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馬超を説得し、南中遠征で活躍した李恢像
李恢(りかい、? - 231年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将・政治家。字は徳昻。子は李遺、甥は李球(弟の子)。
益州属国愈元県[1]の人。益州属国の名門出身で、若い頃から益州牧・劉焉に仕え、督郵[2]となった。
叔母の夫で益州属国建伶県令・爨習が違法を犯したために、李恢は連座で免職寸前となった。ところが益州属国の太守・董和(董允の父)が爨習が益州属国の有力豪族だったので、これを処罰すると爨一族の謀反を招いてしまうと判断し、この件は不問に処した[3]。
後に董允は若き李恢を劉焉の子・劉璋の近侍として推挙した。間もなく成都県に向かう途中で、劉備が葭萌県から劉璋の軍勢を攻撃する報を聞いた。すると李恢は、劉璋の使者と称して、綿竹県に向かい劉備に謁見し「これからは劉豫州(劉備)にお仕えして全身で尽す所存です」と述べた。劉備は李恢を評価し、従事として随行を許した。雒県に着くと、劉備は李恢を張魯の援軍の将としてやって来た馬超の陣営に派遣させ説得させた。馬超は快く応じ、李恢に同伴して、雒県で劉備と謁見して帰順した。
この功績で劉備が蜀を占領すると、李恢は功曹書佐主簿に任じた。後にある逃亡者が李恢と仲が悪く、“李恢が謀反した”と讒訴した。捕吏司令官が李恢を逮捕して護送した。しかし、劉備は李恢を信頼していたので、却って讒訴した逃亡者を逮捕し拷問させて、白状させた挙句に処刑した。こうして冤罪が晴れた李恢は別駕従事に昇進した。
221年、庲降都督・鄧方が病没した。劉備は李恢を召し出して「鄧方の後任は誰がよいか?」と問うた。李恢は「人材はそれぞれ適職・不適職があります。要するにその人の能力に適しているかどうかです。名君の下で勤める能力適職ある者にとっては理想でしょう。わたくしも内心は自己力量を測っておりません。主上(劉備)がご即断なされる事でしょう」と述べた。劉備は思わず吹き出して「わしはたった今、君こそ能力適職ある者と即断したのだ」といって、李恢を庲降都督・使持節に任命して、犍為郡平夷県を郡都とした[4]。
223年、益州属国太守・正昻が土豪・雍闓[5]に唆された西南夷(南中)の豪族らによって殺害されると、丞相・諸葛亮は張裔を後任として赴任させた。だが、雍闓は交州刺史または交阯郡太守・士燮(士爕)を通じて呉の孫権に帰順し、張裔を捕らえて呉に護送してしまった。孫権は雍闓を永昌郡太守に任命し、さらに交州刺史を兼務させた。雍闓は檄を飛ばして謀反を起こした。越嶲郡太守・馬謖を追い払ったタイ系叟族の酋長・高定元(高定)と、“酷吏”と怖れられた益州従事・常頎(常房)を殺害して、牂牁郡太守・馬忠を追い払った牂牁郡の従事・朱褒らが雍闓に呼応した。雍闓らは益州属国滇県の豪族で名士でもある孟獲を“西南王”または“南中王”として、擁立した[6]。
李恢はこの事態を諸葛亮に報告した。諸葛亮は牂牁郡太守・馬忠と益州属国太守・王士[7]と永昌郡の五官掾功曹・呂凱と府丞・王伉らと結束して、自分が来るまで雍闓らと対峙せよと命じられた。しばらしくて、秘かに孟獲の使者が平夷県にいる李恢の下に来た。内容は「この孟獲、雍闓らに擁立されたが、南中は未開の蕃地であり、仮に王と称しても、士燮の傀儡であることは明白である。さらに余計に戦乱が激しくなるだけであり利益がない。李恢どのはこの孟獲の昔なじみゆえ、馬忠どのと共にこの孟獲が諸葛丞相に帰順する旨をお伝え願いたい」というものであった。李恢は馬忠に連絡し、“孟獲帰順”の旨を成都県にいる諸葛亮に使者を出して伝言した。
この報を聞いた諸葛亮は“わが事成れり”と喜び、諫言していた丞相長史・王連が既に病没していたので、李厳(李平)・馬謖を参軍として1万5千人を率いて、南中討伐に動いた。馬忠も王士と共に僰道県で軍を編成し5千人を率いて、牂牁郡且蘭県[8]にいる朱褒を攻撃した。225年春3月のことである。
一方、李恢も5千人を率いて、平夷県から永昌郡楪楡県に向かい、高定元らの攻撃を受けて籠城した呂凱・王伉らを救助した。だが、土豪の雍闓が熾んに高定元をはじめとする南中の豪族連合らを唆したので、わずか五千騎しかいない李恢らは敗走して、隣接する益州属国滇県[9]辺りに逃れて、高定元ら南中の豪族連合の五万人によって忽ち包囲されてしまった。同時に越嶲郡邛都県に向かった諸葛亮・李厳・馬謖らの消息も定かではなく、李恢は窮地に陥った。すると、雍闓の陣営にいる孟獲が李恢を案じて秘かに使者を出して「ここは南中の豪族らに将軍(李恢)が同郷人という情緒を持ち出し欺くことが有効である」と伝言させた。
この言葉に励まされた李恢は使者を出して、南中の豪族の代表に「蜀漢軍は兵糧が尽きて間もなく撤退する。わしは南中出身なのでやっと故郷に戻れたのだ。これからは諸君たちと一緒に力を合せて、共に蜀漢軍を撃退しようぞ!」と伝言させた。南中の豪族たちは同郷人の情緒に流され迂闊にも包囲を解いてしまった。この報を聞いた李恢は突如総攻撃し、弛緩した南中の豪族連合軍を撃破した。連合軍は牂牁郡付近の槃江まで逃亡したが、既に朱褒を降した馬忠・王士らが諸葛亮率いる本隊と合流したため、連合軍は遂に降伏した。李恢も孟獲らと合流し、連合軍を追撃した。既に雍闓は、益州属国太守・王士とともに高定元の部将・鄂煥(顎煥)に殺害され[10]、高定元自身も諸葛亮と合流した李恢の軍勢に大敗して、捕虜の末に処刑された後だった[11]。このとき225年の夏5月だった。
こうして諸葛亮率いる本隊と合流した李恢らは、孟獲を諸葛亮に謁見させ、そのまま帰順した。数か月経って南中討伐の平定は終わった。225年秋7月のことだという。
南中遠征の最大の功労者は李恢であり、安漢将軍・漢興亭侯に封じられた。さらに庲降都督に任命された。同時に南中(西南夷)付近の瀘水(金沙江)にいたタイ系の諸民族間の戦いで50人前後の捕虜者が瀘水の畔りで処刑され、晒し首になる野蛮な風習があったという。これに鬱慮した諸葛亮は李恢に命じて、この悪習を廃絶すべく小麦を練り、その中に羊肉などを詰め込み人型の形成させ、人工の“生首”として瀘水の畔りに備えさせ、今までの犠牲者の霊魂を祀らせたという。これが“饅頭”の誕生だといわれ、現地出身の李恢の手腕が功を成したという[12]。
翌226年に越嶲郡の奥地にいた高定元の旧部将の叟族の鄂煥が、同じタイ系の越嶲郡斯都県の濮族の酋長・李求承[13]と共に侵入して、かつて蜀漢に背いて降将となった興古郡太守[14]・朱褒[15]も呼応したため、越嶲郡太守・龔禄と雲南郡太守・呂凱を殺害した。このように、南中の豪族やタイ系の蕃族が謀反を起こす度に、李恢自身は手を焼いてしまった。
やがて、牂牁郡太守・馬忠と永昌郡太守・王伉とさらに犍為郡太守・何祗らの補佐を得て、反乱は鎮圧され、鄂煥と朱褒らは捕らえられて処刑されたが、李求承は奥地に逃亡した。殺害された龔禄の後任は焦璜であり、越嶲郡太守として赴任した[16]。
李恢は高定元・鄂煥の旧配下を成都県に移住させ、軍資金として叟・濮族の家畜や軍馬と財宝を護送させた。李恢は建寧郡太守を兼務した。晩年の李恢は、庲降都督を綏南中郎将・張翼に引き継がせてこれを委ねて(230~231年頃)、北方の漢中郡に移籍して隠居して、231年に没した。
李恢が逝去すると、子の李遺がその後を継いだ。甥の李球は羽林右部督[17]となり、263年に諸葛瞻(諸葛亮の少子)に従軍して、綿竹県で、魏(西晋)の鄧艾の軍勢と戦って討死した。
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