経緯を具体的に弁論爽やかに述べたので、曹丕は孟達の才能と容貌と優雅さを認めて、厚遇した。孟達は散騎常侍・建武将軍に任命され、平陽亭侯に封じられた。さらに房陵・上庸・西城の三郡を併呑させて、新城郡としたので、孟達がその太守となった。そのときの孟達は「劉封と申耽は広大な要害地を持ちながら、これを奪われてしまった」と述べた[9]。
間もなく、孟達の裏切りに激怒した父・劉備の厳命で劉封が孟達を討伐したので、曹丕は自分の族兄の夏侯尚[10]と歴戦の将軍の徐晃を派遣し、孟達を応援させた。孟達は降伏勧告の使者に書簡を持参させて劉封の陣営に派遣させたが、激怒した劉封はその使者を斬り捨て総攻撃した[11]。しかし、申兄弟が裏切ったので、劉封は挟撃されて敗走した[12]。また反逆した申兄弟の妻子は処刑された。
この戦果を聞いた曹丕はますます孟達を信頼した。しかし、魏臣の劉曄[13]と司馬懿は「孟達は小人物であり、強欲かつ節義に欠けた人物です。決して要職に就けないように申し上げます」と辛辣に諌めた。しかし曹丕は「わしは彼が異心がないことを保証する。君たちも異議はないだろうな?」と言ったので、両人は押し黙ってしまった。また、孟達は夏侯尚と桓階と親しく交流した。同時に呉の孫権も孟達を評価していたという。
しかし、226年前後に庇護者だった曹丕が41歳で肺炎で亡くなり、同時に友人の夏侯尚と桓階が相次いで亡くなったので、孟達の立場は微妙となった。後を継いだ曹丕の次子の曹叡は孟達の軽薄さを嫌い、劉曄と司馬懿とともに孟達を排斥する態度をとった。また、太和初年(227年~228年)にかつての劉封のように申兄弟と対決したので、余所者の孟達はいよいよ追い込まれたのである。さらに申兄弟は曹叡に上奏し「孟達は蜀漢に帰参を目論んでいる」と讒言した。
こんなときに、かつての盟友の諸葛亮が李厳(李平)とともに孟達に対して「君はかつては蜀漢の将軍だった。速やかに帰参したまえ」と帰順勧告の書簡を送った。窮地の孟達は喜んでこれに呼応した[14]。
さっそく、孟達は妻の甥の鄧賢と腹心の李輔に相談したが、両人はこれに猛反対したため孟達は決断が鈍ってしまった。そのために苛立ちを感じた諸葛亮は郭模を「偽装降伏」の形で申儀のところ派遣して、「孟達挙兵」の件を茶番劇的に漏洩させた[15]。
もともと、申儀は孟達と犬猿の仲だったので、彼はついに動き出して南陽郡にいる兄の懐集将軍・申耽と連絡を取り、曹叡に「孟達謀反」を上奏した。このため曹叡は司馬懿を召し出して、まず参軍の梁幾を監察官として新城郡に派遣させ、孟達の身辺を調査し判明された。同時に孟達に都に参内する勅命が下された。驚愕した孟達はついに反乱を起こした。このときの孟達は「洛陽から新城郡まで到着するには通常1ヶ月ほどかかるから、その間に諸葛亮の援軍が来ればわが計略は成し遂げるだろう」と述べた。
しかし、228年春正月に孟達謀反の報告を聞いた曹叡はただちに司馬懿に命じて討伐させた。司馬懿率いる軍勢は、部将の州泰を先鋒として昼夜問わずに電撃的に強行進撃してわずか8日間で到着し、新城郡の諸城を次々と攻略した。また、申儀も諸葛亮の軍勢を妨害したため、孟達は窮地に陥った。やがて司馬懿は降伏勧告の使者を出し、孟達の妻の甥の鄧賢と腹心の李輔がこれに応じたため、両人は城門を開いて孟達を捕獲した。包囲されて半月であった。まもなく孟達は斬首に処されて、その首は洛陽で晒し首にされたあとに大通りの四辻で焼き払われた。同時に孟達の一族も斬首の刑に処された[16]。
新城郡のうち上庸県・武陵県・巫県の三県を分けて、上庸郡とし、錫県は錫郡となった。
孟達の子の孟興は、父・孟達が諸葛亮と盟約を結んだときに、諸葛亮のもとに派遣されて滞在していたので無事に済んで、そのまま蜀漢の議督軍となり、年老いて蜀漢滅亡後の翌年に、父祖の郷里の扶風郡に帰り、まもなく亡くなった[17]。
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