法正

ページ名:法正

急逝が惜しまれた法正像

法正(ほうせい、175年/176年 - 220年)は、『三国志』に登場する蜀漢)の政治家。字は孝直。曾祖父は法雄[1]、祖父は“玄徳先生”こと法真[2]、父は法衍[3]、子は法邈[4]

先祖は戦国時代の斉[5]の襄王(法章)の末裔で、前漢の中宗宣帝の治政下のとき三輔[6]に移住し、代々二千石の身分になったという[7]。それゆえに「田正」、あるいは「陳正」[8]と呼ばれることもある。の部将の薛綜とは遠縁筋にあたる。

目次

概要[]

扶風郡郿県[9]の人。建安初年[10]、郷里が飢饉に見舞われたため、竹馬の友の孟達とともに南下して、蜀地方に向かって益州牧・劉璋[11]を頼り、ここで張松と出会い、意気投合した。

劉璋によって、新都県の令・軍議校尉になるが、「法正の品行が悪い」と法正を嫌う同郷人に讒言されて、それ以上の出世は望めなかったため、法正は劉璋を一方的に恨んだ。

親友の張松は益州別駕を務めたが、208年に使者として曹操と謁見したが、冷たく対応されたため、ともに嘆息した。そこで張松は劉璋に「曹操は傲慢で地方を見下しています。そこで曹操の好敵手である劉備どのと同盟を結ぶのがよろしいと思います。なによりも、わが君と同じく後漢の宗族であり、頼もしいご親族に相違ありません」と進言した。劉璋も北方の漢中郡で“漢寧王”と自称した道教系の五斗米道の教祖の張魯の侵略に悩んでいたので、劉備のもとに派遣することを許可した。

そこで張松は法正を推挙し、劉璋も許可した。一度は形式的に辞退した法正だが、荊州の公安にいた劉備のもとに赴いた[12]

劉備に謁見した法正はたちまち劉備に心酔し、「劉豫州(劉備)ご自身が蜀王になって曹操に対抗なされば、天下に号令をかけられまするぞ」と勧め、龐統諸葛亮らも賛同したが、劉備が辞退したため、法正は辞意していったん蜀に引き返した。張松と孟達とともに、ひそかに劉備を蜀に迎える計画を練りに練った。

しばらくすると、曹操が張魯を討伐する情報があったので、慌てた劉璋は張松に尋問した。張松は「法正を劉備どののもとに派遣して、ともに曹操と張魯を討伐されるのが名案と存じます」と述べた。そこで、法正は再度、劉備のもとに赴いた。公安に到着すると法正は「英邁なる劉豫州はわが君と御親族でありますが、わが君は惰弱のために曹操と張魯とまともに対応はできません。親友の張松と孟達は蜀臣ではありますが、劉豫州の御為に内通しわが君を降してください。以降は劉豫州ご自身が豊富な蜀の地で天下に号令をかけてください。それは容易いことであり、かつて西楚覇王の項羽によって、蜀の地に押し込められたご先祖の高祖(劉邦)の原点に戻り、再び漢王朝を再興なさってくださいませ!」と述べた。

劉備ももっともだと考え、動き出した。そこで関羽張飛趙雲・諸葛亮らを留守として、自らは龐統を軍師将軍とし、子の劉封劉公仲兄弟、部将の魏延黄忠らを率いて、一万五千軍の軍勢を動員し長江上流を添えて、涪県で劉璋と会見した。

後に劉璋との関係がこじれ、張松が処刑されると、劉備は葭萌関で龐統と法正の進言で、その守将の高沛と楊懐を斬り捨てて、戦略中に龐統を失いながらも、張飛・趙雲・諸葛亮らの援軍で、次々と攻略した。

あるとき蜀の従事の鄭度は劉璋に「巴西・梓潼の両郡の住民を涪県以西に強制移住させて、両郡の穀物を全て焼き払い、当地で要害を築けば、劉備らは食糧不足のために撤退するでしょう。そこを追撃すればわが軍の勝利です」と進言した。しかし、劉璋は「豊富な蜀の地を焼き払い、強制移住された住民の恨みを買うことは余の方針に背くことになる」と言って、これを採り上げなかった。

これを聞いた、雒県にいた劉備は鄭度の提案に不快感を示したが、法正は「大丈夫です。劉季玉は惰弱な方ですが、民を守って守備する考えを持っているので問題はありません。おそらく拒絶されたでしょう」と述べた。

そして「それよりも、劉季玉に降伏をうながす書簡を出して、その士気を下げさせまする」と言って、劉璋宛に降伏の書簡を使者に出して提出させた。こうして劉璋は意気沈黙し、曹操に追われた馬超も劉備に帰順したため、劉備は劉璋が気に入ってた簡雍(耿雍)を派遣し、ついに劉璋は劉備に降伏し、蜀を平定したのであった。

しばらくして、蜀郡太守の許靖が劉璋が降伏する以前に、城壁を登って劉備に投降しかけた未遂事件が発生し、これを知った劉璋は人材を惜しんで処刑したかったことを劉備が聞いて、劉備は許靖に対して「節義がない」と不快感を示し、要職に就けなかった。

だが、法正は「戦国時代の燕の昭王は食客の郭隗を必要以上に厚遇し、天下の人材が集まり、名将の楽毅もそのひとりでした。わが君はまだ蜀を平定したばかりで、地盤も固まっておりません。そのため名を取らず実を取って、許靖を厚遇すれば蜀はますます強勢になるでしょう」と進言した。

そこで劉備は許靖を召し出して要職につけたため、劉備のもとに仕官する優秀な人材が集まった。劉備はますます法正を信頼し、許靖の後任としての蜀郡太守・楊武将軍に任命され、内外の統治を委ねさせた。

法正はかつて自分に恩顧を施した者は恩義で報い、また以前、「品行が悪い」と讒言した同郷人も含めて、自分を馬鹿にした連中に対して、憎悪剥きだしでこれを容赦なく処刑した。

ある人物が諸葛亮に「蜀郡太守の法正は、個人の感情の報復で好き勝手に刑罰で死刑にしております。諸葛亮どのがわが君に進言して、彼を更迭させることをお勧めします」と告訴した。しかし、諸葛亮は「わが君はかつて荊州の公安におられたとき、北はの曹操、東南では孫権の脅威に怯えておられたのだ。しかし、法正はわが君の不安を払拭させて安堵させてるのだ。わしにはその権限もない」とのべた[13]

ただし、諸葛亮が編集した『蜀科』という厳格な法律では、さすがの法正も「『蜀科』は苛烈が過ぎます。もう少し緩和されてはいかがでしょうか?」と述べた。しかし諸葛亮は「法正どのもご存知のように、劉璋時代は無法状態だった。わたしは高祖の『法の三章』とは逆のやり方で臨んでいるのだ」と言って妥協はしなかった。このように法正と諸葛亮は相性と波長が適わず、水と油のような存在であった[14]

217年に、法正は「先々年に曹操は張魯を降し、漢中郡を平定しております。これは蜀にとって脅威であります。でありながら、蜀まで進攻しなかったのはおそらく北方の匈奴・鮮卑・烏桓などの異民族の動向が気になり、一族の夏侯淵[15]と部将の張郃に任せて、引き揚げました。これは異民族の動向ばかりでなく、洛陽におわす天子の大臣たちが曹操の専制政治に不満を持ち、反乱を起こす兆しも考慮できます。今のうちの漢中郡を占領し、さらに北方の涼州[16]までも占領すれば、漢王朝再興も夢ではありません」と進言した。

劉備は喜び勇み、まずは218年に張飛と馬超に武都郡の下弁県に派遣した。同年に劉備自らが三万人を率いて、陽平関から沔水を経て、漢中郡の興勢山に陣取った。そのため、漢中郡討伐で軍務に専念した法正に代わって、楊洪が蜀郡太守代行となっている。

翌219年正月、法正は黄権とともに黄忠に命じて、定軍山で夏侯淵とその部将・趙顒[17]らを討ち取らせた。また陳式[18]には徐晃を討伐させたが、かえって敗退した。曹操自身も十万を率いて、漢中郡に討伐したが、倉曹属主簿・楊脩[19]の進言で間もなく撤退した。あるとき劉備が魏軍の襲撃を受けて、矢の雨を浴びられたとき、憤激した劉備は頑固になって前線に立ち、諸将も諌言できる状態ではなかった。そこで法正が劉備の前に出た。劉備は「孝直よ、わしに構わずに矢を避けよ!」と叫んだ。すると法正は「わが君は国の主軸であり、拙者は「つまらぬ男」であり、先に死ぬのが筋でしょう!」と言った。これを聞いた劉備は「孝直よ、わしが間違っておった。一緒に撤退しよう」と言って事なきを得た[20]

同月に法正は劉備に進言し、劉備の子の劉封を総大将として、部将の孟達を副将に命じ、さらに漢中郡太守の魏延に命じてを劉封・孟達の援軍として赴かせ、漢中郡に近い荊州西北部の上庸郡と房陵郡を姊帰県から北上させて討伐させた[21]

劉備が蜀王(漢中王)になると、法正は尚書令・護軍将軍に任命された。しかし、度重なる過剰な過労が祟って倒れてしまった。翌220年に急逝した[22]。享年46。劉備はその訃報を大いに嘆き悲しみ続けて、自ら「翼侯」と謚した。

子の法邈が後を継ぎ、関内侯に封じられ、後に奉車都尉・漢陽郡太守まで累進した。

翌221年、劉備が関羽の仇討ちのために、十万の軍勢を率いて呉に討伐した(『夷陵の戦い』)とき、諸葛亮は犬猿の仲だった故法正を思いだして「彼が健在ならば、陛下の暴走を諌めることができたであろう、仮にそれができなかったとしても、このような危機的事態にはならなかったであろう…」と呟いたという。

陳寿は「法正は成功・失敗を考えずに、桁外れな策謀の持ち主だった。しかし、徳性という品行の要素はなかった。前漢の陳平のような存在であろうか?!」と述べている。

法正の隠された事項[]

『東観漢記』・『元本[23]・林国賛の『三国志裴注述』を総合した本田透『ろくでなし三国志』をもとに検証する。

  • 実は諸葛亮と犬猿の仲だったが、相互の能力は認めていた
  • 魏延と仲が良く、劉封を劉備の後継者として支持していた
  • 親友の彭羕が諸葛亮の讒言で処刑されたことをひそかに恨んでいたこと
  • 劉備の年少の子・劉禅の素質をまったく評価していなかったこと
  • 法正が220年に急逝しなければ、劉封が劉備の後継ぎになっていたこと

結論

法正は外様出身とはいえ、劉備からの信頼も篤いことを考慮すると、彼が長命すれば『蜀漢の後継者争い』は避けられ、劉封が後継者となり、諸葛亮の専制政治を抑えることができたと思われる。人格的には多少問題があるが、なによりも法正の急逝が惜しまれる。

脚注[]

  1. 字は文強。
  2. 字は高卿。
  3. 字は季謀。
  4. 『三輔決録注』
  5. 本姓は嬀=媯姓。氏は陳氏で、庶家は田氏。
  6. 扶風郡郿県の別称。
  7. 『後漢書』法雄伝
  8. これは、法正が春秋時代の陳の公族の末裔として通称である。
  9. 現在の陝西省宝鶏市扶風県
  10. おそらく197年ころ。
  11. 劉璋は後漢の粛宗章帝(劉煊/劉烜/劉炟)の子である平春悼王の劉全あるいは江夏恭王の劉余の末裔という。
  12. それ以前に張松が劉備に謁見した説もある。
  13. 東晋孫盛は諸葛亮は法正が劉備の信頼が厚いため、また自分が法正ほどの信頼を得てないためにそのように述べて、公平な刑罰から外れることを承知で述べたので、公平ではないと批判している。
  14. 蜀書』伊籍伝など。
  15. 曹操の母方の族弟。
  16. 後漢滅亡以降は雍州・泰州に分割された。
  17. 別名は趙昻という。
  18. 陳寿の祖父にあたる。
  19. 太尉・楊彪の末子、袁術の外甥(姉妹の子)。
  20. 裴松之の引用。
  21. 劉封の項を参照のこと。
  22. 過労死という説がある。
  23. 正式には『元大徳九路本十七史』と呼ばれ、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書。

関連項目[]



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