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影が薄い存在の“何咸像”
何咸(かかん、? - 189年7月?)は、三国時代以前の後漢末の部将で、字は未詳。
屠殺業者の何真の孫、大将軍・何進の子、何晏の父、何某の祖父に当たる(後述)。妻は尹氏。霊帝(劉宏)の皇后である霊思皇后[1]何氏は叔母で、何太子=弘農懐王の劉弁は従弟にあたる。
南陽郡宛県[2]の人。彼の名は『三国志』および『後漢書』どころか『三国志演義』にも登場しない。
ただ、何咸の子とされる何晏の『論語集解』の言に詳しく記されている。それによると、同書は他の学者の説を引用する際にそのほとんどが姓諱を記されているに対して、包咸(苞咸)という人物のみは「包某」としか書いていない[3]。これは、中国の伝統による父祖の避諱[4]を適用したものであると述べている[5]。この説に従えば、何晏の父の諱は「何咸」が正しいことになる。
さらに何咸の孫とする人物はある文献書に「何晏子魏之親甥」の原文箇所では「何晏の子の“何魏”」と誤読したもの。何晏に息子が実在したが、諱は未詳で「何魏」と記するのは誤りとする[6]。
彼に関しては、詳しい動向は未詳だが、父の何進とともに要職にあり、尹氏という美貌の妻を迎えて、何晏という子を儲けていたようである。最後は継叔父[7]の朱苗(何苗)と叔母の孝霊皇后何氏が、対決した宦官筆頭グループの中常侍の張譲らと結託したことが要因で、189年秋7月に父とともに殺害されたようである。
その後、西園八校尉のうち典軍校尉・曹操らが、中常侍ら宦官を皆殺しし、中軍校尉または司隷校尉・袁紹に至っては何進の忠実な部将だった呉匡[8]に向かって「大将軍を裏で殺害を命じたのは、継弟[9][10]の朱苗(何苗)だ。今のうちに殺らないと災いとなるぞ!」と唆して、激怒した呉匡は軍勢を率いて、朱雀門で朱苗(何苗)らを皆殺しし、その首級を晒した。
しかし、主を失った何進と朱苗(何苗)の軍勢は何進の招聘を受け、河東郡[11]に駐屯した董卓の巧妙な工夫で吸収された。このことに激怒した呉匡は旧縁がある益州牧の劉焉のもとに子の呉班と従子の呉懿とともに頼った。
また、曹操[12]は美貌だった何咸未亡人の尹氏を側室に迎え、その子の何晏を養子に迎えた[13]。
249年冬11月に司馬懿らによって、曹爽[14]一派であった何晏[15]らが処刑されたときに、何晏の老母の尹氏は当時6、7歳となる孫の何某[16]の助命を嘆願して許された[17]。
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