劉ヨウ/劉岱

ページ名:劉ヨウ_劉岱

登録日:2021/02/04 Thu 15:00:00
更新日:2024/05/24 Fri 13:40:12NEW!
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劉繇劉岱とは、いわゆる「三国志」の時代の人物。
後漢朝廷の皇族で、かつ兄弟である。劉岱のほうが兄だが、活躍期間は弟のほうが長い。
本項では兄弟ともに紹介する。劉岱には単独項目建てるほどの情報量がないし


なお魏国の劉曄については記述しない。




【劉繇】


りゅう よう、字は正礼。
後漢末期、揚州地方に割拠した軍閥の長として名高い。
後漢朝廷からの官職は「揚州刺史」。のち「揚州牧、振武将軍」。




【弟の生涯】

◇前歴

本貫は、東莱郡の牟平県。
前漢の牟平共侯・劉渫(高祖劉邦の曾孫)の直系の子孫で、由緒正しい皇族。
また、伯父の劉寵*1はかつて司空、司徒、太尉の「三公」を歴任し、父の劉輿(別名は「劉方」)は山陽郡の太守を務めたこともある。
さらに劉繇の実兄は、彼と同時期に兗州刺史を務めた劉岱
皇族でもここまで要職を担った家庭もそうそうないだろう。後漢皇族の有力者たちである。



劉繇が十九歳の時、叔父*2が盗賊に拉致されたところ、若き劉繇はこれの討伐と救出に成功して名を挙げ、郎中に推挙される。
ここから官僚としてスタートし、地方官を歴任。皇族という立場を利用されそうになって棄官逃亡したり、皇族という立場を利用して私腹を肥やす宦官を弾劾したりと、そこそこ活躍していた。
当時の役人としては清廉・正直であったとのことで、特に横暴を極める宦官に対抗したことで名を挙げた。


そうした活躍から、陶丘洪という人物に茂才に推挙される。
ところでこの陶丘洪という人物は以前、劉繇の実兄・劉岱を推挙したことがあり、上司から「なんで兄を推挙した後弟も推挙するのだ?」と問われた。
すると陶丘洪は「あの兄弟を揃って起用することは、二頭の龍に馬車を曳かせるようなもので、千里を駆けることもできましょう!」と答えたという。


……まあ、この時代はこういう「仲間同士で褒めあって虚名を挙げる」という方法がはびこっており(劉表にも似たエピソードが多い)、この陶丘洪の「兄弟ともに龍!」というのもその類であろうが。
その後、黄巾の乱反董卓連合などの「乱世」が始まるが、劉繇はこれといって活躍はしていないようである。
似た立場の劉表は荊州でそれなりの活躍をしているところを見ると、劉繇を「龍」とするのはやはり褒めすぎか。


いちおう、時期は不明だが劉繇は司空府に抜擢されかけたことがあるが、すでに後漢朝廷は機能不全に陥っており、劉繇も当時逃げ延びていた揚州から出ようとはしなかった。



◇乱世の揚州刺史

これでも、すでにそれなりの知名度と実績のあった劉繇は、皇族という立場もあって、後漢朝廷にとっても重要な存在であった。
幸い、先に州の刺史を務めた劉表劉焉がそれなりの成果を上げている。
劉繇にも白羽の矢が立ち、興平元年(194年)、彼は「揚州刺史」の官位を授かり、当時起居していた揚州を束ねるよう命じられた。
(先任の揚州刺史は陳温という人物だったが、病死)
翌年には朝廷から、刺史ではなく揚州牧に昇進され、振武将軍の官位も授けられている。
ちなみに、兄の劉岱は192年、黄巾賊残党に攻められ戦死した。


……しかし、194年といえばすでに反董卓連合から四年以上が経過し、実力がモノを言う乱世に突入していた時期である。後漢朝廷の官位など、実力がなければ紙切れ同然であった。
しかも、その揚州は――あの曹操に駆逐されながらも、短期間で勢力を立て直した――袁術が絶賛勢力拡充中であり、揚州の政庁がある寿春も、今や袁術の本拠地となっていた。


劉繇はそれでも、官位を利用して地方豪族を糾合し袁術に挑んだものの、寿春を拠点に淮南を勢力圏とする袁術を覆すだけの実力は、劉繇には到底なかった。


やむなく彼は、長江を渡った南側の曲阿(江蘇省丹陽市)に本拠地を築き、張英・樊能・于糜を指揮官として、長江を境に防衛線を構築
また下邳国の相・笮融、彭城国の相・薛礼とも同盟を組んだ。


防戦に徹したことがよかったのか、袁術、および亡き孫堅の軍を率いる呉景・孫賁の猛攻を一年にわたって防ぎきることはできた。
また、その呉景・孫賁はかつて曲阿(もしくは丹陽)で劉繇と協力体制にあったが、劉繇が袁術との対立を強めると、袁術の傘下である両名を丹陽から駆逐した経緯がある。実戦慣れした呉景・孫賁軍を撃破する実力もあったわけだ。
全盛期の劉繇軍は兵力数万を誇ったという。
……しかし逆に言うと、彼に出来たのは防戦どまりであり、南方をことごとく切り伏せて一大勢力を築く、などという展望は到底描けなかった。



◇孫策出現

そうするうちに195年、孫策が念願の独立部隊を率いて、呉景・孫賁とは別ルートから劉繇軍攻撃を開始。
孫策は孫賁以上の圧倒的な打撃力・機動力を誇り、劉繇が展開していた張英・樊能・于糜の防衛線をことごとく突破


劉繇麾下には豪傑として太史慈がいたが、「彼を起用して孫策に対抗させましょう」という周囲の提言を、劉繇は
「名士の許劭が、太史慈をくさしていた。もし太史慈を起用すれば、わしは許劭からの批判を浴びるだろう」
と、こんな事態でとんだ錯誤を抱き、彼を偵察任務にしか使わなかった。


確かに当時、いろいろな意味で「名声」がモノを言った時代である。劉備「仁義に熱い清廉な傭兵隊長」という金看板を有効活用し、ついに皇帝にまでなった。
しかし、それはすべて勝ってこそ言えることである。韓非子がかつて記したとおり、「明日の名誉や未来の利益は、今日の勝利にかかっている。今日の勝利がなければ未来の利益はない」のである。


ただ、さすがに太史慈を排斥まではしておらず、彼が偵察中に孫策と鉢合わせして一騎打ちをした際には、援軍が駆け付けている。



そうするうちに劉繇の対策は後手後手に回り続け、ついに劉繇本隊も壊滅。
劉繇は会稽郡の王朗のもとに落ち延びようとしたが、例の許劭が
「会稽は豊かな土地だから、孫策も次は会稽を狙うだろう。すると会稽は袋小路だから、劉繇殿下は逃げることも出来なくなる。いっそ長江に沿って西に逃げ、荊州に近い予章に行くといい。劉表の支援を受けつつ、曹操が袁術・孫策を倒してくれる時を待とう」
と進言。
納得した劉繇は予章へと落ち延びた。
孫策も、もはや揚州統治にあたって劉繇は障害たり得ないと判断してか、無理な追撃はしなかった
……一方太史慈は、そんなふがいない劉繇を無視するがごとく、残兵をまとめて孫策に抵抗を続けている。



◇その後の劉繇

「三国演義」では荊州に落ち延びたあとの彼は語られないが、実際の劉繇はもう少し生き延びている。
そして、実はさりげなく、のちの三国時代に関与していた。諸葛亮の一族の長、諸葛玄の生死にかかわっているのである。



もともと予章郡の太守は周術といったが、彼が病死した後、その後任がモメた。
後漢朝廷は後任として朱皓(黄巾の乱の鎮圧で活躍した名将朱儁の息子)を派遣したが、予章の支配を狙う袁術は、その後釜として諸葛玄を任命して送り込んできたのである。そして劉繇は、袁術・孫策とは対立してきた。
当然、劉繇は朱皓に助力して諸葛玄を攻撃。さらに揚州以来の付き合いの笮融を差し向け、ついに諸葛玄を討ち取った


ただしこの笮融、当時でも有名な極悪人だった。
どれぐらい悪辣だったかというと、彼は中国でも初めて仏教を受け入れて大々的に支援した偉人なのだが、
「笮融みたいな極悪人に支援を受けるなんて、仏教的にいいのか!?」という論争が起きたほどである。
太史慈の起用を断念させたあの許劭も「あんな名義も糞もない奴を使っても、朱皓とはうまく行かんでしょう」と諫めたのだが、
もはや揚州も追われた劉繇には、笮融の兵でも使わないとまともな戦力さえ整わなかったのだろう
(笮融も、軍人として無能ではなく、孫策に矢傷を負わせて一時撃退したこともある)


しかし悪い予感は的中するもので、笮融は諸葛玄に続いて朱皓まで殺害し、予章の支配権を分捕ってしまう。
怒った劉繇は笮融討伐のため軍を起こし、苦戦しながらもついに笮融を撃破。逃亡した笮融は恨みを抱く民衆に殺された。
結局、正規に赴任した朱皓も袁術の差し向けた諸葛玄も死んだ今となってはどうしようもなく、朝廷が改めて派遣した華歆が予章太守となることで一件は落ち着いた。



……ただ、劉繇・笮融・諸葛玄にまつわるエピソードは三国志の本文ではなく「献帝春秋」という資料によるが、裴松之いわく「とてもとても信用できる資料ではない」とのこと。



◇死後

それほどなく、劉繇は病に倒れ、そのまま没した
享年42歳とされ、生年から計算して197年~198年ごろのこととされる。
先に諸葛玄が倒されたのは197年の正月だったため、本当に短期間の支配だったようだ。
華歆との関係も不明だが、華歆が太守になった時点でもう病んでいたとすると、双方ともに刺激は避けていたかもしれない。


結局、華歆は劉繇の死からほどなく、予章郡を上げて孫策に降伏する。
また、かつて部下だった太史慈はいまだ孫策に対抗していたが、劉繇が病死したと知るとついに孫策に降伏。劉繇の残党を集めて孫策軍に合流した。
ライバル……というか天敵だった孫策も、遠征ついでに劉繇の墓所に立ち寄り、棺を引き取って劉繇の故郷・東莱郡に送り届け、遺族にも支援を行ったという。
それ自体は人気取りであっただろうが、一面では劉繇には死後も、厚遇するだけの名声や声望がそれなりにあったことを物語ってもいる。



遺族はこの時の縁でか、孫呉に仕官
長男の劉基は特に出色の賢者で、酒癖の悪い孫権を諫めて、「以後、わしが酒席で出した指示は誰も聞くな」という異様な命令を出させたというエピソードがある。
孫権は彼のことをよほど信頼していたようで、他にも信頼を示す逸話は多い。劉基の娘が孫権の息子・孫覇の妻となったのも事実。


……ただし中国史において「劉基」という名前は、基本的に明代・洪武帝に仕えた鬼謀の軍師・劉基(伯温)を指す。
こっちの劉基は本場中国において知らぬものはないほどの大軍師で、三国演義の予言者的・仙人的な諸葛孔明像のモデルとなったほどの人物。
おかげで劉繇の息子・劉基の名前は悲しいほど薄くなってしまった。



【評価】

あまりよろしくない。品性篤実で清廉・まじめだったが、乱世を生きる群雄としては無能だったと評される。


孫策にはいいようにやられっぱなしであり、追撃されなかったところを見るに「生かしておいても無害な存在」と見做されていたようだ。ナメられたと言ってもいい。



太史慈を抜擢しなかった理由も、許劭からの批判を恐れて、というのだからイマイチ締まらない。


許劭が同じく起用に反対した笮融を使った件については、この時期の尾羽打ち枯らした劉繇には、笮融でも引き込まないと戦力がなかったからだろうから、まだ理解できるが、
すでに地方官僚としての勤務経験もあり、三十歳手前で肉体的に全盛期にあり、孔融のもとで実績も挙げていた太史慈を、偵察に使うあたりは人を見る目がないといわれてもしょうがないか。


ただ、許劭は多くの人物を評価したが、この時代の「評価」というのは対象者を後押しする意義があり、「人材評論家」とは「対象者を推薦するだけの実力者」でもあった。
そして許氏は三世三公を輩出しているという、四世三公の袁氏・楊氏に次ぐ超名門の家柄であり、三代目の許相*3の従兄弟である許劭は当代きっての名士だったはずである。
(実際、若いころの曹操や袁紹も彼には頭が上がらなかった。曹操の「治世の能吏、乱世の肝雄」とは彼の評価である)
そのため、太史慈を起用して許劭と対立したり、最悪敵に回ることになれば、劉繇政権は瓦解する、それは避けたい、と考えるのはそれなりに筋は通っている。
もっとも、その場合「劉繇は許劭をコントロールできなかった」ということになり、君主としての統率力に欠けていたともいえるため、やはり微妙。実際、太史慈や笮融は使いこなせなかった。



孫策登場以前も、袁術に阻まれて寿春に近寄れなかった。
このころの袁術は曹操・劉表に大敗したあとであり、足場は盤石ではなかったはず。
もちろん劉繇も揚州刺史に任命されたばかりで足場がないということでは同じだが、ほぼ同条件で防戦一手だったのを考えると、やはり軍事能力が欠如していたということか。


ただ、袁術の打破まではできずとも、孫賁・呉景を丹陽郡から押し返し、それから孫策出現までは阻み続けたあたり、軍人としてはまったくの無能ではない。
南方の覇者となれる力量は無いにせよ、地方軍閥としては十分な力量だろう
曹操と組んでいたフシもあり、もしかしたら、袁術の進行を阻んでいればいずれ曹操が袁術を叩いてくれるという計算だったのかもしれない。それなら、それはそれで、いちおうの戦略ではある。


とはいえ彼の行動は揚州に蟠踞するレベルにとどまり、天下を見極めて行動できるタイプではやはりない。
袁術は曲がりなりにも天下レベルで行動を起こしたが、劉繇は行動力からしても「地方軍閥」にとどまるレベルであった。
仮に孫策が歴史に現れなかったとしても、袁術を倒した曹操に攻め滅ぼされただろう。



そんなこんなで諸葛亮も、「後出師の表」にて劉繇・王朗を「それなりの規模の勢力を持ち、議論や聖人語録の引用はできても、決断力がなく積極的な外征を仕掛けなかったばかりに、ついに敵国を強大化させ併合される結果を招いた」と批判している。
戦うことを嫌がって、目先の平和に飛びついて安閑としておれは、いざ強力な外敵が攻めてきたときに足元(傘下の中小豪族)が崩れてなすすべなく滅ぼされる、ということだ。


これはとりもなおさず、外征(北伐)を国力の浪費・無謀な博打と批判し、狐疑逡巡するばかりの劉禅や群臣への訓戒でもあるが、
諸葛亮にとっても劉繇は悪例だったといえる。


それでも乱世において討ち死にせず寝台の上で最期を遂げられただけマシだったのかもしれない。


【三国演義の劉繇】

ほぼ正史と同じ。
孫策に敗れて揚州を追われてからのエピソードはカットされ、のちにわずかに文章で語られるのみである。



【各作品】

  • コーエー三国志

むかしは軍事能力が劉禅並みに低かった。
しかし中期からは能力値が底上げされ、最低限使えるレベルにはなっている。
とはいえ統率力・武力・魅力が60台、政治力が70前後と、全体的にパッとしないため、きついことは変わらない。しかも知力が低めである。
配下は武官寄りの人材が多く、文官が少なくなりがち。頼みの武官も太史慈を除いて二流ばかりであり、周囲に敵も多いため、なかなか難しい。その太史慈も近年の英雄集結だと孔融に持っていかれてしまい…
とはいえ王朗や厳白虎よりはマシなので、先に南を併合して背後を安定させ、孫策に対抗するというのがベターか。


ひたすら情けなくみっともない太平楽の愚君とされている。
孫策の猛攻に恐れをなして逃亡し、見咎めた太史慈に捨て台詞を叩きつけ、殺そうとした部下を諫める太史慈に「こんな人間に刀を穢すな」といわれ、そこまでして逃げだしたところを孫権の虎に追い回されてアホ面を晒しまくる……という、どこまでもヒドい扱いになっていた。


旧作では何と孫策のかませトリオの中では唯一の不参戦。まあ厳白虎や王朗も「3」まで出てこなかったが…。
その反動なのかは不明だが、新作では逆に最初期からの参戦。
何故か攻城兵で1.5コスト5/5と地味だが、防柵を持っている。攻城兵なので征圧力は0。
計略「防護戦法」は端的に言えば物凄く硬くなる。天下無双すら耐えきれるが本当に硬くなるだけなので何とも地味。



【劉岱】

劉岱、字は公山。上述した、揚州に割拠していた劉繇の実兄。
後漢末期の兗州刺史を務めた。


【兄の生涯】

◆前歴

劉繇と同じく、後漢の東萊郡・牟平県の出身。
繰り返しになるが、先祖は前漢の牟平共侯・劉渫、父は山陽太守を務めた劉輿、伯父は三公まで昇った劉寵、という後漢皇族の有力一族の出身。
劉岱本人も侍中、侍御史といった重職を歴任している。


中平二年というと西暦185年、権勢をふるった宦官「十常侍」の筆頭・張譲と趙忠が霊帝を唆し、天下から大規模な臨時徴税を行い、宮殿修復や銅像鋳造などを行おうとした。
この動きを、楽安太守の陸康(陸遜の族長)が上奏文で諌止したのだが、これに霊帝が激怒、陸康を「不敬罪」で捕縛して殺そうとした。


この時、劉岱は侍御史の役にあったが、陸康を弁護して霊帝の暴走を収め、陸康を救ったという逸話がある。さすがに実力ある皇族というだけあって、霊帝も無視できない声望があったようだ。



◆兗州刺史

やがて董卓が権力を握ると、伍瓊・周毖の推薦により兗州えんしゅう刺史を拝命、現地に赴任する。
しかし初平元年(190年)には劉岱はさっさと袁紹・曹操らと結託し、反董卓連合に合流、董卓戦に挑む。


……が、実際にはロクに戦おうとせず、酒盛りと威張り散らすばかりでひたすら時間と食料を浪費するだけだった。
それどころか東郡太守の橋瑁と対立したあげく、ついには劉岱が橋瑁を暗殺して、配下の王肱を代わりの東郡太守に収め、実質的に乗っ取る始末。
この様には曹操もあきれ果てている(ちなみにその曹操も、同じように河内郡の太守・王匡を暗殺して乗っ取っている)。



一方で劉岱は、袁紹とも公孫瓚とも仲が良かった。袁紹は自分の家族を劉岱の領域に預け、また公孫瓚は配下の范方に軍を預けて劉岱軍と協力させていた。
ところが、やがてその袁紹と公孫瓚が対立し始めたため、劉岱は板挟みにあってしまう。


特に公孫瓚は強く圧力を掛けており、范方を通じて
「袁紹と手を切り、あいつの家族をこっちに差し出せ。さもなくば劉岱軍を支える范方隊を引き上げさせるばかりか、袁紹を滅ぼした後は劉岱を攻め滅ぼしてやる」
と露骨な脅しを突き付けた。
劉岱は数日にわたってさんざん悩んだあげくに決しかね、別駕の王彧を通じて、程昱に相談した。


すると程昱は、最後は袁紹が勝つだろうと予測して公孫瓚の恐喝を拒むよう進言。
劉岱は彼の意見に従い、袁紹の家族を保護して公孫瓚と決裂。范方は怒って撤収したが、やはり范方が合流する前に公孫瓚は袁紹に敗れた。
ただ、劉岱は改めて程昱を配下に収めようとしたが、「病気」を口実に逃げられている。



そして初平三年(192年)、青州にて「百万」と称する黄巾残党が大決起し、兗州の東平県にまで侵入して大暴れした。
劉岱はこれに対して軍を率いての討伐を決意


配下で済北の相・鮑信は防戦に努めるべきだと説いたが、劉岱はその意見を却下して敢然と攻め込んだものの、相手の勢いと数を侮りすぎたか、軍を打ち破られた挙句、司令官である劉岱も戦死する結果となった。



彼の死後、代わって曹操が黄巾残党討伐に出陣。
見事に打ち負かした上に彼らを自らの支配下に組み込み、兗州の支配権も握って、一躍中原の雄に躍り出る。



【もう一人の劉岱】

実はこの時代、劉岱という名前の人物が、もう一人いた
それが曹操配下の劉岱である。


沛国の出身で、曹操の武将としてそれなりの戦功も挙げており、司空長史に任じられ、列侯にもなっていた。
曹操も沛国の出身なので、同郷の誼ということで取り立てられたのかもしれない(沛国といっても広いし、それでも重鎮でないことは確かだが)。


曹操と袁紹の決戦も迫った建安四年(199年)、董承らの謀反に与したが敗れて逃げた劉備が、徐州刺史・車冑を殺して徐州を奪い、曹操に対して反旗を翻した際、
曹操は劉岱と王忠の両名に軍を預け、劉備討伐に差し向けたが、撃退されてしまった。


この劉岱も字を「公山」といい、兗州刺史の劉岱とは姓名のみならず字まで一緒



【三国演義の劉岱】

反董卓連合からの登場。しかし正史が正史なので、まともな活躍は無い。


……しかし演義の劉岱は、途中から曹操配下となり、袁紹戦が迫る時期に徐州を奪った劉備への討伐隊の指揮官となって再登場する。
そして王忠とともに五万の兵を率いるが、二人して関羽・張飛と遣り合いたくなかったためにくじ引きで先鋒を押し付け合うというコミカルな一幕を見せる。


「先」を引いたのは王忠で、案の定あっけなく関羽に捕縛された。
次は順番で張飛が出陣するが、劉岱は要塞に立てこもって戦おうとしない。


攻めあぐねた張飛は一計を案じる。
わざと泥酔した振りをして兵士を暴行し、今夜の夜襲前に生贄にする、と公言したうえで寝入ってみせる。
そしてその兵士をわざと脱走させて劉岱隊に投降させ「夜襲」を密告させた。


劉岱は兵士の傷を見て密告を信じ、夜襲部隊を包囲殲滅しようと要塞から兵を出した。
しかし張飛の夜襲は罠であり、包囲しようとした劉岱軍を逆に包囲。劉岱は逃げようとしたが張飛のどんぐり眼に見つかり、あっさり捕まってしまった。


劉備はまだ曹操と正面から決戦する気はなかったため、捕虜にした劉岱・王忠を精いっぱい歓待し、曹操への弁護を依頼する。
二人はすぐに開放されて曹操のもとに帰投し、劉備の弁明を一応伝えるが、曹操には全く相手にされず八つ当たりで殺されかける。
しかし幸いにも孔融が弁護したため、何とか無事ですんだ。
まあその弁護も「最初から勝てないと分かって送ったでしょうに、今さら咎めることがありますか」という理屈だったが。
そもそもはと言えば劉備を開放した曹操の付けを押し付けられたようなものである。




さて以上の顛末は、後漢皇族で兗州刺史になった劉岱と、曹操配下で劉備らと戦った劉岱が、混同されて同一人物になった結果のものである
もちろん、兗州刺史の劉岱は官渡の八年も前に戦死している。
しかし、テキスト編集の過程でいつの間にか混ざったもののようで、テキストによっては「復活」している場合もある。
つまり、曹操が青州黄巾賊討伐に乗り出す際に「兗州刺史の劉岱も戦死した」という一文が入りながら、劉備討伐隊に劉岱が任命される場面で「もと兗州刺史の劉岱」という矛盾した一文も挿入されるのだ。


しかし、こういう矛盾がまた「三国演義の複雑な成立過程」を連想させて、面白いのである。




【各作品】

  • コーエー三国志

武力だけがちょっとだけ高く、統率・政治・魅力が平凡、知力は一頭低い、という中途半端で、まったく特徴のない武将。
まあ部下として使うなら数合わせとして悪くない……が、問題は君主シナリオ。
部下がほとんどいないうえに、周囲には曹操や劉備をはじめ強豪が多く、そして劉岱本人の能力は低い、と勢力拡張は絶望的。






自分と同姓同名の人物に出会ったことのある方、追記・修正をお願いします。


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  • 劉岱!お前は死んだはずじゃ… -- 名無しさん (2021-02-04 17:39:25)
  • 劉繇は無双とかだと王朗、厳白虎とひとまとめのステージに配置されることが多い人 -- 名無しさん (2021-02-04 18:02:26)
  • 許劭を恐れたというよりは、自前の勢力を持ってるが許劭に酷評されてるサク融がアレなのだから太史慈を抜擢したらそのまま寝返ってしまうかもと恐れたのではなかろうか -- 名無しさん (2021-02-04 18:04:13)
  • 何言ってんのかと思ったら同姓同名同字とは。 -- 名無しさん (2021-02-04 21:46:46)
  • 弟の方はネームバリューを上手く活かして南で勢力を築き上げたり、のちに呉の皇族に登り詰める息子を育てたりと評価できる点はあるね。 -- 名無しさん (2022-02-19 20:01:35)
  • 魏国の方の劉曄さんは蒼天でも魏国版CIAの長官とも言えるポジションになって魏諷の乱を食い止めたりと活躍したのに... -- 名無しさん (2023-06-07 16:45:41)

#comment(striction)

*1 同名の陳国王とは別人
*2 先述の伯父・劉寵とは別人。名は劉韙(い)。
*3 三公にまで上り詰めたものの、十常侍に阿る官僚だったらしく袁紹によって十常侍共々粛清された

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