aklib_story_木々でさえ

ページ名:aklib_story_木々でさえ

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木々でさえ

偶然にもパフューマーは、絶滅したはずのミノス原産の古木をヴィクトリアで見つけた。


[ラナ] お父様、お母様、ごめんなさい。鉱石病に罹患していることが分かりました……感染者が家業を継ぐのは当然許されないことですから……私はもう、好きなことをしていてもかまいませんか?

[ラナ] このまま家にいるわけにはいかないのは承知しています。できるだけ早く家を出ますので、ご心配には及びません。自分の面倒は自分で見られますから、一族に迷惑はかけませんわ。

[ラナ] それと、お許しいただけるのなら、どうか私のお庭だけは残しておいてください。あそこにあるのはただの植物たちです。その清らかさは鉱石病に穢されることもありませんから……

[ラナ] それでは、お元気で。

[パフューマー] 冬。

[パラス] 祭壇で燃える焚き火の匂い。

[パフューマー] 遺跡。

[パラス] 神殿の境内の土と苔の匂い。

[パフューマー] 夜。

[パラス] ヘリアの森の露の匂い。

[パフューマー] 夕陽。

[パラス] ハチミツの匂い。

[パフューマー] ハチミツの匂い?

[パラス] 十二英雄殿にいた頃は、黄昏時に夕陽を眺めながらハチミツ酒を一杯嗜むことが、私の日課でした。盃に映る夕陽はハチミツのように綺麗な黄金色なのですよ。

[パラス] あぁ……あの景色も、味も、誠に懐かしいものです。

[パフューマー] 個性的な習慣だけど、言われてみれば納得ね。

[パフューマー] そう、このように、私たちはあるシーンが提示されると、それに関連する匂いをすぐに連想するの。

[パフューマー] 逆もまた然りで、ある匂いを嗅ぐと、それに紐づいたシーンが思い浮かぶのよね。

[パラス] つまりラナさんは、同様の手法を用いれば、グロリアさんの記憶は呼び覚ませるとお考えなのですか?

[パフューマー] 匂いには感情を呼び起こす力があるわ。匂いに含まれる情報量が多いほど、脳内で想起される情景が明確になり、具体的な記憶につながる可能性だってあるでしょうね。

[パフューマー] グロリアの病状を鑑みるに、それがもっとも妥当な治療法になると思うの。

[パラス] あっ、いえ。ラナさんのプロとしてのご判断は決して疑っておりませんよ。これらの重たい植物サンプルを運ぶことに不満を言いたいわけでもないのですが……ただ少々疑問に思いまして。

[パラス] グロリアさんをここに連れてくるという方法を取らないのは、なぜですか?

[パフューマー] ふふ、戦闘能力のない医療オペレーターとしては、遠出の際は同行者がいないとね。今回は祭司様のお世話になるわ。

[パフューマー] グロリアに関しては、残念ながら、あの子の体調は長旅に耐えられる状態ではないと判断したわ。それに、馴染みの環境に身を置けば効果が上がるというものでもないからね。

[パフューマー] 舞台で演じられる物語に例えれば、筋書きは洗練された方が観客の共感を呼びやすいものでしょ? 情報が過度に錯綜していると、大事な要素はかえって埋もれてしまうのよ。

[パフューマー] 例えば今この場の匂いから、この街ならではの雰囲気とは? と問われたところで、答えられないものでしょ。

[パラス] 確かに、匂ってもただ埃と煙が混ざり合った冷たい空気が鼻腔を刺激するだけですね。これまで訪れた他の近代的な都市と何も変わりません。

[パラス] ですが、それ以外にも微かな特別な匂いが漂っているようです……クリームと小麦――これは、パンの香りでしょうか?

[パン屋の店主] あら、そちらのお姉さん、気になるなら味見してみます? お代は結構よ。

[パラス] ご親切に感謝いたします――なんとあたたかく奥深い味でしょう。あなたの優れた技術に、心よりの賞賛を贈りたいと思います。

[パン屋の店主] 嬉しいこと言うわね! よかったら周りにも教えてくださいね。

[パラス] ええもちろん、このような素敵な味はもっと多くの人に知っていただくべきです――ラナさんも一ついかがですか?

[パフューマー] 私は遠慮しておくわ……パラスさんって、相変わらず誰とでもすぐ打ち解けられるわね。

[パラス] 人との交流は、一種の悦びと言えます。それにより知識を得ることもできますし、思考を磨くこともできるのです。

[パフューマー] だけど、今回の任務の要は必要な素材を速やかに集めることよ。そうやって頻繁に人と接して、もし感染者だとバレたら、余計なトラブルを招く恐れがあるわ。

[パフューマー] 先ほどのお嬢さんだってそう。私たちが感染者と知っても、変わらずああして親切に接してくれるかしらね。

[パラス] 親愛なるラナさん、人と接する前から相手に悪意があると仮定してはいけません。先人の言葉にもありますよ、「たとえ百人の悪人に会おうとも、次に会う者もまた悪だと決めつけてはならない」と。

[パフューマー] みんながそうしてくれるなら、私たちの生活もこんな風じゃなかったでしょうね。

[パラス] ラナさん……?

[パフューマー] ……いえ、どうも少し神経質になってるみたい。どうぞお気になさらずに。

[パフューマー] 調べて集めるべき素材はまだたくさんあるし、急ぎましょう。

[パフューマー] 道沿いの灌木の密度から推測する限り、この街はやや乾燥した気候のようね。年間の平均降水量は……五百ミリメートルといったところでしょう。

[パフューマー] この場合、植生の生態はさほど複雑ではないはず。予想よりは作業が早く終わりそうね。

[パラス] この木、たしかラナさんの温室でも見かけたような気がします。同じ品種でしょうか?

[パフューマー] いいえ。この木はヴィクトリアンヒノキで、温室にあるのはミノススギよ。どちらも鱗片葉でよく間違われるけど、実は全く違う品種なのよね。

[パラス] ラナさんは香料だけでなく、植物についても深く研究されているのですね。

[パフューマー] ええ、大自然は尽きせぬ香りの宝庫だもの。優秀な調香師になるのには、植物についての勉強が欠かせないわ。

[パラス] ロドスの療養庭園で、ミノス原産の希少な植物をたくさん見かけました。本でしか見たことがないような植物も、かなりあったのではないでしょうか。

[パラス] それで、ラナさんはきっとミノスに深い愛着を持っていらっしゃるのではないかと、そう感じました。

[パフューマー] どこであろうと、植物はかわいいものだからね――

[パフューマー] あら、変ね。この気候でこんなに木生シダが生えてるなんて。誰かがお世話してるのかしら……

[パラス] 正直に申しまして、先ほどのラナさんの言葉が未だに気になっているのですが……

[パラス] ラナさんも、鉱石病のせいで故郷を去られたのですか?

[パフューマー] この香りは存在感が薄いけど、空気のベースになってるわね。サンプルを採らなくちゃ……パラスさん、三号の培養チューブをお願い――あっ、ごめんなさい、話を遮ってしまって。

[パラス] 三号……こちらですか?

[パフューマー] いえ、その右のワンサイズ上の……そう、それ、ありがとう。

[パフューマー] うーん、故郷を去った理由ね……なかなか複雑なのよね。

[パフューマー] もうずいぶん経ってるから、当時の心情ははっきり覚えてはいないけど、残念なことや失望したことがどんどん積み重なって、「ここを離れなくちゃ」と思うようになったのは確かね。

[パラス] 仕方なく故郷を去った人は、誰しもやるせない思いを抱いているものです。この点で、私になら、よそには言えない悲しみや苦悩を打ち明けられるのではないかと。

[パフューマー] そんな大げさな、もう遠い昔の話よ。今は自分の居場所と生きがいも見つけられたことだし、未練はないわ。

[パラス] 親愛なる同郷の友よ。病身を引きずって故郷を離れる羽目になったとはいえ、私は今日に至っても、ミノスの山川草木が呼んでいると感じております。

[パラス] いずれ私もラナさんも、故郷に帰れる日が来ることを切に願って――

[パフューマー] あっ……すみません、私の不注意で……

[パラス] ラナさん――

[パフューマー] ……パラスさん。その話、そこまでにしてもらえないかしら?

[パラス] ラナさん?

[パフューマー] 悪いことをしたわけでもなく、不慮の事故に巻き込まれたというだけで、身分や存在価値を丸ごと剥奪されてしまう……見識の広いパラスさんなら、どういうことかお分かりよね?

[パフューマー] そういった目に遭った人にとっても、それらは憎む必要がなく、気にするまでもないことだと、あなたはお思いなのかしら。

[パラス] この大地が感染者にとりわけ残酷であることは否定できません。私もかつては運命の不公平を嘆いておりました。しかし、最後はやはり信念と希望が恨みに打ち勝ったのです。

[パラス] 恨んではいけないとラナさんに言う資格など、もちろん私にはありません。ですが、育ててくれた故郷や、傍にいてくれた家族と友人に対して――懐かしく思う気持ちは微塵もないのでしょうか?

[パフューマー] ごもっともだけど、私を故郷から追いやったのは鉱石病自体というより、まさにその傍にいてくれた人たち……価値を失った道具として見捨てた家族と、それを冷ややかに傍観していた友人たちよ。

[パフューマー] ミノスでは、今日も今日とてロマンある詩歌や英雄の冒険譚が語り継がれている。私やあなたといった、全ての感染者の身に起きていることは、そこにはない。所詮物語にそぐわない邪魔な一節ね。

[パフューマー] パラスさんにとって、夢と信仰の原点であるミノスが懐かしむべき場所というのは理解できるわ。でも私にとって、それは今では思い出したくもない名前でしかないの。

[パフューマー] ……ごめんなさい。取り乱してしまったわ。

[パラス] いいえ、謝るのは私の方です。嫌なことを思い出させてしまい、誠に申し訳なく思います。

[パフューマー] いいのよ。不愉快な記憶にとらわれるより、もっと大事なことが目の前にあるしね。

[パラス] おっしゃる通りです。過去の悲しみを薄めるためにも、今すべき任務に専念しなければ……

[パフューマー] ……デリスの木?

[パラス] あの絶滅したという? ラナさんにとっては、何か特別な意義があるのですか?

[パフューマー] どうして、デリスの木がここに……?

雑草が生い茂る山の斜面に、一本の古木がポツンと立っている。

幹はまっすぐに伸びているが、太くはない。長年雨風にさらされたであろう樹皮はゴツゴツとして荒い。数えるほどしかない葉が枝にぶら下がり、樹冠はボロボロになった傘の骨のようだった。

[パラス] デリスの木。ミノス原産の植物で、ミノスでしか見られません。比類ない硬さで知られ、詩や劇にもしばしば強靭さの代名詞として登場しています。

[パラス] サルゴンに侵入された時代、私たちの信仰を打ち壊そうとした侵略者は、ミノスの文化を大いに破壊し、デリスの木もその戦争の犠牲となりました。

[パラス] 我らが勇敢なる戦士たちが侵略者を撃退した後、ミノスでこの木を見たという者は一人もいません。

[パラス] 古い書物に記録されていなければ、伝説上の植物と思われていたことでしょう。ラナさんは、どうしてこれがデリスの木と確信できるのです?

[パフューマー] パラスさん……武器を拝借しても?

[パラス] 「いかなる武器も傷つけることができぬ」……書にはそう記されていましたが、この木の枝は簡単に切れましたね。

[パラス] それに、書に書かれたデリスの木は、このようなやせ細った姿ではないはず……

[パフューマー] 同じ品種であっても、育つ環境によってその性質に大きな違いが生じるわ。だけど、容貌が全然違っていても、リーベリがサヴラに間違われることはないでしょう?

[パフューマー] 植物も同じよ。この葉っぱのギザギザ、縁の赤い紋様、そしてとても短い葉柄。古文書に記載されたものと完全に一致しているわ。

[パフューマー] 違う環境で育ったからか、木質は脆くなってるけど、断面に見えるきめ細かい模様や、樹皮ににじみ出る油性の樹脂は昔の記述の通り……ええ、間違いないわ。

[パフューマー] そしてなにより、この木は、ミノスの匂いがするの。

風が吹き渡り、枯れた草木を揺らした。

脆弱な古木が風の中でかすかに揺れ動き、あたかも遠くから来た同郷人に挨拶をしているかのようだ。

[パラス] デリスの木はとうの昔に絶滅したと聞きますが、この木の樹齢はせいぜい数十年とお見受けします。それが一体どうやって、この異国の地にやってきたというのでしょう?

[パフューマー] 羽獣が果実を運んできたかもしれないし、種が風に乗ってここにたどり着いた可能性もあるわ。自然は時に意外なところで命に生き残る道を与える……無慈悲に命を奪う時の方が多いけどね。

[パフューマー] パラスさん……私、この木を救いたいと思うの。

[パラス] それは……しかし今は実を収穫できる時期ではないですし、この木を移植することも不可能です。こんな状況では……

[パフューマー] 考えがあるわ……そういうことをするのは不本意だけど、今は選んでる場合でもないからね。

[パフューマー] ところでパラスさん、ミノスにいた頃、お芝居をされたことはあるかしら?

[派手に着飾った男] はぁ、はぁ……なんて歩きにくい道だ。インフラ担当の役人どもは仕事もできないのか……ラナさん、こんな所に呼び出して、いったい何の用事なんです?

[パフューマー] ご無沙汰しておりますわ、ウィリアムさん。感染者がおいそれと街に顔を出すわけにもいかないもので、わざわざご足労いただいて悪いわね。

[ウィリアム] 世の中には偏見で目が曇った愚か者が多くて実に残念――いや、お父様を非難するつもりはありませんぞ。つい先日、ご挨拶に伺ったところです。お元気そうでしたよ。

[ウィリアム] 私は一番の理解者として、ラナさんの値打ち――いや、香水業界におけるラナさんの価値をよく心得ていますよ。鉱石病などで否定されていいはずもありません。

[ウィリアム] ラナさんの指導の下、我が社の香水は発売してすぐヴィクトリアの各市場を独走し、年間売上は三百万ポンドを叩き出しました! まさに芸術品と言えましょう!

[パフューマー] (まったく、私のレシピを盗んでおいて、いけしゃあしゃあと。私が家を出てなかったら、そんな度胸もなかったでしょうに。)

[パフューマー] (それに、たったの三百万しか売れなかったの?)

[パフューマー] ゴホンッ、ご紹介するわね。こちらはウィリアムさん、私の……友人よ。ヴィクトリアでとても有名な香水アーティストなの。

[パフューマー] こちらは私の同郷のパラスさん、ウィリアムさんの同業者でもあるわね。

[パラス] 初めまして、ウィリアムさん。お噂はミノスでもかねがね伺っております。こうしてお会いしてみますと、やはり、やはり……とても香水アーティストらしい方ですのね!

[ウィリアム] こちらこそお会いできて光栄です。ラナさん、同業者を紹介してくださったということは、ビジネスのお話ですね?

[パフューマー] 確かにそれもあるけれど、実は一つお願いがあって。長年の友人に是非ともお力添えいただきたく。

[ウィリアム] 力添え? それは……

[パラス] こちらを――この香水は私の拙作です。自慢ではありませんが、ミノスでは知らない人がいないほど大人気の商品でして。これを中心に香水ブランドを立ち上げようとも考えております。

[パラス] ウィリアムさん、香りの生産と販売を生業とする者として、私たちの目的は決して金銭だけでなく、大地の隅々まで香りと幸福を届けることでもありますよね?

[ウィリアム] ハハ……まさにその通りですな。つまり――あなたは何をおっしゃりたいので?

[パフューマー] ゴホン。パラスさん、ウィリアムさんは私の友人なんだから、遠慮なく言っていいのよ。

[パフューマー] (前置きはいいから早く肝心なことを!)

[パラス] ええ、もちろん、友人とは真摯に向き合うべきです。

[パラス] ウィリアムさん、私は自分の作品をヴィクトリアで販売しようと考えておりますが、他の原料ならまだしも、一番重要な原料の木がミノスでしか見られない品種なんです。

[パラス] しかし、これが天意というものでしょうか、なんとこの都市でその木を発見いたしました。こちらをご覧ください。

[ウィリアム] この葉っぱが主な原料ですと?

[ウィリアム] 確かに独特な香りがしますね。香水に使えば、全体としてクラシカルで落ち着いた雰囲気を醸し出せそうです。市販されているほとんどのウッディ系の香水とも差別化できますな。

[パラス] これはミノスヒノキです。自生が確認されたということは、この都市の気候に適応していると考えられます。

[パラス] そこで、この都市で大量植林を推進するため、土地の購入を考えているのですが、異国の商人である私が手続きを進めるとなると不便が多いのです。この件に関してぜひご協力をいただけたらと。

[ウィリアム] それは私の力でもかなり難しいと思うのですが……

[パラス] ウィリアムさん。ビジネスですから、単刀直入に申しましょう。このブランドにシェアを奪われる心配はありません。ご協力いただく代わりに、利益の一部を差し上げます。

[パラス] そうですね。発売の初年度の独占販売をお任せする、というのでいかがでしょう?

[ウィリアム] ハハハ……他人行儀ですな。ラナさんとは長年の友人だ。メリットがなくても力を貸すべきです。

[ウィリアム] ただ気になるのですが、ラナさんも、この香水には一つのブランドを支える可能性があるとお考えですかな?

[パフューマー] マーケティングに関してはウィリアムさんの方がプロだもの、私からは何とも言えないわ。あくまで調香師としての、香水そのものに対する評価なんだけど――

[パフューマー] 近年、ウッディ系の香水は人気が高く、「エキゾチック」も話題になりやすいキーワードだわ。この香水自体も完成度が高いし、これらを踏まえて、あとはご自身で判断されるのが良いかと。

[ウィリアム] うむ、なるほど。ちなみに、その木は具体的にどこで見つかったのですかな?

[パラス] 実はちょうどこの先の丘にありました。ここから――

[パフューマー] ちょっと、パラスさん……いくらビジネスパートナーになる相手だからって、現段階で言っていいことと悪いことというのがあるのではなくて?

[ウィリアム] ハ、ハハッ、そうでしたね。少し考えさせてください……

[パフューマー] (とか言いながら、しれっとサンプルと葉っぱをポケットに入れたわね。)

[ウィリアム] ふむ、土地の件は簡単といえば簡単ですが、面倒な事も多々あるもので、すぐにはできません。準備ができ次第ご連絡しますので、それまで数日待っていただけたらと。

[ウィリアム] 私が連絡するまで、くれぐれも勝手な行動は控えてくださいね。それでは失礼いたします……

[パラス] うむ、やはり演劇は得意とは言えません……さっきのセリフ、何か言い間違えたりは?

[パフューマー] あってるセリフが一つもなかったわ。

[パラス] うぅ……

[パフューマー] 冗談よ。多少台本と違うところもあったけど、利益に目が眩んだ人はよそに関心がいかないものだから大丈夫でしょう。

[パフューマー] パラスさん、上出来よ。これで私たちの目的はもう達成されたも同然ね。

[パラス] ビジネスにおける駆け引きは、戦場での策略よりも捉えがたいものですね……さて、次はどうしますか?

[パフューマー] そうね、ひとまず今の助言に従うとして、戻ってのんびり返事を待ちましょうか。

[ラナ] やっと見つけたわ。

[ラナ] ヘリアンサス、通常水辺に生息する、中でも八重咲きのものは特殊な亜種とされてきたけど、違う種と見なした方が適切だわ。

[ラナ] 見た目も生息環境も似ているけど、幼い苗の段階では形がまったく違う。よく嗅いでみれば、香りにも大きな違いがあるわ。

[ラナ] 自分だけの名前を付けてあげようか。そうね……サンセットゴールドというのはどうかしら?

[ラナ] 「カタハキリの葉には傷口を治す効果がある」、本にはそう書かれているけれど、実際はそうでもないのよね。

[ラナ] 葉っぱが含む酸性の液体には殺菌作用があるのは確かだけど、それは土壌の性質にも依るし、一概に薬用植物としてしまうのはあまりにも軽率だわ。

[ラナ] この本には間違いがまだまだありそうね。全部見つけ出して訂正するだけで新しい本ができそう。そんな時間があれば、自分で本を書いた方が早いわ。

[ラナ] 時間があれば……

[ラナ] 荒野に生えるベニススキと、お花屋さんでよく見かけるセキゲツランが、元は同じ植物だと知ったら誰でもびっくりするだろうね。

[ラナ] 乾燥した環境に適応するために、ベニススキの葉はこんな細く小さい形になったけど、どちらも種の形状は昔のまま。

[ラナ] つまりこの荒野も、数百年前は全く違った景色をしていたかもしれないということね。もしこの発見が――

[ラナ] ゴホッ! ゴホゴホ……

[ラナ] ……最近、だいぶ体力が落ちたわね。

[ラナ] 頑張ってラナ、まだ諦める時じゃないわ! ベニススキだってこうして健気に生きているのよ、あなたもきっと……

もし私も、一本の名もなきススキだったら……

ここで根を下ろし、自由に生きていけるのかしら?

三日後

[パラス] たしかこの辺りですね。

[パフューマー] あそこを見て。

遠くから見ると、あの古木が数日前と同じように山の斜面に弱々しく立っていたが、たくさんの武装した人が厳重に守っていた。

付近の広い空き地もフェンスで囲まれ、その手前に目立つ看板が立ててある。

[パラス] 「私有地につき、関係者以外立ち入り禁止」?

[パフューマー] 得るものがなければ早起きなどしないとはいうけれど、ウィリアムさんの行動力は私の想像をはるかに超えるものね。うん、そこは褒めるに値するわ。

[パラス] たった一枚の葉を頼りに、広い森で一本の木を探し出すとは、その奮闘努力は確かに称賛に値します。

[パフューマー] あれだけいい条件を出されても満足せず、この香水を独り占めにしようと企んでいるようね。残念ながら、その野望は叶わないわ。

[パフューマー] 実はあのサンプルにはデリスは使ってないの。何種類かの植物を組み合わせて似たような香りを作ってみたけど、彼の鼻はまんまと騙されたようね。その線で研究を続けても、行き詰るだけよ。

[パラス] ということは、最初からこうなるとわかっていたんですか?

[パフューマー] 子供の頃から家でたくさん見聞きしてきたからね。ああいう話術といわゆる「ビジネス脳」のことは、嫌でもよく知っているわ。

[パフューマー] とにかく、これでもう心配はいらないはずよ。何事もなければ、この丘は来年の春にはデリスの苗木で覆われるでしょう。

[パフューマー] 彼をすこ~し騙したのは、レシピを盗んだ罰ということにしてもいいけど、やはりなんだか申し訳ない気もするわね……

[パフューマー] 暇があったら、デリスの木を原料としたレシピをちゃんと作って彼に送るのもいいでしょう。

[パラス] ラナさん、一つ疑問があります。

[パラス] ミノスに関する記憶が本当に失望と恨みしかないというのなら、なぜあなたは一本の木の運命を気にかけるのですか?

[パフューマー] そうね……草木は何も語らず、ただこの大地に深く根付き生きているけれど、自分を育んだ土壌を完全に離れても、なお生きていける植物は果たしているのかしら。

[パフューマー] それと、パラスさんは誤解しているようね。

[パフューマー] 確かに私は故郷にいろいろ嫌な思い出があって、今でも過去を受け入れられずにいるのだけど、その土地を恨んでいるとは言っていないはずよ?

[パフューマー] 私の夢は今でも変わらないわ――それは、この土地のために、美しいものを残してあげること。遠い未来でも、私の仕事で生まれた香りに癒やされる人がいるといいな、なんてね。

[パラス] ラナさん、ロドスへ帰還する時刻となりました。

[パフューマー] ええ、持ち帰るサンプルはもうまとまってるわ。またパラスさんの手を煩わせることになるんだけど、ロドスまで一緒にお願いできるかしら?

[パラス] もちろん、喜んで。部屋の前のあの小包みですか?

[パフューマー] ホテルの一階に積んである、あの大きい箱の方よ。

[パラス] うっ……よろしい、ミノスの祭司としては、民に尽くすのも責務の内です……

[パフューマー] 思えばあなただって、多くの苦難を乗り越えて、知らない地に流れついたのよね……以前とは別の名前を名乗り、違う身分を手に入れて、異なる価値を生み出して……

[パフューマー] 故郷の風雪は厳しいけれど、慣れ親しんだ暖かな日差しと恵みの雨もなしに、安心して根を下ろすことなどできるだろうか。

[パフューマー] ミノスに育まれたものは、いつかミノスを作り変えてゆく……

[パフューマー] しばしのお別れね。

[パフューマー] いつかは、きっと、一緒に故郷へ帰りましょう。

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