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歴史 日本史 見廻組 幕末 江戸幕府 京都府 警察 江戸時代 秘密警察 近江屋事件 坂本龍馬殺害事件 手代木直右衛門
京都見廻組は徳川幕府によって創設された組織である。
【目次】
前史
元治元年(1864)4月24日、徳川幕府の通達により、新設された。京都の治安を維持する為に京都守護職、京都所司代、京都町奉行へのテコ入れである。
新選組がいるじゃん!という方、この頃の新選組は攘夷攘夷とうるさく、局長の近藤勇が文久3年(1863)10月15日、京都守護職を務める陸奥会津松平家当主・松平容保に手紙で攘夷をするまで幕府に仕えません、とか、元治元年(1864)5月3日には攘夷をしないなら新選組は解散しますと老中・酒井忠績に直訴する始末。
そんなわけで幕府は京都において言う事を聞く忠実な番犬が欲しかったのである。
創設
最初の案では幕府内で御家人の武芸が免許皆伝クラスを400名集めて京都に送り込み、幕府に敵対する浪士を取り締まる。
そのために見廻組という役職を設立、待遇は70俵3人扶持、役席は普請役元締次席。
集めた400名を二組に分け、石高の少ない大名ないし高級旗本が京都見廻役として組をまとめ、各見廻役を3人の与頭(扶持300俵、役扶持300俵、役席は書院番次席)と与頭勤方(扶持200俵、役扶持200俵、役席は大番衆次席)が補佐するのが方針だった。
※扶持は米で貰う給料、役扶持はその役職に就任している時に貰える給料、今の役職手当。
幹部の人事は同年4月26日付で蒔田広孝*1と松平康正*2が見廻役に任じられた。
御家人にも譜代と御抱*3の序列があり、譜代の方が格が高い。
同年4月28日には、
「急ぎだから、見込みの有る奴を片っ端から送れ!」
と催促、同年5月16日〜18日の間に、見廻役を補佐する人事発令を発表。
- 与頭∶小林弥兵衛、間宮孫四郎、土屋助三郎、久保田善三郎
- 与頭勤方∶大沢源次郎、大野亀三郎、芳賀栄之介。
与頭の小林、間宮、土屋、久保田は御目見得以上の旗本、大沢、大野、芳賀は御家人より旗本へ昇進した者だった。
有名な佐々木只三郎、速水又四郎は少し遅れて与頭勤方に就任する。
難航
見廻組の人集めは暗礁に乗り上げていた。
『御家人の武芸が免許皆伝クラスを400名』
という条件が厳しすぎた。
御家人の中にそれ程の人材がいなかったので、既に活動している新選組を組み込む話が出てきて、同年5月14日、京都守護職を務める陸奥会津松平家や大目付の永井尚志に相談をした。
待遇は「同心=70人扶持」を提示したが、同年6月7日、陸奥会津松平家から
「寝言は寝て言え、一昨日出直して来やがれ!」
と待遇の低さを呆れられて断られた。
そこで幕府は選考基準を見直し、見廻組並(40俵)、見廻組御雇(10人扶持)、見廻組並御雇(7人扶持)に適格者を含めて人選を行った。その結果、元治元年中には400名には届かなかったが、見廻組から見廻組並御雇まで384人の組士を確保した。
こうして創設された京都見廻組は、与頭、与頭勤方は旗本待遇であり、御家人の当主が務める見廻組、見廻組並を主体にし、御家人の部屋住み子弟が務める見廻組御雇、見廻組並御雇が補佐する御家人部隊である。
見廻組が旗本の次男、三男で組織されているのは間違いである。
見廻組の組織と任務
元治元年(1864)5月16日、蒔田組80名は江戸を出発、同26日には京都二条城組屋敷に入り着任、松平組は7月10日に江戸を出発し、同月19日に京都に着任している。
その日は禁門の変で蒔田組が戦闘に参加。
松平組は長州毛利家の残党狩りに駆り出された。
その後も人員の補充は幕府の制度改革により、役職が廃止された人たちから補充する形を取った。
命令系統は不明瞭であった。
見廻役は老中が支配するが、与頭、与頭勤方以下の人事異動は京都守護職を務める陸奥会津松平家や京都所司代を務める伊勢桑名松平家当主・松平定敬の双方から出ていて、任務の指示も双方の公用局*4から出ている。
元治元年(1864)12月には天狗党の乱を鎮圧する為に出陣した禁裏御守衛総督・摂海防御指揮の一橋慶喜に松平組は従った。
慶応元年(1865)7月、京都市内の巡回警備地区が守護職、所司代、見廻組、新選組、二条城に詰める幕臣(御定番組と呼ばれる)に振り分けられた。
- 見廻組∶寺町、御土居、五条通、蛸薬師、堀川、下立売。
- 新選組∶東本願寺、西洞院。
- 所司代∶御所。
- 御定番組∶二条城。
- 守護職∶鴨川を中心に各大名家の屋敷。
慶応2年(1866)2月28日、見廻組の本拠地・京都文武場が中立売通智恵光院通東入ルに開設され、京都守護職・松平容保らが出席、盛大なお披露目会になった。
組士の学問所、武道場、見廻役の屋敷も整備され、文武場の責任者は蒔田、松平か就任した。
見廻組事件簿
慶応2年(1866)2月8日、組士の高橋与八郎が酔っ払って抜刀、下賀茂神社から参詣帰りの議奏・久世通煕の行列に乱入し逃走した。
久世は幕府嫌いの朝臣であり、孝明天皇の機嫌を損ねたくない、と考えた守護職、所司代、在京の幕閣は高橋を同年3月8日に切腹、見廻役の松平、与頭の久保田、土屋は勤務停止を受けた。
久世ら朝臣は高橋の切腹と遺体を見た訳ではないし、遺体も火葬と言われているが、火葬現場を見ていないから、実は何処かで生きていましたって感じで隠しているでしょう!と証拠隠滅などの責任追及が厳しく、同年4月14日、松平と久保田は罷免された。
同年9月16日、幕政改革で御定番組が見廻組に組み込まれ、総数が537人にまで拡大している。
同年11月15日、堀親義*5が松平の後任で見廻役に就任。他にも与頭勤方に羽倉綱三郎、与頭並勤方・小林金蔵、猪倉三郎が任命された。
慶応3年(1867)3月24日、旅宿を利用していた与頭の佐々木只三郎が幕府陸軍の歩兵数名から発砲された。
同年5月8日、見廻役の堀が奏者番*6へ転出する為、後任は目付の岩田通徳が見廻役並、後に見廻役に就任する。
同年6月6日、創設以来の蒔田が病気による体調不良を理由に辞職、後任に幕府陸軍から小笠原長遠が就任する。
同年8月19日、侍従・鷲尾隆聚の屋敷で討幕派の浪士たちが密会を行っていて、新選組がこれを捕まえた。新選組はお手柄だが、鷲尾は見廻組の監視下に置かれていた要注意人物だったので、見廻組は大失態であった。
老中・小笠原長行に呼び出された岩田と小笠原は、説教を受けて帰り、見廻組組士一同を集めて、規則を定めて厳重に守るように命じた。
坂本龍馬暗殺
慶応3年(1867)11月15日、土佐浪人・坂本龍馬と中岡慎太郎が滞在する近江屋を襲撃、二人は数日中に死亡した。
命令は幕府*7、守護職*8、所司代*9と出ているが、坂本龍馬本人は幕府の大目付・永井尚志を通して京都守護職を務める陸奥会津松平家に身元の保障を求めて、襲わない様にするという確約は得ていた。
前年の寺田屋で幕府の役人に囲まれた際、拳銃で捕り方の役人を殺害した為、手配人ではあった。
陸奥会津松平家の公用局からすれば、孝明天皇の正義(=徳川体制の護持、大政奉還、王政復古の否定。文久3年八月十八日の政変の後、同年11月15日、孝明天皇からお気に入りNo.1として寵愛していた島津久光に手紙で徳川体制の存続を陸奥会津松平家と共に頼むと依頼されたが、久光が会津は幕府の犬ですよね、と言って断ったので、孝明天皇が久光を見限り、会津に徳川体制の存続を依頼、会津側が一会桑権力という形で引き受け、当主•松平容保は孝明天皇のお気に入りNo.1に輝いた。)を具現化する為、一会桑権力として頑張り続けたが、世間から孝明天皇を批判出来ない代わりに叩かれ、長州征伐に失敗、新将軍・徳川慶喜とは大政奉還で折り合いが悪く、坂本龍馬にお灸をすえたい気分だったのかも知れない。
龍馬襲撃に参加した桂早之助の子孫から、龍馬を斬った脇差し、日記、剣術免許書といった一級資料が出てきた。
坂本龍馬殺害を公言出来なかったのは、陸奥会津松平家が坂本龍馬を襲わないと確約しておきながら、殺害した矛盾から。
最期
同年12月9日、王政復古の大号令。同月14日、見廻組は将軍では無くなった徳川宗家当主・徳川慶喜が大坂に下るのてそれに従う。
見廻役の一人、小笠原がこの頃、体調不良を訴え、見廻役を辞職、後任は置かれず、見廻役は岩田のみとなった。
一時期、見廻組は親遊撃隊を名乗っていたが、直ぐに元に戻している。
慶応4年(1868)1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いでは与頭・佐々木只三郎の指揮で400人が従軍。この時、慶喜の上奏書を持つ大目付・滝川具挙の護衛にあたっていた。
この戦いで見廻組は与頭・佐々木を含めて35名が戦死。
見廻組は京都での編入者200人が大坂で離脱、江戸から来た生き残りたちが海路江戸へ敗走した。
江戸に戻った見廻役の岩田は敗走した見廻組を再編、武力行使を断念した徳川宗家から江戸城の護衛を命じられる。
同年3月、岩田が狙撃隊頭に就任し、組士たちも狙撃隊に配置転換。同年閏4月、岩田が日光奉行に就任し、日光へ赴任した。
日光に着くと、徳川脱走陸軍や太政官の軍隊で睨み合う状況になったが、最終的に太政官が日光を押さえる形になったので、岩田達は江戸に戻った。
江戸に戻ると同年5月24日、徳川宗家は駿河70万石に移封と決定となったが、徳川宗家から岩田だけは引き取るが後は養えないからサ・ヨ・ナ・ラと言われて流れ解散、見廻組は消滅したが、諦めの悪い人は海軍副総裁・榎本武揚が指揮する徳川海軍に身を投じて蝦夷地に向かう。
残りは歴史の闇に消えていった。
今井信郎のようなゴリゴリの武闘派は神奈川奉行所時代に同僚だった古屋佐久左衛門と組んで徳川陸軍の一隊を衝鋒隊と改名して軍事取扱の勝海舟から徳川直轄地の治安維持という名目で大砲2門や小銃、軍資金をたんまり貰って江戸を出て、太政官の軍隊と各地で交戦しながら蝦夷地まで戦い抜いて、箱館戦争で降伏した話がある。
元見廻役の小笠原は静岡に移住した後、太政官から坂本龍馬殺害の件で取り調べを受けたが、本人は
『坂本殺害〜?何だよそれ、知らねぇなぁー』
と返答し、
『知っていたら大目付案件だから、絶対止めさせましたよ』
と自らの関与を否定し、取り調べも終わった。
岩田は廃藩置県後、太政官に仕え、音楽家として活動し、『音律入門』を執筆した。
人物列伝
- 佐々木只三郎(1833〜1868)
Mr.見廻組。見廻組といったら、大体この人。
元は陸奥会津松平家家臣・佐々木家の三男に生まれる。
上の兄に同家家臣・手代木家に養子に入る手代木勝任がいる。
陸奥会津松平家の上級武士の長男だと35歳までに学問所の日新館で儒学を勉強し、弓・馬・剣・槍の何れで免許皆伝を収めないと家督相続が許されなかった。
次男以下は21歳までに長男と同じ科目を達成しないと、会津松平家から養子先を斡旋して貰えず、部屋住みとして生涯を過ごさないと行けない。
佐々木はその中で結果を残し、27歳で旗本・佐々木家の家に養子入りする事が出来た。*10
上には上がいて、浪士組で知り合った清河八郎などは学問、剣術両方で佐々木を上回り、竹刀で手合わせした際も清河が勝っていた。
速水とともに清河暗殺命令を老中・板倉勝静から受けた時は、正面から行けば返り討ちも有ると考え、清河対策に下手に出て優越感に浸らせ、清河が警戒心を弛めた瞬間、後ろから斬るというやり方で殺した。
和歌を嗜み、薩摩島津家家臣の八田知紀は和歌仲間とか。
佐々木が清河や坂本みたいなのを嫌ったのは、
「現体制下で様々な不条理に耐えてようやく出世した人物にとっては、徳川幕府よりむしろ現体制の破壊者である清河、坂本の方を憎悪することになるのではないか」
という説はある。*11
鳥羽伏見の戦いで重傷を負い、紀三井寺(和歌山県和歌山市紀三井寺)で死亡。
当初、墓は紀三井寺にあったが、墓の場所を知った坂本龍馬のファン*12から墓石に嫌がらせが絶えなかった話がある。
昭和50年(1975)8月に、会津武家屋敷内の敷地に墓石と遺骨が移転された。位牌は紀三井寺にある。
- 今井信郎(1841〜1918)
見廻組の語り部。
直心影流免許皆伝の剣客で神奈川奉行所時代は後に戊辰戦争で一緒に組む古屋佐久左衛門とともにステゴロで外国人水兵と戦い、2(今井、古屋)対10(外国人水兵)を叩きのめすなど、剣でも素手でも万能な戦いのプロだった。
後に見廻組に入隊して坂本龍馬殺害に参加、戊辰戦争では本体を離れ徳川脱走軍に身を投じ、蝦夷地まで戦い抜いた。
その後はキリスト教に入信、農業に生活を捧げた。
- 松平康正(1821〜没年不詳)
上述の交代寄合とは参勤交代を大名と同じ様に行う待遇の旗本で30家程ある内の一つ。彼はそこの当主として武蔵、上総、下総に計6000石の領地を持ち、下総飯笹に陣屋があった。
幼名は勝千代。通称は禎之助または禎之丞。
安政4年(1857)に家督を相続。大番頭、大坂在番を務めた後、見廻役に就任した。
家督を相続してからは因幡守を名乗っていたが、同年6月に諏訪忠誠*13が老中に就任する際、彼も因幡守でキャラがカブるからと出雲守に名乗りを変えた。
見廻役に就任してからは、無事大過なく務めていたが、上述の高橋の飲酒事件で引責辞任を余儀なくされる。
その後の足取りは不明。
映像化
1987年に早乙女貢原作の「竜馬を斬った男」が佐々木只三郎を主人公にして映像化されている。
主人公を演じるのは萩原健一、坂本龍馬役は根津甚八である。
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- 見廻組と新撰組は色んなところが対照的だったのが面白い。片やお家を背負った本物の武士、片や不貞浪士同然の失うもののないチンピラ集団。リスクを負いたくない当時特有の惰弱な奴らと、現場上等の精強な精鋭って所まで違う。こいつらが現場被ってるんだからそりゃ仲悪くなるよねっていう。 -- 名無しさん (2024-10-25 06:57:20)
- 文章が下手 -- 名無しさん (2024-10-26 00:29:19)
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*2 旗本交代寄合表御礼衆6千石
*3 一代抱えと言われる。次の代にまた召抱えられるので実質的には変わらないが、正社員と派遣くらいの差はある
*4 諜報活動や宮廷工作を行う部署
*5 信濃飯田堀家2万石領主
*6 江戸城中で礼式を管理する役職
*7 勝海舟は目付・榎本道章(有名な榎本武揚とは赤の他人)が下したと話している。
*8 公用局員の手代木勝任が自伝で答えている。
*9 手代木の自伝では、所司代・松平定敬からの依頼。
*10 24歳説もある。
*11 作家の司馬遼太郎は「竜馬がゆく」で只三郎を酷評していたが、「歴史と視点」では上述の考え方になっている
*12 「竜馬がゆく」で竜馬ファンになった人説が有力
*13 信濃高島諏訪家3万石領主
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