張飛

ページ名:張飛

虎髭の張飛

張飛(ちょうひ、? - 221年7月)は、『三国志』に登場する蜀漢)の部将。字は益徳[1]、父母の名は不詳、子は張苞張紹・後主の劉禅の后である敬哀皇后(諸葛瞻夫人・費恭夫人・関統(関羽の孫)夫人の母)・同じく張皇后[2]、孫は張遵(張苞の子)・張益(張紹の子)[3]。身の丈は8尺[4]ほどあった。干支は申年生まれという(後述)。

目次

概要[]

涿郡[5]の人である。生家は屠殺業[6]であった。劉備・関羽より年少だったので、両人を兄事して仕えた。の程昱・郭嘉は「関羽・張飛の武勇は一万騎の将兵に値する」と謳われた。

184年または187年[7]の劉備の挙兵以来から古参として従う。劉備が中山郡安喜県の尉のときに、関羽とともに劉備の命で州が派遣した督郵[8]を袋叩きにした。後に劉備が平原郡の相となると別部司馬となった。

歳月は流れて、196年正月、劉備から下邳を任された張飛だが、かつての陶謙の部将の曹豹・許耽・章誑らと仲が悪かったために、呂布と陳宮が曹豹らと内通して、下邳を奪われた挙句に、劉備の妻子を置いて逃げたのであった[9]

その途中、豫州の沛郡の銍県に通りかかったときに、その県令が呂布の旧部将で、袁術に気に召されて袁術によって滅ぼされた漢の皇族である陳湣王・劉寵(陳敬王・劉羨(後漢明帝の第4子)の曾孫)の娘を娶らせるという理由で強引に抑留されるも[10]、しばらくして曹操のもとに逃亡してそのまま仕えた秦宜禄(秦誼)[11]だった[12]。そこで張飛は城門に寄って「やあ、やあ!ここの県令が袁術に陳湣王・劉寵の娘をやるといって、抑留されて奥方を呂布に奪われた根性なしか?」と叫んだ。張飛は引き続き「そこの根性無しよ、これからこの俺に従って呂布と戦って、奥方を採り戻す気はないかい?」と煽動した。しかし秦宜禄は「どこの馬の骨ともわからぬやつに、俺自身はお前の言うことは聞く気はまったくない。帰れ!」と唾を吐いた。そのため激怒した張飛は、これを猛攻撃して、秦宜禄一味を皆殺しとした[13]。まもなく張飛は劉備のもとに向かった。

196年~197年ころに、袁術の部将の紀霊が劉備がいる小沛を攻撃し、劉備は呂布に助けを求めて、そのとりなしで和睦を結んだ。しかし、劉備は呂布に下邳を奪われた恨みを持っており、ひそかに張飛に命じて呂布の竹馬の友人である河内郡太守の張楊(張揚)が、并州馬を下邳に護送した際に、これを奪わさせた。この報を聞いた呂布は激怒して、部将の高順と張遼に命じて、劉備を討伐させた。特に、高順率いる「陥陣営」1700騎の凄まじい攻撃で、劉備らは逃亡して曹操を頼った。

198年、呂布が曹操・劉備の連合軍によって滅びると、曹操によって中郎将となった。翌199年、劉備の命で関羽とともに曹操配下の徐州刺史代理の車胄を惨殺した。

歳月は流れて、208年の『長阪陂の戦い』(『長坂坡の戦い』)では、幼い劉禅・劉永兄弟を抱いて、その生母の甘夫人(皇思夫人/昭烈皇后)を護衛した趙雲を救い、橋を焼き落して、わずか二百騎を率いてその先頭に立ち「俺は張益徳だ!この蛇矛の餌食になりたいやつは出てこい!」と豪語したので、ここで手間取りたくない曹操は一気に撤退した。そのため、劉備は助かったのである(『長坂坡の戦い』)。

劉備が荊州南部を平定すると、新亭侯・征慮将軍・宜都郡太守となった。213年、劉備の益州討伐の援軍として諸葛亮、趙雲らと益州に向かった。江州[14]で、巴郡太守の厳願[15]を捕虜とした。しかし、厳願は降伏の意思を見せず、張飛は「なぜ降伏をしない?」と言った。しかし、厳願は「貴公はわが国を侵略した。貴公の態度さえも無礼だ!さっさとわしの首を刎ねよ!」といった。張飛はその節義に感心して、釈放して賓客として迎えた。この功績で巴西郡太守となった。

217年、法正の進言で、曹操から漢中郡を占領したため、劉備は漢中郡討伐に動いた。張飛は馬超とともに雷同(雷銅)・呉蘭を率いて下弁県に向かい、魏の曹洪[16]と戦った。張飛のほうは巴西郡で、曹洪の部将・張郃と戦い、これを撃退した。

219年、劉備が漢中王(蜀王)となると、張飛が漢中郡太守の就任が当然とするの声があった。本人もそのつもりだった。ところが、劉備は張飛が意外と将兵に人望がないことを理由として、魏延を漢中郡太守に任命したのである[17]。張飛は閬中郡太守となり、右将軍・仮節に任じられた。

221年、劉備が漢王室の皇帝になると、西郷侯・車騎将軍・司隷校尉に昇進した。

しかし、張飛は名士階級にへりくだったが、下層出身の兵士に対しては過酷で、気分次第で処刑した。これを見た劉備は思わず張飛に対して「君は些細なことで、部下を斬首しすぎる。いづれ、君にも禍を齎(もたら)すだろう?」と厳重に警告した。しかし、張飛はまったく改心する姿勢さえも見せなかった。

同年秋7月[18]に、段取が下手な張飛は、突然下級将校の范彊・張達に「義兄・関羽の仇討ちをする。三日のうちに軍勢の編成による食糧確保の準備をせよ」と命令した。しかし、范彊・張達は「わずか三日では無理です。せめて、半月ほどは必要です」と述べた。すると張飛は激怒して、范彊・張達らを縛りつけて苛烈に棒たたきをした。

このため、日ごろから虐待を受け続けた范彊・張達は張飛を本格的に怨み、ある深夜に泥酔した張飛の寝所に潜入して、これを惨殺した。両人はその首を持って、孫権のもとに持参した。

数日後、張飛の配下の都督の呉班[19]が張飛の上奏書を届けるために劉備に謁見した、これを見た劉備は「嗚呼…益徳が死んだか…」と呻いたという。こうして、張飛は「桓侯」と謚された。

張飛の長男・張苞が父より先だったため、その子の張遵は幼児のため、張飛の次男の張紹が父の後を継ぎ、侍中・尚書僕射に累進した。

彼は、高祖・劉邦を補佐した舞陽武侯の樊噲[20]と、日本では徳川家康を補佐した本多忠勝(平八郎)と、よく比較される存在である。

張飛に関する隠れた事項[]

『東観漢記』・『元本[21]・林国賛の『三国志裴注述』などを総合した本田透『ろくでなし三国志』)によると、以下になる。

  • 生家は涿郡の肉屋を営んでいたが、先祖代々、上谷郡昌平県の寇氏[22]の下僕だったこと
  • 芙蓉姫、簡雍(耿雍)・趙雲・田豫田予)・傅士仁[23]らとは竹馬の友人だったこと
  • 次女の張皇后[24]は、劉備の孫の北地王・劉㻣の生母であること
  • 張飛の生年は168年と思われ、魏延・田豫と同世代であり、干支は申年であること

結論

張飛は基本的に氏素性不詳者である。だからこそ名士の劉巴から「どこの馬の骨かわからない卑しい者」と酷評されている。張飛の素性は、劉備の生家の下僕でもあったのだろうか?

脚注[]

  1. はじめは翼徳と呼ばれたという。
  2. 諡号は孝懐皇后とされ、北地王・劉㻣の母と伝わる(後述)。
  3. 『元本』(『元大徳九路本十七史』)
  4. 約176㎝
  5. 現在の河北省保定市涿州県
  6. 肉屋を営むこと。
  7. 『典略』
  8. 州郡が派遣した監察官。
  9. 一説では、裏切りに激怒した張飛が曹豹らを殺害したということになっているが、真偽の程は不明である(王粲著『英雄記』)。
  10. 秦宜禄の妻の杜氏は美貌だったため、呂布の側室にされた。
  11. 秦朗の父。
  12. 妻の杜氏に関しては関羽を参照のこと。
  13. 199年に秦宜禄は張飛によって殺害された説がある(『献帝伝』)。また、198年に呂布を下邳で曹操らに包囲された呂布は秦宜禄に命じて、同郷の河内郡太守・張楊に救援を求め、その途中に秦宜禄は袁術によって抑留された、と記されている(『華陽国志』)。
  14. 現在の重慶市
  15. かつての巴郡太守の趙筰の部将。
  16. 曹操の族父または母方の従弟にあたる。
  17. 張飛が漢中郡太守に抜擢されなかったのは、部下に対して過酷だった説もある(魏延の項目を参照)。
  18. 夏6月の説もある(『蜀書』「先主伝」)。
  19. 劉備の外戚筋にあたる。
  20. 樊噲も屠殺業出身だった。
  21. 正式には『元大徳九路本十七史』と呼ばれ、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書。
  22. または鴻氏(芙蓉姫?)と呼ばれ、その実家とされる。
  23. 名が仁、字は君義。はるか後世に梁(南朝)の傅士哲が存在し、彼は傅士仁の末裔とみられる(『梁書』羊侃伝)。
  24. 東晋孫盛著『蜀世譜』では孝懐皇后と呼ばれる。

関連事項[]



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