大楽源太郎

ページ名:大楽源太郎

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更新日:2026/03/08 Sun 18:08:23NEW!
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幕末 長州藩 山口県 指導者 日本史 明治時代 江戸時代 志士 二卿事件 取り残された人 攘夷派



大楽源太郎だいらくげんたろうとは、長州藩士の一人。
諱は奥年おくとし、字は弘毅。



画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A5%BD%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E ウィキペディア日本語版「大楽源太郎」のページから。


【生没年】天保3年(1832年)または天保5年(1834年)~明治4年3月16日(1871年5月5日)
【出身地】周防国(山口県)



生涯


長州藩の重臣で寄組士の児玉若狭の家臣であった山県信七郎の子として萩城下で誕生した。
幼くして児玉氏の給領地がある吉敷郡台道村(現・山口県防府市台道)に移住。
天保14年(1843年)、12歳になると、主命を受けて同じく児玉若狭の家臣であった大楽助兵衛だいらくすけべえの養嗣子となる。この頃から、「大楽源太郎」を名乗る。



幼児期は吉松淳蔵の塾に通って学び、青年期に右田の太田稲香おおたとうこうの学文堂に入学。次いで妙円寺の住職・月性げっしょう*1の時習館に、豊後日田の広瀬淡窓ひろせたんそう咸宜園かんぎえんにて学び、勤皇思想を身に付ける。



安政4年(1857年)に時習館時代の師・月性とともに上京し、以後京都において梁川星巌やながわせいがん梅田雲浜うめだうんぴん頼三樹三郎らいみきさぶろう西郷吉之助らと交流を深める。
安政5年(1858年)には江戸に桜任蔵さくらじんぞう*2を訪ねる。そうして再び京都に戻ってくるが、この頃には大老・井伊直弼により安政の大獄が行われており、頼や梅田が囚われの身となっていた*3
頼や梅田に教えを乞うていたことで、大楽にも処罰の対象となりかねないという危険性が生じていたため、藩命により長州藩への帰還と蟄居を余儀なくされることとなった。
その後は藩命に背いて脱藩し、水戸に赴き、師の仇を撃つために関鉄之助ら水戸藩士とともに井伊の襲撃を計画するが、これが藩の知るところとなり、再び禁固に処せられる。


禁固刑に服す中、関らが桜田門にて井伊を討ったという知らせを聞き、「大剣声あり老姦を誅する云々」の詩を作成し、この詩は当時の「憂国の志士」に広く愛唱されることとなった。
赦免の後の文久元(1861)年、「松下村塾」の門下生であった久坂玄瑞くさかげんずい高杉晋作たかすぎしんさくと友誼を結び、協力して積極的に尊王攘夷運動を推進する。
同3年(1863年)には藩の命を受けて京に藩の大学寮の建設に携わるも、「八月十八日の政変」によりそれが中止となり、長州藩士が京から一掃されることとなる。



元治元年(1864年)5月、大和国丹波市(現・奈良県天理市)において数名の同志とともに画家*4冷泉為恭れいぜいためちかの首を刎ねて殺害する。
為恭は本来、尊王攘夷派から「王朝擁護派」と見られていたものの、親交のあった佐幕派、例えば「安政の大獄」で暗躍した井伊直弼の懐刀・長野主膳ながのしゅぜんなどの要人の邸宅に頻繁に出入りするなどの行動が
「佐幕派に尊王攘夷派の情報を漏らしているのではないか?」
と尊王攘夷派からスパイとしての疑惑をかけられることとなり、ついには命まで狙われていた。
身の危険を感じていた為恭は剃髪して「心蓮光阿しんれんこうあ」と名を変えて僧体となり、紀伊国の粉河寺から大和国丹波の内山永久寺と場所を変えて潜伏し、自分の偽の墓まで作って逃亡生活を続けていたが、執念深い尊王攘夷派の追跡によりとうとう捕縛されて首を切られ、遺体のうち首から下の身体はそのまま現場に放置され、その首は大坂に晒されることとなった。


同年に起こった禁門の変において、源太郎は書記として参陣するが、長州藩の敗戦を受けて郷里の周防に戻る。その翌年には高杉晋作ら奇兵隊の功山寺挙兵に呼応して、宮市に忠憤隊を組織した。
この忠憤隊は藩命により報国隊と合併する。そうして、藩内において当時「俗論党」と呼ばれた佐幕・保守派を一掃すると、しばらくの間、遊説の旅に出る。米沢藩など東北諸藩を遊説するが、効果はなかった。



やがて、遊説の旅から戻った源太郎は、慶応2年(1866年)に台道村に私塾・敬神堂けいしんどう(西山書屋にしやましょおく)を開設、明治2年(1869年)までに100人ほどの門人を育てた。
禁門の変での久坂の死をきっかけに、攘夷思想の行き詰まりを感じていた源太郎は攘夷の志を持つ若者を多く育てることで国を変えようと考えたためである。
この敬神塾に学んだ有名人として、のちに第18代内閣総理大臣となる若き日の寺内正毅てらうちまさたけがいる。
この年には四境戦争(第二次長州征伐)が、そうして慶応3年(1867年)の大政奉還をへて慶応4年(1868年)には戊辰戦争が勃発しているが、源太郎はいずれにも関わることなく、一介の教師として青少年の育成に熱中するかたわら、家庭人としても穏やかな日々を送っていた。
慶応2年5月には妻・河合りちとのあいだに「いく」と「たる」の双子の娘を設けている。そうして、明治2年(1869年)2月には三女の「ます」が誕生している。



しかし、この明治2年9月3日を境に、源太郎の穏やかな生活は一変する。
京都三条木屋町上ルの旅館にて、大村益次郎が旧主派の襲撃を受けたのである*5
大村を襲撃した犯人は長州出身の神代直人こうじろなおと団紳二郎だんしんじろうたちで、いずれも敬神堂にて源太郎に師事していた者たちであった。
これにより、源太郎は大村襲撃の首謀者の嫌疑を受け、幽閉を命ぜられる。


更にこの翌年、長州藩改め山口藩の藩政改革に不満を持った奇兵隊ほか諸隊が「脱隊騒動」を起こし、木戸孝允によって武力で鎮圧された。

明治元年(1868) 10月28日。大名家を藩という呼び名で統一し、各大名家でまちまちな職制を「藩主」「執政」「参政」「公議人」などの職制に統一し、収入の使い方や兵隊の上限などを定める藩治職制はんちしょくせいが太政官から布達された。
これに基づき、山口藩は、戊辰戦争から凱旋した奇兵隊や遊撃隊を「軍隊の精錬」という名でリストラする。それも、旧武士階級を温存して天皇を警護する「御親兵」に再編し、構成員であったはずの旧農民や町人を除隊し、幹部連中の不正な使い込みを内部告発した人間を「除隊者」とみなすというものであった。この処置に、旧隊員の旧農民や町人が黙っているはずもなく、「幹部たちが隊の公金を使って遊んでも処罰されないのに、下っ端でも国のために命がけで戦った俺たちを『藩政改革』のもとに解雇して路頭に迷わせようとするとはどういう了見だ!許せん!」と怒りをたぎらせていき、それが「脱退騒動」となって爆発したのである。


この騒動にも敬神堂出身者が多数参加していたため、源太郎は再び首謀者の嫌疑を受け藩庁から出頭を命ぜられる。
源太郎はついに脱藩し、豊後姫島に潜伏した後、豊後鶴崎に赴き、その地で警備隊長となっていたかつての同志の河上彦斎と語らい、
「再起を図りたいのです。太政官転覆のために、あなたのところの兵と武器をぜひ貸していただきたい。」
と依頼する。しかし彦斎は、
「大楽さん。あなたのお考えは痛いほどによくわかります。私とて、今の太政官には不満が募っている。ですが、私の兵や武器は知藩事から預かっているものですから、申し訳ありませんが、お貸しすることはできません」
とこれを断っている。


明治4年(1871年)、彦斎からの協力を得ることに失敗した源太郎は、太政官に不満を持つ攘夷派の公卿である愛宕通旭おたぎみちてる外山光輔とやまみつすけ、久留米藩や秋田藩など各地の攘夷派と連絡を取り合い、同時多発的な武装蜂起、いわゆる「二卿事件」と呼ばれるクーデターを企てる。
彼らは、京にて謹慎中であったとはいえ有力な皇族であった賀陽宮朝彦親王かやのみやあさひこしんのう*6を取り込もうともしていた。
ところが、ちょうどこの頃発生した参議・広沢真臣ひろさわさねおみが暗殺される事件*7の捜査中であった太政官側に情報が漏れており、山縣有朋やまがたありともが中心となって摘発に乗り出したため、この計画は失敗。
計画の首謀者であった愛宕と外山を含めた339名が逮捕され、源太郎はそのまま逃亡した。
源太郎を除く「二卿事件」の関係者がどのような処罰を下されたかについては、河上彦斎のページに詳細を譲ることとする。


そうして、ついには久留米の尊王派の集まりである応変隊のもとに身を寄せた。明治政府の「開国和親」に不満を持っていた応変隊幹部・小河真文おごうまふみは積極的に源太郎を保護した。
源太郎は前述の「二卿事件」ともかかわりを持っていたので、久留米藩の応変隊や七生隊は反政府運動を展開する中で同志として源太郎を歓迎し、政府転覆運動を起こそうとした。


しかし、この政府転覆運動もまた、長くは続かなかった。
計画は密かに進められていたはずであったが、やがてその動きは政府側の知るところとなる。
明治4年(1871年)3月10日、東京にあった久留米藩邸は突如として政府に接収され、知藩事・有馬頼咸ありまよりしげは弾正台の取り調べを受けることとなった。さらに政府は、巡察使・四条隆謌しじょうたかうた少将を総督とする軍勢を久留米へ派遣し、藩内の徹底的な糾明に乗り出す。いわゆる「二卿事件」と連動する動きとして、久留米藩内の尊王派勢力も厳しく監視されることとなった。
源太郎は、有馬と面会した事実があり、その事実は源太郎の知らないところで、藩における有馬の立場を極めて危ういものにしてしまっていた。
もし源太郎の関与が公になれば、久留米藩そのものが「反太政官の首謀者」として断罪されかねない。
応変隊の存在を黙過した有馬に恩のある隊士たちは、有馬にまで被害が及ぶのを恐れ、源太郎の首を太政官に差し出そうと考えたのだ。
同年3月16日夜、久留米藩士・島田荘太郎しまだそうたろう川島澄之助かわしますみのすけらの手によって、源太郎は筑後川河畔へと連れ出される。そして、そのまま殺害された。
源太郎は38歳あるいは40歳で、自らを師と仰ぐ者たちの手によって殺され、その生涯を閉じたのである。





余談

旧幕臣で、晩年はかつて自身が逡巡した人物や政府の政策について歯に衣着せぬ批評を行っていた[[勝海舟>勝海舟]]は、源太郎について
「大楽源太郎は善さそうな男だったよ。あまり度々会った事はなかったが、話せる奴らしかった。長州人には珍しい男さ」
と評したという。
勝は長州藩士を「理屈より先に事を起こす気風が強い」と見ることもあったが、その中で源太郎については対話可能な人物と認識していたことがうかがえる。
尊攘派の急進的行動に関与した一方で、人物そのものは柔軟さや温和さを備えていた可能性も否定できない。
久坂玄瑞・高杉晋作らと交友を持ち、明治まで生き延びながらも維新後の主流派には加わらず、結果として「二卿事件」に連座する形で生涯を終えたことから、維新の勝者ではなく「取り残された志士」の一人として語られることが多い。




大楽源太郎が登場する作品

残念ながらほとんどない。
強いて例を挙げるとすれば漫画家・黒鉄ヒロシ氏による漫画作品『幕末暗殺』において、源太郎の生涯が二部構成で紹介されているのみである。
この『幕末暗殺』では、他にも岡田以蔵田中新兵衛中村半次郎河上彦斎を主題として扱い、それぞれの生涯を二部構成で描写している。
それ以外にも、桜田門外の変や外国人襲撃並びに暗殺事件、坂本龍馬中岡慎太郎暗殺事件(近江屋事件)などの幕末~明治初期にかけて発生した暗殺事件をほとんど余すところなく描写している。








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*1 「人間至る処青山有り」の名言で有名な僧侶
*2 水戸藩士で、藤田東湖に教えを請うた経歴があり、ゴリゴリの尊王攘夷派である。安政の大獄のさなか、大坂に逃亡し、そこで病没
*3 星巌は逮捕前にコレラで死亡、頼は斬首刑に処され、梅田は牢内で病死
*4 最高級の絵の具を惜しげも無く用いた濃彩画を得意としたが、障壁画や白描画、仏画にも当時としては傑作といわれるほどの名画を残している
*5 傷自体は負傷した足を切断すれば命は助かるほどだったのだが、治療のために必要な勅許が降りるのに時間がかかったため、その間に手の施しようがないまでに傷が悪化し、破傷風を起こして2か月後に死亡する
*6 おおむね幕府に近い立場で、公武合体を唱えていた。八月十八日の政変で今日から長州藩出身者や過激な尊王攘夷派の公卿を京から追放した。王政復古の際には岩倉具視や三条実美ら全ての討幕派・尊攘派公卿が復権するが、それに伴って「徳川慶喜に密書を送って陰謀を企てた」として親王位を剥奪され、広島藩預かりとなり、明治3年(1870年)まで安芸国に幽閉。「二卿事件」の翌年に、ようやく皇族として太政官に復帰
*7 長州出身の大物が暗殺された事件。明治2年(1869年)の横井小楠暗殺事件、同年の大村益次郎暗殺事件と相次ぐ太政官要人の暗殺に、明治天皇は「賊ヲ必獲ニ期セヨ」と犯人逮捕を督促する異例の詔勅が出た。13ヶ所の切り傷と咽喉の3ヶ所の突き傷が広沢の遺体にはつけられていたのに対し、同衾していたはずの広沢の妾の傷が浅いなどの不自然な点がみられたことから、彼女や家令(使用人)を含む80数名が暗殺の容疑者としていったん逮捕されて取り調べられたものの、下手人の特定にさえ至らず、結果として80数名全員に無罪判決が降りた。結局この暗殺事件は迷宮入りとなり、真相は今日に至るまで不明である。太政官の政策を快く思わない不平士族に狙われた説、あるいは旧幕府軍側の生活支援をしようとしたことが「旧幕府側の人物を集めて反乱を起こそうとしている」と太政官ににらまれて処刑された雲井龍雄のかつての同志たちなどのような旧幕府側の残党によるものとする説が一般的である。

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