地区別 - 呉市周辺の遺構まとめ
会所) 歴史の見える丘 戦艦大和建造ドック跡 海上自衛隊呉教育隊(旧呉海兵団) 海上自衛隊呉警備隊(旧呉水雷団) 長迫公園(旧海軍墓地) 旧呉海軍工廠引き込み線跡 呉医療センター(旧呉海軍病院) 呉YWCA 呉水交社跡 呉線の廃トンネル 呉湾 亀山神社 二河公園 二河川公園 東郷
会所) 歴史の見える丘 戦艦大和建造ドック跡 海上自衛隊呉教育隊(旧呉海兵団) 海上自衛隊呉警備隊(旧呉水雷団) 長迫公園(旧海軍墓地) 旧呉海軍工廠引き込み線跡 呉医療センター(旧呉海軍病院) 呉YWCA 呉水交社跡 呉線の廃トンネル 呉湾 亀山神社 二河公園 二河川公園 東郷
呉海軍工廠呉海軍工廠は太平洋戦争終戦まであった海軍の軍需工場地帯『海軍工廠』とは海軍艦艇の建造・修理、艦艇に搭載する兵器の製造・修理・保管、艦装品の製造・調達・供給等を行う軍需工場の総称です。明治19年に制定された海軍条例に基づき海軍の根拠地である鎮守府が日本各地に決められ、明治
ダイクレ興産第2工場(旧砲熕部精密兵器工場)精密兵器工場は呉海軍工廠砲熕部の工場の1つ『砲熕部』とは海軍の兵器を生産する部署で、他の海軍工廠には無い呉海軍工廠のみに設置された独自部門です。この工場では艦艇に搭載する艦載砲や機銃の組み立てを行っていました。この辺りは明治22年に呉鎮
旧呉海軍工廠造船部呉海軍工廠造船部は太平洋戦争終戦まであった海軍の造船工場その歴史は呉鎮守府開庁と同じ明治22年に『呉鎮守府造船部』として海軍艦艇の建造や修理を行うため設置されたのが始まりです。現在のJMUでも設計部と製造部に分かれていますが、この時からすでに計画科と製造科が置か
串山公園(旧串山防空機銃砲台)串山は旧呉海軍工廠本部の後ろにある山山と言っても標高は63mしかなく簡単に登れる山ですが太平洋戦争中の昭和17年に防空機銃砲台が作られました。串山防空機銃砲台は当初『坪ノ内機銃砲台』として昭和17年8月に完成し13mm4連装機銃2基が配備されました。
澎湃館(旧呉海軍工廠第一弾薬庫)澎湃館は旧呉海軍工廠にあるお土産屋さんこの辺りは太平洋戦争終戦まで呉海軍工廠の倉庫(通称:赤レンガ倉庫)があり、この建物も呉海軍工廠の弾薬庫の一部でした。元々は『呉海軍造兵廠予備艦兵器庫並預兵器庫』という名称で呉海軍工廠設立前の明治33年に建設され
旧呉海軍工廠引き込み線跡呉海軍工廠引き込み線は呉駅と呉海軍工廠を結ぶ軍用貨物鉄道の線路引き込み線とは、主要な鉄道路線から分岐して工場や施設内に入るための線路のことです。工場内で製造された物資や機材の輸送や工場への原材料の供給などに使用されます。また、呉海軍工廠のような軍需工場の場
呉海軍工廠電気実験部跡アレイからすこじま公園(旧潜水艦桟橋)の通りから山手に入り呉海軍工廠員養成所跡を超えたところに旧呉海軍工廠の電気実験部がありました。『実験部』とは電気部以外の部にも置かれている部署で素材や製造の開発を行う開発部門です。呉海軍工廠の電気実験部では主に探照灯や通
海上保安大学校(旧呉海軍工廠火工部)現在は海上保安官を育成する学校ですが終戦までは呉海軍工廠の一部でした。明治22年の呉鎮守府開庁と同時に呉鎮守府吉浦火薬庫がここに置かれたのが始まりです。その後、明治36年に対岸に呉海軍工廠が建設されると呉海軍工廠造兵部第六工場の火薬庫となりまし
呉海軍工廠長郷地下工場跡長郷は音戸の瀬戸と安芸阿賀の間にある瀬戸内海沿いの小さな集落空襲が激しくなってきた太平洋戦争末期に呉海軍工廠の兵器生産を継続するため朝鮮人労働者を使って作られた地下工場です。呉海軍工廠と名前がついていますが呉海軍工廠とはかなり離れたところにあります。太平洋
海軍第四門跡海軍第四門は串山の裏にあった市街地と呉海軍工廠の境界の衛門太平洋戦争終戦まで呉鎮守府や呉海軍工廠は軍用地であり市民は立入禁止でした。また、市街地と呉海軍工廠は塀で仕切られており今と違い自由に出入りすることはできませんでした。この海軍第四門は串山の裏(山側)にあり呉海軍
殉国の塔旧呉海軍工廠を見下ろす鍋山第一公園にあります。「呉のひめゆりの塔」といわれるこの慰霊碑は、昭和20年6月の呉海軍工廠空襲により殉職した工員や軍人を慰霊する目的で建立されました。昭和20年6月の呉海軍工廠への空襲では計290機の米軍機が1289発の爆弾を投下し、犠牲者の数は
吉浦中学校(旧呉海軍工廠女子動員学徒狩留賀寄宿舎)かるが浜駅の裏にあります。現在は吉浦中学校となっていますが太平洋戦争終戦まで呉海軍工廠の動員学徒寄宿舎がありました。寄宿舎は元々太平洋戦争前の昭和15年に『呉海軍工廠狩留賀寄宿舎』として建設されました。約800名の工員(当初は男性
アレイからすこじま公園駐車場(呉海軍工廠技手養成所・職工教習所・工員養成所跡)串山のとなりにあります。呉海軍工廠職工教習所は、呉海軍工廠で働く技術者を育成するための教育機関で大正7年に創設されました。元々ここではなく呉海軍工廠製鋼部や砲熕部の近くにあり、2年制の課程教育が行われま
アレイからすこじま公園(旧潜水艦桟橋)元々は明治28年に呉海軍工廠の前身である呉鎮守府造船部が神戸からここに移転された際、花崗岩で作られた切石積護岸が築かれたのが始まりです。そのころ烏小島(からすこじま)という小さな島が南西の沖にあり、その烏小島が現在の公園の名前の由来となりまし
ジャパンマリンユナイテッド呉事業所新宮工作部(旧第11海軍航空廠兵器部新宮工場)呉湾を囲む造船工業地帯の西北部旧呉海軍工廠地帯から呉湾を挟んで反対側の新宮町にかつて第11海軍航空廠兵器部新宮工場がありました。第11海軍航空廠は広にある広海軍工廠の一部で太平洋戦争開戦の昭和16年に
和ミュージアム)呉の観光といえばここというくらい有名な観光地大和ミュージアムの正式名称は『呉市海事歴史科学館』といいます。戦艦大和だけでなく呉海軍工廠で建造された艦艇の様々な展示がされています。また、東洋一の軍港といわれた呉市の歴史や造船技術についても展示がされています。10分の
の焼山にある『呉鎮守府水道』の1つ呉に鎮守府が開庁された翌年に軍用水道である呉鎮守府水道が整備されました。しかし、日露戦争後、近代化を続ける呉海軍工廠への水道供給は不足しており、また呉に入港する海軍船舶に対する給水量も増加傾向にあったため海軍は新たな水源を確保するためここ本庄に水
人墓などが多数残っています。戦艦扶桑のピット(繋船柱)と慰霊碑日本海軍初の超弩級戦艦である戦艦扶桑は、呉鎮守府所属の扶桑型戦艦の1番艦として呉海軍工廠で建造され大正4年に就役しました。その後、二度の近代化改装が行われ太平洋戦争も古参艦ながら初戦の真珠湾攻撃から参加しました。しかし
は太平洋戦争直前の昭和15年に、紀元二千六百年記念行事(天皇歴が始まって2600年目の祝典)の一環として寄付により建立されました。目前にある呉海軍工廠にまつわる神社のようですが詳細は不明です。また、産業神社という別名もありますがなぜ名称が2つあるのかも不明です。諸説によると広の工
『海軍工廠』とは海軍艦艇の建造・修理、艦艇に搭載する兵器の製造・修理・保管、艦装品の製造・調達・供給等を行う軍需工場の総称です。広海軍工廠は呉海軍工廠創設から26年後の大正10年、当時の新技術であった航空機を製造・研究する工廠として創設されました。創設時の名前は『呉海軍工廠広支廠
の不況や水力発電の方が発電コストが安い等の理由で大正7年に廃止となりました。広島ガス阿賀工場(広島瓦斯電軌阿賀骸炭製造所跡)大正時代に入ると呉海軍工廠と広海軍工廠という呉市二大工業地帯の燃料需要増加を受け燃料生産の必要性が高まります。そのため、大正7年に廃止された延崎火力発電所跡
鍋山防空機銃砲台跡鍋山はかつて旧呉海軍工廠製鋼部(現日新製鋼呉製鉄所)の後ろにあった山ここには太平洋戦争中に呉海軍工廠防衛のための防空機銃砲台が作られ、昭和17年8月に『40mm連装機銃』1基が配備されました。その後、戦局の悪化と呉海軍工廠の後ろの山という位置的な重要性もあって、
海軍第三門跡海軍第三門は呉海軍工廠造船部船渠の裏にあった市街地と呉海軍工廠の境界の衛門太平洋戦争終戦まで呉鎮守府や呉海軍工廠は軍用地であり市民は立入禁止でした。また、市街地と軍用地は塀で仕切られており現在と異なり自由に出入りすることはできませんでした。この海軍第三門は市街地と軍用
海軍工廠西海岸応急防空砲台跡海軍工廠西海岸応急防空砲台はかつて旧呉海軍工廠製鋼部(現日新製鋼呉製鉄所)の海岸線にあった応急防空砲台旧呉海軍工廠製鋼部のある半島の付け根部分の南西側海岸線に構築され、昭和20年1月に『四〇口径一〇式12cm高角砲』が5門が配備されました。通常、防空砲
年に艦艇の錨泊場所も追記されました。新宮の第11海軍航空廠兵器部前は昭和17年まで潜水艦学校があった関係か「潜水艦繋留場」と書かれています。呉海軍工廠火工部前は「特大型駆逐艦繋留場」となっており、その奥にある大麗女島の手前は「標的繋留用」と書かれています。軍需部第二区前は「駆逐艦
港湾監視所跡アレイからすこじま公園駐車場から宮原13丁目交差点の間にあります。いつごろ、どのような目的で作られたのか不明ですが、呉海軍工廠の後ろにあることから防空監視用か守衛用に作られたものと思われます。余談ですが、ここに配属された兵士たちからは「天蓋付きたこつぼ(屋根付き防空壕
艦艇と燃料両方の全滅を防ぐため」と「燃料を先に攻撃されると湾岸部が火の海になって艦艇が使えないため」だそうです。また、太平洋戦争中は吉浦から呉海軍工廠と広の第11海軍航空廠へ通じる総延長12kmの燃料パイプラインがあり、陸路で燃料を送ることが可能でした。現在では海上自衛隊の艦艇用
呉海軍工廠職工殉職者各霊永供養塔養運寺の境内にあります。詳細不明ですが、碑文から見るに呉海軍工廠で勤務中に亡くなった職人を慰霊するため、大正5年に寄付によって建立された慰霊碑のようです。 備考 ・養運寺の入口は坂の上にあるのでわかりにくいかも ・夜間は境内
三宅本店江戸時代から続く酒造メーカーで有名な清酒『千福(せんぷく)』を製造する蔵元です。当初は清酒の醸造していませんでしたが、明治36年に呉海軍工廠が建設されると酒需要の増加を見込んで清酒の醸造と販売を開始し海軍関係者に好評を博しました。その後、高温環境での劣化が起きにくいなど品
倉井(空母阿蘇終焉の地)倉橋島東部の倉井空母阿蘇は雲龍型空母5番艦として昭和18年6月に呉海軍工廠で着工しました。しかし、着工したのが太平洋戦争中期であったため既存艦の修理等が優先され建造は遅々として進みませんでした。昭和19年11月に呉海軍工廠最後の軍艦として進水したものの、戦
呉共済病院(旧呉海軍共済病院)呉共済病院は呉海軍工廠の医療機関として設立された病院当初は『海軍工廠職工共済会病院』といい、最盛期には約10万人が勤務する呉海軍工廠を医療面で支える病院として明治37年に作られました。呉は軍港という土地柄、海軍関連の病院が多数建設されましたがこの海軍
などが残っています。また、外壁のレンガは明治時代に作られたにしては非常に綺麗に見えますが、これはレンガの表面を研磨してあるためで年代的には旧呉海軍工廠砲熕部精密兵器工場のレンガと変わりません。平成11年にドーム部分が復元され往年の姿へ戻りました。内部裏側第一庁舎は正面から見ると平
海軍第二門跡海軍第二門は呉海軍病院と現在の清水ヶ丘高等学校の間にあった市街地と呉海軍工廠の境界の衛門太平洋戦争終戦まで呉鎮守府や呉海軍工廠は軍用地であり市民は立入禁止でした。また、市街地と軍用地は塀で仕切られており現在と異なり自由に出入りすることはできませんでした。この海軍第二門
大入魚雷遠距離発射場跡大入(だいにゅう)魚雷遠距離発射場は戦前阿賀南の海岸沿いにあった海軍の魚雷開発施設魚雷遠距離発射場は元は呉海軍工廠魚雷実験部の1つで呉湾から大正時代に移転してきました。この施設では海軍が開発した魚雷の試験を行っており、元々呉湾を出入りする船舶が増えたため危険
中世のころから埋め立てが盛んに行われる場所で、当初はここも海でしたが明治43年に埋め立てられ鍋桟橋が作られました。鍋桟橋の利用者は倉橋島から呉海軍工廠へ通う島嶼部通勤者がほとんで全盛期には通勤ラッシュが起こるほど利用者がいました。碑文によると少なくとも2つの渡し船と待合所があった
中に「P基地」と呼ばれる特殊潜航艇の工場や搭乗員の訓練施設がありました。正確には呉鎮守府第二特攻戦隊と呉鎮守府第十特攻戦隊大浦突撃隊、それに呉海軍工廠造船部大浦分工場を合わせてP基地と呼ばれていました。呉海軍工廠造船部大浦分工場は昭和17年10月から極秘裏に建設された特殊潜航艇『
んが、これは昭和12年に勃発した日中戦争を受けて制定された『呉軍港防諜規程』により設置されたものです。目隠し板の目的は、呉湾に錨泊中の艦艇や呉海軍工廠で建造中の艦艇、呉鎮守府などの軍事施設を見えなくすることです。なお、同じ昭和12年に呉呉海軍工廠で戦艦大和の建造が開始されていたた
分析山分析山は旧呉海軍工廠の後ろにある山で太平洋戦争後期の昭和19年6月に応急機銃砲台が作られました。当初は13mm連装機銃2基のみでしたが、25mm連装機銃2基と25mm単機銃6基が追加され最終的に合計10基が配備されました。また、となりの串山と同じく空襲を避けて兵器製造を継続
海上自衛隊呉地方総監部練習艦隊司令部(旧呉海軍工廠艤装工場)現在は海上自衛隊の施設ですが、終戦まで呉海軍工廠の一部で艤装工場と艤装組立作業場がありました。艤装とはできあがった船体に内装や最後の仕上げをすることです。海軍工廠造船部では造船船渠の回転率を良くするため造船船渠で建造され
壕跡の上の畑に空気孔が残っています。通常、市街地にある市民向けの防空壕には空気孔がついていないものがほとんどです。もしかすると防空壕ではなく呉海軍工廠の地下工場や倉庫の可能性もあります。太平洋戦争末期の呉海軍工廠周辺では、空襲を避けて兵器製造を継続するため多くの地下工場が作られま
旧呉海軍工廠監視哨旧呉海軍工廠造船部の裏にある小型の監視哨跡後部に入口があり銃眼が4つ付いています。何の目的で作られたのか不明ですが、旧呉海軍工廠造船部が見渡せる高台にあることから防空目的かと思われます。元々、監視哨は2つありましたが駐車場を作るため1つは取り壊されました。
さらに8月に『25mm単装機銃』6基が配備されました。若葉クラブのある高台は標高35mと砲台としては良い場所ではありませんが、高台のすぐ下に呉海軍工廠火工部があったために作られたものと思われます。晴海町団地(新宮防空砲台跡)こちらは海岸吉浦本町線道路を挟んで東側にあります。東側は
太平洋戦争末期の女子労働者用として転用したものと思われます。太平洋戦争後期になると長期化する戦争と徴兵により男性労働者不足が深刻化したため、呉海軍工廠や広海軍工廠では学徒動員が始まり女子動員学徒や女子挺身隊員が労働力として召集されました。しかし、当時の第11海軍航空廠の男性技師の
呉海軍工廠川原石魚雷調整場補給岸壁跡二川公民館の奥にあります。この辺りは海軍軍需部第三区と呉海軍工廠第八区があったところですがこの岸壁が何に使われていたのか不明です。コンクリートの質と金属の具合から戦前もしくは戦中のものと思われます。築地町は旧築地中央工場の辺りも海軍軍需部第二区
碑が建てられています。呉鎮守府殉職者招魂碑駐車場にあります。明治26年から昭和20年までの呉鎮守府管下非戦闘員殉職者を祀る慰霊碑です。元々は呉海軍工廠の殉職者を慰霊するために大正11年に建立された慰霊碑でしたが、太平洋戦争終戦後の昭和50年に海軍工廠殉職者だけではなく「呉鎮守府管
中まで見えるため用もないのに来ると憲兵が疑ってきたそうです。ここからなら呉湾に錨泊している船の位置、造船部船渠に入渠している艦艇・呉鎮守府・呉海軍工廠・海兵団練兵場・大麗女島・潜水学校まですべて一望できます。ただし、太平洋戦争終戦まで民間人は下士官兵集会所より海岸側に入ることがで
スタートしました。しかし、初期の呉鎮守府水道は軍用水道であったため水道を利用できるのは海軍の一部施設に限られていました。その後、明治36年に呉海軍工廠が建設され日露戦争が始まると工業用水が不足したため、海軍は大正7年に本庄水源地を建設して送水量を増やしました。これまで川の水を取水
ノ岬沖海戦)に戦没したため「戦艦大和の艦暦は太平洋戦争の歴史そのもの」といわれています。また、戦艦大和の建造は非常に秘密裏に進められたため、呉海軍工廠の造船技術はもちろん呉市民の生活にも非常に影響を与えました。『歴史の見える丘』という名称は「軍港都市から近代造船都市としての道を歩
三津峰山三津峰山は呉海軍工廠の後ろ、高烏台の北に位置する標高378mの山呉市を囲む9つの連峰の1つとして日佐護山や休山等と連なっていることから景色が良く登山の名所として知られていますが、太平洋戦争中に呉鎮守府所属の防空砲台が作られました。三津峰山の防空砲台は南部と北部に分けられて