aklib_story_崖上の心

ページ名:aklib_story_崖上の心

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崖上の心

命の危機にある領民のために、エンシアは自ら買って出て山へ薬となる石を採りに行ったが、下山時は吹雪に遭遇してしまう。やむを得ない状況の中、彼女は意外な人物に助けを求めるのだった。


[エンシア] ふんっ……

[エンシア] あの岩の裂け目だったら……届きそう……

[エンシア] ねぇヴァイスお兄ちゃん。うちのお兄ちゃんはいつ帰ってくるの?

[ヴァイス] 出発前のご予定からすれば、あと三、四日ほどで戻られるかと。

[エンシア] ええー、まだそんなにかかるのー……

[エンシア] ん? うわさをすれば、まさかお兄ちゃんもう帰ってきて……

[エンシア] ……いや、もしかしてお姉ちゃん!?

[ヴァイス] 巫女様は蔓珠院に行かれてからまだ数ヶ月ですよ。今はお忙しいはずですから、違うでしょうね。僕が開けてきますから、ひとまず落ち着いてください。

[エンシア] あれ――タヤルばあちゃんだ、どうしたの?

[エンシア] よし!

[エンシア] これでもう一息!

[エンシア] あの洞窟はそんなに高いところじゃなかったはずだから、もうそろそろかな。

[エンシア] ……ラクリマイト?

[ヴァイス] 鉱石の一種ですよね。淡青色で、カランドの中腹にある洞窟でしか産出されないものです。伝説ではイェラガンドの涙が凝結してできたと云われています。

[エンシア] あと少し……!

[エンシア] タヤルおじいちゃん、病気がひどくなったの? 家にあった半年分のラクリマイトを秋に使い果たしちゃって、山区のそこら中を訪ねても借りられなかった……?

[エンシア] そんな……

[ヴァイス] お嬢様、言い伝えに従うなら、ラクリマイトは一度に手のひら一杯分――つまりイェラガンドの涙一粒分しか採れないのです。

[ヴァイス] たとえ洞窟から一度に多くのラクリマイトを掘り出しても、片手で掴み切れなければ、石は効果を失うそうです。

[ヴァイス] 覚えてらっしゃいますか? タヤルおじいさんが使っていたラクリマイトも、お嬢様が採ったものですよ。もう二年も前のことですが……

[エンシア] そんなことあったっけ――あっ、言われてみれば!

[エンシア] ヴァイスお兄ちゃん、お願い。おばあちゃんを車に乗せて、もう一度ラクリマイトを持っている人がいないか聞いてきてもらえる?

[ヴァイス] では、お嬢様は……

[エンシア] あたしは家を探してみるよ。たしか前に小さなラクリマイトを採ってきて、置物にしてたんだった。でもどこにあったか忘れちゃって――

[ヴァイス] お嬢様、それは、本当ですか?

[エンシア] ほ、本当だよ! 見つかったらすぐ粉にして、薬を作っておくね。

[エンシア] だからヴァイスお兄ちゃんも、ラクリマイトを借りられたら、あたしに構わずそのままおばあちゃんたちの家に行ってて!

[ヴァイス] お嬢様……くれぐれも、行動は慎重にお願いしますね。

[エンシア] うっ……ちょっと探し物するだけだよ、慎重も何もないでしょ。いいから早く行って、人の命がかかった一大事なんだから!

[ヴァイス] はぁ。

[ヴァイス] では、駄獣車を出してきます。タヤルおばあさん、僕についてきてください。

エンシアは振り返り、鉛色の空に視線を向けた。

この時、雲はまだ淡く、窓の外では微風さえ吹いていなかった。

[エンシア] やっぱり、ヴァイスお兄ちゃんは鋭いなぁ。

[エンシア] タヤルおじいちゃんの容態が本当にヤバいから行ってくれたけど、そうじゃなかったら、絶っ対にあたしに貼り付いて、一歩も離れずに見張ってたんだろうね。

[エンシア] ヴァイスお兄ちゃんったら本当に心配性だよね。この様子じゃ雪は夜になってから本降りだろうし、あの洞窟もそれほど高い所じゃないから、崖側から登ればすぐだっての。

[エンシア] 着いたー!

[エンシア] お次は洞窟に入って、ラクリマイトの採掘だね。そんなの、すぐ終わるって!

エンシアは目を閉じて、そびえ立つカランドに向かって静かに一礼した。

[エンシア] ――採掘完了! ちょうど手のひらサイズだね。

[エンシア] 本当に綺麗な石だなぁ。さっきのはウソだったけど、今度また来る時は本気に置物用に採ろうかな……

[エンシア] ……この跡は、あたしが二年前に採掘した跡かな? 岩壁にくっきりと残ってるし、あの時とそっくりそのままね……

エンシアは洞窟の入り口に立ち、山の麓を見下ろした。タヤルの家のかまどの煙がかすかに見える。

[エンシア] 待っててね、タヤルおじいちゃん。今、ラクリマイトを持って行くから!

[エンシア] うーっ、寒っ!

[エンシア] 風!?

[エンシア] しまった、こんなにも早く吹雪き始めるなんて!

[エンシア] もう崖は下りられないな。洞窟に戻って、吹雪をやり過ごさなきゃ……

[エンシア] ううん、いつ止むか分からないし、タヤルおじいちゃんはラクリマイトを待ってるんだ。

[エンシア] 反対側で下山できる道を探すしかないね。

[エンシア] はっ、はっ……こっちの道は歩ける、けど、方向が……

[エンシア] この木は……だめだ、あたし、元来た道に――

[エンシア] ひとまず登山用ロープで道しるべをつけよう。少なくとも、堂々巡りは防げるはず。

[エンシア] この道は……うちとは逆方向だよね。

[エンシア] はぁ。本当に嫌な時に降ってくるんだから。

[エンシア] もうずいぶん歩いたような……

[エンシア] 洞窟は山区と湖区の境の山側にあったけど、湖区の方に向かってかなり進んでるから……

[エンシア] ……ペイルロッシュ家の領地に侵入したことになっちゃうね。

[エンシア] 事前報告もなしに、理由もなく他人の領地に入ったとなると……

末の妹の前で、エンシオディスは他の二家に関する話を進んでしたことはないが、エンシアも何も知らないわけではない。

兄が留学先からイェラグに帰ってきてから、ペイルロッシュ家とシルバーアッシュ家はずっと対立している。

今回家を離れる前にも、兄はわざわざ言い聞かせてくれた。必要に迫られない限り、ペイルロッシュ家とは関わるな、と。

イェラグの情勢は非常に微妙で、何気ない一言でさえ、恐ろしい雪崩を引き起こす可能性がある。

[エンシア] やっぱりペイルロッシュ家に見つかる前に後戻りして、雪が止むのを待って崖から下りようかな……

[エンシア] いや、だめだ。この雪、止む気配が全然ないもん。

[エンシア] 一刻の猶予もない、命に関わることなんだから!

[エンシア] ――大雪でよかったぁ、飛び降りてもケガをせずに済むなんて……

[エンシア] おっ、麓の集落が見えてきた。

[エンシア] それから湖も。

[エンシア] 結構歩いたのに、なんでまだ着かないんだろう……

[エンシア] さっき見えてた湖も、見えなくなっちゃった……

[エンシア] 確実に山を下りてるのは感じるけど、この山道、長すぎるよ――

そんな時、まるで神が顕現したように、エンシアの視界の先、吹雪の向こう側に、人影がぽつりと浮かび上がった。

[エンシア] お! おーい!

[エンシア] 聞こえるー? こっち! こっちだよー!!!

エンシアに気が付いたらしく、その者はこちらに向かって真っすぐに歩いてきた。

[エンシア] イェラガンドに感謝を! あなたは山の狩人さん? ここから麓までは、あとどのくらいかかるの?

[狩人?] この道に沿っていけば、およそ一時間半ほどで下山できるわ。

[エンシア] 一時間半? まだそんなにかかるの?

[エンシア] どこかに近道はないかな?

[狩人?] あるにはあるけど、この大雪だし、通れないでしょうね。

[エンシア] 登山道具なら持ってるよ! ほら見て、ピッケルにロープにハーケン……何でもあるよ!

[狩人?] あら……それなら行けるかもしれないわね。

[狩人?] さっき湖が見えた場所まで引き返してごらん。雪に埋もれた少し急な小道があるわ。

[エンシア] ありがとう! えっと、何て呼べば……

エンシアがそう言い終わる前に、視界は真っ白な吹雪に奪われた。まるでイェラガンドがその人の姿をわざと隠したかのように。

[エンシア] えっ、消えちゃった!?

[エンシア] まぁいいや、早く近道に行かなきゃ!

[エンシア] 下山成功!

[エンシア] これで一時間は短縮できたね! どこかで駄獣を借りないと——

[巡視員] 動くな! そこにいるのは誰だ?

[エンシア] !

[エンシア] こんにちは、怪しい者じゃないの! あたしは……

[巡視員] うん? お前、シルバーアッシュ家の次女じゃないか?

[エンシア] 話を聞いて! あたし――

[巡視員] ふん、俺はただの巡視員。話は領主様の御前に出てからにしな!

使用人が給仕したばかりのお茶とキャンディが、卓上で香りを放っている。しかし、応接間の二人は席にも着かず、それらに口も付けていない。

[アークトス] それで、一体どういうことだ?

[エンシア] すみません! わざと領地に侵入したわけじゃないんです!

[アークトス] 捕まった侵入者は、皆そう嘯くもの。

[エンシア] ……本当です。

[アークトス] それともなにか、お前は自宅で雪を眺めながら散歩をしていたら、気が付けば湖区まで来てしまったとでも言うつもりか?

[エンシア] いいえ! ラクリマイトを採掘してたんですが、洞窟を出たところで雪が降ってきて……それで家の領地側の崖から戻れなくなって、仕方なく反対の道に進んだら、湖区にたどり着いたんです。

[アークトス] この天を覆う黒い雲が見えなかったのか? 間もなく雪が降ろうというのに、ラクリマイトの採掘に行ったと?

[アークトス] 苦しい言い訳だ。

[エンシア] 違うんです。アークトスさん、聞いてください——

[アークトス] シルバーアッシュ家の次女が、我らがペイルロッシュ家の領地に侵入した。おおごとにしてもいいが、互いのメンツに泥を塗るようなことは俺もしたくはない。

[アークトス] お前の優しい兄貴が戻ってきたら、奴に説明に来させよう。もし筋が通っていれば、お前を帰してやる。

[エンシア] (お兄ちゃんが帰ってくるのを待たなきゃいけないの?)

[エンシア] (タヤルおじいちゃんの病気は一刻を争うのに!)

[エンシア] (すぐに石を送り届けるためには、もう――)

[エンシア] (だけどそんなことしたら、アークトスさんがどんな要求をしてくるか。お兄ちゃんを困らせちゃうんじゃ……)

[エンシア] (ああもうっ! 今回のことは両家のいさかいとは無関係なのに、あたしがシルバーアッシュってだけで……)

[エンシア] (……)

[エンシア] (ごめんね、お兄ちゃん! もしも面倒なことになったら、あたしがちゃんと責任取るから!)

[アークトス] その顔、まだ何か言いたげだな?

[エンシア] ……

[エンシア] 湖区に侵入してしまったことは、心からお詫びいたします。この件の処分についてもお受けします。

[エンシア] ですがラクリマイトを採りに行ったのは、人の命を救うためだったんです……

[アークトス] 人命救助を言い訳に使うとはさすがに笑えないぞ、お嬢さんよ。

[エンシア] 本当です! 山区に住んでるタヤルおじいちゃんは重い病気で、命が危険な状況です。助けるにはラクリマイトをすぐに採ってくるしかありませんでした。それで天候を考慮せず山に入ったのです!

[エンシア] 今はまず足の速い駄獣を貸してください! このカバンに入ってるラクリマイトをタヤルおじいちゃんに届けていただけるなら、どんな処罰でもお受けしますから! どうかお願いします!

[アークトス] ……

[アークトス] 本当にラクリマイトを採掘しに行ったというのなら、採ってきた石を見せてみろ。

[アークトス] ふん……確かにラクリマイトだな。だが、少し大きすぎるんじゃないか?

[エンシア] 洞窟を出る時に自分の手で確かめました。きちんと掴めましたよ。

[アークトス] シルバーアッシュ家の人間にしては、イェラガンドの教えを多少は覚えていたようだな。

[アークトス] 山区のタヤルの家でいいんだな?

[エンシア] はい!

[アークトス] ふん。

[アークトス] ひとまず協力してやる。

[アークトス] 一番速い駄獣を用意しろ! シルバーアッシュ家のエンシア嬢と山区へ行ってくる!

[エンシア] (ああよかった……)

[エンシア] (――待って、あたしと一緒に!?)

[エンシア] アークトスさん、それって……

[アークトス] もしお前の話が事実なら、領地侵入の件はただの不注意だ。

[アークトス] ペイルロッシュもそこまで追求するまい。

[エンシア] あたし、てっきりあなたは――

[アークトス] なんだ?

[エンシア] いえ、なんでもありません!

[エンシア] よかったぁ……

[エンシア] 心から感謝いたします、アークトスさん! あと少し遅れていれば間に合わないところでした。本当にありがとうございます!

[アークトス] ラクリマイトはお前が採ってきたもの、老人もお前が助けたんだ。礼を言われる筋合いはない。

[エンシア] いいえ、アークトスさんにはお世話になりましたから! なんでしたらうちで暖を取りませんか? ヤーカおじさんももうすぐ帰ってきますし、何か作ってもらって――

アークトスは何も話さず、ただその場に立ち、興奮した様子のエンシアを静かに見ている。その様子はまるで硬い岩山のようだ。

[エンシア] ……

[エンシア] すみません、軽率でした。

[アークトス] 気にするな。

[エンシア] ……アークトスさん。

[アークトス] まだ何かあるのか?

[エンシア] アークトスさん、お兄ちゃんが帰ってくる前、あたしとお姉ちゃんはあなたと交流する機会こそありませんでしたが、あなたもこのように先入観だけであたしたちを突き放したりしませんでしたよね。

[アークトス] それがなぜ今のようになったのかを聞きたいなら、お前の優しい兄貴にでも聞くんだな。お前に悪意がないのは信じてもいいが、兄貴に利用されていないとも限らない。

[アークトス] こと策謀に関してなら、奴に勝てるとはとても言い切れん。

[エンシア] お兄ちゃんって……周りから見れば、そんなに嫌な人に映ってるんですか?

[アークトス] 百歩譲って、奴の悪巧みには目をつぶってやってもいい。だが、伝統を踏みにじる行為だけは、決して見て見ぬふりはできん。

[エンシア] でも、外から来たものはすべて悪とは限らないでしょ! タヤルおじいちゃんの病気だって、もしかしたら外にはもっと良い――

[アークトス] ……

アークトスの表情を見て、エンシアは言葉を飲み込んだ。目の前にいるペイルロッシュ家の当主にとってはたかが一度の協力だ。そんなことで縮んだ距離は微々たるものでしかなかった。

[アークトス] お前が兄貴と同類でないことは、見れば分かる。

[アークトス] それでも、お前らのどちらもシルバーアッシュであることには何ら変わりない。

[エンシア] ……

[エンシア] そうおっしゃるあなたも、立派なペイルロッシュですよね。

[アークトス] フッ、当然だ。

[エンシア] だけど、あなたはあたしを助けてくれました。

[アークトス] 俺がタヤルを見殺しにすべきだったと思ってるのか? それとも、あのままお前を拘束して、帰さないべきだったと?

[エンシア] いえ、そんな。

[エンシア] あたしはただ……よく分からなくて。

[アークトス] ならば考え続けるがいい。先は長い。

[アークトス] もう行くぞ。

[アークトス] これは持って行け。さっきは舞い上がって自分のバッグすら持ち忘れていたぞ。

[ヴァイス] あれは――エンシアお嬢様、お嬢様ですか?

[エンシア] ヴァイスお兄ちゃん? あたしだよ! こっちこっち!

[ヴァイス] お嬢様、良かった、死ぬほど焦りましたよ――

[ヴァイス] こんな危ないこと、もう二度としないでくださいね!

[エンシア] ちゃんと無事だったでしょ、ラクリマイトも間に合ったし。ちょっと予想外なことがあったけど、大したことにはならなかったし。

[ヴァイス] まったく……旦那様と同じで頑固なんですから。

[エンシア] へへ。

[ヴァイス] そういえばまだご存じないと思いますが、旦那様がこの度出国された理由の一つに、ラクリマイトのような資源を開発することも入っているんですよ。

[エンシア] 資源?

[ヴァイス] 以前、旦那様はヴィクトリアの科学者に研究を依頼したことがありますが、ラクリマイトが病を治せるのは、石に含まれる特殊な物質が原因と判明しました。

[ヴァイス] そしてその物質は、一度にどれだけ採掘したかで薬効が変わることはないそうです。

[ヴァイス] もしラクリマイトの採掘と精製を産業化できれば、イェラグの経済が改善されるだけでなく、イェラグ産の薬でほかの国の人々を助けることも可能になります。

[ヴァイス] お嬢様も苦労して危険な採掘をしなくて済むようになりますよ。

エンシアはヴァイスの話を聞きながら、思わず洞窟の中の光景を思い出した。

岩壁から覗くきらきらと輝くラクリマイトは、まさにイェラガンドの涙を彷彿とさせるものだった。

タヤルおじいさんの病のために、彼女は二度の採掘を行った。

そのいずれの採掘跡も、いつ頃つけられたのかも分からない数十の痕跡に混ざって、はっきりと洞窟に残っている。

エンシアの胸に一抹の不安がよぎる。兄の採掘計画と洞窟の美しい景色、その間には目に見えない形で、相容れない何かが存在しているように思えたからだ。

そんな不安を打ち消すため、彼女はわざと話を逸らした。

[エンシア] ――ところで、今日の晩ご飯はなに?

[ヴァイス] メインディッシュは獣肉の煮込みだと、ヤーカの兄貴が言ってましたよ。楽しみですね。

[エンシア] さっきまで全然だったのに、今聞いただけでお腹が鳴っちゃった!

[ヴァイス] 食欲があるなら何よりです。では、いつも通りお嬢様は登山バッグの整理を、僕は厨房の手伝いに、ということでいいですね?

[エンシア] うん!

[エンシア] ヴァイスお兄ちゃん? まだ何か……

[エンシア] !!!

[エンシア] あなたは昼間の――

[エンシア] きちんとお礼をしなきゃと思ってたの。あなた、名前も告げずにいきなり消えちゃうんだから!

[通行人] こうして来たでしょう。はい、これ。あなた宛の手紙よ。

[エンシア] 手紙?

[エンシア] これって――お姉ちゃんからの!?

[ヤエル] 自己紹介がまだだったわね。私は巫女様の侍女長よ。ヤエルと呼んでくれていいわ。

[エンシア] お姉ちゃんの侍女長!?

[エンシア] もしかして、あたしが今日山に登ったのを知って、それでヤエルお姉ちゃんを案内に遣わしたの?

[ヤエル] そういうわけでもないわ。たまたま買い物しようと山を下りたら、あなたと出くわしただけよ。

[エンシア] だったら、あたしが雪の日に山を登ってたって、お姉ちゃんには絶対言わないでね!

[エンシア] さーて、お姉ちゃんが蔓珠院での暮らしぶりは、っと……

[エンシア] ……ふぅ、大丈夫そうだね。

[エンシア] ヤエルお姉ちゃん、手紙を届けてくれてありがとう! ヤーカおじさんに言ってくるから、晩ご飯は――

[ヤエル] しっ――私はこっそり忍び込んできたのよ。

[エンシア] 忍び込んだ? どうして?

[ヤエル] いい? もし私が堂々と扉を叩いて入ってきて、自分は巫女様の侍女長であると告げれば、ヴァイスはどうすると思う? きっとあなたのお兄さんに報告するでしょう。

[ヤエル] お兄さんのことだから、自分の不在中に付け込んで蔓珠院の者があなたに急ぎの手紙を届けに来たとなれば、十中八九あらぬ疑いをかけるでしょうね。

[エンシア] あ……

[エンシア] はぁ。

[ヤエル] あなたのご家族への正式な挨拶は、お兄さんが帰られてから、改めて伺うことにするわ。

[エンシア] 分かった。

[エンシア] ヤエルお姉ちゃん……手紙には書いてないけど、お姉ちゃんはまだお兄ちゃんのこと怒ってるんでしょ。

[ヤエル] 正直に言えば、その通りね。

[エンシア] お姉ちゃん、そのうちアークトスさんの側につくことになったりしない?

[ヤエル] 巫女様と一緒に過ごしてきた時間は、私よりもあなたの方がずっと長いのよ。だから、シルバーアッシュ家の長女としての彼女がどうなのかは、あなたの方より詳しいのではなくて?

[ヤエル] 巫女様は、お兄さんには相当怒っているかもしれないけれど、あなたはお兄さんだけでなく、彼女の妹でもある。

[ヤエル] 気に掛けていないのであれば、こうして手紙を書いて私を遣わせることもないわ。

[エンシア] だけど、今は蔓珠院の巫女様だもん。あたしを守りたくても、いざという局面になれば、もしかしたら……

[エンシア] 今日ね、アークトスさんと話してみて思ったの、この人悪い人じゃないかもって。

[エンシア] それなのに、少しでも権力や利益関係の話に触れた途端に――きっとどんな人でも、みんなそうなんだろうなって……

[エンシア] ……

[ヤエル] それを心配していたのね。

[ヤエル] まぁ、そんなことより、まずは元気を出して、笑ってみて。

[ヤエル] そんなに悲観的では、巫女様の言う明るくて前向きな妹らしくないわよ。

[エンシア] ……そうだね。

[ヤエル] 巫女様は感情に流されるお人じゃないわ。イェラグの巫女が背負う責任の重さを、誰よりも理解している。

[ヤエル] だけど彼女がどうしていくかは、お兄さんだけでなく、あなたにもかかっているの。

[ヤエル] あなたはお兄さんの付属品ではなく、自分の歩むべき道がある。そしてあなたが選んだ道は、必ずお兄さんとお姉さんにも影響を与えるでしょう。

[ヤエル] 確かなことは言えないけれど、あなたの歩む道は、もしかしたら二人の間の架け橋となるかもしれないわね。

[エンシア] ……!

[エンシア] なんだか……どうすればいいのか、ちょっと分かった気がする!

[ヤエル] じゃあ、これで失礼するわね。ヴァイスの目をかいくぐるのは骨が折れるのよ。

[エンシア] もう帰っちゃうの? まだちゃんとお礼が言えてないのに――

[ヤエル] これから顔を合わせる機会はいくらでもあるわ。

[ヤエル] さようなら、エンシア。

[エンシア] またね、ヤエルお姉ちゃん!!

エンシアは閉まる扉を見つめて、軽くため息をついた。手紙を丁寧にたたみ直し、ポケットにしまった。

そして登山バッグの方に向き直り、整理を始めた。

それを半分ほど進んだところで、バッグの底に覚えのない手触りを感じた。

エンシアは手探りで取り出し、目の前に置いた。

それは、二つのキャンディだった。

一つはペイルロッシュ家の応接間にあった、来客用のキャンディ。

そしてもう一つの方は、彼女は必死に記憶の糸をたぐり寄せてようやく思い出した。あれは幼い頃に食べた、蔓珠院にしかないキャンディだった。

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