宮原11丁目の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ
しくT字型やI字型のコンクリート防火壁が付いています。太平洋戦争末期の空襲では『焼夷弾』と呼ばれる火災を発生させる目的の爆弾が使われました。呉市周辺でよく見る「斜面に穴を掘っただけの横穴式防空壕」では周りの建物が燃えることによる熱風と炎で中の人が蒸し焼きになったり、煙が防空壕内に
しくT字型やI字型のコンクリート防火壁が付いています。太平洋戦争末期の空襲では『焼夷弾』と呼ばれる火災を発生させる目的の爆弾が使われました。呉市周辺でよく見る「斜面に穴を掘っただけの横穴式防空壕」では周りの建物が燃えることによる熱風と炎で中の人が蒸し焼きになったり、煙が防空壕内に
学も予約している場合は時間に注意 ・呉艦船めぐりの受付は呉中央桟橋ターミナルにある 住所 広島県呉市昭和町5-2 駐車場 なし トイレ なし 竣工 不明 公開 限定(
8月9日に縁日のお祭りが開かれる ・路線バスで行く場合は山側を通る宮原線に乗ること 住所 広島県呉市宮原7丁目13-5 駐車場 あり トイレ あり 竣工 不明 公開
明治時代の陸軍砲台で海軍防空砲台に転用されたものとして大空山公園(大空山砲台跡)がある 住所 広島県呉市見晴2丁目8-25 駐車場 あり トイレ あり 竣工 明治34年/昭和16年
音戸渡船(おんどとせん)音戸渡船は、本州と倉橋島の間にある音戸の瀬戸約120mの海を行き来する渡し船で、かつて呉市が誇る日本一の1つ「日本一短い航路」でした。現在は音戸大橋のおかげで倉橋島と本州は陸路でつながっていますが、昭和36年の開通以前は倉橋島に行くには船で行くしかありませ
・音戸大橋と第二音戸大橋の間に音戸渡船がある ・近くに戸田本店がある 住所 音戸大橋:広島県呉市警固屋8丁目9 第二音戸大橋:広島県呉市音戸町1 第三音戸大橋:広島県呉市音戸町坪井1丁目4-1 駐車場
・同じ呉線の鉄道遺構として呉線の廃トンネルと呉線の目隠し板の支柱と呉線の架道橋がある 住所 広島県呉市三条2丁目2 駐車場 なし トイレ 近くの呉駅にあり 竣工 明治36年以降(?)
・事故現場である山口県岩国市にも第六潜水艇殉難者記念碑がある ・大和ミュージアムに第六潜水艇の模型が展示されている 2項目の写真は呉市フォトバンクより引用 住所 広島県呉市西三津田町1-1 駐車場 なし
魚見山隧道(うおみざんずいどう)魚見山隧道は国道31号線にある川原石と吉浦を結ぶ860mのトンネル。呉市から広島市に向かう道路のトンネルとして長年使われています。元々は太平洋戦争開戦の昭和16年に、軍都広島市と軍港呉を結ぶ道路の一部として着工しました。太平洋戦争末期の昭和20年1
艦大和の艦暦は太平洋戦争の歴史そのもの」といわれています。また、戦艦大和の建造は非常に秘密裏に進められたため、呉海軍工廠の造船技術はもちろん呉市民の生活にも非常に影響を与えました。『歴史の見える丘』という名称は「軍港都市から近代造船都市としての道を歩んだ明治以降の呉の歴史が一望で
性があります。しかし、別の説では戦艦大和”以前”に建造された艦艇を隠すために作られたという説もあります。坂の町である呉市では住宅も階段状になっており、現在の宮原町のあたりから建造中の艦艇が見えてしまうためこのような大屋根が必要であったと思われます。造船船渠
で、金属箔を貼った和紙に版木棒で凹凸加工を施して仕上げた豪華絢爛な壁紙です。司令長官官舎の金唐紙は全部で5種類あり総面積は250平方mです。呉市周辺ではあまり見ないめずらしい装飾ですが、国内では国会議事堂や鹿鳴館で使われています。余談ですが、終戦後進駐軍が司令長官官舎を接収した後
年に取り壊されたため現在は残っていません。2代目庁舎は明治40年に竣工しました。地下1階・地上2階建てのレンガと御影石で作られた洋風建築で、呉市にある海軍のレンガ建築の代名詞的な存在です。レンガは明治時代に海軍がお手本としたイギリス積みで、正面の車寄せにある4本の柱と柱上部のマー
(↓地区名をタッチすると展開)呉駅周辺(中心部)呉駅周辺(中心部) 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館) 海上自衛隊呉総監部(旧呉鎮守府) 入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎) 海上自衛隊呉地域事務所跡(旧下士官兵集会所) 歴史
海軍墓地』となりました。以来、太平洋戦争終戦までの55年間呉鎮守府管理下で海軍軍人や軍属の墓地として使用されました。しかし、太平洋戦争末期の呉市街地への空襲で荒れ果ててしまい、終戦の海軍の解体や進駐軍が戦没者崇拝・戦争賛美を禁止したため呉海軍墓地は廃止となりました。また、終戦直後
近くに旧呉海軍工廠造機部造船部庁舎と歴史の見える丘と戦艦大和建造ドック跡と東郷坂がある 住所 広島県呉市宮原9丁目1 駐車場 なし トイレ なし 竣工 昭和39年 公開
架かっている ・となりの広駅にも同じような広海軍工廠引き込み線跡が残っている ・近くに海上自衛隊呉教育隊(旧呉海兵団)と二河川橋梁と呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)がある 住所 広島県呉市宝町2-37 駐車場 なし
の殉国の塔、広の工僚神社と第11海軍航空廠殉職者之碑がある ・近くに二河公園がある 住所 広島県呉市西中央5丁目8-33 駐車場 なし トイレ 近くの二河公園にあり 竣工 大正5年
の東側から真っ直ぐ南下して海に突き当たる(呉湾岸合同庁舎のとなり)にある公園がここ ・近くに二河川の重油パイプラインがある ・近くに呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)と海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)がある 住所 広島県呉市
44mの石造りの池があります。ここで二河峡取水口から送られてきた水を濾過して配水します。大正時代に入ると本庄水源地や平原浄水場などが建設され呉市民にも上水道の提供が始まり、宮原浄水場は呉市の基幹浄水場となりました。太平洋戦争末期の呉市への大規模な空襲も奇跡的に被害はなく、終戦直後
真はarch-hiroshimaよりクリエイティブ・コモンズ・ライセンスに基づいて引用 住所 広島県呉市幸町4-20 駐車場 近くの入船山公園に有料駐車場あり トイレ 近くの入船山公園にあり
レンガの積み方明治時代の建築素材として広く使われている煉瓦(レンガ)呉市の旧呉鎮守府や旧呉海軍工廠、広島市の広島陸軍被服支廠跡など呉市周辺にはレンガ造りの遺構が多く存在します。レンガ建築には積み方によって大きく分けて『イギリス積み』と『フランス積み』に分かれます。明治時代に日本に
上自衛隊用地に転用されているのはこの呉海兵団のみです。入船山公園(旧呉海兵団練兵場)呉医療センター(旧呉海軍病院)のとなりにある運動場坂の街呉市にあってこの広さの運動場は貴重ですがかつてここは呉海兵団の練兵場でした。また、太平洋戦争末期には応急防空砲台に転用され高角砲や防空機銃等
国立病院機構呉医療センター(旧呉海軍病院)呉医療センターは呉市市街地にある総合病院元々は呉海軍病院といい呉鎮守府開庁の明治22年に海軍の病院として開院しました。呉は軍港という土地柄、呉鎮守府や海軍工廠関係の病院が多く作られましたがこの呉海軍病院は最も古い軍属病院になります。明治年
の沿岸部から見える ・近くに亀ヶ首防空砲台跡があるらしいが詳細不明 ・近くに大浦突撃隊大迫支隊(Q基地跡)がある 2項目の写真は呉市フォトバンクより引用 住所 広島県呉市倉橋町大迫13979-3 駐車場 なし トイレ
車内が暑くなりました。当時は数kmにわたって設置されていましたが、現在では板を支えるL字型の支柱が数個のみ現存しています。余談ですが、当時の呉市民は「戦艦大和の存在を戦時中にすでに知っていた」という説と「太平洋戦争終戦まで知らなかった」という説の両方があります。目隠し板跡からの展
板の支柱と二河川橋梁がある ・近くに魚見山隧道と旧川原石駅跡がある 住所 川原石第四橋梁:広島県呉市海岸4丁目3 新宮川橋梁:広島県呉市新宮町17 水ヶ迫川橋梁跡:広島県呉市新宮町16-2 駐車場 なし
島市 TWITTERリスト 1194034 福山市 TWITTERリスト 464811 呉市 TWITTERリスト 228522 東広島市 TWITTERリスト 192907
川尻トンネル呉市が誇る日本一の1つ安芸川尻駅そばにある川尻トンネルは「日本一短い鉄道トンネル」です。元々は群馬県の吾妻線樽沢トンネルが日本一でしたが、廃線となってしまったため繰り上がりで川尻トンネルが日本一になりました。上に道路が通っていてトンネルというより陸橋に見えますが、条件
県道204号安登停車場線呉市が誇る日本一の1つ「日本一短い県道」こと県道204号安登停車場線です。横断歩道からマンホールまでの県道で全長はなんと7mです。ちなみに幅は14mあるので全長より幅の方が大きいという道路です。 備考 ・呉線安登駅の目の前にある ・
場合は入山しない方がいい ・同じ趣旨の慰霊碑として広島市の中国憲兵隊司令部跡がある 住所 広島県呉市倉橋町長谷8738 駐車場 なし トイレ なし 竣工 不明 公開
駆逐艦樫の慰霊碑もある ・近くに倉橋本浦(駆逐艦樫終焉の地)と桂浜の防空壕跡がある 住所 広島県呉市倉橋町上河内1130 駐車場 なし トイレ なし 竣工 昭和58年 公
機もないので注意 ・近くに亀ヶ首射撃実験場跡と倉井(空母阿蘇終焉の地)が近くにある 住所 広島県呉市倉橋町大迫14024 駐車場 なし トイレ なし 竣工 昭和19年 公
るのでついでに観光するといいかも ・少し距離があるが同じ大崎下島に沖友天満宮がある 住所 広島県呉市豊町御手洗 駐車場 御手洗町並み保存地区にあり トイレ 御手洗町並み保存地区にあり 歴史
として安浦町の武智丸がある ・近くに坪井(戦艦伊勢終焉の地)と渡子の防空壕跡がある 住所 広島県呉市音戸町坪井3丁目8-21 駐車場 なし トイレ なし 竣工 昭和18年/昭和28年
スカル島ディエゴワレス港の銘板は「波多見」バス停の近くにあるので帰り道に寄るといいかも 住所 広島県呉市音戸町波多見6丁目22 駐車場 あり(夏季は有料) トイレ あり 竣工 昭和18年
竣工です。金属製の橋げたやアスファルトはもちろん後世のものでしょうが、橋脚がすごく古そうなのでもしかしたら当時のものかもしれません。郷原町は呉市の北東部に位置し、歴史は意外と古く荘園時代の記録に名前が残っていますが呉市に吸収合併されたのは昭和31年と戦後かなり経ってからです。なお
の観光地があるので興味があればついでに観光してもいいかも ・近くに女猫の瀬戸がある 住所 広島県呉市下蒲刈町下島2927-3 駐車場 あり トイレ あり 竣工 昭和15年
ることはできない ・安浦海兵団所属の小規模の防空砲台跡があるらしいが詳細不明 ・同じ呉鎮守府の海兵団として大竹市の大竹海兵団跡之碑と呉市の海上自衛隊呉教育隊(旧呉海兵団)がある ・近くに安浦港防波堤(武智丸)がある 住所 広島県
石内浄水場跡「呉市で一番高い山」こと野呂山のふもとにある浄水場で『呉鎮守府水道』の1つ太平洋戦争末期になっても広海軍工廠と第11海軍航空廠の工業用水は不足しており、二級ダムから広海軍工廠と第11海軍航空廠への送水量増強のためここ石内に浄水場が造られました。石内浄水場は鬼坂調整池と
分とされ、訓練は非常に厳しくなされました。しかし、海兵団が設置されたことにより大竹市の人口は爆発的に増えました。また、日本で唯一の潜水学校も呉市から大竹海兵団のとなりへ移転し、大竹市は太平洋戦争中に「海軍の街」へと変身しました。太平洋戦争終戦後、海兵団跡地は引き揚げ港となった後、
とは潜水艦の乗組員を育成する教育機関で、砲術学校や水雷学校等の技術学校を卒業し艦艇で勤務経験を積んだ士官が入校できる学校です。潜水学校は元々呉市の呉海軍工廠火工部のとなりにありましたが、太平洋戦争中の昭和17年11月ここ大竹市に移転されました。大竹市が選ばれた理由は、すでに大竹海
代島に戦艦陸奥の乗組員の遺品が展示されている陸奥記念館がある ・大津島の回天記念館に戦艦陸奥の第三砲塔の薬莢で作られた梵鐘がある ・呉市の海上保安大学校資料館に戦艦陸奥から回収した燃料が展示されている 住所 戦艦陸奥英霊之墓:山口県
小用港「江田島の玄関」と呼ばれる江田島中部にある港広島市から海上約7.5km、呉市からは海上約6kmと広島市と呉市の中間に位置する港です。江田島は倉橋島にある音戸大橋と早瀬大橋を経由すれば本州と陸続きになりますが、広島市や呉市街地から見るとかなり遠回りになるため旅客船を利用する人
シビレ峠小用港と秋月の間にある峠峠なので見晴らしがよく対岸の呉市まで見渡すことができるため、太平洋戦争前は対岸の呉海軍工廠造船船渠で建造中の戦艦大和が見えたらしいです。余談ですが、地名の由来は「景色がしびれるほど美しい」ということからきてるそうですが恐らく俗説かと思われます。この
リカ政府が公式に認めているのは10名である ・ヘルダイバー爆撃機の乗員2人も移送されて助かったという資料もあるがこちらも詳細不明 ・呉市の大和ミュージアムにB24爆撃機ロンサムレディ号とB24爆撃機タロア号の破片と銃弾が展示されている ・同じ趣旨の慰霊碑として倉橋島の
渡子の防空壕跡倉橋島北部の坪井から渡子(とのこ)の間の国道487号線沿いにあります。太平洋戦争の防空壕跡は呉市各地にありますが入口が塞いでないものはめずらしいです。艦艇終焉の地には防空壕が多く残っていますが、渡子は戦艦伊勢終焉の地である坪井と空母天城・空母葛城の終焉の地である三ツ
戦艦伊勢日向浮揚解撤記念碑がある ・長迫公園(旧海軍墓地)に軍艦日向の慰霊碑がある 住所 広島県呉市阿賀町12958 駐車場 不明 トイレ 不明 竣工 - 公開 常時
用と人間用の2つあります。この場所は元々民家がありましたが取り壊されて防空壕跡だけが残っています。「更地に防空壕跡が2つ」という坂の町である呉市ではよく見られる光景です。 備考 ・港町小学校の下の住宅街の中にある ・宮原町にも民家が取り壊され防空壕跡だけが
・同じ第11海軍航空廠防衛のため設置された砲台として螺山砲台跡と吉松山防空砲台跡がある 住所 広島県呉市広黄幡町 駐車場 なし トイレ なし 竣工 昭和19年 公開 常時