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甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する諸葛亮と孫権に信頼された鄧芝像
鄧芝(とうし[1]、172年?[2] - 251年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将。字は伯苗。後漢の元勲の鄧禹の孫で上蔡侯[3]・護羌校尉の鄧訓(鄧禹の六男)の子である鄧隲(鄧騭)[4]の末裔、父の名は未詳、生母は鄭天生[5]、子は鄧良ら。
南陽郡鄧県[6]の人。若くして劉表・劉備に仕えて、211年、劉備の入蜀に父とともに随行した(後述)。
214年夏5月に劉備が益州牧・劉璋を降して蜀を平定すると、鄧芝は劉備が涪県で劉璋と会見したときに出会った益州従事の張裕が人相家として評判だったので、自分の将来を判断してもらった。張裕は「あなたは70余歳で三公に次ぐ位に達し、列侯に封じられるでしょう」と述べた。彼はこれを聞いて喜んだ。
鄧芝は、もと巴西郡太守で今は隠遁生活をしている龐羲[7]が食客や処士を好んで待遇したと聞いたので、当分は龐羲の食客として過ごしていた。
まもなく劉備によって郫県の督[8]に抜擢された。あるとき劉備は蜀各地に巡行し、郫県にも訪れ鄧芝に会見を許し、ともに語り合った。劉備は彼を有望な青年と認め、鄧芝の父の推挙もあり、郫県の令に昇格させた。後に広漢郡太守に累進し、清廉で厳格な統治で治績を挙げたので、召還されて尚書となった。
数年後に彼の父が逝去し、223年に劉備も魚復(永安)県[9]で62歳で崩御し、太子の劉禅が後を継いで即位した。
丞相の諸葛亮は先年に関羽によって拗れた呉の孫権との和睦修復に頭を抱えていた。実は劉備が亡くなる前に、孫権は劉備との和睦を希望したため、数度使者を出した。劉備もその返礼として宗瑋と費禕を返礼の使者として派遣させたのである。しかし、劉備が亡くなり劉禅の代になったので、孫権が豹変して和睦を断絶するのではないかと、苦慮していた。
あるとき鄧芝は諸葛亮に会見し「先帝が身罷りなされて、現陛下はまだ御年18で、国情は不安定です。この際は呉に和睦修復の使節を派遣するのが効果的だと思います」と言った。諸葛亮は「君の言うとおりだ。わしはその適任者がいるかどうか悩んでおった。だが、たった今その人物が見つかった」と言った。鄧芝は「それはどなたでしょうか?」と述べたので、諸葛亮は「それはわしの考えを見抜いた君自身だ。お願いできるだろうか?」と言った。鄧芝は少々驚いたが、その重任を引き受けて、和睦修復の使節として準備を整えて、呉に向かった。
鄧芝は呉に到着して、孫権に謁見を申し入れたが、輔呉将軍の張昭と計って鄧芝に対しての謁見の許可を出さなかった。そこで鄧芝は孫権の居城に直接向かって、「わたくしが呉王さまに謁見したいのは、すべては呉のためであり何も蜀漢のためではありません。なにとぞお願い申し上げます」と強行行為をして孫権の謁者に取り次いだ。これを聞いた孫権は鄧芝の熱意に動かされ、謁見を許可した。
鄧芝に会った孫権は「わしは蜀漢と再び和睦を結びたいのだが、関羽の件もありまた幼君が即位したばかりで、国情は不安定であり人口が少なく魏に侵入される恐れがあり、このままでは滅ぶのが目に見ているから心配しておるのだ」と言った。呉は今まで魏の曹丕[10]との和睦を保っていたが、太子の孫登を洛陽に人質に差し出すように命じられ、魏との関係は険悪状態になっていたので、孫権の本心は蜀漢との和睦修復を望んでおり焦っていたのである。
それを見据えて鄧芝は「呉と蜀漢は四州[11]を統治し、呉王さまは一代の英傑であり、わが国の諸葛亮の一世の賢人であります。呉は三つの河[12]の要害があり、蜀漢は巴蜀を跨る険しい山岳地帯の要害があります。この二国が力を合わせて相互に協力をすれば、魏はたちまち衰弱し呉と蜀漢がこの大陸を二分して君臨できるでしょう。これは自然の理であり呉王さまが、今までどおり魏に臣従されれば、魏は太子の人質要求ばかりでなく、予想できない理不尽な命令が来るでしょう。こうなれば魏は呉を討伐しますし、また大変申し訳ありませんが、わが蜀漢もこれに乗じて呉に侵入することも考えられます。そうなれば呉は間違いなく滅亡するでしょう」と言った。 孫権は驚愕し、しばらく黙ったが「その通りだ。わしは蜀漢と再和睦を図ることにする」と言った。孫権は先に謀反を起こした益州属国(建寧郡)を支配した雍闓[13]に捕らわれて呉に送られた益州属国太守の張裔[14]を返し、魏との和睦を断ち切り、蜀漢と再同盟した。孫権は張温を派遣することに決めて、その返礼を命じた。
あるとき孫権は宴会を開き、鄧芝に対して「仮に魏が滅んで天下泰平になれば、君が言う大陸が二分し君臨するもの愉快ではないか?」と言った。鄧芝は「天下にふたりの君主は相容れないものです。魏を滅ぼし併呑した後の暗黙の了認を呉王さまはまだまだご存知でないと判断します。君主が富国強兵を奨励し、強国にすれば臣下は慌ただしくなり、各将軍は太鼓を鳴らして戦争を起こせば、再び荒廃した乱世が来るだけです」といった。孫権は大笑いし「君は真の誠実者であるな」と言った。まもなく鄧芝は張裔を先に帰し、自身は張温を伴って帰国した。
しばらくして孫権は諸葛亮に書簡を送った[15]。その内容は「鄧芝以前の使節の丁厷は能書きばかりで、陰化は口下手だった。しかし、鄧芝は弁説が爽やかで明快であった。わが国が貴国と再盟約できたのは、鄧芝のおかげである」と鄧芝を絶賛していた。
227年春、北伐を動員した諸葛亮は鄧芝を中監軍・楊武将軍に任じて、老将の趙雲の副将としてを補佐させた。228年夏、箕谷で陽動作戦を実施したが、魏の大司馬・曹真[16]と戦って敗れた。 敗走するときに趙雲自らが殿軍となり、鄧芝は軍勢をまとめてあざやかに撤退した[17]。
234年秋8月、諸葛亮が五丈原で逝去すると、前軍師・前将軍に昇進し、兗州刺史を兼務し陽武侯に封じられた。しばらくして江州都督に任命された。
孫権は鄧芝を気に入り、できれば自分の臣下に加えたい気持ちがあったので、幾度も鄧芝の消息を尋ねる書簡を送り、同時に貴重な贈り物も携えていた。
243年、70余歳になった鄧芝は任地で車騎将軍に昇進し、その後に仮節を加えられた。しかし、年老いた鄧芝は生来の粗雑さと驕慢が表面化し、大司馬の費禕さえも腫れもの扱いしていた。ただし、10歳年少の宗預のみは鄧芝に遠慮せずに堂々接したので、波長が適い、相互に好んで親交したと記されている[2]。
248年、涪陵郡の反徒[18]が都尉を殺害して反乱を起こしたので、老将の鄧芝は自ら討伐して鎮圧しそれぞれの頭目を処刑したので、領民は安堵した。
251年、80歳前後の高齢で逝去した。孫権は鄧芝の訃報を聞いて、嘆いたため喪中の使節を派遣したという。
子の鄧良が後を継いだ。鄧良は景耀年間に尚書左選郎になり、後に駙馬都尉となった。263年冬に蜀漢滅亡に、譙周[19]・張紹[20]とともに後主・劉禅に降伏を進言した。晋の時代になると、広漢郡太守となり、その末裔は栄えたという。
陳寿は「鄧芝は20余年も要職にあり、厳格に賞罰を下し士卒を労わった。しかし、お上からの支給を頼ってばかりで倹約・質素を考えることはしなかった。しかし金儲けの才能がなかったので、妻子は寒さや餓えに怯えていた。ゆえに彼が亡くなったときは財宝はほとんど残っていなかった。また剛毅な性格で細かい気配りが苦手で、激情家だったので他の将軍や大臣たちとの衝突が絶えず、親交は少なかった。ただ、個人的に姜維を気に入って評価し可愛がっていた」と述べている。
『東観漢記』・『元本』[21]・林国賛の『三国志裴注述』を総合した本田透『ろくでなし三国志』をもとに検証する。
結論
鄧芝は劉封と縁戚関係にあり、劉封の後裔が粛清されなかったのは彼が諸葛亮と親しく、助命したことが大きかったと思われる。
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