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後漢の楚戻王の劉英
劉英(りゅうえい、? - 71年)は、後漢の皇族。世祖光武帝(劉秀)の次子(あるいは第3子)で、生母は彭城郡[1]の人である許美人。東海恭王の劉彊(郭太子)の異母弟、沛献王の劉輔・顕宗明帝(劉荘/劉陽)・済南安王の劉康・東平憲王の劉蒼・阜陵質王の劉延・広陵思王の劉荊・臨淮懐王の劉衡・中山簡王の劉焉・琅邪孝王の劉京の異母兄、六侯の劉种の父、劉度の祖父、劉拘の曾祖父、蒼梧郡太守の劉曜の高祖父、江夏郡太守・盪寇将軍の劉祥の6世の祖、蜀漢の尚書令の劉巴の7世の祖[2]。
彼の事項は『後漢書』42巻にある光武十王列伝の劉英伝に記されている。39年に漢王と称した父から楚公に封じられた。このころから遊侠を好んで、たびたび食客・豪傑らと酒を飲みながら交わった。
皇帝となった父によって、41年に楚王に昇格した。52年に封地の彭城郡に赴いた。生母の許美人は父帝からの寵愛が徐々に衰えたことから、彼の封地は貧しかった。
異母弟の太子の劉荘とは、年齢が近いこともあって親しかった。太子が即位(明帝)すると彼は異母兄を労って褒賞を与えるなど優遇された。
このころから老荘思想の道教にはまって、同時に仏教・斎戒・祭祀などを意欲的に修めた。
70年に、奸猾の徒であった家臣の王平・顔忠(顔中)らとともに、任城県の令(後に楚郡太守)の袁安の配下で調査をした燕広の告訴によって、取り調べを受けた。王平と顔忠らは袁安の過酷な拷問に耐え切れずに、ついに「図書を偽造して謀反を唆した」と自白した。それによると、劉英は吉凶禍福を占って、楚王の宮殿の秩序を乱し大逆非道を行なったというものであった。その際に袁安は「楚王殿下は陛下の兄君でありますが、大逆行為をしたことは死罪に値するものであります」と述べた。しかし、明帝は異母兄を死罪するのに忍びず、楚王の爵位を剥奪して、丹陽郡涇県[3]に家族とともに移住させた。さらに王平と顔忠は裁きの結果、処刑されて晒し首となった。
翌71年に、絶望した劉英は自決して果てた。異母兄の死を聞いた明帝は、大いに悲しみ勅命を発して「戻王」[4]と諡した[2]。同時に劉英の遺児で自身の甥でもある劉种を六侯に封じた。
劉种の曾孫の劉曜の代になると、さらに南方の零陵郡烝陽県[5]に移住したと思われる[2]。
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