黄粱夢(小説)

ページ名:黄粱夢_小説_

登録日:2022/06/01 Wed 00:26:44
更新日:2024/06/18 Tue 13:55:05NEW!
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「黄粱夢」は芥川龍之介の短編小説…というか掌編小説(ショートショート)である。
中国・唐代の沈既済作の伝奇小説「枕中記」のラスト部分を原典と異なる解釈によってリメイクした700字ほどのとても短い作品になっている。
ちなみに「黄粱」とは「粟」の事を指す。





【そもそも「枕中記」ってどんな話?】


物語は上記の通り、「枕中記」をベースにしているため、その設定を知らないと唐突に感じる部分が所々にあるため、本作の冒頭に至るまでの「枕中記」のストーリーを簡潔に述べる。



舞台は開元7年*1の唐代の中国。


神仙術の体得者である道士、呂翁が邯鄲への道中にある宿屋で休んでいると、そこで粗末な服をまとい、黒い馬に乗って田畑へと向かおうとする盧生と言う若者と出会う。


彼もまた宿屋へ立ち寄り、呂翁と同じ席に座ってしばらくの間、談笑するのだった。
しかし盧生はふと我に返ったように自らのみすぼらしさを恥じ、「男であるのに成功を手にできない」事を嘆き始めた。
曰く、かつては学問を志し学芸に秀で、高位高官を手にすることも可能だと考えていたが、30歳になった今でも田畑の仕事に勤しむ生活をしている。


呂翁は「無病息災で談笑をするような精神的余裕のある今の状態も十分幸せなはずだ」と説くも、盧生は「成功して地位を高く持ち、財を蓄え、娯楽を心行くまで味わい、子孫繁栄によって家が発展するという幸福に次ぐ幸福に満ちた人生を生きられる状況こそ真の幸せ」だと返す。


そこまで言ったところで、眠くなってきた盧生はその場に横たわった。
すると呂翁が彼に「これを使うと望む限りの成功を味わえる」と、青磁の枕を差し出した。


彼の厚意に甘える形で枕を使って眠りにつく盧生。
その時、宿屋の主人が黍を蒸そうとし始めたのだった……。





……と、ここまで話が展開されたところで「黄粱夢」冒頭へと繋がっていく事になる。





【あらすじ】(未読の方はネタバレ注意!)




盧生は自らに死が訪れることを悟った。
子や孫の泣く声が遠くなり、視界も暗くなって体が沈む感覚があった。





そうかと思うと何かに驚かされる感覚と共に彼ははっと目を開いた。全ては夢だったのだ。



枕元には呂翁がいる。
青磁の枕から頭をあげる盧生。眠りにつく頃から主人の炊き始めた黍はまだ熟していない。
眠りから覚めた彼に呂翁が「夢を見ましたろう。」と問う。


果たしてその通り。彼はそのほんの短い間に夢の中で「一生」ともいえる長い時間を過ごしていた。



まず彼は清河の崔氏の娘と結ばれ、美しく慎ましやかな彼女と共に過ごしはじめた。


それからある年に進士(科挙)に合格して渭南の県尉(刑事・軍事行政の担当者)になり、そこから監察御史(官吏の監察官)、起居舎人知制誥(君主の命令を起草する官職)、中書門下平章事(宰相)と、とんとん拍子に出世を重ねていったが、讒言が原因で命の危険にさらされる。


なんとか極刑だけは免れたが驩州へと流されることになり、そこでかれこれ56年もの間過ごすことになる。後に自らの無実が証明されたことで、再び召還。中書令(皇帝の詔勅の起草を行う役職)となった後に燕国公に奉ぜられたが、その頃には既にかなりの年齢を重ねており、子が5人、孫は数十人と言う子孫繁栄のお手本の様な繁栄を体験。


そして80過ぎとなった頃に死に、そこで夢から覚めたのだった。



寵辱(幸福と不幸)の道と窮達(貧困と富裕)の運、その全てを一通りに味わった盧生に対して呂翁は「生きる事は今見た夢と何ら変わらない」と説く。


得喪の理も死生の情も、実際に味わってみれば大したものではない。
これであなたの人生に対する執着も覚めるだろう。と……。




ところが盧生の反応は違った。
彼はこう語る。



夢だからこそ生きたいのです。


あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。


その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。


あなたはそう思いませんか。



現実の儚さと真っ向から対立するかのような若さのある答えを持って逆に問い返してきた盧生に対して、呂翁は呆れたのか、それとも別の何かの気持ちになったのか、顔をしかめて肯定も否定もせずに黙りこむのだった。





【解説】



……と、ここまでが芥川龍之介の「黄粱夢」なのだが、原典である「枕中記」では、(多少設定に違いは見られるが)呂翁が人生の儚さを説く所までは同じなのだが、盧生は彼の言葉を受け、「寵辱の道・窮達の運・得喪の理・死生の情の全てを知る事が出来た」と喜び、自らの人生への執着を抑えることが出来たと彼に感謝の言葉を告げて宿屋から去る所で物語は幕を閉じる。



本作の物語を元にして作られた人生における栄枯盛衰の儚さを表す故事成語として「邯鄲の夢」と言う言葉が出来ることからも何となく分かる様に、人生の儚さを知る為の寓話的な側面が強いのだが、本作ではその寓話性を否定し、よく言えば情熱的な、悪く言えば青臭い、若さゆえの「生きたい」と言う思いを真っ向から呂翁にぶつけている。



「人生における幸福や不幸のめぐりあわせは儚い物」である事を悟り、あるがままを受け入れて生きるという呂翁の考えは「足る事」を知り、達観していて、安定して穏やかな生き方ではあるが、見方を変えれば向上心や野心を否定的に見ているという事でもあり、多少の誤解を恐れずに言えば、現状より上に人生が遷移していく事はあまり期待できない生き方ともいえる。



最後には儚く夢が覚める(=死ぬ)と分かっていてもそこに至るまでに精一杯生きたいと語る盧生の「生への実感」。
これはやはり呂翁の説く人生観ではなかなか得られないものであり、浮き沈みの激しい禍福の連鎖の中で確かな「希望」となる。
希望を持って前へ前へと進む事、それもまた人生と言える。



「枕中記」と「黄粱夢」、それぞれの作品で盧生は正反対の、人生への悟りを得る。


「夢だからこそ割り切る」生き方、「夢だからこそなお生きようとする」生き方。



方向性は正反対だが、禍福を見通せない人生を生きていく上ではどちらも決して間違ってはいない。
この項目を見ている人はどちらの生き方を好み、そして選ぶだろうか?



追記・修正は人生の儚さを受け止め、その上でどんな生き方を選ぶのか決めながらお願いいたします。


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  • ショートショート作品は要相談ですよ。 -- 名無しさん (2022-06-01 00:59:13)
  • ↑建主です。ショートショートが要相談に該当する事を失念しておりました。項目作成の件で適切な手順を踏まずに項目作成してしまたこと、そしてその件についての言及が遅れてしまい、申し訳ございません。削除について異論・反論はございません。勝手なお願いとは存じますが、差支えなければ項目相談用スレにて相談の上、再度項目を作成をしても問題ないかどうかをご教授頂けると幸いです。 -- 名無しさん (2022-06-02 22:36:50)
  • ↑一応要相談スレで相談してOKが出れば大丈夫だと思います -- 名無しさん (2022-06-03 16:39:34)
  • ↑2 作成スレに持ってきて事後承認すればOKでしょう。 -- 名無しさん (2022-06-03 23:15:48)
  • 建て主です。10日前に作成スレにて本件を提示し、反対意見等が特になかったため、項目名を元に戻しました。この度は不適切な作成手順で作成してしまい、大変申し訳ございませんでした。 -- 名無しさん (2022-06-14 01:02:12)

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*1 西暦換算で719年。

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