劉曜

ページ名:劉曜

劉曜(りゅうよう)とは、の皇族・宗室あるいは非皇族。約4名ほど存在する。

  1. 劉曜 (沛王) : 後漢の沛献王の劉輔[1]の7世の孫、釐王の劉定の6世の孫、節王の劉正の玄孫、孝王の劉広の曾孫、幽王の劉栄の孫、孝王の劉琮の子、崇徳侯の劉契の父。「恭王」と諡された。
  2. 劉曜 (蒼梧郡太守) : 零陵郡蒸陽県[2]の人。後漢の楚戻王[3]劉英[4]の玄孫、六侯の劉种の曾孫、劉度の孫、劉拘の子、江夏郡太守・盪寇将軍の劉祥の父、蜀漢()の劉巴の祖父。蒼梧郡太守となった。
  3. 劉曜 (曹魏) : の軍営令史。東莱郡牟平県(現在の山東省煙台市福山区)の人。後漢末の兗州刺史の劉岱の子[5]曹丕太宗文帝)に仕えて、法を犯した陳留郡太守の孫邕を弾劾を試みるも、彼自身が罪を犯した。相互に父の代から因縁があり、これを聞いた功臣である侍中・治書執法の鮑勛(鮑勲)[6]は劉曜を懲戒免職すべく動いた。すると、劉曜は鮑勛が孫邕を故意に見逃したと曹丕に上奏して、これを処刑させる結果を出した。
  4. 劉曜 (趙漢) : 字は永明。トルコ系匈奴屠各(屠客)部攣鞮(虚連題)氏族の王朝である趙漢の初代皇帝の高祖光文帝劉淵の族子、劉亮景帝)の玄孫、劉広献帝)の曾孫、劉防(懿帝)の孫、劉綠(宣成帝)[7]の子、劉暉の兄、劉儉・劉胤・劉煕(太子)・劉襲・劉闡・劉沖・劉敞・劉高・劉徽の父。少年時代に父を失い、族父の劉淵の養子となった。身の丈9尺3寸(約185㎝以上)ほどもあった。族兄弟の烈宗昭武帝の劉聡(劉戴)が亡くなり、その次嫡子の隠帝の劉粲が後を継いで、まもなく外戚の靳準らに殺害されると、彼は靳準らを討ち取り、趙漢の世祖昭烈帝として即位した。しかし、以降の劉曜は酒に溺れてしまい、不規則な生活を怠慢的に過ごしたので、部将の石勒[8]が反乱を起こして、その捕虜となった。石勒は劉曜の従弟の劉岳を派遣して、帝位を迫ったが劉曜は断固として拒んだために、太子の劉煕をのぞいて、多くの息子たちとともに殺害された。劉曜は大らかで寛大で、学問好きで文才があり、とくに草書・隷書が巧みだった。また武芸も巧みで、1寸の厚さがある鉄板をも貫通する強弓を使いこなし「神射」と呼ばれた[9]

脚注[]

  1. 世祖光武帝劉秀)の第3子で、郭太子こと東海恭王の劉彊の同母弟。
  2. 現在の湖南省邵陽市邵東県
  3. 「楚厲王」とも。
  4. 光武帝の次子、東海恭王の劉彊の異母弟、沛献王の劉輔の異母兄。
  5. 元本』(『元大徳九路本十七史』)
  6. 鮑信の次子。
  7. 劉淵の従兄弟。
  8. 匈奴羌渠部羯の酋長で、石趙の高祖。
  9. 史書では、劉曜の能力を認めつつも「自分から味方を敵にまわしたから滅亡したのだ」と、手厳しく批評されている(『晋書』劉曜伝)。

関連項目[]

  • 劉康 : 西域出身の胡人。世祖昭烈帝の落胤を自称した。

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