登録日:2021/03/20 Sat 14:52:22
更新日:2024/05/27 Mon 09:27:33NEW!
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【概要】
鎧兜とは、胴体部分を防護する鎧と頭部を守る兜の防具のことを言う。
甲冑と言う場合はこの鎧と兜をワンセットで扱う場合である。
日本式の鎧兜の他、西洋の頭部まで覆う鎧兜のことも甲冑と呼ぶ。
鎧に関しては腕部を保護する籠手、太股を保護する草摺、足を防護する脛当などが付属することもある。
●目次
【歴史】
◯鎧兜の始まり
世界最初の鎧兜は、猛獣から剥いだ毛皮を羽織ったモノだったとされる。
つまり衣服と変わらず、主に狩猟時のダメージを軽減させる程度の意味合いしかなかった様だ。
◯紀元前25~23世紀
メソポタミア文明の初期に存在したシュメール人が青銅製の兜を使い始める。
彼らの一部は鋲止めがされたマントを鎧のように使っていた。
◯紀元前15世紀頃
遅くとも古代エジプトのアメンホテプ2世による治世の頃にスケールアーマーの原型が現れる。
着用できたのは王侯貴族だけだった様だ。紀元前16世紀頃から存在するという説もある
◯紀元前12~紀元前7世紀頃
エジプトや中国など世界各地で革鎧が使われ始める。
また中東地域の広域を支配していたアッシリア帝国で、革や金属製の小片を綴り合わせたラメラーアーマー(小札鎧)が、上級軍人を中心に使われ始め、その後、北部のトルコ人やアヴァール人などの遊牧民達により、ヨーロッパや東アジアなどの地域に伝播されていく。
ギリシャでは胴体を保護する、筋肉を模した形状の青銅製のプレートアーマーの原型が現れるも、実用面の問題から革製や布製の鎧に徐々に取って代わられていく。
◯紀元前4世紀~1世紀
ギリシャでは要所を青銅で補強した革製や布製の鎧が重装歩兵であるHoplites用の主流になるが、重い盾と周囲の音を聞き辛い兜により鈍重化。
ペレポネソス戦争頃から軽装歩兵に負ける事例が増え始め、最終的には盾と胸甲を統合して軽量化する代わりに両手持ちの長槍を装備した重装歩兵と革製の鎧を着こんだ騎兵を連携させたマケドニアに敗れる。
ペルシャ戦争でギリシャ相手に痛撃を被ったペルシャ帝国もギリシャ式の重装歩兵の充実を図っていたが、やはりマケドニアに大敗してしまった。
これ以降、中近東ではマケドニア式の武装と戦術が標準となる。
ケルト人により鎖を用いた金属製の鎧、チェインメイルが開発され、欧州各地に広まった。
しかし製造方法はかなり大変で、一部の人間しか身につけて居なかった様だ。
ケルト人は部族によっては丈夫な革のマントやズボンを配備しており、弓矢や投槍でも容易には傷つかなかったが、動きやすいからと全裸で戦場に臨む部族も少なくなかった。
一方、ケルト人の襲来に悩んでいたローマではエトルリア人由来の製鉄・金属加工技術を生かしてチョッキや半袖Tシャツデザインの比較的簡単な製品ながらチェインメイルの量産化に成功(ロリカ・ハマタ)、正規軍のほぼ全員に配備した。
軟鉄製*1で薄刃のケルト製の長剣の威力を大幅に削ぐことで圧倒的優位に立った。
また、ロリカ・ハマタは当時の西洋世界で一般的な剣や槍に対して有効な防御力を備えながらも、長時間行軍に耐えられる程度の重量に抑えられていた為、戦場でも機敏に動き回ることが出来、長槍を装備して鈍重になったギリシャ、マケドニアのファランクス部隊も大破した。
続いて、紀元前70年のアルメニアとの戦争では1万5000人のローマ軍は8倍のアルメニア軍12万5000人に対して正面決戦を挑み、僅か死傷者百数十人の被害でアルメニア軍を壊滅させてしまう(討ち取られたアルメニア兵は10万人を超えていた)。ハンニバル戦術を研究したスキピオが完成させた戦闘ドクトリンが非常に優れていた事もあるが、鎧兜で武装して攻撃を受けても簡単にはダメージを負わないローマ兵と数だけ集めて碌な防具を支給出来なかったアルメニア兵では戦闘力に隔絶した差が有ったのだ。
目の細かいロリカ・ハマタと大盾で武装したローマ軍歩兵は西洋世界最強の戦力として君臨し、まともに戦えるのはチェインメイルと大盾を撃ち抜ける強力な弓を量産したパルティア軍精鋭部隊程度であった。
パルティアとは紀元前3世紀頃から3世紀にかけて現代のイランからイラク東部に存在した国家である。
機動性に長けた軽装騎兵が弓矢で敵を攪乱し、精鋭の重装騎兵の突撃でトドメを刺すという戦法で中東の広範囲を支配していた勢力である。
主力は前者で甲冑を着ておらず、後者は全軍の一握りだったが、板金で強化されたチェインメイルやスケイルアーマーとチェインメイルを併用した全身甲冑で人馬ともに装甲化された騎兵であり、ローマ軍にとっても驚異的な存在だった。
帝政初期のローマ軍では帯状の鉄板を連ねた新型鎧「ロリカ・セグメンタタ」も量産・配備されたが、旧式のロリカ・ハマタと比べると錆び易い*2、破損時の修復に手間取る等の欠点が有ったので完全にロリカ・ハマタを駆逐するに至らなかった。
東アジアでは紀元前後から、西方に先駆け鋳鉄製の武具の製造が始まっていたものの、青銅の鋳造技術が世界最高水準まで達していたこともあり、未だに青銅が主体であったが、1世紀ごろから鋳鉄と軟鉄を混ぜることで良質な鋼の量産方法を確立したことで鋼鉄製の武具の製造が始まった*3。
◯4~10世紀
4世紀になると、パルティアに代わるようにペルシャを支配したササン朝やローマ帝国の後継である東ローマ帝国(ビザンティン帝国)などでも金属製の全身を覆う甲冑や馬鎧が取り入れられるが、全軍の一部であること、騎兵槍やメイス、刀剣類で武装していたという点でパルティアからあまり変わっていない。財政的な負担は大きかったらしい。
この時代以降、西アジアの甲冑はデザインの差こそあるものの、東アジアの影響が強い地域ではラメラーアーマー(小札鎧)が、そうでない地域ではプレートメイルが使われるようになる。兜は頭部は板金を半球型ないし円錐型に加工したもので、首回りや側頭部・後頭部はチェインメイルの垂れで防護されている点でも、フェイスガードの有無を除けば後世のものとあまり変化しなくなる。
日本に小札鎧が伝わるのもこの頃。
少なくとも4世紀初頭に鐙が満州南部で実用化され、瞬く間に中国や日本にも導入された。
其れまでは鎧兜に身を固めながら馬上で機敏に動くのは一部の凄腕だけだったが、鐙の量産化で落馬の危険性が大いに低減し、重装騎兵の配備が容易になった。
一方西洋への伝搬は遅れ、8世紀のカール大帝の騎馬像でも鐙は使われていない。
◯11~13世紀
漸く西洋で鐙が一般化し始める。
西洋では冶金技術の発展(と言うよりも復興)に伴い鎖の製造が容易になり、チェインメイルが普及。
13世紀頃までは概ねチェインメイルが普及したと言われている。
その後は金属板を加工したプレートメイルが普及し始めた。これはチェインメイルに板金の防具を追加して補強した鎧であり14世紀半ばに出現したプレートアーマーに発展する。
当初は急所となる部分のみに金属板を装備したものが用いられた様だが、後になると全身を覆うタイプが出現していった。
中国大陸では、金や宋などの王朝が立てられ重装騎兵・重装歩兵が流行しており、武装も鈍器や強力な弩が重視されるようになる。これらの重装兵士は歩人甲など鋼鉄製の小札鎧を着用していたが、騎兵はともかく、歩兵は移動速度が遅く追撃戦が出来なかった。また、このような甲冑は非常に高価であるにもかかわらず、装備率はかなり高かったようで、特に宋ではこれが財政悪化の要因の1つとなっている。
なお、これらの国は13世紀の後半までには元(モンゴル帝国)にすべて滅ぼされている。
早くから鐙の量産化が軌道に乗っていた日本では、武士と呼ばれる人々が日本を支配し始め、騎射戦闘用の大鎧と徒歩戦・水上戦用の胴丸&腹巻と言う小札鎧が完成した。
主要部を鉄、非主要部を漆で固めた革の小札で守り、華麗な縅糸で飾ったこれらの鎧は高価ではあったものの、中距離の破壊力に特化した和弓や切れ味と強度を兼ね備えた太刀・大太刀の抜刀突撃を想定したものであり防御力は十分、尚且つ複雑な地形の日本の環境にも適応して機動性や防錆性も相応に確保されている高性能の鎧だった。
尤も、このような鎧を装着出来たのは領主クラスの武士や一握りの精鋭であるが、当時の日本の戦闘は小競り合いや反乱の鎮圧が主体であり、規模そのものが大きくなかったため問題なかった*4。
◯14世紀頃
ヨーロッパの西側では、鎧は単なる身を守るためだけのものではなく、身分を表す為のものへと変化した。
現場指揮官にはフルプレートアーマーを身につけるものが出現し、その重量から馬上の試合によって勝敗を決する形式のものにもなった様子。
日本では戦闘の大規模化などの要因から、それまで騎射戦闘を主体に行ってきた武士が長太刀や長柄武器での白兵戦を多く行うようになり、それにあわせ甲冑も白兵戦に適したものへと変化した。
例えば兜は、以前は緩衝材がなく太刀や薙刀による打撃に脆弱だったのが、緩衝材が設けられる。それだけでなく頭頂部は鋲頭が飛び出ていた星兜から、刃を受け流しやすい頭頂部がなめらかな筋兜と呼ばれるものが主流となる。
白兵戦では四肢のケガが増大する傾向が強いことを考慮して、左手のみだった籠手が右手にも装着され、脚の防護も充実する。山岳や市街地、城攻めなど騎馬での戦闘に適さない場所が主戦場になったため、徒歩戦に適した胴丸・腹巻を着用することが多くなった。弓矢が強化されたため、鎧の下に鎖帷子や小札の腹当てを下に着込むこともあった。
◯15~16世紀頃
欧州方面では鉄砲の発展により、プレートアーマーをはじめとするあらゆる甲冑の優位性は下がった。
火縄銃でも鉄板をぶち抜く威力があるため、鎧兜を着込んだ戦士でも、単なる鈍重な的にしかならないのである。
とはいえ銃は使用に必要な火薬の量産性や一度使用すると銃弾の装填に時間がかかるといった運用上の制約や、
長柄武器や刀剣類、戦棍といった白兵戦武器が現役で、それらに対する防御は問題ないこと、そして火縄銃でも初期タイプなら防げなくもないことといった事情からプレートアーマーは一定の存在意義を保ち続ける。
これはプレートアーマーが存在しないことを除けばアジア方面でもだいたい同じである。
日本では上級武士も歩兵として戦う状況が増えてきた事と、16世紀中盤以降の鉄砲の量産によって胴部の防御力強化に迫られた事から、集中防御式の新世代の当世具足が普及した。
当世具足を装備するのは主に指揮官クラスや精鋭部隊であったが、生産力の向上で其れまで軽装の歩兵だった足軽部隊に鎧を装着させて重装歩兵として運用するようになってきた。一方で当世具足や重装の足軽部隊が出現したのは戦乱期の終盤に当たる、16世紀末から17世紀初頭という説もある。
◯17~18世紀
欧州方面では銃兵の割合が増大したことや銃剣の発明などの理由から、戦術が大きく様変わりしたため全身鎧が廃れる。
ただし一部の兵士のみが従来のプレートアーマーから籠手や脛当を廃したハーフプレートを使用する。
この鎧は装甲面積を狭める代わりに、兜や胸甲の厚みを増し、火縄銃に対する防弾性能を高めたものであった。
アジア方面では銃器の発達が遅れていたため、インドや中国のように全身鎧がいまだに使われていた地域があったり、
日本や朝鮮のように長い安定期の到来で儀礼用になったところもある。
◯19世紀
前半までは欧州方面・アジア諸国共に18世紀までとさほど変わらない。
19世紀初頭のナポレオン戦争の頃までは防御を胸と腹だけに削減する代わりに、厚みを増し、滑り易くするために曲面加工をした騎兵用胸甲で何とか小銃や騎兵銃を防げていた。
後半になると雷管や実用的な旋条(ライフル)銃の出現により、銃の射程や威力が大幅に強化されたことで、
鎧兜はどうあがいても銃弾を防ぐことが不可能となったことと、先込め式から元込め式に転換し始めたために
発射速度が向上しその為白兵戦の有用性も低下し、欧州方面では完全に無用の長物化した。
アジア方面では相変わらず、銃火器の性能は遅れており、また刀や槍などの白兵戦武器は未だ現役で、
銃弾は防げなくとも、槍や刀に対しては有効だったことから、欧州諸国が進出する前までは生き残っていた。
◯20世紀
日露戦争で両軍が機関銃部隊を投入するに至って、遂に鎧兜の無力は明らかになる。
第一次世界大戦初頭には胸甲騎兵が出陣したが*5、ライフル弾を連射出来る機関銃の前には格好の的でしかなかった。
それでも、砲弾の破片が降り注ぐ塹壕戦で頭部を防護する必要性から兜だけは合金鋼製のヘルメットに進化して生き残った。
此れも、「運が良ければ遠距離からの小銃弾に耐えらえる」程度の防御力だが、主目的が榴弾の破片防御だったのでこの性能で妥協された*6。
◯現代
プレートアーマーや兜などは用いられていない。
鎧の代わりに体部分を守る防弾チョッキや防刃ベスト、頭はヘルメットで守る様に変化している。
【鎧の一覧】
○革鎧/レザーアーマー
鎧の形式というよりは、鎧の材質による区分である。薄皮を何重にも重ねてワックスで固めたり
漆や石灰を用いて突き固めたり鞣した「革」を鎧の部材に使用している。
鎧としてはポピュラーで、弓矢はもちろん刀剣や槍に対する攻撃もある程度軽減できた。
また革は軽くある程度の通気性などが有るので着用時の負荷も低目である。
後述の鎖帷子と併用されることもある。また材質による分類であるため、革製の小札鎧や小札帷子も存在するし兜もある。
○鎖帷子/メイル/チェインメイル
鎖を構成する小さな鉄の輪を繋ぎあわせ編み込んで服状にした鎧。中世ヨーロッパではメイルと呼ばれ、近代以降はチェインメイルと呼ばれるようになった。
金属製のリングを布地に縫い付け白兵武器の斬撃を防ぐ「リングメイル」が原型とされ、古代ケルト人が発明した説と中東で発明された説があり、
鎖帷子を知った古代ローマ人がそれを発展させたとされる。
古代ローマの崩壊後は、その後出現した騎士達にとって最も人気のある鎧兜となっていくだけでなく、
通気性に優れているため、気温の高いアラビア地方やインドの戦士達にも愛用された。
また日本へはシルクロードや中国大陸を介して、鎧の構成品の一部として伝わった*7。
そして日本では主に和装の下に着込んで日本刀などの斬撃を防ぐ目的で用いられたとされる。
柔軟性があり、板札鎧やプレートアーマーより動きやすく、またそれらより作りやすかった。
また、針金を編む構造から、戦場での応急修理やサイズ調整が容易で、使っていた人間が戦死、若しくは傷病で戦線離脱しても他の人間が気軽に使いまわせる利点もある。
軽量でもあったため頭の天辺から手足の先まで覆えるものもあった。
反面、防御面に難を抱えており、軽い切り付け程度ならともかく、矢や細剣系の刺突に弱くまた鈍器の打撃にも弱かったうえ
ローマ時代の金属加工技術が失われた中世初期のヨーロッパで使われたものは刀剣類の直撃で容易に断ち切れたとされる。
また鎖同士がこすれ合って生じるジャラジャラ音等がうるさいという難点もあった。
それを補うため大型の盾を装備するか、より防御力の高い鎧を上から重ね着してカバーしたジルフ・ゴムレツという物を使用した*8。その他にロシアなどでは胴体部分をラメラーアーマーで強化したベグターという物も作られた。
○小札帷子/スケイルアーマー
丈夫な布地に金属片や革の破片を鱗状になるように一つ一つ留めた鎧。起源は不明だが旧約聖書の頃からあり、
古代ギリシャやエトルリアでもプレートアーマーの代わりに使われていたらしい。
鎖帷子よりも防御面に優れ槍や弓などの刺突に強く、柔軟性があるが作りにくく重いため
中世ヨーロッパでは鎖帷子の上に重ね着することが多かったが、重いため胴体部分を保護する範囲のモノしか開発できなかった。
また鱗の様に配する関係上、上の片側しか留めていないので浮き上がったり小札がぶつかり合って大きな音を立てやすいという弱点があった
○小札鎧/ラメラーアーマー
革や金属製の小さな長方形の板を紐で綴り合わせた鎧。こちらはスケイルアーマーと違って上下両側や左右からも固定する方式が採用されているケースが多い。
使い始めたのは紀元前に存在したアッシリア帝国であり、その北部の遊牧民が東アジアへ伝え伝播させていったとされる。
アラブを含むアジア圏やポーランドなどの東ヨーロッパでは標準的な形式の鎧で、鎖帷子よりも作るのに複数の素材を用いる手間と重さがある代わりに、弓矢はもちろん打撃にも強く防御面に優れていた。
この方式と後の板金鎧の中間の形式として細長いがやや大きめの帯板状の板金を同じ形式で繋ぎ合わせる物も有り
これ等は「バンディッドメイル」「ブリガンダイン」「ロリカ・セグメンタ」などと呼ばれていた。日本式の鎧もこのタイプであり、板札鎧という派生型もある。
中国では唐の時代から、護心鏡と呼ばれる胸の部分を保護するプレートが取りつけられる事もあった。
○綿甲/ブリガンディン/コートオブプレート/キルティングアーマー
綿詰めの服もしくは、木綿や絹を何重にも重ねキツく縫い固めたものなどで構成された鎧。
裏地に大小様々な鉄板を鋲止めしたタイプや裏地になにも付けないタイプがあり、
前者は寒冷地であった北アジアで使われた他、ヨーロッパでは鋲止めする鉄板の大きさや留め方によって、コートオブプレートやブリガンディンなど、呼称が変わり、
鎖帷子の上に重ね着する防具である一つとして活用されている。
後者は比較的身分の低い兵士の防護服として各地で使われたり、金属製鎧兜の下に着込む緩衝材である「鎧下」の役割を果たしたりしたが、
清などアジアの一部では近代になっても儀礼用の鎧として用いる地域も存在した。
○プレートアーマー
人体に合うように成形した板金を、鋲や蝶番で組み合わせた鎧兜。
板金鎧とも呼ばれ、兜・鎧・脛当・籠手などの部位一式を揃え、全身を防護するものを指す。胴と頭のみの場合はハーフプレート(半甲冑)と呼ばれる。
白兵戦を神聖視する中世ヨーロッパで生まれた白兵戦重視型の鎧兜であり、ある意味甲冑の進化の最終型のひとつとも言えるもので、
ヨーロッパ西部の一握りの騎士達によって使用された。
その原型は古代ギリシャまで遡るが、密閉度合いが高く体力の消耗が激しく動き難かったため、戦争も激しくもなかったので
しばらくはより低負荷な鎖帷子などにその座を奪われていた。
しかし戦争の激化により再び日の目を見るようになり、中世の終わりに復活を遂げる。
海外の鎧と言えばこれ!というイメージを持つ人は多いかもしれないが、こんな鎧兜を身に付けられたのは、極僅かの大金持ちであり、
ほとんどの戦士は鎖帷子か鎖帷子の上に小札鎧などを重ね着したのが大半で、身に付けたとしても胴だけ、籠手や脛当だけというのが実態だった。
むしろ一般兵士への普及率は騎士道が衰退した近世~近代の方が高いとも言え、それも全身を覆うフルプレートではなくトラープハルニッシュと呼ばれる上半身と兜のみのハーフプレートの方が圧倒的多数であった。
というのもこのタイプの鎧兜は防御力はピカイチだったが、王侯貴族から見ても非常に高級であり、先祖代々に亘って使い回さなければならない上に、基本的に装着者の体型に合わせて作るワンオフ物だった為本人以外は原則着る事が出来ない代物だったからである。
よくこの手の鎧の衰退の理由に対し、火器に耐えられなくなったからといわれることも多いが、実際には戦争の費用が高騰し過ぎてこの様な板金鎧一式を維持するのが難しかったという理由もあった。
寧ろ、厚手のハーフプレートや胸甲は運が良ければ銃弾に耐えられる唯一の防具として、19世紀まで指揮官や胸甲騎兵などの重騎兵用として命脈を保っていた。
【兜の一覧】
○星兜
代表的な日本の兜。
短冊状の鉄板を湾曲させ一部を重ねるように鋲止めをした鉢と呼ばれる頭頂部を保護する部分と、
その側頭部や後頭部、首回りを保護するシコロ、シコロから突出した吹き返しと呼ばれる部位で構成されており、
シコロは鎧と同じく小札を綴り合わせたモノとなっている。
東アジアで用いられているモノとしては良くある形式であり、シコロに相当する部分が小札か、布地に革片鉄片を鋲止めしたか、
吹き返しは大きいか小さいかの差はあるものだいたい同じである。
武士が日本を支配し始めた頃の兜であり、当初は白兵戦を全く考慮しておらず、弓矢による防御しか考えていなかった。
緩衝材の類いは皆無で、直に被ったため太刀や薙刀による打撃に弱かった。
後には座布団状のパッドを頭と兜の間に挟む事でこの欠点を緩和している。
また初期のタイプは頭頂部に穴が開けてありこの穴に髷を通して固定していたため、衝撃を受けるとずり落ちやすく、頭頂部の穴も防御上の欠点となった。
創作上では酒呑童子伝説で源頼光が神便鬼毒酒と共に神仏から貰ったアイテムの一つとして有名。
騙し討ちによって首を刎ねられた酒呑は、最期の力を振り絞って頼光の頭に食らいついた。
しかし複数張構造の星兜であったため、最後の一枚を食い破れず頼光は一命を取り留めている。
○陣笠
足軽と呼ばれる位の低い兵士たちが、戦国時代に使ったとされる傘状の兜。
金属製や革製、紙で出来た物があり、漆を使っているため、素材に関係なく黒色をしている。一部では盾として使うこともあった。
一説に依れば山に立てられた城を攻略する際に高所から降り注ぐ矢の雨を防ぐためにこのような形になったとも、実際の兵士たちは使わなかったという説もある。
また金属製の物は鍋としても使われたとも言われるが、これもあくまで諸説の一つ。
○コリントス式兜
古代ギリシアで普及していた兜で、両目及び口と顎を除く部分を覆っているのが特徴。
○ノルマンヘルム
ノルマン人が使用したため、この名で呼ばれる。全体的な特徴としてドングリ型の頭頂部と、顔面の中央部に延びる垂れが特徴のシンプルな兜。
視界のよさや防御性、生産性のバランスがとれており側頭部や後頭部ががら空きのモノもあるが、Camailという鎖帷子に付属されている鎖のフードの上から被るため、問題なかった。
○グレートヘルム
ひっくり返したバケツに視認用の細長い覗き穴や口許に呼吸用の細かい穴を開けた感じの兜。
西暦1200年代から騎士の間で使われ始めたタイプのもので、白兵戦を重視してこのような頭部全体を覆う形状になっている。
防御力は高かったが視界が悪く密閉度合いが高いので暑さなどの不快負荷も高く、長時間の戦闘は熱中症にかかりやすかった。
まっ平らな頭頂部も欠点で緩衝材があるとはいえ、殴られればもろに衝撃が伝わった(ただし、後期に作られた兜は頂点が丸くなっている。)
○バシネット
西暦1300年代から使われたノルマンヘルムに似た兜で、ノルマンヘルムとは違い、首の近くまで保護されている。
また顔面を覆う着脱式のフェイスガードも付属していることが多く、このフェイスガードは口許が嘴状になっているのが特徴的で、上下に動き、
状況によって閉じたり開いたりすることが出来た。裕福な騎士はこの上にさらに兜を被って戦うこともあった。
○モリオン
西暦1600年頃に槍兵などが被っていた帽子型の兜。
○カバセ
こちらも西暦1600年頃に銃兵が被っていた兜で、頭頂部がドングリ型。
○ツイシェッゲ
オスマン帝国のシパーシー(騎兵)が使用していた兜。タマネギやロケットのように尖った頭頂部と鼻を保護するために付けられた鼻当てが特徴。
○トップ
ペルシャなどの兜に大きな影響を受けたムガール帝国の兜で、鼻当てやベンテールと呼ばれる後頭部を保護する鎖帷子が付いている。
○ジルフキュラーフ
イスラム地域における典型的な兜。玉ねぎのように尖った頭頂部に、後頭部から首回りにかけた部位を保護する鎖帷子の垂れが付属している。
【その他】
○面頬
戦国武将たちが鼻から下の部分を保護するために着用した仮面。
【鎧のようなモノの例】
○ビキニアーマー
フィクション世界にしかまず存在しないであろう女性用鎧。
股間と胸元のみを金属製のビキニで防御すると言う代物。
防御力?何のことかな?
【補足】
鎧兜と言えば、戦場の兵士の誰しもが身に付けているものというイメージが強い。
しかし、金属製であれ革製であれ鎧兜を身に付けていられる兵士はどちらかと言えば少なく、
多くの兵士達は時代や地域に差はあるものの、一部の例外を除いて日常生活とさして変わらない服装で戦争に参戦し、防具は盾(+α)のみという状況は珍しくなかった。
逆に言うと、紀元前の時点で鎧兜で武装した大軍勢を編成出来た始皇帝の秦帝国やローマ帝国の国力と技術力が当時としては桁外れに強力だったと言う事でもある。*9
近現代を除いたほとんどの地域と時代において、兵士の装備は自費負担が当たり前であった。
鎧兜は高価であり、特権階級かある程度裕福な人々でない限り入手が難く、意外にも衣服に使われる布もまたおいそれと買い換えられるほどでもなかったため
戦用の服というものすら用意できなかった。(一般人が着替えの服を用意できるようになったのもかなり後世である。)
時代が下れば冶金技術や生産システムの向上により、下っぱ兵士も金属製の鎧兜を身に付けられる者が増えてくるものの、
やはり防具一式揃えるのは難しく、金属製の防具は胴部か兜のみだとか、籠手のみで他は革製か厚手の布というパターンが多かった。
「鎧兜は戦場の兵士の多くが身に付けているもの」だとか「鎧と言えば金属製が当たり前」という誤解は、
戦争に限らずあらゆる記録、当時の社会・風俗などは文字を使いこなせる教育を受けた支配階級の目線で描かれることが多く、逆に一般人の目線で描かれる記録は残り難かったからである。*10
追加・修正は10㎏の甲冑を着て動ける方にお願いします。
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▷ コメント欄
- まあ金属加工技術も未熟な頃にフルプレートなんて作ってられっかって感じよね。実際そうしてたかは知らんが鎖帷子なんかのほうがサイズ調整も効くだろうし。 -- 名無しさん (2021-03-20 16:06:20)
- 項目おかしくない?編集ボタンが無いし、タグも1個しかない。編集をミスった? -- 名無しさん (2021-03-20 16:30:16)
- テンプレはちょっとおかしかったので直した。タグは元から1個だけみたい。 -- 名無しさん (2021-03-20 16:36:32)
- 鎧兜じゃなくて鎧の項目じゃない?というか、一覧項目でしょ、これ -- 名無しさん (2021-03-20 16:45:18)
- 刀剣より鈍器(メイスとか)のが天敵だったのね、そのメイスで武装している僧侶の殺意高すぎませんか -- 名無しさん (2021-03-20 19:49:26)
- 最近の研究では言われてるほど有利というわけでもない<メイス まあ、緩衝材いれたりもするし… -- 名無しさん (2021-03-20 22:07:30)
- バシネットといえばウルティマオンライン…… -- 名無しさん (2021-03-21 09:02:24)
- 歴史的な経緯を軸として書いた方がまとまるだろうな。あと創作系の内容も充実させるべきだろう -- 名無しさん (2021-03-21 20:25:42)
- ↑創作系の内容を入れる場合一覧の記事となるので相談をお願いします。 -- 名無しさん (2021-03-21 20:27:18)
#comment
*2 鍍金や塗装・被膜技術が未熟な状態で電気陰性度の異なる鉄と銅合金を複合して作っていたので、水がかかると電圧が生じて鉄側が腐食する
*3 この方法は炒鋼法と呼ばれ、水車とフイゴを使うことで他国の類似した製鉄法よりも効率的だった
*4 後世において雑兵と呼ばれる兵士たちもいたが、彼らがどのような武装をしていたかは不明で、鎖帷子を着込んでいたとか、木や竹製の防具を着用していたと言われることもあるが定かではない。はっきりとしているのは、物資の運搬など後方支援的な性格が強く戦闘の最前線に参加することはなかったということである
*5 機関銃部隊が大活躍した日露戦争を「極東の僻地での特殊な事例」と捻じ伏せた
*6 第二次世界大戦直前の1938年に採用された日本陸軍の98式鉄帽は「素の状態で500mからの小銃弾を防ぎ、強化用オプションパーツを付けることで300mからの小銃弾を防ぐ」性能だった。
*7 鎧として伝わったのは戦国時代で南蛮人が伝えたとされる
*8 アラビアやインドで使われたものはチャール・アイナ(4つの鏡)という板金やバズ・バンド(bazuband)と呼ばれる手甲で補強を施しているものも多い。
*9 秦もローマも「最新鋭の高性能防具の製造」と言う面では周辺国に遅れをとっていた時期もあったが、「一般兵士に装備が行き渡る程の生産量」と「一般兵の手に渡った際の使い勝手の良さ」の面では間違いなく先進国であった。
*10 また武具に限らず、焼き物や金属製の遺品は残りやすく、そうでないものは腐敗してしまい現存しにくいというのもある。
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