aklib_story_塵影に交わる残響_LE-8_運命_戦闘前

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塵影に交わる残響_LE-8_運命_戦闘前

コンサートで、エーベンホルツとクライデは計画通りに行動した。しかしコンサートホールはゲルトルーデによって改造されており、二人の演奏にまで干渉してきた。窮地に立たされたエーベンホルツとクライデは、最も直接的な解決方法を同時に思いついた。


[期待する観客] 頑張ってね、観客席で応援してるから!

[おどおどする演奏家] でも……今日まで練習してきたとはいえ、やっぱり自信が……

[おどおどする演奏家] それにあの予言――和音がナントカって、私のことなんじゃ……

[期待する観客] 何言ってるの、怖がることなんかないってば! 昨日の夜に影響を受けた人はみんな治療済みだし、今日だってきっと大丈夫!

[酷薄な批評家] これほど大勢の感染者と同じ空気を吸うというのは初めてですね。このコンサートにそれだけの価値があればいいのですが。

[酷薄な批評家] ツェルニー氏は来ていますか?

[風流人ぶる貴族] 主催側によると、彼も昨晩のオリジムシ騒動によって影響を受けたそうですが、本日の出演をキャンセルするつもりはないようです。

[酷薄な批評家] フッ……それは重畳。

[礼儀正しい感染者] 皆様、先にご入場ください、ツェルニーさんは後ほど到着します。

[酷薄な批評家] 嘘ではないでしょうね? 私たちがホールに入るなり扉を閉めて、それからツェルニー氏が来られなくなったと発表したりは――

[礼儀正しい感染者] ご安心を、そのような事態は絶対に起こりません。ツェルニーさんは少し風邪をこじらせただけで、まもなくこのアフターグローホールに到着します……

[ビーグラー] やはりあの老いぼれか……資料が勝手になくなるわけがないと思っていた。

[ビーグラー] 彼に対する処罰はひとまず後だ。重要なのは資料ではなく、「塵界の音」の研究自体だからな。

[ビーグラー] ――コンサートホールへ行くつもりか?

[ビーグラー] まあいい……しばらく様子を見よう。

[ゲルトルーデ] どうやら、密偵のお仕事も大変みたいですわね。

[ビーグラー] フンッ、私の事よりもご自分の心配をなさった方が良いのでは? ストロッロ伯爵。

[ビーグラー] 自らの領地内で巫王派の残党を匿い、陰から「塵界の音」の研究を支持するなどというのは重罪ですからね。

[ゲルトルーデ] そういえば密偵さん、教えてほしいことがありますのよ。あなた方の記録の中で、私の父と兄はどうやって死にましたの?

[ビーグラー] 話を逸らすおつもりですか?

[ゲルトルーデ] 彼らの件は、この話と深く関係していますのよ。

[ビーグラー] ……

[ビーグラー] 十五年前、あなたのお父上は「塵界の音」を研究する人物を支援していました。我々に発見された後、彼は背後にいる人物について自供しようとしましたが、その前に口封じをされたのです。

[ビーグラー] もしその事情を知っているのなら、あなたの容疑はまた一つ増えることになりますよ、ストロッロ伯爵。

[ゲルトルーデ] 私がその件を隠しているとお思いですの?

[ビーグラー] ……

[ゲルトルーデ] 私の父に対する考え方は、時間と共に変化してきましたわ。

[ゲルトルーデ] 幼い頃の私は、父こそが世界で最も恐ろしい人だと思っておりましたのよ。父の意志は絶対で、誰も彼の決定を変えることはできないものと信じ切っていましたわ。

[ゲルトルーデ] 私は、走り回れば閉じ込められ、食事中に話せば夕飯抜きの上、壁に向かって一時間反省を述べ続けるよう躾けられました……

[ゲルトルーデ] その後、成長するにつれ、父への畏敬の念は高まる一方でしたわ。小貴族たちがストロッロ伯爵に媚びる様子と、父が彼らを歯牙にも掛けない場面を何度も目にしました。

[ゲルトルーデ] 巫王の特使でさえ、ストロッロの高塔に来た際は、地上での横柄な態度は取れず、声を潜めなければなりませんでした……

[ゲルトルーデ] これこそストロッロ家――我々の領主たるあの選帝侯が、かつて最も重んじた一族ですわ。

[ゲルトルーデ] ですがそのすべてが、巫王の崩御と共に一変しました。

[ハイビスカス] 結論から言うと、あなたの身体は現在とても悪い状態にあります。

[ハイビスカス] 医者として、コンサートホールで演奏することを止めるべきです。

[ツェルニー] 止めようとしているようには見えませんが。

[ハイビスカス] ……あなたが命を燃やして創作した楽曲が、お蔵入りなどになってほしくはないんです。

[ツェルニー] どうやら少しは融通が利くようになったみたいですね。

[ハイビスカス] 正しいことでも、時には優先順位が存在するということがわかっただけです。

[ゲルトルーデ] 時々、父が巫王の支配を心から受け入れるほど愚かだったのかと、思わず笑いそうになることがありますわ。

[ゲルトルーデ] その驚くべき愚かさにより、父は自身の考えを取り繕うことさえも拒否しました。

[ゲルトルーデ] 彼の統治中、ストロッロ家は選帝侯の支持を急速に失いましたわ。

[ゲルトルーデ] 我々一族は二つの移動都市の領地も失い、巫王の故郷のウルティカに近く、魅力の欠片もないこのヴィセハイムへ追いやられました。

[ゲルトルーデ] ヴィセハイムを統治するストロッロ伯爵。バカバカしい響きじゃありませんこと?

[ビーグラー] そのせいで、不満を抱いたあなたのお父上は、巫王派の残党に接触し始めたとでも?

[ゲルトルーデ] フッ、私も当時はそう思っていましたわ。ですがあなたは当時の私ほど考えが甘くはないようですわね、密偵さん。

[ゲルトルーデ] あなた方のような密偵は、私よりも熟知しているはずですわ。あの老いたストロッロは、最初から巫王派の残党と接触していたと……違いますこと?

[ゲルトルーデ] そうだ、密偵さん、まだ答えていただいていない質問があります。あなた方から見て、私の兄はどういう死に方をしましたの?

[ビーグラー] 食中毒ですよ。これは公式の見解であり、我々の最終的な結論でもあります。

[ゲルトルーデ] 食中毒ね、アハハ。

[ゲルトルーデ] ではこうしましょう、密偵さん。あなた方が父のことをどの程度理解しているか教えてくださいますか?

[ゲルトルーデ] それと引き換えに、私の兄の本当の死因を教えてあげますわ。

[ビーグラー] 「巫王派の残党」――この呼び名は漠然とし過ぎているため、我々は実際にはそれを用いません。

[ビーグラー] 巫王の魂を呼び戻そうとする愚か者の中には、純粋に力の面で彼を崇拝する者と、彼の在位中に己が得た政治的利益に未練を持っている者がいます。

[ビーグラー] あなたのお父上は間違いなく後者でした。

[ビーグラー] そして後者の背後には、巨大なネットワークがあり、彼はその中のごくごく末端にすぎません。

[ビーグラー] それとストロッロ伯爵……お忘れなきよう。今は私があなたに尋問しているのであって、あなたと取引しているわけではありません。

[ビーグラー] それでも、あなたの質問に答える唯一の理由は、我々があなたの兄の死因を特定できていないからです。

[ゲルトルーデ] ……あら?

[感激する住民] 見て。ツェルニーさんとあのお医者さんよ!

[興奮するアフターグロー区住民] ツェルニーさん、大丈夫ですか?

[ツェルニー] ゴホンッ、大丈夫です。

[興奮する住民] 聞きましたよ。今日は新曲を披露されるんですよね!?

[ツェルニー] そうです。

[ツェルニー] ホールの座席数には限りがありますので、今回全員に聴いてもらうことは叶いませんが、いずれまたあなた方の前で演奏をすると約束しましょう。

[感激する住民] やったわ!

[ツェルニー] ゴホッ……

[ハイビスカス] 無理しないでください、ツェルニーさん。

ツェルニーの家からアフターグローホールまでの道程は、そう長いものではない。だが、ツェルニーの歩く速度は早くなかった。

果たして彼はコンサートで演奏ができるのか……ハイビスカスにはわからなかった。

鉱石病はれっきとした病気である。意志によってどうにかできるような、漠然としたものではない。

だがこの瞬間、彼女は音楽家の意志の力を信じることにした。

ハイビスカスは、ツェルニーが倒れないよう全身に力を込めているのを感じ取っていた。

彼女にできるのは、力を入れ過ぎた彼がバランスを崩さないよう、支えることだけ。

これは彼の戦いなのだ。

[ツェルニー] ……そうだ。

[ハイビスカス] はい?

[ツェルニー] 新曲のタイトルを、思いつきました。

[ツェルニー] タイトルは――

[ハイビスカス] 待ってください。

[ツェルニー] 何です?

[ハイビスカス] それはあの二人が最初に知るべきです、そうでしょう?

[ツェルニー] フッ、確かに。

[ゲルトルーデ] あれをご覧なさいな、密偵さん。アフターグロー区の大英雄、我らが大音楽家、ツェルニー氏の登場ですわ。

[ゲルトルーデ] あなたがヴィセハイムにどれだけの間潜んでいるか知りませんが、もちろんツェルニーのこともよくご存じなのでしょう?

[ビーグラー] このような都市――このような一族の支配する都市に、彼のような傑出した音楽家が現れるとは、実に驚きです。

[ゲルトルーデ] どうやらツェルニーに対する評価は高いようですわね。まぁ当然といえば当然かしら、純粋な音楽家が嫌いな人などいませんわよね?

[ゲルトルーデ] 私でさえ、ずっと彼のことが好きでしたもの。

[ゲルトルーデ] あら、誤解なさらないで。そういう意味ではありませんわ。それにもしそうだったとしても、私にはチャンスなんてありませんもの。

[ゲルトルーデ] 彼と親友のお話については聞いたことがおありでしょう?

[ビーグラー] その話の中にゲルトルーデという女性が登場しなかったのは幸いでした。

[ゲルトルーデ] フッ、およしになって。

[ゲルトルーデ] ご存じないようですわね、彼の曲と人生をこの国に知らしめたのはこの私ですのよ。

[ゲルトルーデ] 私がいなければ、彼はとっくに路上で野垂れ死んでいましたわ。

[ビーグラー] だから「感染者地区から生まれた感染者大音楽家」などという謳い文句で、彼をピエロに仕立て上げ、噂を聞きつけて来た貴族たちのために定期的に演奏させたというのですか!?

[ゲルトルーデ] どうやらあなたは、私が想像するよりもずっと、この都市に愛着をお持ちでいらっしゃるようですわね、密偵さん。

[ゲルトルーデ] 実を言うと、この計画は本来これほど穏やかなものではありませんでしたの。我らストロッロ一族の発展のためなら、一人の音楽家の尊厳など、どうってことありませんわ。

[ゲルトルーデ] ただ――

[ゲルトルーデ] リターニアの貴族として、音楽は幼年時代の必修科目でしたのよ。

[ゲルトルーデ] 認めざるを得ませんわ。彼の音楽には、私ですら感服せずにはいられなかったのよ。

[ゲルトルーデ] ほら、耳を澄ませてご覧なさい。ホールでの演奏はもう始まっていますわ。

[ゲルトルーデ] こんなもの、彼の演奏と比べれば雲泥の差ですわね。

[ビーグラー] ……

[ビーグラー] 先程から、ずっと話題を逸らしていますね。

[ビーグラー] 一体何が目的なのです?

[ゲルトルーデ] あら、私ったら、ツェルニーの話になるとつい、止まらなくなってしまいますわ。

[ゲルトルーデ] 周りの人間は、私が彼を嫌っていると勘違いしていますの。そして彼の周りの人間は、彼が私を嫌いだと知っておりますわ。この悲しい現実のせいで、私は彼の話ができる相手がいなかったんですの。

[ゲルトルーデ] どこまでお話ししたかしら……そうそう、私の兄の話でしたわね。

[ゲルトルーデ] はぁ、この話題はツェルニーの話ほど面白くないですけれど。

[ゲルトルーデ] あなた方が兄の死因を特定できないのも無理はありませんわ。

[ゲルトルーデ] なぜなら、私が兄を殺したんですもの。

[ビーグラー] ……!?

[エーベンホルツ] ふぅ……どうだ?

[クライデ] ……息はぴったりだったと思います。

[クライデ] この楽曲は僕たちのために作られたものですが、ツェルニーさんのスタイルもとても色濃くて、『夕べの夜明け』に少しも劣らないと思います。

[クライデ] たった一晩で……彼は本当にすごい人です。

[エーベンホルツ] 創作とは、長く積み重ねた経験をある瞬間に迸らせることだ。彼はただ、そのきっかけを見つけただけなのだろうが……

[クライデ] ……

[エーベンホルツ] どうした?

[クライデ] あなたが人を褒めるなんて、珍しいなって。

[エーベンホルツ] 私は彼の音楽に対する造詣を過小評価したことは一度もないぞ。

[クライデ] ハハッ。

[エーベンホルツ] 今は彼が演奏に間に合うことを望むだけだ。

[クライデ] 来ますよ。

[クライデ] 曲を作ることは最初のステップにすぎません。楽譜を実際の音楽に変えてこそ、この曲が本当に完成したと言えますから。

[クライデ] フィナーレの曲目が変更になったという情報はすでに出ています。彼は諦めませんよ。

[エーベンホルツ] そうであればいいな。

[クライデ] そうだ、エーベンホルツさん……僕の衣装は似合っていますか? こんな高価な服を着たことがないので、どこか変じゃないですか?

[エーベンホルツ] ……よく似合っている。

[クライデ] ならよかったです。

[クライデ] そうだ、エーベンホルツさん、もう一つ。

[エーベンホルツ] 今日はいつにも増してよくしゃべるな……

[クライデ] 普段もおしゃべりだと言いたいんですか?

[エーベンホルツ] ……少しな。

[クライデ] 我慢してください。これが一緒に演奏する最後の機会かもしれないんですからね。

[エーベンホルツ] そんなことはない。

[クライデ] どうしてないと思うんです?

[クライデ] これが終われば、あなたはウルティカ伯爵に戻り、僕はおそらくまた色んな場所を渡り歩く日々を続けるでしょう。

[クライデ] 僕たちの出会いは――あの女性伯爵のもくろみでもありましたが、一番最初はただの偶然です……違いますか?

[エーベンホルツ] だが――

[クライデ] だが僕たちはもう友人だ、そう言いたいんですよね?

[エーベンホルツ] ……ああ。

[クライデ] 友人にも、別れはあります。

[クライデ] それに、今回の別れはとてもとても長くなるかもしれません。

[クライデ] 僕が言ったことを覚えていますか? お互いを忘れないために、記念品を贈り合いましょう。

[エーベンホルツ] ……私からは、サイコロを一つ贈ろう。

[クライデ] だけど、それはあなたの武器でしょう? 一つなくなっても大丈夫なんですか?

[エーベンホルツ] 正直私にもわからない。

[クライデ] じゃあやめておきましょう。前に言ったように、コインに穴をあけたものをくれれば、それで充分です。

[エーベンホルツ] ……では君は? 私に何をくれる?

[クライデ] まだ考え中です。

[エーベンホルツ] ゆっくり考えるといい。今日を乗り越えれば、時間はまだある。

[クライデ] ……そうですね、まだ時間があります。

[ビーグラー] もう冗談はやめなさい、ゲルトルーデ・ストロッロ!

[ビーグラー] 自分が今、何を言ったかわかっているのですか!?

[ゲルトルーデ] 私が兄を殺したと、そう申し上げましたわ。

[ビーグラー] 狂ってる。

[ゲルトルーデ] 狂っている? いいえ、考えてもご覧なさい、密偵さん。

[ゲルトルーデ] かつて表沙汰にできない研究を陰から資金援助していた尊大な父。そんな父は事実を隠し通せなくなった途端に裏切りを企て、その結果、非業の死を遂げました。

[ゲルトルーデ] 父の死後、背後にいる者の支持を受けて後を継いだ兄は、ただ彼らを恐れて言いなりになるばかり。

[ゲルトルーデ] それどころか、兄はあまりに無能で、何をやってもうまくできないのです。ミスを犯して危うく背後にいる者の情報を漏らすところでしたわ。

[ゲルトルーデ] どのみち兄に不満を抱く人たちの手で殺されてしまうのなら、いっそのこと私が地位を引き継ぐための踏み台になってもらった方がマシでしょう……そうは思いませんこと?

[ビーグラー] ……その「背後にいる者」とは、一体誰なんです?

[ゲルトルーデ] あらあら、密偵さん、ご存知かしら。私の方があなたよりもずっとその答えを知りたいと思っていますのよ。

[ゲルトルーデ] その情報があれば、ここであなたと取引することもできますもの。

[ゲルトルーデ] それどころか、街中で私は巫王派の残党の情報を持っているって叫んでいましたわね。

[ゲルトルーデ] 「共犯の証人」――確かクルビアでは最近こういう言い方が流行っていますわよね?

[ビーグラー] 我々と取引できると思い込んだ愚か者を今まで大勢見てきました。ストロッロ伯爵。

[ビーグラー] そういう連中の末路は一様に良いとは言えないものでした。

[クライデ] ツェルニーさん、もう大丈夫ですか?

[ツェルニー] 大丈夫と言いたいところですが、それでは嘘になりますね。

[エーベンホルツ] 本当に無理なら――

[ツェルニー] エーベンホルツさん、忘れたのですか? コンサートは絶対に開催すると最初に意地を通したのが誰なのか。

[エーベンホルツ] ……

[エーベンホルツ] そこまで言うのなら、遠慮はしないぞ。

[エーベンホルツ] 私たちはすでに、貴殿の書き上げた楽曲の練習を終えている。もし作曲者である貴殿が体調不良で実力を発揮できなかった場合、それは貴殿自身の責任ということになるからな。

[ツェルニー] ご冗談を。この曲は私の頭の中に刻み込まれています。私についてくればそれでいいのですよ。

[エーベンホルツ] 随分と大きく出たな。

[クライデ] ほらほら、ツェルニーさんも到着したことですし、早速ステージへ上がる準備をしましょう!

[クライデ] 僕たち自身のために、聴衆のために、今日は最高のパフォーマンスをしなければなりません。

[エーベンホルツ] クライデ、やはり君は今日……やけに興奮していないか?

[クライデ] そうでしょうか?

[クライデ] もしかしたら、初めて――

[クライデ] 「生きている価値」というものを感じたからかもしれません。

[エーベンホルツ] ……理解できんな。

[礼儀正しい感染者] ツェルニーさん、出番です。

[エーベンホルツ] そうだ、もう一つ訊きたい、ミスター・ツェルニー。

[エーベンホルツ] この曲の名は? まだタイトルを付けてなかっただろう。

[ツェルニー] ご心配なく、来る途中で決めましたよ。

[ツェルニー] 曲の名は――

[ツェルニー] 「光影」です。

[礼儀正しい感染者] 続きまして、ツェルニー、エーベンホルツ、クライデによる、本日最後の曲です。

[礼儀正しい感染者] 皆様もご存じの通り、この曲はツェルニー氏の最新作であり、このステージが初披露となります。

[礼儀正しい感染者] 曲名は――『変ロ短調フルート・チェロ・ピアノ三重奏「光影」』です。

三人が観客に向けて一礼をすると、舞台の前に開けたパルケットに座る人々が熱烈な拍手で応えた。

演奏が始まる。

数小節の後、ホールのあらゆる聴衆が背筋を伸ばした。期待や、疑念や、あるいは他の何か……少し前までどのような表情を浮かべていたかに関わらず、みなが同じ行動をとった。

囁き声も、咳も、衣擦れの音さえもなかった。

この儚く純粋な美を妨げようなどと思う者はいなかった。

ツェルニーの額にかすかな汗が浮かんだ。

表向きの演奏に問題が出たわけではない。ただ、「塵界の音」の制御は非常に繊細で集中力を要したために、ツェルニーは全力を傾けていた。

[ゲルトルーデ] 彼らの演奏が始まりましたわね。

[ゲルトルーデ] ツェルニー、私にはわかっていましたわ。あなたは決して私を失望させないと。そして彼らを助ける方法を見つけ出すと。

[ゲルトルーデ] この新曲を聴いて、創作するにあたってのインスピレーションが、巫王によってもたらされたなんて、あの聴衆たちにわかるかしら?

[ゲルトルーデ] わかるわけありませんわ。だってツェルニー、これはもうあなたの曲ですもの。

[ゲルトルーデ] ……?

[ゲルトルーデ] あぁ、この旋律……なるほど。

[ゲルトルーデ] 二つの「塵界の音」を引っぱり出そうというのね。素晴らしく勇敢ですこと。

[ゲルトルーデ] ですが、引っぱり出した後はどうなさるおつもりですの? まさか自分をその器にするとでも?

ビーグラーは思った。ゲルトルーデはすでに狂っていると。

彼女はまるで親友に語りかけるかのように、コンサートホールの方に向かってぶつぶつと呟いている。

[ゲルトルーデ] 密偵さん、私の演奏を聴きたくありませんこと?

ゲルトルーデは、ビーグラーに尋ねているのか独り言なのか判別がつかない口調でそう言うと、部屋の隅に置かれているハープの方へと歩いて行った。

[ビーグラー] そろそろ私も我慢の限界ですよ、ストロッロ伯爵。

[ゲルトルーデ] 密偵さん。実はこの家、私がわざわざ買い上げたものですのよ。

[ゲルトルーデ] ここはアフターグロー区の外ではありますが、コンサートホールの演奏をはっきりと聴くことができるのですわ。素晴らしい場所だとは思いませんこと?

[ゲルトルーデ] 私はここでコンサートを聴くのを好んでおります。

[ゲルトルーデ] そうすれば、彼が私を見ることはないし、私も、彼に会わなくて済みますもの。

そう言うと、彼女も演奏を始めた。

[ビーグラー] ストロッロ伯爵、この部屋に仕掛けられたアーツユニットはすでに取り外されています。

[ビーグラー] たとえそうではなくとも、アーツで私に何かしらの影響を与えようとは思わないことです。そう簡単に音楽に影響される者は密偵にはなれませんから。

[ゲルトルーデ] 私はただハープを弾きたいだけですわ、密偵さん。

[ゲルトルーデ] ツェルニーは私を憎んでおりますのよ。音楽に対して不純な私を、音楽を道具と見なす私のことを、彼は憎悪しておりますの。

[ゲルトルーデ] 初めは自分の弁解をしようと思いましたわ。ですが後から気付いたのです。もしかしたら彼の言う通りかもしれないと。

[ゲルトルーデ] たとえすべてをさらけ出そうと、私はもう音楽に対して純粋にはなれないのですわ。

[ゲルトルーデ] 教えてくださいませんこと、密偵さん? 肉親を殺めた人間が――自分を十年以上支配してきたクズどもへの復讐心に満ちた人間が、どうすれば純粋になれるのかしら?

どれだけ嫌悪していようと、ビーグラーは認めざるを得なかった。目の前のゲルトルーデの演奏は非常に素晴らしいものであり、窓の外から聴こえてくる演奏と見事な調和をみせてすらいる。

そして、これは紛れもなく優秀なリターニア貴族が満たすべき水準にあると。

しかし、そんなゲルトルーデの口から吐き出された言葉が、彼を戦慄させた。

[ビーグラー] 待って、復讐!?

[ゲルトルーデ] あなたは馬鹿ではありませんわ、密偵さん。昨夜の私が犯した悲惨な失敗は、無鉄砲がもたらした結果だけではないとおわかりでしょう。

[ゲルトルーデ] だけど私が何を隠しているのかわからないから、何か他に企みがあると思うからこそ、ここで私のおしゃべりに付き合っていらっしゃるのですわよね?

[ゲルトルーデ] 正直申し上げると、時間を稼ぎたいと言う気持ちはありましたわ。ですが、ずっと心に抱え込んできたことがあったせいで、こんなにダラダラと話してしまいましたの。

[ゲルトルーデ] ご無礼をお許しくださいまし。

[ゲルトルーデ] それと、大変心苦しいのですが、あなたには私と共にここで死んでいただきますわ。

[ビーグラー] 何を言い出すのです!?

これは間違いなく革新的な曲だった――少なくとも導入部分は確かにそうだった。

まさにタイトル通りだ。破滅が起こる錯覚を引き起こし、それから心を谷底へ突き落とす。それはまるで空一面を雲が覆い尽くすようで、日差しさえも見えない。

しかしすぐに、曲調は一変した。重厚なチェロをベースに、透徹なフルートの音色がピアノを伴って暗雲を突き破り、陽の光が差す喜びを表現している。

光だ!

誰もが心の中でそう思った。

彼らは瞬時に『光影』の「光」について理解した。

そして人々は「影」の訪れを期待した。

しかし、次第に聴衆は異常を感じ始めた。

なぜなら、三人の奏者の顔に苦痛の色が浮かんでくる様子が見えたからだ。

まるで彼らが内部から何かに食い荒らされているかのように。

[???] なんて美しい音色でしょう。

[???] 優れた音楽家が命を燃やして、巫王が残した力と戦うなんて。

[???] 敗北が定められたこの戦いを引き分けに持ち込めるところだった。でも結局彼は、巫王でも自分でもなく、旧知の方の執念の前に敗北したのね。

[風流人ぶる貴族] あの、何をおっしゃっているのですか?

[???] このハープの音が聴こえないの?

[風流人ぶる貴族] は? ハープ? どこにハープがあるのです、これは三重奏では?

[???] 鈍感ね。

[???] 遠くの小さな建物から聴こえるハープの音にも耳を傾けるべきよ。

[???] 底の見えぬ絶望の淵から発せられる甲高い笑い声も、また同じように心を揺さぶられるものだわ。

[???] そしてあなた、私のかつての教え子……

[???] 私はチェロで言葉を発することを教えた。あの時すでに、あなたの運命のテーマを聴いたわ……なんと残酷な旋律だったことか。

[???] だけど思ってもみなかったの。それをここまで輝かしい音色に磨き上げられるだなんて。

[???] この演奏に敬意を表する。私のよく知るあなたと、そして見知らぬ者たちのハーモニーに。

[???] 静聴、これこそ敬意を表す唯一の方法だわ。

[ゲルトルーデ] 「塵界の音」の計画は、私が再開させたのよ、密偵さん。

[ビーグラー] ……あなたが?

[ゲルトルーデ] まず、「塵界の音」はとても貴重であるということ。それにあの計画の後ということもあり、「音」があなた方の支配下に置かれるのは必然でしたわ。

[ゲルトルーデ] そして過去の研究から、巫王との血縁関係がなければ、あのような実験に耐えることはできないと証明されております。

[ゲルトルーデ] ですから、あの計画はあなた方に阻止された後、完全に放棄されたわけではありませんが、停滞状態になりましたわ。

[ゲルトルーデ] けれども、ですわ。「塵界の音」という計画が巫王本人への崇拝に端を発するとは言え、恐怖そのものを心の底から崇拝している人間がそんなにたくさんいますかしら?

[ゲルトルーデ] 彼らはただ、双子の女帝を倒す武器が欲しいだけですの。かつて彼女たちが巫王を倒したようにね。

[ゲルトルーデ] そして私は、兄の無能さが一族の滅びを招くと気付いた後、行動を起こすしかありませんでしたわ。

[ゲルトルーデ] それでも、私はあの人たちに自分の価値を示すための方法を見つけられませんでしたけど。

[ゲルトルーデ] 音楽、アーツ、金銭、権力、私の身体さえも……役に立ちませんでした。

[ゲルトルーデ] でもとうとう、父の遺した書類の山の中から、この埃に埋もれた計画を発見したの。

[ゲルトルーデ] この計画の再開は、私に状況を打開するチャンスをもたらしたのですわ。私の存在に多少の価値が生まれて、彼らも期待を持ち始めましたのよ。

[ゲルトルーデ] ですが彼らは知りませんの。私がもうとっくに我慢の限界だということを。

[ゲルトルーデ] これ以上、彼らの操り人形は御免ですのよ。

[ゲルトルーデ] それで、私は計画を実行することにしましたわ。ただ残念ながら、その目的は誰かの統治を覆すことではありませんのよ。

[ゲルトルーデ] 私はただ、あの人たちにも苦しみを味わわせたかっただけですの。

[ゲルトルーデ] 媚びへつらい、あらゆる手段を尽くして、私の研究成果を楽しんでいただくためのイベントに彼らを招待しましたの。

[ゲルトルーデ] 今コンサートホールに行けば、あなたが以前から追っていた対象が見つかるかもしれませんわよ。

[ビーグラー] ……下水道の人体実験場から「塵界の音」の計画書まで、すべてわざと私とエーベンホルツに発見させたと?

[ゲルトルーデ] 確かに元々はあなた方密偵に用意した余興ですけれど、ウルティカ伯爵があなたと遭遇したのは予想外でしたわね。

[ビーグラー] ……あなたがわざと現れたのは、コンサートホールに仕掛けた本当の細工を彼らに気付かせないためですね。

[ゲルトルーデ] 当然ですわ。拡声器は些細な目くらましにすぎません。

[ゲルトルーデ] 拡声器があれば、全アフターグロー区に災いが降り注ぐのは必至ですわ。

[ゲルトルーデ] それを取り外せば、確かにアフターグロー区は救われるでしょう。けれど、コンサートホールの中の人々に災いが降りかからないとは誰も言っておりませんわよ。

[ゲルトルーデ] コンサートホールの改造は、「塵界の音」の研究と同時に始めておりましたのよ。

[ゲルトルーデ] ツェルニーが今挑戦しているのは、自身の創作した曲を用いて二人の「塵界の音」を摘出すること――

[ゲルトルーデ] そして私の挑戦はもっと単純ですわ。「塵界の音」を摘出しようとする瞬間、彼らは知るでしょうね、もう自分たちの手に負えるものではないと。

[ゲルトルーデ] 「塵界の音」の旋律と共鳴はすでに私が撹乱いたしました。その器になるため自らを差し出そうとする者が誰であろうと、通常の数百倍の混乱と無秩序に直面しなければなりません。

[ゲルトルーデ] そして器を見つけられない「塵界の音」は、この巫王が建造したコンサートホール内のあらゆるものを呑み込む穴となり、ホール内にいるすべての人がその中に落ちるでしょう。

[ゲルトルーデ] もちろん、私も演奏の一部ですので、無事ではいられませんわね。

[ゲルトルーデ] そしてあなた、不幸な密偵さん。今のうちにここを離れなければ、自分の不運を嘆くことしかできなくなりますわ。

[ゲルトルーデ] ふふ、ずいぶん凶悪な眼差しですわね。あなたが何をしたいかはわかりますわ。

[ゲルトルーデ] ごめんあそばせ。私はもうこの曲から抜け出せませんのよ。

[ゲルトルーデ] 私を殺せば、ステージ上のあの三人の中の誰かを殺すのと同じ……ただ皆様の死期を早めるだけですわ。

ツェルニーは演奏をやめたかった。

だが彼にはできない。

「塵界の音」を引っ張り始めたその瞬間、彼は微かな異常に気付いたが、しかしその時はもうすべてが遅すぎた。

コンサートホールはまるで巨大なアーツユニットのように、彼らの演奏を吸収し反射し始めている。

共鳴。真の共鳴。

ゲルトルーデの改造は、拡声器などという単純なものではないと、彼はようやく気付いた。

このコンサートホール自体がすでに兵器と化しているのだ。

[ツェルニー] ゲルトルーデ、なぜこうまでして……

[クライデ] ツェルニーさん、このままだと……

[ツェルニー] 止めてはなりません!

[ツェルニー] コンサートホールの干渉で、「音」は乱れています。

[ツェルニー] 今演奏を止めれば、あなた方が死ぬだけでなく、会場にいる方々も器を失った「音」の暴走により被害を免れません!

[エーベンホルツ] (だが――)

言わずとも彼らは皆わかっていた。この曲は、エーベンホルツの持つ「音」で始まり、クライデの「音」で終わるということを。

たとえ今止めなくても、曲が終わればクライデの「音」は完全に摘出される。取り返しがつかなくなる事態は、依然として避けられない。

もはや為す術がない局面だ。

[礼儀正しい感染者] この鬱々とした感覚、それに抑えつけるようなアーツ、一体何が起きて……

[ハイビスカス] あの!

[礼儀正しい感染者] あなたはロドスの……

[ハイビスカス] 急いでホールの中の皆さんを避難させてください!

[礼儀正しい感染者] えっ?

[ハイビスカス] 大変なことが起こります!

[ハイビスカス] 早くしないと、大惨事になります!

[落ち着いた貴族] これがゲルトルーデの研究成果ですか、面白い。

[高塔の術師] どう思われますか?

[落ち着いた貴族] たかが伯爵にしては、素晴らしい出来です。

[落ち着いた貴族] 後ほど彼女をこちらへ寄越してください。

[高塔術師] はい。

[ビーグラー] どうして、彼らが今日コンサートホールを使用するという確証を持てたんですか?

[ゲルトルーデ] 違いますわ、密偵さん。

[ゲルトルーデ] これから起きようとしていること、どれひとつとっても確証などありませんでしたの。

[ゲルトルーデ] 私が唯一確信しているのは――彼らがあのホールでクライデを救おうとする限り、私が勝つということですわ。

[ゲルトルーデ] クライデの病状が最後の切り札です。もし彼らがこれさえも解決できたとしたら、私の負けになります。

[ゲルトルーデ] それだけのことですわ。

[ビーグラー] そんな……馬鹿な! こんな計画……計画とさえ呼べません!

[ゲルトルーデ] だって私の計画は、初めから失敗しているんですもの!

[ゲルトルーデ] ここであなたとおしゃべりしているのは、勝算があってのことだとお思いですか? そんなわけないでしょう?

[ゲルトルーデ] ツェルニーが大人しく私に従っていれば……たかがウルティカ伯爵ごときが自分のくだらない運命に抗おうとしなければ、私がこんな方法で賭けに出る必要などなかったのですよ?

[ゲルトルーデ] ツェルニーは、自分がどれだけ幸運であるか、永遠に理解することはないでしょう。彼には他人が認める才能があり、私が与えた舞台もありますから。

[ゲルトルーデ] 少しでも私に妥協してくれれば、彼の音楽をより高みへと、女帝陛下の前へだって導いてあげましたのに。

[ゲルトルーデ] ですが彼はそれを拒みましたのよ!

[ゲルトルーデ] そしてウルティカ伯爵――彼は自分がお飾りのようにウルティカに居座り、嘲笑と侮辱を受けることが最大の恥だと思っていますわ。

[ゲルトルーデ] ですが私は、この都市であの連中からの支配に十五年も耐え忍んできましたのよ。丸々十五年も!

[ゲルトルーデ] 成果を出せなければ、口封じをされるのよ。どうして彼らがのうのうと生きられるのに、私には許されませんの?

[ゲルトルーデ] 巫王や双子の女帝なんてどうだっていい。私はただ生きたいだけなんですの!

[ゲルトルーデ] 最初から、ただ生きたいというだけでしたのに……

[エーベンホルツ] ……

ヴィセハイムに来てからというもの、エーベンホルツにはやりたいことが増えていった。

彼はもっとアフターグロー区を巡って、この活力に満ちた地区を見てみたくなった。

彼はもっと楽器を演奏したくなった。初めて本気で音楽の魅力を実感していた。

彼はツェルニーに謝罪し、彼の音楽が自分にどれだけの力を与えてくれたかを伝えたい。もしツェルニーが許せば、彼を本当の音楽の師として仰ぎたいと思った。

彼はクライデともっと一緒にいたいと思った。

一緒にいて何ができるかはわからない。おしゃべりか、口喧嘩か、それとも取っ組み合いか……彼にはわからない。ただもう少し、一緒にいるだけで構わない。

しかし、もし彼がゲルトルーデの招待を断り、ここに来なければ、こんなことにはならなかったはずだ。

彼の軽率さが、事態をここまでのものにした。

[エーベンホルツ] ……

彼はこの局面をどう打破すべきかを知っている。迷うことなくそれを行うつもりだ。

実際、もしもツェルニーが新たな方法を提案しなかったとしたら、彼はゲルトルーデが言っていた方法を実行する予定だった。

しかし、あの時の彼がそれを罪悪感によって行おうとしていたというなら……

今の彼は違う。彼は言うだろう、これは罪滅ぼしのためなどではないと。

彼はツェルニーとクライデの方をちらりと見た。

傑出した大音楽家と新しく出来た友人。

彼は思う。二人には自分よりも生きていく価値があると。

だが彼は気付いていない。音楽に対して完全に心の扉を開いた今、彼の感情や思惑はもう隠しきれなくなっていた。

[ツェルニー] エーベンホルツさん、馬鹿な真似はやめなさい!

[ゲルトルーデ] フフッ、ウルティカ伯爵、私のウルティカ伯爵、あなたはこの曲の序章ですのよ。

[ゲルトルーデ] たとえ曲を強引に逆転させ、自分の脳内に収めたとして、その際に生じる齟齬や矛盾をどのように処理なさるのかしら?

[ゲルトルーデ] それは死に際の悪あがきに過ぎませんわ!

[ゲルトルーデ] 誰も彼もが逃げようと、自分の運命から逃げ出そうとしている――どうやって、何をもって逃げようとしていますの?

[ゲルトルーデ] 私はあいつらに怯え続けて、あいつらに頭を押さえつけられながら十五年も生きてきた。でも最後に、最後の最後に勝ったのは、この私ですわ!

[ゲルトルーデ] 私が勝った! 運命が私の味方をしたのですわ!

[ゲルトルーデ] 誰も逃がさない……誰一人逃がすものですか!

[落ち着いた貴族] 何と醜い姿なのでしょう、演奏者が自らの演奏する音楽に抵抗するとは。

[落ち着いた貴族] これもゲルトルーデの計画なのでしょうか?

[高塔術師] それは――わかりかねます。

[礼儀正しい感染者] 公演にトラブルが発生しました。皆さん、ひとまず会場から離れてください。

[礼儀正しい感染者] 会場から離れてください!

[高塔術師] おや、司会者がここを離れるよう観客に呼びかけていますが――

[落ち着いた貴族] 彼を黙らせなさい。

[高塔術師] はい。

[礼儀正しい感染者] うぐっ……

[ハイビスカス] 何をしたんですか!?

[高塔術師] ただ、感染者の平民を黙らせただけです。

[ハイビスカス] 今がどんな状況かわかっているんですか?

[高塔術師] もしあなたが黙らなければ、彼と同じようになるということだけはわかります。

[ツェルニー] やめなさい!

[エーベンホルツ] (ほんの少し二人のために時間を稼ぐだけで構わない……)

[クライデ] ……

もしクライデに、過去の人生が辛かったかと尋ねれば。

彼はきっとこう答えるだろう――「もちろんです」と。

祖父から、自分の身体が非常に特殊であると聞かされ、彼も次第にそれを理解した。

彼のそばにいる者は苦しみ、彼が善意で接した人は、いつも最後は彼から離れていく――そして今度は彼の方が人々から離れた。

しかしクライデは、そんな人生を恨んではいない。

長い放浪生活の中で彼が最初に学んだのは、運命を呪っても人生は良くならないということだ。

その場でできることの中から、自分の存在意義を見つけるより他に方法がなかった。

[クライデ] ……

今、彼はその時が来たと思った。

誰もが生きる価値をもっているのだ。そこに優劣はない。彼にはもう友人ができ、友情を得た。それで満足だった。

今日は天気がいい。さよならを言うには最高の日だ。

[ビーグラー] ん?

[ゲルトルーデ] ――!?

[ゲルトルーデ] チェロ……クライデ、彼も同じことをするつもりですの!?

[ツェルニー] クライデさん、あなたまで……!

[クライデ] ツェルニーさんが命を燃やして作ってくれた楽曲が、このまま踏みにじられるのなんて耐えられませんよ。

[クライデ] それにこの曲の終わりは、コーダは、僕のパートです。つまりこれは僕の役目だ。そうでしょう?

[ツェルニー] 自分が何をしているかわかっているのですか!?

[エーベンホルツ] ……!

[クライデ] エーベンホルツさん、止めないでください。そして、僕のテンポについてきてください。

[エーベンホルツ] (だが君は――)

[クライデ] 僕たちの三重奏を無事に終わらせましょう、ね?

[エーベンホルツ] (しかし!)

[クライデ] エーベンホルツさん、ツェルニーさん、信じてください。僕が何とかしますから。

[エーベンホルツ] (私は……)

[エーベンホルツ] (君を信じる。)

[ハイビスカス] 曲が……正常に戻った?

[ハイビスカス] ち、違う! クライデさんが……

[高塔術師] 閣下、あの感染者の女が何やら怪しい動きを見せていますが……

[落ち着いた貴族] 構いません。ただの平民です。音楽を鑑賞する方が重要ですよ。

[落ち着いた貴族] お聴きなさい、ここに来て再び正常に戻りました。

[落ち着いた貴族] 先程のは、ささやかなサプライズだったようですね。

[高塔術師] ゲルトルーデは恐らく、「塵界の音」の制御が難しいことを示そうとしたのでしょう。自らの価値を高く見せるために。

[落ち着いた貴族] フッ、彼女のことを気に入ってしまいそうです。

[落ち着いた貴族] 我々に興味深い技術を提供した上、このようなエレガントな曲まで披露してくれるとは。

光と影の入れ替わりは、フルート、チェロ、ピアノの三重奏の中で余すところなく表現された。

やがてチェロとピアノの旋律に導かれて、曲はフィナーレへと突入した。

聴衆は、寒い夜の囁きや、闇の抱擁、深遠の呼び声が響くのだろうと思っていた。

だが彼らに聴こえたのは、虚無の中から伝わってきた長いため息だけだ。

しばらく経ってようやく、観客席からの拍手が湧き起こり、その後どんどん大きくなっていった。

しかし、拍手がホール全体を席巻する前に、恐怖に駆られた叫び声がそれを断ち切った。

[エーベンホルツ] 終わった……クライデ、君はやり遂げたんだ!

[クライデ] いえ、まだ、やらなくてはならないことがあります……

[エーベンホルツ] 待てクライデ、君の身体――どういうことだ!?

[クライデ] エーベンホルツさん、外へ行きましょう。

[クライデ] ツェルニーさん、ハイビスカスさんと一緒に観客たちを避難させてください。できるだけ遠くに。

[ツェルニー] あなたは――

[ハイビスカス] クライデさん、身体が……

[クライデ] ごめんなさい、ツェルニーさん、ハイビスカスさん。

[クライデ] 言いたいことはたくさんありますが、どうやら今はそんな場合じゃなさそうですね。

[クライデ] エーベンホルツさん、連れて行ってください。僕がまだ自分を抑えられているうちに。

[クライデ] 頭の中の旋律が……だんだんとハウリングを起こして……

[クライデ] 二つの旋律が……頭の中でせめぎ合っています……

[クライデ] エーベンホルツさん、早く。外に連れ出してください。

[クライデ] このホールは二つの旋律を同時に強化しています。もう持ちそうにありません……

[エーベンホルツ] わかった!

[ツェルニー] エーベンホルツさん、あなた……

[エーベンホルツ] クライデは私に任せてくれ。

[ハイビスカス] ですが――

[エーベンホルツ] 任せろと言っている!

[エーベンホルツ] ハイビスカス、ツェルニーと共に、早く聴衆を避難させてくれ!

ステージ上の異変を見て、ホール内の人々が逃げ始めた。

パニックの悲鳴が次々上がり、その中にハイビスカスとツェルニーの叫び声が混じる。しかしそれらは、今のエーベンホルツの耳にはただの雑音だ。彼の目にはホール外の広場しか映っていない。

[エーベンホルツ] 初めからこうするつもりだったのか?

[クライデ] そんなわけないでしょう……

[クライデ] ただ、予感はしていました。

[エーベンホルツ] 予感だと!? なぜ今日はこんなに元気なのかと不思議だったが、その予感のせいか!?

[クライデ] い、いいえ……あなたとツェルニーさんと一緒に演奏できるのが、本当に嬉しかったんです。

[クライデ] 人生でこんなに嬉しかったのは初めてです。

[エーベンホルツ] だったらこんなことをするな!

[エーベンホルツ] 嬉しいことなら、他にもこれからたくさん――

[クライデ] でも僕が動かなければ、あなたかツェルニーさんが同じことをやっていたでしょう……それくらいわかります。

[エーベンホルツ] だから君がやるべきだと!?

[エーベンホルツ] 君は苦労ばかりしてきたじゃないか! だけど私は充分に生き飽きたんだ。今度は君の番なんだぞ!

[クライデ] ごめんなさい、エーベンホルツさん。

[エーベンホルツ] 何を謝っている……何を謝る必要があるのだ!

[クライデ] 僕の今の姿、きっと醜いですよね。

[クライデ] 僕のためにオーダーメイドしてくれた衣装を台無しにしてしまいました。こんなに高い衣装を――

[エーベンホルツ] 言うな! 君が望むなら、こんなものいくらでも買ってやる! クライデ!

[クライデ] ごめんなさい――

[エーベンホルツ] この……

[エーベンホルツ] この……嘘つきめ。

[エーベンホルツ] 私は今すごく怒っているぞ、クライデ。

[エーベンホルツ] 本気で怒っている!

クライデはすでに衰弱して顔を上げることができなかった。しかし彼にはエーベンホルツの声が、今にも泣き出しそうに震えているのが聞こえていた。

[うろたえる感染者] 一体どうした? 何があったんだ?

[気丈な感染者] 私もわからないわ……ツェルニーさんがコンサートは中止だって。ハイビスカスも必死になって私たちを逃がそうとしてて……

[気丈な感染者] 大丈夫、きっと大丈夫よ。

[うろたえる感染者] だが急に空が曇ってきたぞ、本当に何か災いが起こるんじゃ……

[うろたえる感染者] ほら、あの予言、和音がどうとかって……

[気丈な感染者] 大丈夫、大丈夫よ。だいたいあの予言はハイビスカスのことを悪魔だなんて言ってたんだから。そんなことなかったでしょう。

[うろたえる感染者] 雨?

[気丈な感染者] ほら見て、大したことないわ。ただの雨よ。

[エーベンホルツ] ……着いたぞ。

[クライデ] ……

[エーベンホルツ] 少しは良くなったか?

[クライデ] いいえ……

[クライデ] ただ……あの感覚を無理やり抑えつけているだけです。

[エーベンホルツ] 私にしてほしいことがあれば、遠慮なく言え――

[クライデ] 訊きたい……ことがあります。

[エーベンホルツ] ああ! いくらでも訊くがいい!

[クライデ] エーベンホルツさん、あなたは自分の運命が悲惨だと思いますか?

[エーベンホルツ] 私の運命が――悲惨かどうか?

[エーベンホルツ] かつてはそう思っていた。

[エーベンホルツ] だが、君に出会ってようやく気付いた。過去の私は大したことでもないのに、不幸ぶってわめいていただけだと。

[クライデ] あなたは悪くないです。

[クライデ] あの人たちが自由を奪ったんです。あなたの目を、耳を覆い隠したんです……それはあなたが悪いわけじゃありません。

[クライデ] では、僕の運命が悲惨だと思いますか?

[エーベンホルツ] 初めて君の生活に接した時、確かに驚いた。

[エーベンホルツ] だが、だんだんと理解したよ。君の生活は悲惨なんかではなく、むしろ……充実していたのだと。

[クライデ] あぁ、それなら良かったです。

[クライデ] ゴホッ、ぐふッ……

[エーベンホルツ] クライデ、君は……

[クライデ] もうこれ以上は抑えられそうにありません。ですが最後まで聞いてください、エーベンホルツさん。

[クライデ] 「塵界の音」の楽曲が頭から離れないんです。巫王が残した力が僕の体内で哮り、残酷な考えが胸の中に溢れ返って、運命に屈するよう僕に迫ってきます。

[クライデ] アレが僕たちの境遇は苦痛だと、僕たちの再会は不幸だと、僕たちの運命は悲惨だと、そう言えと迫ってきます。

[クライデ] でも!

[クライデ] それでも!

[クライデ] 僕は断固として認めません!

[クライデ] わかりますか?

[クライデ] 「塵界の音」が、僕たちに数え切れないほどの苦痛をもたらしたということは否定しません。

[クライデ] ひたすら侮辱と軽蔑を受けた伯爵の生涯が、実に不幸であるということは否定しません。

[クライデ] いつ何が起こるかわからない放浪生活が、悲惨だと言えるのは否定しません。

[クライデ] でも僕は……こんな短い言葉で自分の人生を表すことには、絶対に同意しません。

[クライデ] 祖父は僕のような足手まといを連れて十数年さまよいました。その間はとても貧しくて、祖父以外の人との深い繋がりなどは、到底築けませんでした。

[クライデ] ですが、僕から善意を差し出せば、相手からも善意を感じることができました。

[クライデ] チェロを教えてくれる先生にだって出会えたんです。

[クライデ] なにより僕は……一番大事なのは――十数年の時を経て、またあなたに会えたんです。

[クライデ] エーベンホルツさん、忘れないでください。僕たちは、あの非道な実験の生存者です。僕たちはあれを生き延びたんです。

[クライデ] 自分の運命を呪いたくなった時はそのことを思い出してください!

[クライデ] 僕たちは再会し、また友人になれました。そしてステージで一緒に素晴らしい演奏もしました!

[クライデ] そんな僕たちが不幸であるはずがないでしょう?

[クライデ] 僕は幸せです……僕たちよりも幸せな人なんているでしょうか? どこにもいませんよ、いるわけありません!

[エーベンホルツ] ……わかった、わかったから。

[クライデ] いいえ、全然わかっていません!

クライデの声にはすでに雄たけびが混ざりつつあった。まるで怪物のような雄たけびが。

しかしエーベンホルツには、その言葉は優しさに満ちて聴こえた。兄が遠出する前に、弟に言い聞かせるような。

[クライデ] もし本当にわかったというのなら、今回のことで悲しむのはやめてください。エーベンホルツ、親愛なる僕の兄弟。

[クライデ] 本来なら、共にここで死に、コンサートホールにいる全員が僕たちと一緒に命を落とすはずでした。

[クライデ] でも僕たちは抗った!

[クライデ] 他の人からすれば、こんな抵抗は取るに足らないかもしれません。でも僕たちは、互いのために全てを差し出す機会を得ることができたんです!

[クライデ] あなたも僕も相手のためなら喜んで自分を差し出した。ただ最終的にそれを行ったのが僕だった、それだけです!

[クライデ] すごいことなんです。他の何かのためではなく、互いのために何の躊躇もなく全てをかけられるなんて。すごく幸せなことなんです。

[クライデ] 僕たちは運命に抗う道を歩んでいます。ツェルニーさんがすべてを注いで作ってくれたあの曲のように――

[クライデ] だから、胸を張ってください、エーベンホルツ。

[クライデ] あなたは最後にもう一つ、やらなくてはならないことがあります。それは――

[クライデ] あらゆる手段を用いて僕を止めること……僕にこの都市を破壊させないで。いいですか?

[エーベンホルツ] ……わかった。

[クライデ] はは。その目つき……見違えるようです。

クライデがよろよろと広場の中央へと向かう。

一歩進むたびに、源石結晶が彼の体内からうねるように飛び出し、彼の血肉は皮膚の下で絶え間なく逆巻いていた。

奇怪な旋律が広場で鳴り始めた。

結晶はあっという間にクライデの全身を覆い、鎧となり、楽器へと変わった。

そして、クライデと呼ばれていた存在は一瞬にして消え失せ、それに取って代わったのは――

現れた化け物の姿を目にした者すべてが、脳裏にその二文字を冠する存在を思い浮かべた――

巫王。

[クライデ] まもなく最期の時が訪れる。敬愛すべき貴族各位、そして親愛なる感染者の兄弟たちよ。

[クライデ] そして……エーベンホルツ!

[クライデ] 聴くがよい、我が最後の演奏を!

[クライデ] 我のために失意せよ、悲嘆せよ、嗚咽せよ、歌唱せよ。

[クライデ] なぜなら今日、我は死に、そして貴様は――

[クライデ] 生まれ変わるのだ!

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