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南中(西南夷)の英雄の孟獲像
孟獲(もうかく、生没年不詳)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の御史中丞、かつては西南夷(南中)の豪族連合の盟主だった[1]。字は不詳。李恢の昔なじみという。
父は漢族で現地の豪族の孟節[2]と言い、母は古代タイ系の酋長との娘とされ、妻は金環[3]。族弟は孟琰[4]、子は孟会、孫は孟虬(もうきゅう)[5]。
彼の伝記の大部分は、『華陽国志』南中志に記述されている。
凛とした孟獲
犍為属国(朱提郡)[6]の人で、隣接する益州属国滇県[7]を支配した[8]。
223年、益州属国[7]を支配した雍闓[9]が一族の主簿・雍茂が劉備によって誅殺された事[10]を大義名分として謀反を起こして、益州属国太守の正昻を殺害して、その後任で赴任した張裔を捕獲して、交州刺史または交阯郡太守・士燮を通じて呉の孫権に護送する暴挙に出た[11]。
雍闓に呼応したのは、越嶲郡太守・馬謖を追い払ったタイ系叟族の酋長の高定元[12](高定)を初め、自分の配下の主簿を誅殺した仇として益州従事の常頎(常房)を殺害して、牂牁郡太守・馬忠(狐篤)を追い払い、自ら太守と自称した牂牁郡従事・朱褒らが、雍闓に呼応した[13]。
彼らは南中の豪族で人望があった孟獲を盟主に推載した[14]。雍闓らに擁立された孟獲は雍闓が人望がなく、兵が集まらないことを目につけて、南中の人民を集めて「朝廷は汝らに巨木を3千木ほど伐採して、提供せよとのお達しがあった。汝らはこれが可能であるか?」と問うた。これを聞いた南中の人民は南中の樹木は真っ直ぐ伸びず、曲がりくねる特質があるために、朝廷が理不尽な要求をしていると感じて、一気に雍闓の配下になったという。
その反面、孟獲は裏では「(交州刺史または交阯郡太守の)士燮(士爕)に踊らされるのは真っ平御免だ」と言わんばかりに却って狼狽し、やはり昔なじみの永昌郡の五官掾功曹・呂凱[15]と府丞・王伉(蜀郡の人)と密かに会い、同じく昔なじみの李恢と牂牁郡太守・馬忠を通じ、蜀漢の丞相・諸葛亮に帰順を前提に雍闓ら反乱の鎮圧を促した。
孟獲らの帰順の意向を込めた書簡に目を通した諸葛亮はかつて、故主君の劉備から軍事司令官としての能力は不適格の烙印を押されたこともあり、自分の存在を見せるために南中討伐を動員した。状況の如何によっては同盟を結んだ呉の孫権が魏と結んで、蜀漢討伐という構想に備えるためでもあり、224年は南中討伐の準備に明け暮れていた[16]。
翌225年春3月になると、諸葛亮は李恢と朱褒に追われた牂牁郡太守・馬忠にそれぞれ、5千人の援軍を与えて、李恢には高定元を馬忠には朱褒を討伐させた。自らは李厳(李平)・馬謖を参軍[17]として、1万5千人を率いて発進した。
李恢は犍為郡平夷県から、馬忠は朱褒に追い払われて逃亡して益州属国太守の王士(王甫の従兄)を頼って、同郡僰道県から謀反人・朱褒を討伐してから、王士と共に諸葛亮率いる本隊と合流することになる手筈を取った。
一方、永昌郡楪楡県に籠城した呂凱・王伉らは雍闓らの攻撃を防戦しつつ、雍闓の陣営にいる孟獲と連絡を取りながら、雍闓ら首脳陣の“離間の策”を目論んだ。
呂凱は自分の腹心を間者として表面的には雍闓を諭す手紙を持参する使者として、派遣させた。使者に扮した間者は、雍闓の陣内にいる孟獲の幕内に案内された。孟獲はその間者に対して「雍闓は秘かに諸葛亮と内通して高定元を殺害しその首を持参する肚である」との噂を隣接する益州属国味県にいる高定元の陣営内に、拡げるように命じた。同時に使者に扮した間者は、雍闓と会見して呂凱からの手紙を差し出したが、手紙を見た雍闓は相変わらず傲岸な態度で薄笑いをしていた。
果して、その噂を聞いた愚直で単純な高定元は激怒し、勇猛果敢で知られた部将の鄂煥(顎煥)を呼び、雍闓の陣を襲撃するように命じた。鄂煥は雍闓の陣営に襲いかかり、事態が呑み込めない雍闓は防戦するも、たまたま諸葛亮の使者として派遣されていた上記の王士[18]とともに高定元の部将の鄂煥によって討ち取られてしまい、その首は高定元の陣門に晒された[19]。同時に諸葛亮率いる本隊が越嶲郡に到達したため、慌てふためいた高定元は本拠地の邛都県に引き返した。この報を聞いた孟獲は呂凱・王伉と共に益州属国滇県で李恢の軍勢に合流し、南中の豪族連合軍を追撃し、牂牁郡に隣接する槃河で連合軍を降して、そのまま諸葛亮の本隊を待機したのである。
こうして、邛都県に戻った高定元は李恢の軍勢と合流した諸葛亮率いる本隊を迎え撃って、激戦の末に捕虜となり、鄂煥は越嶲郡の奥地に逃亡した。高定元は即刻処刑されて、陣門に晒し首にされた[20]。諸葛亮・李恢らはそのまま東進し、牂牁郡句町(こうてい)県付近の瀘惟水を沿えて、槃河で馬忠と合流する予定であった。これが225年夏5月のことであった[21]。
その一方、馬忠は、牂牁郡且蘭県[22]で朱褒の軍勢と戦った。連戦連敗で畏れ慄いた朱褒は自ら降服を申し入れて馬忠に帰順した。馬忠はそのまま諸葛亮の本隊と合流した。諸葛亮は槃河で李恢を通じて、孟獲・呂凱・王伉らと謁見を許した[23]。諸葛亮は彼らをの功績を褒め称えた。
降伏した朱褒はいったん囚獄されるが、前述の益州従事の常頎が蜀漢の“酷吏”で、朱褒の部下の主簿を殺害するなど、朱褒に対する拷問が苛酷だったことに諸葛亮は同情して、朱褒は赦され、興古郡太守[24]に任命された[25]。
また通説では、馬謖が献策した著名な『七縦七擒』の故事によると、諸葛亮は、南中の豪族・孟獲に対しては懸賞金を出し、そのため孟獲は幾度も諸葛亮に捕らえられた。諸葛亮は孟獲を自陣に案内して「わが軍の強さはどうだ?」と訊いた。孟獲は悪びれることなく「いや、これで諸葛丞相の陣営を拝見し、今までは負けましたが、今度はわたしが諸葛丞相を虜にさせますぞ!」と豪語した。諸葛亮は笑って「よろしい、君の気が済むまでやりなさい。わしは喜んで受けて立とう」といって孟獲を釈放した。それから孟獲を七回捕らえて、七回釈放した。以降も諸葛亮は寛大だったが、孟獲は観念し「諸葛丞相は天の如く威光をお持ちの方です。われらは以降は恭順する所存です」といった。やがて、以降の南蛮の異民族は諸葛亮の在命中に、反乱を起こすことはなかったというが、これは後世の史家による創作の可能性も高いという[26]。
南中が平定されると諸葛亮は現地の有力者を任用した。ある人物がそれを諫めたが、諸葛亮は漢民族の道徳で諭したと記されている[27]。この時、225年の夏6月になっていた。
一方、永昌郡を永昌・雲南に二分し、南部の雲南郡太守に呂凱を、北部の永昌郡太守を王伉に任命された。さらに広大な益州から南部を分離し、庲降都督の支配下として、前任の鄧方(南郡の人)が221年に病没していたため、李恢が劉備の在世時から庲降都督に任命されて、そのまま継続された。
また、益州属国を建寧郡に改称して、馬忠を新設の建寧郡太守に任じて、牂牁郡太守も兼務で赴任させた。犍為郡太守は何祗[28]が任命された。
さらに、越嶲郡太守には龔禄[29](195年~226年)を任命した。さらに広大な牂牁郡[30]と二分し、北部の牂牁郡太守は馬忠がそのまま留任し、南部の興古郡太守[31]は前述の朱褒が任じられた。引き続いて、犍為属国を朱提郡にして、その太守は馬忠が兼務したという。
こうして、庲降属国は七郡六十八県となり、南中の有力豪族の子弟を太守や県令に任命されて、庲降都督・李恢の支配下に置かれて、秩序を保った。225年秋7月のことである。諸葛亮率いる遠征軍が同年秋9月に引き揚げ、成都県に到着したのは冬12月のことであった。孟獲も諸葛亮に同伴し、族弟の孟琰・爨習(李恢の義理の叔父)とともに孝廉に推挙されて郎中に任命された。
同時に間に南中出身の勇猛な若者で編成した五つの「飛軍」部隊や銀などの特産物も得た。勇猛な「飛軍」は、諸葛亮の上奏で御史中丞[32]に任命された孟獲の配下として配属された。これが翌々227年春の北伐[33]に大いに役立ったのである。
孟獲自身も諸葛亮の北伐に随行して、漢中郡に駐屯した。彼は実直に職務を果して、諸将の動向を監視し、諸葛亮からの信頼は絶大だったという。231年に食糧輸送の件で、不正行為をした李厳を弾劾し、漢中郡にいた諸葛亮に上奏を送った。
孟獲の没年は未詳だが、235年頃に没したといわれる。子の孟会が後を継ぎ、孟会の子が孟虬である[34]。
263年に蜀漢が魏の鍾会と鄧艾によって滅亡すると、すでに子の孟会は没していたが、孫の孟虬は晋公・司馬昭の厳命で他の蜀漢の子弟とともに河東郡に強制移住されたという。
指揮する孟獲
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