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『三国志』註引の業績を挙げた裴松之
裴 松之(はい しょうし、372年 - 451年)は、中国の晋(東晋)末~宋漢(劉宋)初の史家・官僚。字は世期。陳寿の『三国志』の「注釈」を付けたことで有名。後漢末の裴茂の7世の孫、魏の裴徽[1]の6世の孫に当たり、祖父は東晋の光禄大夫・裴昩、父は同じく正員外郞・裴珪。子は裴駰[2]。孫は通直参騎常侍の裴昭明、曾孫は南中郎兵参軍の裴子野である。
なお、蜀を謳った『三絶碑』を撰した唐の名宰相の裴度(765年~839年[3])は彼の末裔だといわれる[4]。
河東郡聞喜県[5]の人。9歳のときに『論語』・『毛詩』の読破して精通していたが、身なりはいつも簡素だった。
391年(太元16年)から、東晋に仕えて殿中将軍に任命され、多くの官職をを歴任した。405年ごろには、尚書祠部郎に累進した。
この時代、東晋の貴族たちの祖先の功績を称える碑の建立が流行して、事実とかけ離れた内容になっていた。そこで、裴松之は碑を妄りに建てることを禁止し、内容は朝議の検閲を経るよう上奏した。
416年、東晋を滅ぼす直前の宋漢の高祖武帝(劉裕)の北伐に従軍して、司州主簿として随行した。劉裕は洛陽を奪回すると、裴松之に「裴松之は廊廟の才(国政をになう人材)である。けつして辺境の仕事を任せてはいけない。殷景仁とともに太子洗馬に任命することにする」と勅命を出した。その後、零陵内史・国子博士に任じられた。
宋漢が成立すると、426年(元嘉3年)の太祖文帝(劉義隆)[6]の代になって、今までの彼の功績を認められて、中書侍郎・西郷侯となった。その後、司隷・冀州二州の大中正に転任した。429年(元嘉6年)、文帝の勅命で陳寿の『三国志』の挿入編集に携わった。文帝は「これは後世の不朽となるであろう」と裴松之をたたえた。また、『晋記』を著述したが散逸している。
その後も、大中正や地方の永嘉郡太守を歴任し、最終的には国子博士・太中大夫を兼任した。451年(元嘉28年)に逝去した。
普段の裴松之は厳格な人物で、服装は質素で飾らない人柄だったが、他人を厳しく批評するところがあったという。
彼の著書は『裴氏家伝』・『集注喪服経伝』・『裴松之集』・『文苑英華』[7]・『宋元嘉起居注』などがある。
裴松之が紹介する文献は以下となる。
以上である。
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