彭ヨウ

ページ名:彭ヨウ
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容貌魁偉な彭羕

彭羕(ほうよう、179年? - 215年?/180年? - 216年?)は、『三国志』に登場する蜀漢)の政治家。字は永年[1]

目次

概要[]

馬超を唆す彭羕

広漢郡[2]の人で、身の丈は8尺[3]もあり、容貌魁偉という堂々とした大男だったが、驕慢な性格で人々を粗末に扱うことから嫌われていた。

ただし、同郷の秦宓だけは彼の能力を評価し、彭羕も秦宓を尊敬していた。そこで、秦宓は彭羕を蜀郡太守の許靖の書佐として推薦して、官職に就かせた。

しかし、彭羕の傲慢で粗雑な性格を嫌う同僚によって、益州牧の劉璋に告訴されたので、懲戒免職され髠鉗[4]刑を受けて、奴隷に落とされ労役囚に駆り立てられた。

これが211年のことで、同年に劉備一行が入蜀した。これを聞いた彭羕は隙を見て深夜に脱走し、北に向かって軍師将軍の龐統の宿舎を訪ねて、いきなり上がり込んだ。しかし、龐統は彭羕の顔見知りではなく、たまたま来客中だったので、彭羕はその寝台に寝転がんだ。困惑した龐統に向かって「客人が帰ったあとに、君とゆっくり話すことがある」と言ってそのまま熟睡した。

来客が帰宅すると、龐統は寝所に向かって彭羕に話しかけた。すると起き上がった彭羕は「腹が減った」と言って食事を要求した。食事が終わると彭羕は持論を語りだした。それが数日におよび、龐統は彭羕を有能だと評価した。また法正は彭羕の親友だったので、ともに劉備のもとに訪れて謁見した。劉備も彭羕の能力を評価した。

以降から、劉備は軍事に関して彭羕の意見を聞いて、それが成果をもたらし、また彭羕自身が軍事について各将に指示する伝令の使者としての役目を的確に果たしたので、劉備はますます彭羕を優遇した。ただし、諸葛亮は些細な個人的感情から彭羕と問題を起こしたので快く思わなかった。

214年夏5月に劉備が蜀を平定すると、彭羕は治中従事に昇進された。

大出世した彭羕はますます思い上がり、優越感に浸って人々を見下す行為が目立ち始めた。諸葛亮も表向きは彭羕を尊重したが、内心は憎んでいた。彭羕の行為が目立つので、諸葛亮は劉備に上奏して「彭羕は野心家で、このままおとなしくするような人物ではありません」と彭羕の目に余る行状を告訴した。劉備ははじめは信じなかったが、彭羕を調査して問題の行為が事実で放っておけない問題と判断したので、次第に冷遇するようになり。江陽郡太守に降格させて左遷した。

これを聞いた彭羕は劉備と諸葛亮を恨み[5]、劉備に帰順したばかりの馬超の邸宅に向かい、自分の本心を打ち明けた。馬超は「あなたは有能で、わが君の信頼も篤くご親友の法正どのと諸葛亮どのとともに要職に就いていたはずが、どうして左遷されたのか疑問に感じるのだが…」と言った。すると彭羕は「わが君は年老いており、耄碌して諸葛亮めのいいなりだ」と言った。引き続き彭羕は「いっそのこと、わが意向[6]により、将軍が外側からそれがしが内側から王宮に襲撃すれば、天下[7]は思いのままですぞ!」と言ってしまった。

さすがの馬超も驚愕し、かつて自分が曹操に追われて、流浪を重ねて苦汁をなめたので、それに答えずに、体よく彭羕を帰宅させた。そのまま諸葛亮のもとに赴き、彭羕の発言を詳しく述べた。それを聞いた諸葛亮は「わが事を得たり」と言いだし、翌朝に馬超とともに、劉備に謁見して彭羕の問題の発言を報告した。これを聞いた劉備は激怒し、ただちに彭羕を逮捕投獄した。親友の法正もあまりのことに何も手助けができず、沈黙を守った。

あるとき、獄中の彭羕は諸葛亮宛の書簡を認(したた)めて送った。それは「わたしは生まれつき狭量で、運よく英邁なわが君に仕え、その恩顧を裏切る結果となり、まことに申し訳ないと思っております。こうなっては何も申し上げることはありません。願わくばわたしの本心[8]をご理解いただき、わが君が漢王朝の再興を実現されることを願うのみです」という内容だった。諸葛亮は読み終えると、そのまま彭羕の書簡を焼き捨てたのである。

数日後、ついに彭羕は市場刑場で処刑された。享年37。同時に彭羕の妻子も皆殺しの刑を受けたのであった。

彼は日本でいえば、徳川信康を補佐した代官で、武田氏と内通して主君の家康(信康の父)に反逆して、家康の怒りを買った挙句に妻子を磔に処されて、鋸引きの処によって非業の死を遂げた大賀弥四郎(大岡忠賀)に該当されると思われる。

彭羕の隠された事項[]

『東観漢記』・『元本[9]・林国賛の『三国志裴注述』を総合した本田透『ろくでなし三国志』をもとに検証する。

  • 前漢の梁王・彭越の末裔であること[10]
  • 諸葛亮とは犬猿の仲であり、ともに憎しみ合っていたこと
  • 劉備の子・劉封の素質を評価し、老いた劉備に代わってこれを擁立するクーデターを目論んでいたこと
  • また親友の法正と魏延とは良好な関係にあったこと
  • 諸葛亮の狙いが、自分に不満を持つ彭羕ら有力益州軍閥の壊滅であったこと
  • 擁立された劉封も後に、諸葛亮の姉婿の房陵郡太守の蒯祺一族を孟達および魏延に命じて皆殺ししたことが要因で、これも諸葛亮の報復によって葬られたこと

結論

彭羕は法正はもとより、龐統との関係も良好だったと『蜀書』彭羕伝に記されているので、諸葛亮にとっては劉封とともに目障りな存在であり、闇に葬られたと思われる。

脚注[]

  1. 三国志演義』では「永言」と表記される。吉川英治の『吉川三国志』と横山光輝の『横山三国志』では「彭義」と表記される(の鄱陽郡に彭綺(または「彭義」)という人物が存在する。黄武年間、鄱陽郡(後漢滅亡以降は県から郡に昇格された)の人で盗賊の頭目である彭綺(彭義)が反乱を起こすと、呉の孫権は周魴を鄱陽郡太守に任命し、胡綜とともに彭綺を討伐させた。激戦の末に周魴は彭綺を捕虜にし、武昌に送った。まもなく彭綺は処刑されたという)。
  2. 現在の四川省徳陽市広漢県
  3. 約178㎝
  4. 髪を剃り、首篏にされること。
  5. 彭羕はひそかに劉備の子・劉封を擁立する衝動に駆られたという。
  6. 前述の劉封を擁立すること。
  7. これは劉備を隠居させ、劉封を後を継がせ、実権を握ることを指す。
  8. 擁立した劉封に対して、罪を不問にすること。
  9. 正式には『元大徳九路本十七史』と呼ばれ、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書。
  10. 彭越は左遷前に呂后(呂雉)に粛清されたが、その末裔はそのまま流刑地の蜀郡青衣県(現在の四川省雅安市北東部)に定住したという。

関連項目[]



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