ホウ統

ページ名:ホウ統
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甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する龐統像

龐統(ほうとう、177年 - 213年/178年 - 214年)は、『三国志』に登場する蜀漢)の軍師・参謀。字は士元。

父の名は不詳、子は龐宏[1]、弟は龐林[2]、従父は龐徳公[3]、族弟は龐山民[4]、従子は龐渙[5]ら。

概要[]

南郡襄陽県[6]の人。若いころから有能だったが地味な容貌を持ったため、周りから外見で判断されて評価されず冴えなかった。

19歳から21歳のときに地元の名士だった従父の龐徳公は従子の境遇を案じたため、兄弟分で10歳年下の人相家“水鏡先生”こと穎川郡の司馬徽(174年?~209年?)に会うように命じられた。龐統は穎川郡まで赴き、司馬徽と面会した。龐統は持論を司馬徽に語った。すると司馬徽は「龐公兄(龐徳公)はすぐれた身内を持っておる。たいした若者だ」と語った[7][8]

司馬徽に評価されたことにより、龐統の名声は上がり従父の徳公によって“鳳雛先生”と呼ばれるようになった。司馬徽の“水鏡先生”も、龐統の学友の諸葛亮も“臥龍先生”と呼ばれたのも徳公の言葉からきている。以降は司馬徽と同郷でその門下生でもある処士の徐庶[9]、崔州平[10]らと交わって、政治に関する議論を盛り上げていた。

数年後、荊州牧・劉表のもとで仕官し、襄陽郡の功曹となった。彼は人相を見るのを好み、人を育てるのに熱心に集中した。ある人物が龐統に質問した。龐統は「現在は乱世で、節義が衰退し善人が少なく悪人が多い世の中です。こんなときに道徳心を向上させようと願っても無駄でしょう。そこで名誉を求めるには大袈裟に褒めなければ善行を施す人々は少ないでしょう。今は儒教を奨励し志ある人々が努力させることでよいではないでしょうか?」と述べた。

その一方、の官僚&政治家の顧雍の子・顧劭[11]は龐統の噂を聞いて、龐統の宿泊所に訪ねて面談した。顧劭は「先生は人相に優れていると聞いておりますが、先生とわたしと比較してどちらが優れているでしょうか?」と質問した。龐統は「あなたは鈍重ですが、政治・行政家としての素質は適性でしょう、しかし、参謀として、君主に進言して戦いを左右することに関してはこのわたしが適性していると思います」と言った。顧劭は「先生のおっしゃる通りです。このわたしを“弟”と呼んでくだされ」と言って龐統と兄弟分となり親交を結んだ[12]

また、顧劭の紹介で龐統は実力者の周瑜、魯粛、諸葛瑾[13]らに紹介され、陸勣[14]、全琮らと親交を持った。

210年の夏から秋にかけて、蜀討伐の準備中を整えていた周瑜が病のために37歳で逝去した。龐統は周瑜の遺体を収めた棺を持ち運んで呉に赴いた。呉では龐統の名声が高く、周瑜の棺を丁重に葬り帰途するときに、彼を見送るために顧劭をはじめ、陸勣、全琮らが駆けつけてきた。そのお礼に龐統は陸勣に向かって「君は特別な才能はないが、頭の回転力に優れているでしょう」と述べ、全琮に向かって「君は人々をまとめることに優れ、名誉があり汝南郡の樊子昭と類似しています。また知能は特別にありませんが、呉を代表する人物となるでしょう」と言った。顧劭は陸勣とともに「先生、世の中が天下泰平になったら、わたしどもは先生と一緒に、賢者の人相を楽しみたいと思います」と言った。こうして龐統は、彼らと心地よく再会を誓って別れたのである。

まもなく龐統は、荊州を支配した劉備のもとに仕官し、従事に抜擢された。しばらくして桂陽郡耒陽県[15]の令になったが、在任中は治績を挙げることができず、免職になった。あるとき、魯粛が「彼は県令としては適性ではありません。治中・別駕の官職のほうが適性であり、その才能が発揮できるでしょう」と劉備宛に書簡を送り、友人で親戚でもある諸葛亮も龐統を要職に就けるべき人物として、劉備に上奏して推薦した[16]

劉備はただちに龐統と面会し、相互に語り合った。「君はかつて劉景升(劉表)の功曹で、周瑜とも親しくしたと聞く。周瑜が孫権に進言して、わし自身が呉に赴き、孫権の妹を娶る提案を示した。そのときの周瑜はこのわしを呉に抑留させる計略があったと聞くが事実であろうか?」と劉備は言った。龐統は「事実でしょう」と述べた。劉備は「あのときのわしは孫権に貸しがあったから、どうしても呉に行かなければならなかったのだ。婚約者だったその妹は手強いし、危うく周瑜の策に嵌ってしまうところだった。策士は策士の心を知るという類は友を呼ぶの喩えだな。孫権は荊州全域を逸早く支配したかったから、あのようなことをしたのだ。わしが呉に向かうときに最も反対したのが、諸葛亮と趙雲であった。しかし、運よく帰還できたのは奇跡だった」と安堵して述べた[17]

劉備はますます龐統を信頼し、その待遇は諸葛亮以上だった。龐統はまもなく右軍師中郎将となった[18]

211年、益州牧・劉璋の使者として法正が、劉備がいる荊州の公安に派遣された。そのときの法正は劉備に惚れて「わが君主は暗愚で、蜀を治める能力はありません。劉豫州ご自身こそ治めるのがふさわしゅうござる」と述べた。また、龐統は「現在の荊州は曹操によって廃頽しております。北は曹操、東南は孫権がおり、荊州を支配下しようと目論んでおります。しかし蜀は肥沃な土地で多くの軍勢と財宝が豊富です。しかも、かつてご先祖の漢の高祖(劉邦)が蜀を支配し、ここから進出して項羽を破り天下統一なされたのです。蜀を治めることはわが君にとって大いに利益があります」と述べた[19]

劉備は「うむ…しかし、わしは曹操と敵対しておる。曹操が厳格・横暴・陰謀による統治をするなら、わしは寛大・道徳・律儀な統治をめざす。わしは儒教を弾圧する曹操と反対の儒教を中心とした統治をやってこそ、事は成り立つのだ。蜀を乗っ取る愚かしい行為はわしの方針に背くことになる」と述べた。しかし、龐統は「状況を読むことができる方策を実施するには、現在のわが君の方針では時代に取り残されるでしょう。弱国を併呑し愚鈍の君主を降すのは、春秋時代の『春秋の五覇』や、わが君が申された曹操の行為もおなじ時代のの献公(詭諸)がやっていることです。ましてわが君が蜀を併呑しても、道義にもとづいた統治を施し、蜀の豪族たちを優遇し、漢による再興の天下統一を成した場合にかれらを列侯に封じれば、秩序は保たれわが君の方針にそむくことにはなりません。この機会を逃せば、曹操と孫権が得するだけです」と述べた。この言葉で劉備は決心した。

劉備は、龐統と法正を参謀として、子の劉封劉公仲兄弟、部将の魏延黄忠らを従えて一万五千の軍勢を率いて、蜀に向かった。諸葛亮と関羽張飛、趙雲らは荊州に残した。

劉備一行は涪県で孟達の出迎えを受け、劉璋と面会した。このとき龐統は法正とともに劉璋暗殺を魏延に命じ、そのことを劉備に進言したが劉備は「わしは蜀に入国したばかりで、恩顧を施してない。やってはいかんぞ」と述べたので、挫折した。

あるとき、劉備は漢中郡の張魯を討伐の準備をしていた。そのとき龐統は「このわたしの提案として、蜀攻略の三策があります。第1は今から成都に進撃して勇気に乏しく備えがない劉璋をただちに捕虜すること。これが上策です。第2は白水関の守将の楊懐と高沛は武勇を頼む猪武者です。彼らに使者を派遣して「荊州の緊急事態が発生したので、見送りを願いたい」と申し出て、彼らと会見したときにその両人を斬って、その軍勢を吸収し一気に成都に進撃します。これが中策です。第3は今から魚復(永安)県まで引き揚げて、そのまま公安までに帰還し、長期的に蜀戦略を練ります。これが下策です。ただちにご決断ください」と述べた。そのとき、たまたま法正とともに劉備の蜀簒奪を目論んでいた張松が兄の広漢郡太守・張粛によって「劉備の蜀簒奪」の計画を知られてしまい、張粛が劉璋に報告したので、激怒した劉璋は張松とその家族を捕らえて処刑してしまった。以降から劉備と劉璋の仲が険悪となった。

そのために劉備は「中策」を採り上げて、楊懐と高沛らを誘き寄せて、これを斬り捨ててその軍勢を吸収して、成都にむかって進撃し、連戦連勝した。

涪県で宴会を催したときだった。上機嫌な劉備は「今宵は実に愉快である」と言った。これを聞いた龐統は「他国を討伐中に、上機嫌に酔っておられるのは仁君らしからぬ行為ですぞ」と言った。劉備は泥酔していたので龐統の言葉に立腹し、「かつて周の太宗(武王)は殷(商)の帝辛(紂王/季受)を討伐して連戦連勝したとき、将兵を労うときに無礼講を許していたと聞くぞ。それが仁君の戦いではないのか?!君の申すことは矛盾しており不愉快だ。ただちに退出せよ!」と叫んだ。

その言葉どおり龐統は退出した。劉備は言いすぎたと思い、自ら龐統を追いかけて、元に戻るように述べた。龐統は宴会の席に戻ったが平然として飲酒を続けた。そこで劉備は「さっきの議論はわしが誤っていたのか?それとも君が誤っておったのかね?」と言った。龐統は笑い出して「お互いに酔っていたので、どちらも誤っておりました」と言った。劉備も「参ったのう…やられたわ」と大笑いして、こうして和やかに宴会が続いた。

あるとき、龐統は宿泊所で来客と対談した。すると突然“奴さん”の姿で現れた大男がやって来た。大男の名は彭羕といい、もと劉璋の従事だったが讒言に遭い、奴隷に身を落とされた男だった。その彭羕は「来客が帰ったあとに君とゆっくり話したいことがある」と言って、勝手に寝所に行って熟睡した。来客が帰ったあと、龐統は寝所に向かって彭羕と語り合った。龐統は彭羕を有能と認め、また彭羕が法正の友人だったので劉備に推挙した[20]

涪県から発進して、張任らが籠城する雒県を攻略中に龐統は指揮を取っていたが、運悪く流れ矢に浴びせられて戦死を遂げた。享年37[21]。213年末から214年のはじめのころだった。

劉備は龐統の訃報を聞いて嘆き悲しみ、いつまでも彼のことを思い出すたびに号泣したという。そこで年老いた龐統の父を議郎に任命して、まもなく諫議大夫に昇進させた。

諸葛亮の提案で、龐統を関内侯に追贈する辞令を発した。劉備が漢の皇帝に即位すると、龐統に対して「靖侯」の諡号を自ら贈ったのである。

子の龐宏がその後を継ぎ、彼は剛毅で純朴な人物だった。亡父と違い他人を批評するのが大好きで、確執関係にあった尚書令の陳祗[22]と対決し、陳祗の讒言で涪陵郡太守に左遷されて、在任中に亡くなった。龐宏の息子の名は未詳だが、蜀漢滅亡後に他の貴族の子弟と同様に河東郡に強制的移住されたと思われる。

陳寿は「龐統は人相を好んで、人物の評価を実施し、経済・策謀に優れていた人物だった。そのため江南の人々から慕われたのである。曹操の腹心&参謀である荀彧・荀攸の叔姪関係と前漢の張良のような類であろうか?!」と述べている。

脚注[]

  1. 字は巨師。
  2. 妻は習禎の妹でその間に娘を儲ける。蜀漢の部将だったが、『夷陵の戦い』の敗戦で、黄権に従って魏の曹丕の軍門に降った。
  3. 父の従兄弟。
  4. 徳公の子、妻は諸葛亮の次姉(長姉は房陵郡太守・蒯祺夫人)。
  5. 字は世文、山民と諸葛夫人の子。
  6. 西晋以降は襄陽郡(現在の湖北省襄陽市)。
  7. 『襄陽記』
  8. 後に司馬徽は曹操の招聘を受けるが病死した。
  9. 旧名は徐福で、寒門出身(単家)である。
  10. 後漢の太尉・崔烈の末子。
  11. または顧邵とも。
  12. 張勃著『呉録』
  13. 諸葛亮の異母兄、または従兄とする説がある。
  14. または陸績、陸遜の族兄弟にあたる。
  15. 現在の湖南省耒陽市
  16. 異説では、龐統は孫権が派遣した「呉の隠密」で、劉備がそれを見抜いて龐統を冷遇したともいわれるが、真偽の程は不明である。
  17. 『江表伝』
  18. 同時に諸葛亮は左軍師中郎将である。
  19. 司馬彪著『九州春秋』
  20. 彭羕の項を参照。
  21. 享年38という説もある(『世説新語』言語篇の劉孝標(梁の劉峻/劉法武の字。前漢の成祖景帝(劉啓)の後裔)注)。
  22. 許靖の従外孫。

関連項目[]



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