登録日:2012/09/07(金) 08:43:53
更新日:2023/11/07 Tue 13:51:27NEW!
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歴史 戦闘機 軍事 日本軍 一式双発高等練習機 練習機
第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の練習機。
キ番号はキ54。略称は一式双発高練、一式双高練、双発高練など。
連合軍からは「ヒッコリー」(クルミの意味)のコードネームで呼ばれた。
昭和14年、帝国陸軍は扱い易い機体だが実戦での性能は低かった九五式二型練習機の後継機の製作を立川飛行機に指示。
条件として全金属・双発・引込脚式を基本とし、
正副操縦者のほかに操縦訓練生・航法手訓練生・通信手訓練生・爆撃手訓練生・旋回機関銃手訓練生などの生徒とその教官・助教、計6~7名が乗り組むことを求められた。
立川はロ式輸送機を生産した経験を生かして開発に着手し、試作機は昭和15年には完成。
テストの結果も良好で若干の改修が成された後、昭和16年7月に正式採用された。
立川としては初の全金属製双発機だったが、エンジンの信頼性や機体の耐久性は高く、操縦席の視界も良好。
さらに多目的スペースも確保されているなどかなりの使い勝手の良さを持っていた。
事実、操縦や射撃練習機だけでなく輸送機や哨戒機としても運用されており、かなりの汎用性と信頼性を有していたことが解る。
機体の大半は訓練機として各軍学校や教育飛行隊の他、司令部飛行班や飛行実験部にも配備された。
また輸送機の丙型は挺進連隊の落下傘降下練習機として使われている。この他、一部の機体は満州国の要人輸送機となったほか民間でも使われていた。
昭和20年6月まで生産は行われ、総生産数は1,342機。戦後も残っていた機体が国共内戦や第一次インドシナ戦争で日本人志願兵の手によって運用されている。
総生産数や色々な型が製作されたことからその汎用性は折り紙付きであり、帝国陸軍の傑作機のひとつと言えるだろう。
また昭和18年には輸送機型の全木製機であるキ110型の製作が指示されたが、昭和20年7月の空襲で試作機と設計図共々灰になってしまった。
それでも製作は再開されたものの8月の終戦で立ち消えになった。
2010年8月に十和田湖に本機が沈んでいるとの報告があり、2012年9月5日に有志によって引き揚げられた。
昭和18年9月にエンジントラブルで墜落した北部第74部隊の機体と見られており、乗員4名のうち3人が死亡。
生き延びたのは少年兵1人のみであった(なおこの少年兵は近くの旅館の主に救助されたが、シベリア抑留で死亡してしまったらしい)。
事故の一部始終を目撃していた当時13歳の旅館主の息子の証言により双発高練と確認され、一度引き揚げに失敗したがこの度無事成功した。
墜落地点が淡水の深い所だったせいか機体の錆びは少なく、また垂直尾翼の飛行部隊マークも残っているなど当時の塗装もあるという。
是非とも大事に保存していただきたいものである。
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