雍ガイ

ページ名:雍ガイ
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高定元(右)と討論する雍闓(左)

雍 闓(よう がい、? - 225年)は、蜀漢の豪族。前漢の什仿(什邡)粛侯の雍歯[1]の末裔で[2]、蜀漢の主簿の雍茂の族兄弟にあたる[3]

目次

生涯[]

梓潼郡[4]の人[5]。南方の益州属国(建寧郡)を支配していた。

219年から220年にかけて族兄弟の雍茂が劉巴とともに、王(漢中王)の劉備に対して、帝位に即くことを猛反対する上奏をして、激怒した劉備によって他の落ち度を探り出して、雍茂は重罪人として逮捕投獄され間もなく張裕とともに処刑されて、晒し首となった。

このような経緯から、雍闓は劉備を激しく恨んで、222年に劉備が孫権を討つべく遠征すると(『夷陵の戦い』)、越嶲郡のタイ系叟族の酋長の高定元と牂柯郡の郡丞の朱褒とともに反乱を起こし、益州属国太守の正昻を殺害した[3]

まず、雍闓は士燮を通じて、孫権と内通した。223年に劉備が逝去すると、亡き正昻の後任である張裔を捕らえて、呉に輸送した。呉の交州刺史の歩隲の仲介を経て、雍闓は孫権から永昌郡太守に任命された。まもなく雍闓は現地で人望があった孟獲を擁立して、成都を目指して北進した。

これに危惧した諸葛亮李厳李平)に命じて、雍闓を説得する使節を派遣した。使節と会見した雍闓は「天に2つの太陽は存在せず、地にはふたりの君主は存在しないと申します。ですが、現在は天下が三分されており、僻地に在住する者は度の君主に臣属したらよいか判断できずに、戸惑っておるのです」と返答し、その使節はそのまま引き返し、李厳は諸葛亮にその旨を伝えた。

雍闓の反乱は隣接する郡にも広がるも、ただし、永昌郡の府丞の王伉は従事の呂凱とともに呼応しなかった。

その報を聞いた諸葛亮は、以前に関羽によってこじれた呉と和睦を結ぶために、鄧芝を派遣して、逸早く和睦が成立して、雍闓に捕らえれた張裔を送り帰して、張温を派遣するなどして、和議は成立した。

このように手を打った諸葛亮は、2万5千人の軍勢を動員して、まず李恢馬忠にそれぞれ5千人を率いさせて先鋒させた。やがて諸葛亮自身も李厳と馬謖を伴って、1万5千人を率いて西南夷に遠征した。

呉の後盾を失った雍闓は、高定元と仲違いして、密かに諸葛亮と昔なじみの李恢と通じた孟獲の『離間の策』もあって、高定元の部将である鄂煥(顎煥)によって、ちょうど諸葛亮の使者として派遣されていた益州属国太守の王士[6]王甫の従弟)とともに殺害された[3][5]

その後裔[]

(西晋)の時代に巴蜀地方でチベット系氐の李氏が建国した成蜀(前蜀)に仕えた雍約[5]は雍闓あるいは、雍茂の後裔といわれる[3]

脚注[]

  1. 雍歯には子の荒侯の雍臣、孫の終侯の雍桓がいたが、紀元前112年に雍桓の子の雍某が酎金怠慢で、爵位を剥奪された(『史記』高祖功臣侯者年表・『漢書』高恵高后文功臣表)。
  2. 蜀書』「呂凱伝」
  3. 3.03.13.23.3元本』(『元大徳九路本十七史』)より。
  4. 現在の四川省綿陽市梓潼県
  5. 5.05.15.2 『華陽国志』「南中志」
  6. 実際の王士は殺害されずに、建寧郡太守になり、翌226年に越嶲郡斯都県のタイ系濮族の酋長・李求承によって殺害された。

関連項目[]



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