「呉海軍工廠」を含むwiki一覧 - 2ページ

冠崎砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

ていません。しかし、この山荘も取り壊されてしまい現在建物の姿はありません。また、資料によっては『観音崎砲台』と記載されているものもあります。呉海軍工廠冠崎作業場跡冠崎砲台跡の真下にあります。空襲が激しくなってきた太平洋戦争末期に兵器生産を継続するために朝鮮人労働者を使って作られた

得蔵寺(駆逐艦楓戦没者慰霊碑) - 呉市周辺の遺構まとめ

ヵ月で就役した艦艇でした。就役時すでに戦争末期にさしかかっており、戦局の悪化する南方での戦闘に参加し大損害を受けて呉へ帰投しました。帰投後、呉海軍工廠で修理が完了すると大津島で人間魚雷『回天』の目標艦になる訓練に参加しました。その後は、人間魚雷『回天』搭載母艦となる改装がされまし

板城村聴音照射所跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

めB-29爆撃機エノラゲイ号に随伴した観測機からパラシュートを付けて4個投下されました。うち3つが日本軍によって回収され、原爆投下の4日後に呉海軍工廠電気部無線工場で分解され調査されました。 備考 ・しっかりした遊歩道が整備されており登山口から遺構まで約20分

小用港(戦艦榛名終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

の生き残りでした。太平洋戦争緒戦から活躍した古参艦で戦争末期の南方での激戦にも生き残り、昭和19年12月に呉に帰投しました。当初は修理のため呉海軍工廠付近に停泊していましたが、昭和20年3月の第一次呉軍港空襲を受けてここ小用港の北に移動し、昭和20年7月の第二次呉軍港空襲を受け大

音戸漁港のコンクリート船 - 呉市周辺の遺構まとめ

捨ての輸送船としても利用可能でした。このタイプの曳航式コンクリート製油槽船は昭和18年に5隻建造されました。その中の1隻が太平洋戦争終戦時に呉海軍工廠に係留されており、昭和28年に払い下げられ音戸漁港の防波堤として沈設されました。ただし、安浦町にある武智丸と比べてかなり小さく、防

秋月(空母龍鳳終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

秋月(空母龍鳳終焉の地)秋月は江田島中部にある集落。位置的に呉海軍工廠の対岸にあります。空母龍鳳は横須賀鎮守府所属の潜水母艦として太平洋戦争前の昭和9年に就役しました。建造時点での艦名は潜水母艦大鯨といい、ロンドン海軍軍縮条約の影響で空母として建造されず「有事の際は空母へ改装でき

大竹潜水学校跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

水艦の乗組員を育成する教育機関で、砲術学校や水雷学校等の技術学校を卒業し艦艇で勤務経験を積んだ士官が入校できる学校です。潜水学校は元々呉市の呉海軍工廠火工部のとなりにありましたが、太平洋戦争中の昭和17年11月ここ大竹市に移転されました。大竹市が選ばれた理由は、すでに大竹海兵団が

呉海軍航空隊飛行場跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

ったとされています。主な保有機は水上偵察機や零式艦上戦闘機等の艦載機でした。昭和20年5月に呉海軍航空隊は廃止となりますが、太平洋戦争末期の呉海軍工廠への空襲の際はここから迎撃機が発進したという記録も残っています。太平洋戦争終戦後の昭和20年9月26日、初めて呉市に進駐軍先遣隊が

三ツ子島(空母葛城空母天城終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

側で建物の基礎が残っているそうですが、島外からは確認できません。空母葛城は佐世保鎮守府所属の雲龍型航空母艦の3番艦として、昭和19年10月に呉海軍工廠で建造された「日本海軍最後の空母」です。しかし、就役したころにはすでに搭載する航空機や搭乗員は無く、さらに燃料も不足していため瀬戸

東郷平八郎邸跡と東郷坂 - 呉市周辺の遺構まとめ

でおり階級が違うため司令長官官舎へは一度も行ったことはありませんでした。東郷坂「ここを知っていたら呉通」という隠れ名所東郷平八郎が呉鎮守府や呉海軍工廠への通勤に使っていたとされる坂です。坂の街特有の狭い生活道路で、東郷平八郎はここを毎日馬で通っていました。 備考

亀ヶ首射撃実験場跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

付けており、他にも女猫の瀬戸などの地名が残っています。亀ヶ首射撃実験場跡亀ヶ首射撃実験場は艦艇に搭載する艦載砲の試験施設として、明治33年に呉海軍工廠砲熕実験部の一部として建設されました。亀ヶ首が実験場に選ばれた理由としては「倉橋島の東端で周辺を海に囲まれているため艦載砲の射撃試

大和神社 - 呉市周辺の遺構まとめ

るように表示されることがあるが入れない ・奈良県に同じ名前の大和神社(奈良県)があるがあちらは戦艦大和ゆかりの神社である ・近くに旧呉海軍工廠造機部造船部庁舎と歴史の見える丘と戦艦大和建造ドック跡と東郷坂がある 住所 広島県呉市宮原

二河川公園 - 呉市周辺の遺構まとめ

二河川公園二河川沿いの呉湾に面した陸地の先端にある公園園内の庭園は明治時代に呉海軍工廠造船部第二船渠を建設する際に掘り出した岩で作られています。また、呉湾を挟んで海上自衛隊呉地方総監部練習艦隊司令部が反対側にあるため、自衛隊の艦艇を真横から見ることができるめずらしいポイントです。

工僚神社 - 呉市周辺の遺構まとめ

0年から再開されたとの情報もあるが詳細不明 ・同じ第11海軍航空廠の殉職者の慰霊碑として広公園の第11海軍航空廠殉職者之碑がある ・呉海軍工廠にも工廠神社という同じような名前の神社がある ・近くに三木谷医院(旧広海軍共済組合病院)と第11海軍航空廠殉職者之碑がある

大麗女島 - 呉市周辺の遺構まとめ

。海軍鎮守府のある呉湾の入口に位置し、比較的大きい島であるという理由からの建設でした。太平洋戦争末期には、空襲を避けて兵器製造を継続するため呉海軍工廠造船部大麗女島工場となりました。ここでは特殊潜航艇『蛟龍』の生産されました。蛟龍は元々は『甲標的(こうひょうてき)』という敵の港湾

警固屋(巡洋艦青葉終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

知る人によると「着底地点は慰霊碑の場所より少し沖だった」という話もあるため、本当はこの辺りに巡洋艦青葉がいたのかもしれません。右に見えるのは呉海軍工廠製鋼部、左に見える白い島のは空母葛城と空母天城の終焉の地である三ツ子島と、戦艦伊勢の終焉の地である坪井です。 備考

入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎) - 呉市周辺の遺構まとめ

べて白ペンキで塗りつぶされており、日本人研究者が「なんと価値のわからないことをする」と嘆いたという話があります。旧海軍工廠塔時計大正10年に呉海軍工廠造機部の屋上に設置された時計塔昭和20年の二度にわたる呉軍港空襲にも生き残り終戦まで動いていました。昭和56年に有志の手によりこの

伊四〇〇型潜水艦 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

ってみろ、全世界が敵に回るわ」と至極当然のツッコミを食らい廃案となっている。伊四〇〇型姉妹○伊号第四〇〇潜水艦長女。1944年12月30日に呉海軍工廠にて竣工。ウルシー泊地攻撃に備え洋上待機中に作戦中止・停戦命令を受信。搭載機と魚雷投棄後に内地帰投途上の45年8月29日、アメリカ

呉憲兵隊跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

の裁判所である法務部軍法会議所は青山に、海軍の刑務所は二河公園の北と吉浦にありました。呉は軍港であるため、太平洋戦争中は呉線の車内・駅構内・呉海軍工廠が見える住宅地・見通しのよい高台等でスパイ活動を取り締まる憲兵の姿が市民によく目撃されました。余談ですが、大正7年に起きた米騒動で

秋月防空砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

す。飛追山は標高170mと防空砲台を築くには低くまた江田島でも最も陸地が細いところです。しかし、西の江田島湾には海軍兵学校があり東の呉湾には呉海軍工廠があるという戦略的には重要な場所です。秋月防空砲台は太平洋戦争中期の昭和17年8月に起工しましたが、土木工事や兵器配備が当初の予定

呉水交社跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

い廃止となりました。なお、士官より下の準士官には海友社が、それより下の下士官には下士官兵集会所と呼ばれる別の福利厚生施設がありました。また、呉海軍工廠の職人にも廠友館が、中堅・上級技術者には工廠俱楽部という福利厚生施設もありました。石垣と遺構呉水交社時代に作られたと思われる石垣と

大和神社(奈良県) - 呉市周辺の遺構まとめ

市にある神社日本最古の神社として日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)が祀られています。呉市から遠く離れた奈良県の田舎にありますが、呉海軍工廠で建造された戦艦大和は奈良県の旧国名である『大和国』が起源で、大和神社は戦艦大和の守護神とされており艦内神社に御分霊が祀られていま

津久茂(標的艦摂津終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

津久茂(標的艦摂津終焉の地)江田島湾の入口である津久茂の瀬戸の外側にあります。標的艦摂津は元々は河内型戦艦2番艦『戦艦摂津』として呉海軍工廠で建造され大正元年に就役しました。当初は弩級戦艦として就役しましたが、大正12年のワシントン海軍軍縮条約により戦艦としては退役となり武装を外

福屋八丁堀本店 - 呉市周辺の遺構まとめ

時としてはめずらしい鉄筋コンクリート4階建てで創業しました。6年後の昭和10年に東洋一の軍港といわれていた呉市に支店をオープンします。当時の呉海軍工廠の給料日には買い物をしようとする工員とその家族が大量に押し寄せてして大混乱になり、警察が出動する騒ぎになるほどの繁盛でした。広島市

神原湯跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

神原湯跡神原湯はかつて宮原町にあった銭湯呉市は太平洋戦争終戦まで人口40万人の大都市でしたが、水源が限られていたため毎年夏になると水不足で断水するなど水道事情がよくありませんでした。貴重な水道水を無駄なく使うため呉市には昔から多くの銭湯があり市民に利用されていました。この神原湯は

海に立つ柱@3-768 - 艦これTRPG部 Wiki

艦大和です」大和@3-778:「……え、まだ説明が必要ですか?私は大和です」提督@128:あ、はい大和@3-778:艦隊決戦の切り札として、呉海軍工廠で極秘建造されました。大和@3-778:色々あって呉の偉い人に「君はしばらく外の世界を見てこい」って言われました。提督@128:は

旧光海軍工廠 - 呉市周辺の遺構まとめ

である国道188号線も光海軍工廠の建設に伴い敷設されたものです。妹尾和之顕彰碑妹尾和之は広島県出身の海軍軍人海外駐在武官や海務院長官を歴任し呉海軍工廠長と光海軍工廠長を務めた人物です。太平洋戦争終戦後も光海軍工廠跡地に大企業を誘致するなど、最後まで光市の発展に尽力しました。光市の

長波_(駆逐艦) - なんでもある Wiki

て大破(ラバウル空襲)。駆逐艦水無月(トラック泊地まで)と軽巡洋艦長良(内地まで)に曳航されて日本に戻り、1944年(昭和19年)1月末から呉海軍工廠で修理をおこなった。第31駆逐隊所属艦は昭和18年7月から11月にかけて姉妹艦清波、巻波、大波が沈没し、長波1隻となる。1944年

二河川橋梁 - 呉市周辺の遺構まとめ

いなら橋梁の東側にある二河川東踏切からが綺麗に撮れる ・全体を撮りたいなら北にある新栄橋から撮るのがおすすめ ・近くに二河川公園と旧呉海軍工廠引き込み線跡がある ・同じ呉線の鉄道遺構として呉線の廃トンネルと呉線の目隠し板の支柱と呉線の架道橋がある

第六潜水艇遭難之碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

第六潜水艇遭難之碑鯛の宮神社の境内にあります。第六潜水艇は改ホランド級潜水艇として潜水艦黎明期の明治39年に就役しました。初の国産潜水艦として建造されましたが、特殊潜航艇を除けば国産潜水艦としては最小でお世辞にも性能が良いとは言えない艦艇でした。明治43年、岩国市装港沖で半潜航訓

金毘羅公園(旧両城防空機銃砲台) - 呉市周辺の遺構まとめ

金毘羅公園(旧両城防空機銃砲台)大歳神社の下にある公園元々ここには讃岐出身の海軍工廠職人が作った金毘羅宮がありましたが大歳神社遷座の際に合祀され無くなりました。太平洋戦争中の昭和19年5月に防空機銃砲台が設置され『25mm連装機銃』3門が配備されました。砲台は大抵山の上など高いと

レンガの積み方 - 呉市周辺の遺構まとめ

レンガの積み方明治時代の建築素材として広く使われている煉瓦(レンガ)呉市の旧呉鎮守府や旧呉海軍工廠、広島市の広島陸軍被服支廠跡など呉市周辺にはレンガ造りの遺構が多く存在します。レンガ建築には積み方によって大きく分けて『イギリス積み』と『フランス積み』に分かれます。明治時代に日本に

五十万トン戦艦 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

戦艦とは名ばかりの移動要塞である。浮かべる城どころか軍艦島である*1。金田は造船所には配備されたことはないが、用兵の専門家・海軍大学校教官・呉海軍工廠長を歴任し、軍艦建造にも関わった人物であった。長門建造の際、艦橋に色々詰め込んで従来の三脚檣では保たないと判って困っていたところ、

旧愛宕跨線橋 - 呉市周辺の遺構まとめ

・現在の愛宕跨線橋の北側エレベーターの入口付近にある ・呉市にも貴重なカーネギー社製の鉄柱が使われているダイクレ興産第2工場(旧呉海軍工廠砲熕部精密兵器工場)がある ・近くに軍用鉄道宇品線の安芸愛宕駅跡がある 住所 広島県広

海上自衛隊呉教育隊(旧呉海兵団) - 呉市周辺の遺構まとめ

(旧呉海軍病院)と入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎)と海上自衛隊呉総監部(旧呉鎮守府)と海上自衛隊呉地域事務所跡(旧下士官兵集会所)と旧呉海軍工廠引き込み線跡と旧乙廻燃料置場堺川のパイプラインがある 4項目と6項目の写真は広島県立文書館蔵の広島県立文書館資料デジタル画像よ

呉医療センター(旧呉海軍病院) - 呉市周辺の遺構まとめ

国立病院機構呉医療センター(旧呉海軍病院)呉医療センターは呉市市街地にある総合病院元々は呉海軍病院といい呉鎮守府開庁の明治22年に海軍の病院として開院しました。呉は軍港という土地柄、呉鎮守府や海軍工廠関係の病院が多く作られましたがこの呉海軍病院は最も古い軍属病院になります。明治年

伊藤大輔_(映画監督) - 映画ペディア

高等学校)に入学する。伊丹万作らと同人雑誌を作り、中村草田男、大宅壮一らと文筆を競った。父が死亡したため進学を諦め、松山中学卒業後、18歳で呉海軍工廠に製図工として勤務。そこでプロレタリア作家・宮地嘉六主宰の演劇グループに所属したため、労働組合の関係者と疑われ退職処分を受けた。や

宮原9丁目の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

の防空壕跡宮原9丁目にある防空壕跡坂の町である呉市特有の階段住宅の斜面に掘られた防空壕です。現在は更地や空き家が多くなりましたが、位置的に旧呉海軍工廠の裏にあるので在りし日は住宅が多く人口密集地域であったと思われます。となりに燈籠やレンガ造りの基礎があるので神社仏閣やお宮があった

狩留賀浜(巡洋艦磐手終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

・江田島の教専寺に練習艦磐手の時鐘が保存されている ・近くに海上自衛隊呉造修補給所貯油所(旧海軍軍需部乙廻燃料置場)と吉浦中学校(旧呉海軍工廠女子動員学徒狩留賀寄宿舎)と吉浦の防空壕跡がある 住所 広島県呉市狩留賀町3-5

呉鎮守府とはなんですか? - クイズwiki

A. 呉鎮守府は、大日本帝国海軍の鎮守府の1つです。広島県呉市に所在し、呉海軍工廠(海軍工廠)を運用していました。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E9%8E%AE%E5%AE%88%E5%BA%9C

柱島 - 呉市周辺の遺構まとめ

柱島山口県岩国市の沖26㎞に浮かぶ小さな島人口140人程度の小さな島ですが太平洋戦争中は南にある屋代島との間に日本海軍の錨泊地柱島泊地がありました。当時は、海軍との交流もあったようで連合艦隊司令長官山本五十六も柱島を訪れたことがあります。戦艦陸奥英霊之墓南東の洲鼻(V字型の岬部分

陸奥記念館 - 呉市周辺の遺構まとめ

陸奥記念館山口県屋代島にあります。太平洋戦争中期の昭和18年6月、目の前の柱島泊地に警泊していた戦艦陸奥が突然爆発を起こして沈没し乗組員1122名が犠牲になる事故がありました。戦後、海底から引き揚げされた遺品等が展示されている戦艦陸奥の記念館です。実際に引き揚げられた軍需品・日用

江田島公園 - 呉市周辺の遺構まとめ

名と大破着底した戦艦榛名の写真慰霊碑に展示されています。砲弾(?)慰霊碑を囲む砲弾のモニュメント戦艦榛名・練習艦出雲のものなのかは不明です。呉海軍工廠火工部第二装填工場小用作業場火薬事故殉職者慰霊碑太平洋戦争中の昭和18年8月5日に、海軍工廠小用作業所で起きた火薬事故の殉職者を祀

三坂地水源地 - 呉市周辺の遺構まとめ

府水道』の一つ呉鎮守府水道の水源地としてはめずらしく、ダムではなく地下水を水源とするさく井型(井戸)の水源です。三坂地水源地は、大正10年の呉海軍工廠広支廠建設と同時にその工業用水の水源地として築造されました。当初、海軍はここに3つのさく井を掘り水源としました。これが現在の三坂地

シビレ峠 - 呉市周辺の遺構まとめ

シビレ峠小用港と秋月の間にある峠峠なので見晴らしがよく対岸の呉市まで見渡すことができるため、太平洋戦争前は対岸の呉海軍工廠造船船渠で建造中の戦艦大和が見えたらしいです。余談ですが、地名の由来は「景色がしびれるほど美しい」ということからきてるそうですが恐らく俗説かと思われます。この

広海軍工廠引き込み線跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

れており入ることはできない ・東側の引き込み線跡は住宅地で途切れてしまっているため広駅まではつながっていない ・呉駅にも同じような旧呉海軍工廠引き込み線跡が残っている ・近くに旧広海軍工廠と旧第11海軍航空廠と明磯神社の鳥居がある 住所

呉線の廃トンネル - 呉市周辺の遺構まとめ

な汽車時代のトンネルが12カ所ある ・同じ呉線の鉄道遺構として旧軍需部踏切と旧軍需部引き込み線跡と旧川原石駅跡と呉線の目隠し板の支柱と旧呉海軍工廠引き込み線跡と二河川橋梁がある ・同じ軍用鉄道として広島市に軍用鉄道宇品線がある ・呉線のトンネルとして川尻駅近くに日本一

坪井(戦艦伊勢終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

終焉を迎えたと思うと感慨深いものがあります。また、姉妹艦の戦艦日向もとなりの情島で空襲を受け大破着底し終戦を迎えています。右奥に見えるのは旧呉海軍工廠製鋼部です。旧戦艦伊勢日向浮揚解撤記念碑太平洋戦争終戦後、戦艦伊勢を引き上げて解体した際に建立された慰霊碑また、第二次呉軍港空襲で

第六潜水艇殉難者記念碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

第六潜水艇殉難者記念碑山口県岩国市装港にあります。明治39年に建造された『第六潜水艇』は潜水艦黎明期における初の国産潜水艇でしたが、お世辞にも性能が良いとは言えない艦艇でした。明治43年、岩国沖で半潜航訓練中に事故で浮上できない状態のまま乗組員14名全員が酸欠で死亡するという事故