劉琳_(蜀漢)

ページ名:劉琳_(蜀漢)
曖昧さ回避この項目では、蜀漢の劉琳について記述しています。曹魏劉琳については「劉琳 (曹魏)」をご覧ください。

不遇な皇族・劉琳

劉琳(りゅうりん、生没年不詳)は、『三国志』に登場する蜀漢)の皇族。字は不詳。「劉林」とも表記される[1]。子および妻の名は未詳。

烈祖穆帝劉備の養孫もしくは孫にあたり、父は副軍将軍・劉封で、生母は鄧氏[2]。安平悼王・劉理は養叔父あるいは従兄弟で[3]、おなじく養叔父もしくは叔父は後主懐帝劉禅と魯王・劉永、養従弟あるいは従弟は太子兼梁王・劉璿と北地王・劉㻣ら。

概要[]

彼は『蜀書』劉封伝が引く裴松之の注釈に記述されている。

221年のはじめに父の劉封が政敵の諸葛亮の讒言で粛清されると、まだ、幼かった彼も連坐されて処刑されかけたが、祖父の劉備が「わしの可愛い孫を斬刑に処するのは忍びない。前漢の世宗(武帝)が長男の戻太子(劉拠)一家を粛清したとき、その孫[4]の劉病已(中宗宣帝の劉詢)をあえて生かした前例があり、粛清することは罷りならん!」と述べたことや、親戚筋にあたる鄧芝および、亡父の後見役でもあった有力将軍・魏延らの嘆願もあり、刑死は免除されたという[5]

223年夏4月に魚復県(白帝城[6])の永安宮で危篤状態となった劉備の枕もとに、叔父の劉永と従兄弟とされる劉理とともに呼び出され、「わしはそなたたちとって不肖の父祖であった。太子(劉禅)を支えて、諸葛丞相(諸葛亮)を、わしに代わって父と思って敬うがよい…」と遺言を遺して、24日に62歳で崩御した。

翌5月に、叔父の劉禅が即位すると、劉琳は臨邑侯に封じられた。230年に、成長した劉琳は甘陵王に昇格し、牙門将軍に任命された[7]

しかし、劉琳は叔父の魯王・劉永同様に皇族としての待遇は芳しくなく、左遷も多く不遇であった。

263年冬に、蜀漢が滅亡し、翌264年春に晋公・司馬昭の厳命で、他の蜀漢の子弟と同様に洛陽の北方にある河東郡に強制的移住させられ、厳重な監視を受けた[8]

以降の劉琳の消息は不明だが、『永嘉の乱』(307年~312年)で劉禅の末裔と同様に劉琳の末裔も、侵入したトルコ系匈奴屠各(屠客)部攣鞮(虚連題)氏族と鮮卑慕容部の騎馬民族に皆殺しされて、劉封の系統は途絶えたと思われる。

彼はある意味、徳川家長[9]と越前藩主の松平忠直[10]の不遇さと共通していると思われる。

脚注[]

  1. の光禄勲・劉劭の子にも劉琳という人物がいる。また前漢末期~後漢初期の官僚にも「劉林」(趙敬粛王・劉彭祖の末裔)という人物がいる
  2. 鄧芝の族妹にあたるという。
  3. 実際は劉備の次男で、劉禅の同母兄の劉公仲(諱は不詳、197年?~218年?)の子という(『元本』(『元大徳九路本十七史』、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書))。
  4. 武帝の曾孫。
  5. ただし、劉琰李厳李平)、楊儀らはこの処置に不満を持ったという。
  6. 現在の重慶市奉節県
  7. このとき、亡父の劉封が「甘陵厲王」と謚されたという。
  8. 亡父の仇である諸葛亮の従曾孫にあたる諸葛顕もこの中に含まれていた。
  9. 幼名は萬千代。家康の孫、信康の子、宗康の父。20歳前後で早世したという。
  10. 秀康(家康の次子、信康の異母弟)の長子、福井松平家の祖。

関連項目[]

  • 劉琳
  • 劉林
  • 劉永:叔父にあたり、ともに不遇な人生を送った
  • 諸葛亮:父・劉封の政敵で、父を葬った下手人


特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC BY-SAライセンスの下で利用可能です。

シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。


最近更新されたページ

左メニュー

左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...

2ちゃんねる_(2ch.net)

曖昧さ回避この項目では、1999年設立2ちゃんねる(2ch.net)について記述しています。2014年4月にひろゆきが開設したもうひとつの2ちゃんねるについては「2ちゃんねる (2ch.sc)」をご覧...

2ちゃんねる

2ちゃんねる(に - )とは、日本最大の大手掲示板。約2つほど存在する。2ちゃんねる (2ch.net) : 1999年5月30日に、あめぞう型掲示板を乗っ取ったひろゆきによって、設立された掲示板。現...

黄皓

黄皓(こうこう)とは、中国の人物。約2名ほど存在する。黄皓 (宦官) : 蜀漢(蜀)の宦官。後主(懐帝)の劉禅に信頼されて、中常侍に任命された。この権力を利用して、皇弟の魯王の劉永と上将軍の姜維と対立...

黄忠

“矍鑠なるかなこの翁は”と謳われた黄忠黄忠(こうちゅう、? - 220年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将で、字は漢升。子は黄叙(黄敍)、他に孫娘[1](後述)がいたという。『三国志演義』では...

黄奎

黄奎像黄奎(こうけい、170年/171年? - 212年5月)は、『三国志』に登場する後漢末の人物。字は宗文。黄香の玄孫、黄瓊の曾孫、黄琼の孫、黄琬の子、黄某の父、荊州牧の劉表配下の江夏郡太守の黄祖の...

麻生氏_(筑前国)

曖昧さ回避この項目では、豊前国の氏族について記述しています。その他の氏族については「麻生氏」をご覧ください。麻生氏(あそうし)とは、筑前国・豊前国の氏族。約2系名ほど存在する。筑前国遠賀郡麻生郷[1]...

麻生氏

麻生氏(あそうし)とは、日本の氏族。約幾多かの系統が存在する。麻生氏 (常陸国) : 常陸麻生氏とも呼ばれる。桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の常陸行方氏の庶家で、行方宗幹の3男・家幹(景幹)を祖...

鹿島氏

鹿島氏(かしまし)とは、日本における常陸国鹿島郡鹿島郷[1]の氏族。約3系統が存在する。鹿嶋氏とも呼ばれる。鹿島家 : 崇光源氏流伏見家一門の山階家[2]の庶家。山階菊麿の子の鹿島萩麿[3]が設立した...

鷹司家_(藤原氏)

曖昧さ回避この項目では、藤原北家について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (源氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、藤原北家一門で、約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1...

鷹司家_(源氏)

曖昧さ回避この項目では、源姓一門について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (藤原氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、源氏一門。約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を...

鷹司家

曖昧さ回避この項目では、公家の家系について記述しています。その他の氏族については「鷹司氏」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、日本の氏族。約2系統ほど存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を拠点と...

鷲尾氏

鷲尾氏(わしおし)とは、日本の氏族。約3系統がある。鷲尾家 : 藤原北家魚名流四条家の庶家。同族に山科家[1]・西大路家[2]・櫛笥家[3]があった。鷲尾氏 (備後国) : 備後鷲尾氏とも呼ばれる。源...

鳩時計

ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトにある鳩時計専門店鳩時計(はとどけい、独語:Kuckucksuhr、英語:Cuckoo clock)とは、ドイツの壁掛け時計の一種で「ハト時計」・「カッコウ時計」・「...

鳥山氏

鳥山氏の家紋①(大中黒一つ引き)大井田氏の家紋②(二つ引き両)鳥山氏(とりやまし)は、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門。上野国新田郡鳥山郷[1]を拠点とした。目次1 概要2 歴代当主2.1 親成系2...

魏書

魏書(ぎしょ)とは、中国の史書。幾多かある。『三国志』の魏(曹魏)の曹操を中心とした史書。『三国志』時代以前の後漢末の王沈の著書(現存せず、『三国志』の注釈の中に断片的に残されているのみである)。『北...

魏延

甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する魏延像魏延(ぎえん、? - 234年)は、『三国志』登場する蜀漢(蜀)の部将。字は文長。目次1 概要2 その他のエピソード3 魏延の隠された事項4 脚注5 関連項目概要...

魏勃

魏延の遠祖の魏勃指揮を執る魏勃魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、前漢初期の部将。蜀漢(蜀)の部将の魏延の遠祖と伝わる[1]。 概要[]彼の出身地は不詳であるが、父が鼓琴の名手で、彼は秦の咸陽に赴いて、始皇...

魏(ぎ)とは、元来は都市国家に属し、現在の今日の山西省運城市芮城県に該当される。戦国時代に領域国家に変貌した。幾多の国家(王朝)が存在する。魏 (春秋) : 別称は「微」。姓は好。殷(商)の微子堅(微...

高間慎一

高間 慎一(たかま しんいち、1978年9月19日 - )は、日本の実業家。大学1年の18歳で会社の起業をしたメンバーシップ系のワイン&ダイニング レストラン「Wabi-Sabi」の創業者であり、マー...