劉焉

ページ名:劉焉

登録日:2021/02/16 Tue 08:30:00
更新日:2024/05/24 Fri 13:49:06NEW!
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劉焉とは、「三国志」の時代の人物。字は君郎。


劉備以前に蜀の地に君臨した群雄のひとり。
また、その劉備が倒した劉璋は彼の息子である。




【生涯】

◇前歴

生年は不明だが、荊州は江夏郡・竟陵県の出身。
前漢の景帝の四子、魯恭王・劉余の子孫である、由緒正しい皇族の家柄。ちなみに、立場や経歴の近い劉表とは同族である。
官僚としては、劉祥(張飛を嫌って兵卒呼ばわりしたことで有名な劉巴の父)に「孝廉」に推挙されたところからスタート。
地方官僚として頭角を現し、さらに皇族出身という出生から昇進には恵まれていた
一度、学問の師の喪に服して退官したが、それで情に厚いという名声を獲得し、また転居先でも学問を教えるなどして名声を獲得。


当時の人材は推挙に拠っていたため、評判の良かった劉焉は中央に召され、洛陽の県令、冀州刺史、南陽郡太守、と重職を歴任
さらには九卿の筆頭である太常(皇帝の祭祀を司る)まで務めた。三公にはならなかったが、実務派官僚としては実質トップクラスである



◇乱世の先駆け

後漢も末期、霊帝の代になると、もはや後漢朝廷の地方統治はままならなくなっていた。
劉焉はこのとき、州の行政長官だった「刺史」の弱体化を懸念し、あらたに「州牧」を設置して清廉な人物をつけ、支配体制を強化するよう進言した、という。
そして「黄巾の乱」を端緒として、地方の崩壊が現実となったため、彼の建議も採用された、という。


……ただ、もともと「刺史」とは中央から地方に差し向ける監察長官であるが、地方官に対する監察業務をやるうちに、いつしか地方官への支配権を握っていき、行政も担うようになったという経緯がある。
そして「州牧」というのは、もともと「刺史」の別の呼び方だった。つまり劉焉の建議は、本来同一の職務を別の存在として分裂させるものだった。後漢末期の職制の混乱がここにもみられる。
実際、南朝の時代には「天下が乱れたのはこの劉焉の建議のせいだ」と批判された。



それはともかく、言い出しっぺの劉焉も州牧として起用される運びとなった。
彼の派遣先は益州。
……本人は最初、交州への赴任(戦乱から遠いうえに南海貿易で巨万の富も入る)を考えていたが、「益州には天子の気がある」といううわさを聞いてそっちに食指を動かされ、工作を始めたという。


折しも益州刺史は政治が悪いと評判であり、彼は望みどおり益州牧の地位を授かり現地に赴任。監軍使者、陽城侯の地位ももらっている。
ちなみに、この時の随行メンバーには後に劉備の下で大活躍する呉懿もいたという。



◇蜀の劉焉

当時の益州は、ほかの州の例にもれず、地方豪族が割拠して民衆も駆け込み、政府の支配下を離れて徴税・徴兵にも応じない、という情勢であった。
ただでさえ独立志向が強く、中央の指示に服さない彼らである。さらに「黄巾の乱」で刺激された彼らは、ついに大規模な反乱を起こした
反乱軍は(例の監察される予定だった)益州刺史や綿竹の県令を殺害するなどおおいに暴れまわり、万を超える軍勢を築き上げ、首謀者は皇帝を名乗ったという。


ただ、幸いにも益州豪族出身の官僚・賈龍が兵を組織して反乱軍に反撃し、何とか鎮圧に成功した。


劉焉が益州に到着したのはこの時期である。というか、賈龍たちは先代刺史に愛想を尽かし、劉焉を擁立した、というべきだろうか。


劉焉も彼らの意志に乗った。
というより、実はこの時点で劉焉には、ただ豪族と仲良くするだけではなく、蜀の地で「皇帝」として「君臨」しようという野心があったらしい。
皇帝を名乗っても、もはや後漢朝廷には討伐するだけの力はない。そして劉焉は確かに皇族の有力株で、益州は防備に長けた天険の地で、しかも「天子の気」があるという。
せっかくの人生である。皇帝になれるというならなってやろう、という思いが芽生えても不思議はないし、悪くもない。



かくして劉焉は「独立」のためにあらゆる行動を開始。
まず、すでに道教教団(民間互助組織)を組織していた宗教指導者・張魯を抱き込み、彼を漢中郡に派遣して支配させ、劉焉が裏で操り中央政府と益州の連絡網を遮断。仮に中央から討伐軍が派遣されても、張魯を操って防御できるようにした。
さらに、反乱軍の残党や、南陽郡から流れ込んだ難民を兵士として再編して「東州兵」を組織し、自らに直結する軍事力・組織力も構築。
外は「五斗米道」に守らせ、内は「東州兵」を駆使して、劉焉は味方にできる者は引き込む一方、反抗する地方豪族は討伐・粛清し、益州の支配力を大きく強化した。辣腕というべきだろう。
かつて地方豪族の反乱を鎮圧して劉焉を迎え入れた賈龍も、この粛清に反発・反乱したため、討伐対象となり滅ぼされている。


かくして益州の防御と統治を成し遂げた劉焉は、晴れて「皇帝」に変身。
その馬車は洛陽の天子のものと見まごうばかりの立派なもので、いまだ正式に名乗って はいないにせよ、その姿は荊州に赴任した劉表警戒するほどのものであったという。
他方、この期間中に中原では大将軍・何進の暗殺、宦官の粛清、董卓の台頭、反董卓連合の結成と瓦解、長安遷都、と目まぐるしく時代が変わっていたが、
劉焉は益州君臨だけに没頭し、こうした事態には関わってこなかった。
益州の混迷はかなりのものだったため、関わろうにもそんな余力はなかったのかもしれないが。


一方、利用した羌族に恩賞を与えなかったので、逆襲を食らったりもしている。



◇晩年

ところで劉焉は、それでも表向きは後漢朝の官僚である。四人の息子のうち、益州に連れてきた三男の劉瑁を除く三人も都にいた。その「都」は、当時は董卓が遷都した長安になっていた。益州からは近い。


後漢としては劉焉の暴走は気がかりだったようで、四男の劉璋を益州に派遣してなんとか調停しようとしたが、
足元を見透かした劉焉は息子を受け入れはしたが、そのまま益州にとどめおいてしまった。
しかし長男・劉範と次男・劉誕はいまだ長安にいる。


ところで、長安の政情も変化著しく、勢力を誇った董卓が王允と呂布に暗殺され、さらに董卓残党の巻き返しも起きて、李傕と郭汜が支配者に変わった。
そんな情勢を見て取った征西将軍・馬騰は、李傕・郭汜を倒して自分が支配者となるべく、長安に進撃。
劉焉はここで、馬騰の連絡を受けて彼に協力した。
すなわち、劉焉は益州および漢中(張魯)を挙げて馬騰軍に後方支援を行い、さらに長安内部にいる劉範・劉誕兄弟に内応を図らせる。そして劉焉の支援と劉範・劉誕兄弟の内応を受けた馬騰軍が、長安を落とす。
ある意味、馬騰軍を劉焉が傭兵にするような形である。劉焉自身も結構な野心家なので、計画には喜んで飛びついただろう。もし自分が馬騰に伴われて長安に入れれば、自称どころか本物の皇帝になれたかもしれない。


ところが、その内応計画は失敗して劉範・劉誕が殺害され、馬騰本隊も敗北
孫はかろうじて救出されたものの、長男と次男の死は彼に大きなショックを与えた。
さらに同年、彼が本拠としていた綿竹県の本部が落雷によって焼失、より奥地の成都への遷座を強いられる。


こうした不幸とショックが、老齢であった劉焉の肉体にとどめを刺す。
彼は背中に悪性腫瘍を患っていたが、これらの精神面のショックを克服できず、194年、ついに病死してしまった



◇死後

長男と次男が死んでいたため、後継は三男・劉瑁と四男・劉璋のいずれかとなった。
この際、地方豪族は「温厚だが優柔不断で御しやすい」という理由で、三男・劉瑁ではなく四男・劉璋を擁立。
当時朝廷で権力を握っていたのは李傕と郭汜で、朝廷は劉璋が父の官位、監軍使者・益州牧を引き継ぐことを容認する。
李傕と郭汜は馬騰を撃退するくらいの軍事力はあったが内政がズタボロ状態。遠く益州討伐を行う余力などなく実質的に黙認せざるを得なかったのだと思われる。
しかしこれは、劉璋が無能・無気力だったからこそであり、以後益州豪族は――史書の表現を借りれば「貪璋温仁」、劉璋の温情を貪って――好き勝手に跳梁するようになった。


まがりなりにも辣腕だった劉焉の死と、完全なる無能だった劉璋への交代は、支配権の喪失と混乱も惹起。
例の張魯が漢中にて独立を果たす、劉焉が組織した外地からの軍団が益州豪族と対立を引き起こす、などしてしまい、益州は混乱の時代を迎えることとなる。




なお、後継になれなかった三男・劉瑁だが、劉焉にとっては彼こそ本命の後継者であった節がある。
まず、劉焉は四人いる息子のうち劉瑁だけを伴って益州入りし、身辺において政治を見させたこと。
また部下の呉懿の妹に高貴の相があると聞くと、劉瑁に娶らせたこと*1
「自分のやり方を側で学ばせ、『天子の気』がある国で『高貴の相』を持つ女を結ばせた」という様子と、「皇帝」のふるまいをした劉焉の意図を考えると、劉焉にとっては劉瑁こそが「皇太子」だったと思われる。
無論、長子を連れて行くと思惑に気づかれかねないため、代打だったという面もあり得ると思われるが。


しかし、劉焉は自分の権力を確立する過程で、自分の権力を広げようと謀る益州豪族を粛清していた。
それは劉焉にとっては必要不可欠な措置ではあるが、豪族たちにとっては許すべからざる弾圧である。
そして劉瑁は、おそらく劉焉の政策を引き継ぐつもりで、かつ劉焉が見込むほどには有能だった……
「自分たちのため」を思えば、豪族たちにとっては「第二の劉焉」となりうる劉瑁の襲名は、なんとしても避けたかっただろう。
劉璋が「温厚で優柔不断だから」擁立されたというのは、逆説的に劉瑁が「有能で強力だから」という意味でもあろう。
いわば劉焉は、死後の権力が空白になった瞬間に、反撃を食らったということである。


その後、劉瑁はなんの権限も与えられないまま生きていたが、
208年、曹操が荊州に進出した際、劉璋が曹操にしつこく使者を送った際に、返礼の一環で官位を授けられた(劉璋に振威将軍、劉瑁に平寇将軍)。
しかし彼はその直後、発狂して死んだという……なんかきな臭いものを感じるのは気のせいだろうか……




【評価】

三国志の群雄ではもっとも早いうちから割拠した人物のひとり


益州での権力の奪取と構築ぶりはなかなかの手腕で、張魯を利用して北方の防御と情報封鎖の一挙両得を狙うなど、権謀家としての能力はそれなり以上にある
流民を組織して軍事力に再編したのも、彼の死後に内紛の原動力になったということは、彼の生前はうまく機能していたということである。
また、地方豪族がとにかく強かった当時にあって、現地にめぼしい地縁や自前戦力のない劉焉が地方豪族の粛清までできたのも、かれら流民兵団が強力であったことを示す。それらを掌握できた劉焉も相当なタマであろう。


ただ、あくまで益州で独立王国を築くにとどまり、益州の外、中国世界へはほとんど関わろうとしなかった。
とはいえ彼の時代はそもそも「次の王朝を目指して天下を取ろう」という時期ではなかったため、むしろ「好き勝手できた」劉焉は幸せなほうかもしれない
また、彼が益州に入っていた期間はわずかに6年で、その間に滅茶苦茶になっている現地を平定しなければならなかったし、そしてその後も馬騰と組むなど動いている。
外征に積極的だった劉備も、入蜀戦を開始してから漢中を確保するまでも7年かかっていることからすると、実の所は本格的に動くには時間がなさ過ぎただけだったのかもしれない。
歴史のイフは言い出せばきりがないが、あと10年長生きしていたら良くも悪くも中原をかき回した可能性はあるだろう。


結局のところは歴史の趨勢に関わる立場ではなかったが、彼が平定した益州が、劉璋を経由して、蜀漢の勢力基盤となったわけで、
間接的に三国時代へ与えた影響は割と軽視できないものがある。




【三国演義の劉焉】

第一話から登場。
どういうわけか、「黄巾の乱」にて幽州太守(刺史?)を務め、その時に劉備関羽張飛らの義勇軍を出迎えたという話になっている。
正史では、劉焉が幽州の支配者になったことは無い。というか、そこに居るべきなのは劉虞である。
しかし、この出来事が、三十年後に劉璋が劉備に親近感を抱くことや、劉備が益州で「皇帝」を名乗ることの伏線となっており、
また、劉璋は「無能なために国をまとめられず、最後は国を明け渡して余生を過ごした」という共通点で劉禅と比較される節もあるため、その父親同士である劉焉と劉備を対比させることにもなる。
そのため、同じ劉姓だからってうっかり間違えたというわけではなく、意図的にこのような改変を加えたのではないかと考えられる。


一方、皇帝への野心を露骨にしていたエピソードは全面的にカット。
まあ黄巾の乱が終わってからは登場しないし、益州に赴任してからのエピソードは中原の本筋に絡まないからしょうがない。
つまり、本来のエピソードはカットされて本来の役割と全く違うところに登場するほぼ別人といえる。



【創作の劉焉】

立派な群雄でありながら、演義での扱いが特殊で史実と辻褄を合わせにくいこと、それを抜きにしても本筋に直接関わることのない立場なうえに、劉備が蜀に近づいた時期にはとっくに物故していたことなどから、どうにも地味
まあ触れようにも蜀入りしてからの劉焉は良く言えば辣腕・悪く言えば非道なエピソードに事欠かないため、仮に描写されてもロクなことにならない気もするが……
しかし「悪名は無名に勝る」ということを考えれば、無名寄りの劉焉は少し気の毒かも。



  • コーエー三国志

まともに登場する数少ない作品。
能力値は、軍事能力(武力・統率)は低めだが、知力・政治・魅力は概ね80台であり、意外にも昔から安定して高い評価を受けている。
しかし、いかんせん寿命が短いのが致命的。
仮に君主プレイを選んでも国内を整えているあいだに死亡・君主交代を余儀なくされるだろうし、挙げ句に跡継ぎは劉璋なわけで……
12以降は正史のイメージを取り入れて、人畜無害そうな顔から一転、松永久秀の同類かと思わせるような極悪人面になった。



Ver3.1にて初参戦。レアリティはR。所属勢力は「漢」
王座にて厳格な表情で世を見つめているイケオジ。スペックはまぁまぁだが兵種は近距離船が苦手な弓兵、だが計略は範囲が自分中心の弱体化という相手に近寄らないと使えないという少しミスマッチな物。
しかし全く使えないカードというわけでもなく、要するに戦場で見かけないがネタカードにもならないマイナーカードであった。
リブート後も第2弾から登場。レアリティはアンコモンに下がったが知力が上がった。
イラストは3.1の時と違い、野心を露にし猛烈な表情で相手をにらみつけているというものになっている。
計略は相手の武力弱体化に加え漢鳴レベル*2を上げる。
こちらは比較的軽い士気で相手の下手な計略クラスならペイできる強力な効果であり、その怒りのイラストと合わせ印象に残りやすい。




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  • 劉焉報告「漢中の張魯が長安と行き来する道を落としてしまって (ほぼ劉焉の指示) 連絡できません!!」→ 劉焉、「俺は益州で勢力築くぜ!!」 -- 名無しさん (2021-02-16 08:50:40)
  • 後継者なのに生前に官位を継がせたりして準備したりできなかったものだろうか -- 名無しさん (2021-02-16 10:26:49)
  • ちなみに焉の字は句末に持ちいて断定の意味を持たせるものである。つまりこの名は「劉そのもの」みたいな意味かと -- 名無しさん (2021-02-16 11:24:23)
  • 次は公孫瓚あたり? -- 名無しさん (2021-02-16 15:57:19)
  • 公孫瓚は完成率60%ほどなのでもうしばらくお待ちを。先に劉璋・劉虞で時間を稼ぎます…… -- 作成者 (2021-02-16 19:31:11)
  • 孫である劉循は破竹の勢いだった劉備軍の侵攻を1年近く食い止めた有能・・・のはずなのに、光栄三国志では全く評価されない悲運の将。 -- 名無しさん (2021-02-16 20:12:07)
  • 俺は劉備に会ったことがある気がしたが、そんなことはなかったぜ!! -- 名無しさん (2021-02-17 10:07:24)
  • まがいなりにも、じゃなくてまがりなりにもだよ。 -- 名無しさん (2021-02-17 12:47:07)
  • 四川省は確かに守りやすいけど同時に周囲を攻めにくいんだよな。少なくとも四川省に本拠地を置いた勢力が中国を統一した例を俺は知らない。 -- 名無しさん (2022-12-14 09:21:36)
  • ↑劉邦は?  -- 名無しさん (2023-07-14 22:52:47)
  • 益州には天子の気がある、と聴いていたということは、やっぱり劉邦の前例も意識していたんだろうなぁ。 -- 名無しさん (2023-07-15 17:11:47)

#comment(striction)

*1 劉瑁が死んで未亡人となったのち、劉備に嫁いだ。
*2 漢勢力の独自要素であり、「漢鳴」特技を持つ武将の計略は漢鳴レベルによって計略が強力になる

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