新選組

ページ名:新選組

登録日:2011/12/14(水) 20:59:48
更新日:2023/08/31 Thu 13:20:13NEW!
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新選組とは、江戸時代末期から明治初頭にかけて、京都の治安を維持するため設立された警察・軍事組織である。


日本で最も有名な剣客集団と言っても過言ではないだろう。
江戸で募集され京都に派遣された浪士組から独立した壬生浪士組が、京都の治安維持組織として会津公に召し抱えられたのが新撰組である。
反幕府勢力(主に薩長土)が主な取り締まり対象であり、攘夷浪士だけでなく、「局中法度」と呼ばれる鉄の掟によって隊内の人間も厳しく律されていた。


・「一度入隊した奴は辞めようとしたり脱走したら切腹」
・「隊内の人間と喧嘩したら切腹」
・「みだりに商人などに金を要求したら切腹」
・「敵と戦って背中に傷を負ったら切腹」
・「敵から逃げても切腹」


…法度の内容を要約すれば大体こんな感じだが、よーするに「士道に背いたら切腹」と覚えておこう。
ただし、中には除隊を認められた者や一度脱退した後復帰した者もいる。
その他にも意外と緩かったという記録も多い。
ただでさえ人手不足なので、戦力低下を恐れてそうそう処罰もできなかったとか。
とはいえ実際に苛烈な内部抗争を経ていることなどから、形式上は緩くすることは不可能だったと言えるだろう。
ちなみに「局中法度」という名称は小説家子母沢寛の創作。永倉新八によると「禁令」と呼ばれていた模様。


幕末の英雄坂本龍馬などと並び、新選組も歴史ファンの間では人気が高い。
ちなみに新選組という組織が最初に闘った相手は、意外かも知れないが「我儘放題をしていた力士を懲らしめるため」だったりする。
力士達は自慢の怪力で八角棒を唸りを上げて振り回したらしく、後述の沖田などは意外に鋭いその攻撃で怪我をしていたりもする。
勿論、最終的には実践術に勝る新選組の敵ではなく、何人か斬り倒され、詫びを入れる羽目になったのだが。


主な任務は、前述の通り京都にいる反幕府勢力、所謂「尊王攘夷」を掲げ、倒幕運動を行う志士の取り締まりで、
元々いた京都奉行所や、後で江戸から派遣されてきた「京都見廻組」(正規旗本・御家人出身者からなる実働部隊)との兼ね合いから、
京都の中でも主に祇園など繁華街の見回りに回されていたという。


鳥羽・伏見の戦い以前の死亡者は45人、うち戦いで死亡したのは6人。他はほとんどが内部抗争で死んだか内規違反で切腹。
商人から莫大な借金をしていながら返済していなかったり、屯所としていた寺院内で豚と鶏を飼い、肉食する*1等、
素行があまり良かったとは言えず、さらに、上述のように内部抗争での死者が多かったことから、素行の悪い武装集団と見られ、
活動していた幕末と解散直後の明治時代初めは、(敵対していた薩長が政権を取ったこともあって)京都の住人からの評判は良くなかった。
しかし、新選組を題材にした講談などが広まったことで、大正時代には一転して庶民から高い人気を誇るようになった。
その人気の秘訣は、その圧倒的な強さと、強烈な個性を持った隊士たちの存在が大きい。


徳川慶喜による大政奉還以降も旧幕府軍として新政府軍と戦ったが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が破れ、新政府軍が勢いに乗ったことも受けて脱退者が続出。
それでも残った新選組隊士たちは、一時「甲陽鎮撫隊」として新政府軍と戦うも戦況は好転せず、
方針の違いから永倉新八や原田左之助といった実力者とも袂を分かち、その後すぐに局長の近藤勇が新政府軍に捕らわれて処刑された。
生き残った副長の土方歳三に率いられた新選組は、旧幕府勢力と合流して会津や函館で戦うが、その土方が箱館戦争で戦死すると、新政府軍に降伏。
これをもって、新選組は歴史の表舞台から退場することとなった。


なお、「剣客集団」というイメージもあってずっと刀で戦っていたと誤解されがちだが、
鳥羽・伏見の戦い以前から鉄砲隊・砲兵を用意し、敵が使ってきた場合の対策も講じるなど、所謂近代的な戦い方も行っており、
その鳥羽・伏見の戦いで、西洋の近代戦術や鉄砲・大砲を用いる新政府軍に敗れてからは、時代の変化を痛感した土方により、
西洋式の戦術や兵器を用いるようになり、土方は和装から洋装に服装も変更している。
その土方の指揮によって旧幕府勢力が新政府軍に(局地的ではあるが)勝利した事例もあり、剣術以外でも戦闘技術は高かったと思われる。
ただ、とにかく脱走続きで人手不足であり、なかなか苦しかったという記録も有る。


ちなみに、新選組の装束と言えば浅葱色(薄い藍色)のだんだら(白い山形模様)羽織というイメージが強いが、
史実でも確かに用いられたものの、その使用期間は短く、池田屋事件の時が最後とされている(概ね一年間ほど)。
隊士から「派手過ぎる」「素材が安っぽい」と不評で元から着用者が少なく、それも徐々に減っていったのが原因だとか。現代的に分かりやすく例えるなら、警官隊が暴走族の特効服を着て取り締まりを行ってるというような絵面を想像してもらえばそのちぐはぐさが分かるだろうか。
以降は黒い装束を纏って活動しており、当時の京都では現代と違って「新選組と言えば黒装束」というイメージだった様子。
色合い的にヒロイックで印象に残りやすいためか、創作物では概ね新選組隊士はだんだら羽織を纏っているが、
大島渚の映画「御法度」や「壬生義士伝」など史実通りの黒装束を羽織った新選組隊士が登場する作品もそれなりにある。近年では岡田准一主演の「燃えよ剣」が記憶に新しく、銀魂の真選組もある意味では史実準拠と言える。
なお、初期の新選組の装束がだんだら羽織だったのは、だんだら羽織を纏って討ち入り事件を起こした「赤穂浪士組」に近藤勇が憧れていたからだとか。


余談だが、組織全体の名前が『新選“組”』なのに組を纏めていた近藤・芹沢らの肩書きが“局”長だったり、
新選組の◯番“隊”を仕切る沖田らの肩書きが“組”長だったりすることに違和感を持つ人もいると思うが、
これは、新撰組の◯長という呼び名はそのまとまりを取りまとめる人間をざっくりと指すものに過ぎず、
「新選“組”全体の“長”だから組長」とか「〇番“隊”の“長”だから隊長」とかの整合性を考慮せずに付けたため。
これに関しては、同時代の組織では新選組がとりわけ適当であったというわけでなく、
現代の警察や軍隊のようにきっちりと職名や階級を明確にするべきという意識が当時は薄かったという時代背景も影響している。



・隊士名簿・



  • 近藤勇こんどういさみ (1834年~1868年)

元江戸小石川の道場「試衛館」の館長で、天然理心流四代目当主にして新選組局長。
創作でよく見られる「今宵の虎徹は血に飢えている」という台詞は彼の言葉であり、自身が所有する「虎徹」を自慢する手紙も残っているが、
当時の「虎徹」こと「長曽祢虎徹」が打った刀はかなり高価であり、現存していないが近藤の持っていたものは贋作と推測されている。


明るく豪胆な性格であったとされ、後述の永倉、斉藤、原田らにお調子者であると指摘されている。
また故郷に妻と娘がいながら、京で愛人を持ったりした(当時の性風俗的にはありっぽかったらしいが)。
調子に乗るだけの努力を積み重ねたのも事実であり、仕事の合間に勉学や礼儀作法を学び、中川宮や松本良順から評価されている。
部下の稗田利八は絶頂期の近藤を評して「どうみても大名だなぁ」と洩らしている。


ちなみに相当大口だったらしく、自分の拳を口の中にすっぽり入れることができたらしい。
冗談を言い合う雰囲気の時には、よく余興でそれを見せて隊員を笑わせていたとか。
大抵の人はアゴが外れると思うので、真似はしないように。危険だぞ。


史実では、甲陽鎮撫隊の失敗後流山出兵を敢行するも、官軍に咎められ素性を隠し出頭。
しかし、御陵衛士の生き残りである加納鳶雄らに正体を見破られ、板橋で斬首された。



  • 芹沢鴨せりざわかも (1827年?~1863年)

筆頭局長。前半生に関してはよく分かっていないが、元水戸天狗党という説がある*2。神道無念流の免許皆伝。
当時、水戸天狗党と長州攘夷派との間には協調関係があり、京都守護職を務める会津松平家は芹沢の経歴*3に目をつけ、
長州や水戸の攘夷派と折衝して情報を集めて欲しいという意図から、芹沢を長として新撰組が生まれた。


文久3年9月*4(1863年10月)、八木邸にて数人の男による夜襲を受け暗殺される。
当時の公的には下手人不明とされたが、土方を筆頭とした試衛館組によって殺されたという説が有力。
……というか、後年に永倉が自著にて土方らが決行した旨をぶっちゃけており、他隊士や暗殺に居合わせた人物などからも(挙げられている実行メンバーの違いはあれど)土方らが暗殺したという旨の証言が残されている。
理由としては八月十八日の政変により長州攘夷派とその取り巻きの公家たちが追放され利用価値が激減したため会津松平家から逮捕ないし暗殺を指示されたとも、
酒乱の気や商人の土蔵に大砲をぶち込むなどの粗暴な振る舞い、近藤派隊士との不和などから来る内部分裂の結果とも言われるが、定かでない。


その最期からあまり人柄は良くなかったと思われがちだが、あまり細かいことは気にしない豪胆な性格であったと思われる逸話や、
借り物の火鉢を返す段階になって小さな刀傷が見つかり、犯人は誰だとなった時に「俺だ」と照れて逃げるなど、親しみやすさを感じる話、
屯所として世話になっていた家の子供に面白おかしい絵を描いてやったり、世話になった大名家の娘が夭折した際には近藤らとその葬式を手伝ったりと、子供好きを示す話もあり、
確かに酒乱だったり乱暴者という一面もあったと思われるが、決して悪人ではなかったことを示す人物評も散見される。



  • 土方歳三ひじかたとしぞう (1835年~1869年)

ご存知、泣く子も黙る鬼の副長。試衛館出身。
土方の姉・のぶが天然理心流の道場を持つ日野宿名主・佐藤彦五郎の妻で夫妻の紹介で近藤と知り合い、それ以来意気投合して義兄弟となった。
局中法度の制定や芹沢暗殺などに関わり、新撰組のブレーンとして活躍。


創作では些細な事から粛清しまくってる印象があるが、実際には隊士がフル○ンで雑魚寝するのを何度も注意するも改められないなど苦労していたらしい。
また、平時は割と気さくで優しかったといい、「鬼の副長」として有名であるが、決して厳しいだけの人物ではなかった様子。
彦五郎から剣の他に俳句も教わり、豊玉の名で句を残しているが出来はお察しください
道場剣術では最弱とも言われるが、我流に近い剣の為、実戦では強かった模様。


鳥羽・伏見後は西洋軍学を更に学び、榎本武揚から奥羽越列藩同盟の総司令官に推薦されたり、
元老中の小笠原長行から軍事的なことを諮問されたりと戦術家して円熟を迎え、箱館戦争では手腕をいかんなく発揮し、土方が直接指揮をとった隊は負け知らずであったとか。
会津など各地を転戦した後、函館五稜郭の戦いで馬上、流れ弾を浴びて死亡。
実は味方から疎まれ暗殺されたという説もあるが、この頃の土方は「鬼の副長」どころか非常に部下想いの上司であり、母のように慕われていたという。
なので、もし暗殺説が本当なら、早期に講和をしたがっていた(そして土方を邪魔だと思っていた)五稜郭側の幹部の誰かがやらせた…ということなのだろう。


新撰組隊士の中では珍しく写真が残っており、当時海外では最先端だった総髪(オールバック)に洋式の軍服を身に付けたかなりの男前。実際女性からかなりモテていたらしい。
「軍議の際に部屋に入ってくると清らかな風が吹いてくるような、そんな爽やかな男だった」と榎本武揚が書き記した書額も遺されている。
「実は吸血鬼となって現代まで生き延びており、現在は漫画家になっている」という噂もあるが、都市伝説の域を出ない。


なお、余談だが2022年年始早々、NHKが年始の番組編成で放送した「青天を衝け 総集編」「土方のスマホ」「幕末相棒伝」「新撰組!! 再放送」の4番組で“土方歳三が討ち死にする場面”が流れ、『年が明けて4日で4回土方歳三が死んだ』 と指摘されるというのが一時期話題になった。


  • 新見錦にいみにしき (1836年~1863年)

副長(三番目の局長説あり)で芹沢の腹心。同じく土方らの策により殺害。
浪士組設立前の動向や具体的な活動内容などは殆んど分かっていない。


  • 山南敬助やまなみけいすけ (1833年~1865年)

副長→総長。「さんなん」と読む場合も。
北辰一刀流の使い手だが近藤に敗れ試衛館に出入りするようになる。
学問の師範を担当するなど文武両道だったが、怒らせると危険なタイプだったという説も有る。


創作では土方と仲が悪かったせいで(山南は土方を嫌っていたが、土方は嫌っていなかったいう説も)干された可哀相な人。
しかし、土方自身が山南のことを歌ったのではと考えられる歌もあり仲が良かったという説もある。
後に脱走を図るが、沖田によって連れ戻され切腹。脱走の理由は諸説あるが尊皇攘夷の志を捨て、孝明天皇や徳川幕府の爪牙となって長州征伐にこだわる近藤への失望があったと言われる。
隊士たちからは慕われており、連れ戻されてからも永倉たちから再度脱走するように勧められたというが、既に覚悟を決めていたため、粛々と切腹に赴いた。
池田屋事件の直前から病に犯されていたか、負傷で刀を振るえなくなっており、組織の変貌を止められず傍観する事しかできない境遇を儚んで自殺したとも、それを後から記録上切腹という扱いにしたという説もある。
連れ戻した沖田とも仲が良かったようで、切腹の際の介錯には山南自ら沖田を希望。その潔い最期は近藤から「浅野内匠頭もここまでではあるまい」と称賛された。
大河ドラマ『新選組!』で一気に知名度が増した。


創作物ではインテリ系のキャラを強調するためか眼鏡を掛けている事が多い


  • 伊東甲子太郎いとうかしたろう (1835年~1867年)

参謀。神道無念流の免許皆伝で北辰一刀流の道場を経営していた。
学問もできた人物で水戸徳川家の家老・武田耕雲斎(後に天狗党の乱で一家郎党諸共斬首)と親交があった。
名前は「きねたろう」と読むのではないか?とも言われていたが、樫太郎と書かれた史料が見つかったため*5、「かしたろう」で確定した。


同門の藤堂の誘いで入隊するが、彼の思想は佐幕ではなく王政復古であった為、後に「御陵衛士」という別働隊扱いで新選組から分離しようとするも失敗。
最終的には油小路の変で惨殺された上、新選組は彼の遺体を敢えて目立つところに放置し、回収しようとする彼の同志を誘い出して粛清したという。


同じ攘夷寄りの思想で近藤らと対立した山南や藤堂と比べると創作上での扱いが悪く、試衛館メンバーの仲を引き裂き、ひいては新撰組崩壊を招いた元凶として描かれる事が多い。とはいえ自分なりの思想信条を持った策士だっり、ただの卑劣漢になっていたりと悪役としての触れ幅は大きい。


  • 沖田総司おきたそうじ (1844年?~1868年)

一番隊組長。試衛館組。組長としては最年少*6だがその強さは新選組随一と称される。
一説によると、常人の一突きの呼吸で三段突く「三段突き」を得意としていたのだとか。


新選組指折りの実力者として活動したが、肺結核を患い、志半ばで離脱(一説には甲陽鎮撫隊期までとも)。
以降は病気療養を続け、近藤勇が処刑された後、若くしてこの世を去った。近藤の死は本人には知らされなかったとされる。
敵対者には容赦がなく、新選組と敵対した人物には、岡田以蔵などの人斬りと並ぶ冷酷無情な殺人道具扱いされているが、
平時はいつも冗談を言っては笑うような、人当たりのよい好人物で、屯所の近くに住む子供たちとよく遊んでいた*7という。
一方で、剣術の稽古では声を荒げるほど厳しい指導で知られたといい、敵対者に容赦がないところも含め、剣を握ると性格が切り替わる、二面性のある人物だったと思われる。


「不治の病に冒された薄幸の天才剣士」という属性から二次創作では非常に人気が高い。
またその多くで中性的な美少年、土方とは兄弟のように仲が良いように描かれるが、
これらはそのほとんどが司馬遼太郎が打ち出したイメージによる影響が今日まで及んでいる結果である。
頓所として間借りしていた八木家の証言によると「長身、猫背、色黒、ヒラメ顔」だったそうな。
土方との仲についても諸説あり、そこまで仲が良かったのかは意見が分かれる。
しかし彼の子孫には「色の白い、小さい男だった」と伝わっているらしく、前述の内容を否定している。
ただ、女に結構もてていたのは事実らしい。本人も家族にあてた手紙の中で「もててもててしょうがありません(意訳)」などと惚気ている。
ちなみに、総司によく似ている親族を元に書いた肖像画も残っている。


愛刀は諸説あり、比較的有力視されているのは「大和守安定」&「加州清光」だが(『刀剣乱舞』等)、
他には「菊一文字(則宗)」(司馬遼太郎作品)、「山城守藤原国清」(『風光る』)を差していたとする作品もある。
ただ、菊一文字は当時でも大名クラスですら持てない名刀中の名刀であり、一隊士である沖田が持っていたとは考えにくく、まず創作と思われている。
なお義兄(姉の夫で沖田家当主)沖田林太郎は新徴組に所属していた。



  • 永倉新八ながくらしんぱち (1839年~1915年)

二番隊組長。蝦夷松前藩に仕える旗本の出身でfootnote(但し永倉は江戸の松前藩邸で代々勤務していた家の出身で、明治になるまで松前に行ったことが無かった。)、神道無念流の使い手。剣術を極めようと脱藩し、試衛館では食客として迎えられていた。
沖田、斎藤と並ぶ新撰組最強格で、池田屋には近藤と共に斬り込み、沖田・藤堂が戦線を離脱した後も二人で戦い続けていたという。その一方で次第に尊大になっていく局長に不満を抱き、会津藩に建白書を提出した事もあった。潜在的なわだかまりはその後も残り続け、甲陽鎮撫隊の敗戦後に近藤との対立が決定的になった事で離脱したとされる。


その後は独自に同志を募って抵抗を続けたものの、やがてそれも限界を迎えて松前藩に復帰した。藩医の婿養子となり北海道に移住、剣術家「杉村義衛」として後半生を過ごした。
新選組自体を嫌いになったわけではなかったようで、明治期に新選組時代の事を書に綴った(新聞記者との共作状態だったらしく、おかしい部分も多々あるが)。一度は紛失してしまったものの、後に発見されて正式に書籍として発行されるに至った。
朝敵の悪党扱いだった新選組が日の当たる場所に出てきたのはこの人のおかげであり、ある意味では新選組の最大の功労者。


晩年は孫と一緒に活動写真を観に行くのが楽しみであったという。
ちょんまげに刀を差していたお侍さんが映画館通いとは、この時代の変動激しすぎである。
因みに、日露戦争では抜刀隊に志願するも高齢を理由に断られたが、「元新撰組の手を借りたとあっちゃあ、薩長の面目も丸つぶれか」と笑い飛ばした。
大正時代に虫歯から併発した敗血症を患い逝去。享年76歳。
脱退しながら非業の最後を遂げなかった(粛清されず、戦死もしなかった)数少ない上位幹部の一人。




  • 斎藤一さいとうはじめ (1844年~1915年)

三番隊組長。
一般的には試衛館組とされているが、結成時メンバーより少し後に新選組に加入していたりする等どの時点から仲間となったかは不明。
伊東率いる御陵衛士にも一時参加しており(間者説が有力)、そのせいか新選組復帰前後に「山口二郎」(名字は本来のものらしい)と改名した。


近藤亡き後、箱館(函館)に転戦する土方と別れ会津に残留、藩の降伏後も暫くの間抵抗を続けており、容保の説得でようやく投降に応じたという。新選組の中では数少ない、明治まで生きた人物の一人。
後に藤田五郎と名を変え、警視庁抜刀隊の一員として西南戦争で活躍。
警視庁退職後は現在の国立科学博物館の守衛長や東京女子高等師範学校の庶務・会計係などを務めた。
大正時代(永倉死去の8か月後)に胃潰瘍のため死去。床の間で結跏趺坐を組みながら亡くなったとされる。
永倉とは異なり、新撰組時代の事は殆んど語ろうとしなかったという。その一方で共に戦った旧会津藩士たちとは交友関係を続けていたため、最初から新撰組ではなく会津への忠誠心で動いていたとか、藩から送られた監視役だったのではないかという説もある。


沖田総司の項目で書かれている通り、諸説ある沖田の生年が一番若いと仮定しても沖田と斎藤は同い年、
もちろんそれでなければ沖田の方が年上になるのだが創作(特に実写作品)では斎藤の方が年増に描かれる事が多い。


「左利き」として描かれるが、これを証明する史料は無い。子母沢寛がキャラを立たせる為に加えた設定である。
この人も沖田と並び程美化が激しいことで有名(『風光る』等例外もあるが)。長男の顔を元に描かれた肖像画を見ると驚くことになる。
あの『るろうに剣心』の作者である和月伸宏は斎藤を悪人面にしたために新選組ファンから批判を受けたと語っており、
「写真一つ残ってない(後述)のに、何故か美形と思われている」
「斎藤を美形と思いたいのなら肖像画は見ない方がいい」
と言っていた。
創作では渡辺多恵子の『風光る』の「刀に詳しいムッツリ系」、浅田次郎作品での「ニヒリスト」等作者ごとにキャラが異なっている。


しかし2016年になって晩年(50代半ば頃)に写真が撮影されていたことが判明。
結果、件の肖像画は比較的よく特徴を捉えてはいるものの、本人はそれよりも目付きが鋭くかなり精悍な印象の顔立ちで、美形設定は近からずとも遠からずといった所であった事も明らかになった。



  • 松原忠司まつばらちゅうじ (1835年?~1865年)

四番隊組長。坊主頭の柔術使いで大薙刀を武器にしていたため今弁慶とあだ名が付いた。山南と並んで温厚な性格だったらしい。
隊長となってすぐに病死したと記録されている。その直前に何らかの理由で切腹を図るが失敗し、その傷が悪化したという話もあるなど不可解な点が多い。
自身が殺した浪士の妻女を囲っていた事を咎められ、その責任を感じて心中したという話「壬生心中」も知られるがこれは創作だと言われている。


  • 武田観柳斎たけだかんりゅうさい (?~1867年)

五番隊組長。甲州流軍学を修め、作戦の立案や隊士の調練を担う軍師ないしは軍事顧問のような立場だったという。近藤の出張や交渉事の多くに同行している。
時勢が佐幕不利になる頃に新撰組を脱退し(正式な除隊だったとされる)、その直後に暗殺されている。その最期から新選組を裏切って攘夷側(薩摩)に付こうとしたと言われている。
元々攘夷論者だった事や組織体制が西洋化した事で発言力が弱まった事も影響したらしい。


殆んどの創作ではずる賢く陰険な性格に描かれ、試衛館組と比べると扱いがかなり悪い。
当時では男色は珍しくなかったのに、ホモのおべっか使いとされるかわいそうな人。
目立つエピソードがなくフォローもされにくい、哀れな人。
実際、恩着せがましく面倒を見た者に多額の返礼を要求していたという証言もある。


ただ、池田屋事件の際は現場で指揮を執り、上階から飛び降て逃げようとした敵を自分も跳躍して空中で斬り伏せる芸当を見せたという話もあるから幹部に相応しい剣の実力はあったと思われる。


山南と同じく眼鏡を掛けている事が多い


  • 井上源三郎いのうえげんざぶろう (1829年~1868年)

六番隊組長。試衛館組では最年長で、近藤の兄弟子。
組織の事務方や会議などの運営を多く担当していたという。後に鳥羽・伏見の戦で戦死する。 
無口かつ頑固な性格だったらしく、創作でも沖田や土方から一歩下がった目立たない位置にいる事が多いものの、彼ら主役勢から広く慕われていたとか。
また年長とは言っても他の幹部とは5~10歳程度しか離れていないが、創作ではそれ以上の老齢に描かれる事がある。


  • 谷三十郎たにさんじゅうろう (1832年?~1866年)

七番隊組長。兄弟3人で新選組隊士となっており、末弟の周平が近藤の養子となった。元は備中松山藩の旗本で、そのコネを近藤が欲したとする説がある。
宝蔵院流槍術の使い手だった(ただし道場槍)と言われるが、実際は記録違いで次男の万太郎の方が槍使いだったとも。
大阪方面での任務に活躍しているが、京都・八坂神社の石段下にて死体となって発見された。詳細は不明で、暗殺説や深酒による卒中説などがある。


創作では横柄さを強調され、近藤の親戚という立場を傘に着て実力以上に威張る小者という描かれ方が定型化しており、武田と並んで扱いが悪い。
実際、「新撰組は見かけ倒しの奴らばかりだ」という傲慢さを匂わせる発言は残っている。
隊士の介錯に失敗して無用に苦しませる醜態を晒し評判を落としたという逸話もあるが、時系列が矛盾している事から創作であると考えられている。


  • 藤堂平助とうどうへいすけ (1844年~1867年)

八番隊組長。伊東甲子太郎の同門だったが後に試衛館の食客となり、共に上京して結成に携わった。
幹部の中では斎藤と並ぶ最年少。
見廻りや戦いの際は最前線に立ち、真っ先に敵中に斬り込んで行く事から「先駆け先生」と呼ばれたとか。池田屋には近藤・沖田・永倉と共に斬り込み、額に深手を負っている。
しかし伊東の加入後はその支持者となり、共に新選組を離脱。
油小路の変で死んだ伊東の遺体を引き取ろうとしたところを永倉らに襲撃され死亡。


一説に近藤が「藤堂は殺したくない」と永倉にぼやき、永倉も仲の良かった藤堂を殺したくなかったので逃がそうとしたが、事情を知らぬ平隊士に斬られ死亡したとされる。


創作によって立場がまちまちで、試衛館の仲間と恩師との狭間で苦悩する姿が描かれる事もあれば、最初から最期まで伊東派で近藤を亡きものにして首をすげ替えようと考えてる事もある。


  • 鈴木三樹三郎すずきみきさぶろう (1837年~1919年)

九番隊組長。伊東の実弟。
参謀に着いてた兄貴の権力を傘に調子に乗ってたボンクラ…というのが定番のキャラ付け。
その根拠になったのは、当時の記録を総合すると「九番隊組長に任命された翌月に降格された」ということになる、というものだが、
最近の研究ではどうやら「九番隊組長になったという記録そのものが誤記録だった」らしい。
実際、この「九番隊組長速攻降格事件」の翌年の記録では八番隊組長になっていたりする。


油小路を生き延び、鳥羽・伏見の戦い前生き残った仲間が近藤の肩を狙撃し重傷を負わせた(鈴木も参加していたかは作品によって異なる)。
赤報隊にも所属していたが、赤報隊本体が官軍によって粛清されたため連座しかけたりもした。


後に山形県の郡長や鶴岡警察署長、福島県の学務課長を勤めた後、明治18年(1885年)退官。
余生を養鶏や盆栽いじりで過ごし、大正8年(1919)83歳で死去。
永倉・斎藤以外では唯一の生き残り幹部だが上記の通り形ばかりの事で、本人的にはむしろ新撰組時代は無かった事にしたい黒歴史と言える。


  • 原田左之助はらださのすけ (1840年~1868年?)

十番隊組長。試衛館の食客。槍使いであったという。


「切腹も出来ない臆病者」と罵られた際に、いきなりその場で切腹した豪胆な漢。
切腹した後にちゃんと治療され一命を取り留めた後、酔った際には着物を脱いで傷痕を見せながら切腹したときの話を自慢していたとか。


盟友の永倉と共に隊を離脱後、端兵隊を結成したがそこも離脱し、彰義隊に入隊し戦死。
一部では大陸に渡って馬賊になったという生存説も流れた。  


  • 島田魁しまだかい (1828年~1900年)

監察兼伍長。永倉と親交があったよしみで入隊した。
相撲取りばりの巨漢で怪力の持ち主である一方、情報収集能力に秀でた。


永倉が離脱した後も組に残留し、壬生浪士組時代から箱館まで戦い抜いた。
釈放後は京都で剣術道場の他、商売も行うが思うように行かず難儀なセカンドライフだった様子。
それでもプライドがあったのか、明治政府への出仕を持ちかけられても拒んでいる。
後世に新選組のことを伝えるため『島田魁日記』などの記録を残した。


1886年から西本願寺の夜間警備員となり、1900年に勤務中に倒れて亡くなるまで続けた。


  • 尾関雅次郎おぜきまさじろう (1844年~1892年)

監察。行軍の際は旗役。
兄の弥四郎も新選組隊士。


壬生浪士組時代から箱館まで戦い抜き生き残った。
戊辰戦争後は、故郷の奈良県高取に戻り、結婚、三男二女の父として過ごす。



  • 山崎丞やまざきすすむ (1833年?~1868年)

監察。池田屋事変など重大事件の要所で活躍。
軽い治療も担当し、近藤・土方の信頼も厚かったデキる男。


鳥羽・伏見の戦いで傷を負い、江戸に向かう船の中で死去。
それまでの功績を労い、亡骸は水葬にされ、丁重に葬られたとされるが、水葬説には「永倉や島田の手記で触れられていない」という矛盾があるという。



監察兼文学師範。
最初期に入隊して以降、政治関係の役職を多数歴任しており、武田観柳斎亡き後は五番隊組長も勤めた。
剣士としての華々しい活躍が無いため極めてマイナーな人物だが山南や伊東は勿論、武田にも引けを取らない隠れた頭脳派実力者とでも言うべき存在で、彼ら幹部クラスが相次いで死んでゆく中期以降、その空席を埋めるように副長助勤となり組織の中核を担った。


斎藤と共に会津に残留した所で記録から消えており、長年消息不明だったが、2013年に見つかった新史料で敗戦後は故郷熊本に帰り余生を過ごした事が明らかになった。


「父佐久間象山の仇を討つ」というカッコいい目的で新選組入りしながら、ポンコツ過ぎて脱走。
しかしちゃっかり生き延びた残念な若手隊士。
詳細は項目参照。



  • 吉村貫一郎よしむらかんいちろう (1840年?~1868年?)

監察。
奥州出身の北辰一刀流剣士で、各種資料から南部藩を脱藩して鳥羽・伏見の戦いで死んだ「嘉村権太郎」の偽名説が有力視されている。
…とリアル史料から読み取れるのはこれくらいだったのだが、子母澤寛が著書にて「鳥羽・伏見で旧南部藩邸まで逃げるも、元主家から罵られ切腹」という証言と、
「家族を養うため脱藩してまで出稼ぎに出、それゆえに新選組が幕府に取り立てられたとき感極まった」という話を追加。
そして子母澤本を基に水木しげるが『幕末の親父』・浅田次郎が『壬生義士伝』を書いたことで有名になった。



  • 大石鍬次郎おおいしくわじろう (1838年~1870年)

監察。池田屋事件の直後に入隊した。
伊東甲子太郎暗殺の実行メンバーで、他にも暗殺任務を多く担当した事から「人斬り鍬次郎」の異名が付いた。
甲府での敗退直後に組を脱走したが坂本龍馬暗殺の嫌疑で捕縛、伊東暗殺が立件され斬首となった。


幹部以外の隊士の中では特にダーティなイメージが付いて回る人物。実際に粛清を主導した有名幹部たちがヒロイックな文脈で語られているのに比べるとその血生臭さが例外とも言える程際立っており、武田や伊東のような政治力のあった悪役ともまた違った意味で存在感を放つ。


ある意味、人斬り集団という戦前以来の新撰組のイメージをそのまま一身に引き継いでいると言える。



  • 市村鉄之助いちむらてつのすけ (1854~1873or77年?)

油小路事件直前に兄辰之助と共に新選組に加入し、箱館戦争まで土方に付き添い彼の死を遺族に伝えた隊士。
その後についてはよく分からず、「先に逃げていた兄と故郷大垣で再会し、兄の死後すぐ病死した」という説が有力視されているが(後に兄の子孫によって市村家の墓が建てられた)、
「西南戦争で西郷軍兵士として死んだ」と言う説に物語性があるためか、創作では『燃えよ剣』(但し政府軍側)・『一刀斎夢録』(西郷軍側)で採用されている。
また黒乃奈々絵の『新撰組異聞 PEACE MAKER』・『PEACE MAKER 鐵』では主人公となっているが、入隊時期が池田屋事件前に大きく前倒しされている。



  • 田村銀之助たむらぎんのすけ (1856~1924年)

鳥羽・伏見の戦い前後に兄二人と共に新選組に志願するも、一人だけその幼さから「両長召抱人」として他の少年たちと共に土方の小姓として箱館戦争まで参加し明治後も生き延びた少年。
他の箱館組に比べると地味だったが、2010年代に入ってから漫画『PEACE MAKER 鐵』(蝦夷地渡航直前)・『風光る』(鳥羽・伏見の戦い直前)に登場している。



市村とほぼ同時期に新選組に加入し、顔半分を損なうような大怪我をしながら辛くも生き延び「最後の新選組」として名を残した隊員(但し箱館までは行っていない)。



  • 相馬主計そうまかずえ (1843年?~没年不詳)

新選組最後の隊長。
元々は幕府陸軍の隊員だったが「第二次長州征伐」の後新選組に移籍し、鳥羽・伏見、勝沼の戦いに参戦。
流山で近藤が投降した際は助命を求めるが敵に捕まる。
釈放後、春日左衛門指揮の陸軍隊に幹部として迎えられ、奥羽戦争に参戦。
仙台で徳川脱走艦隊に合流。土方らに再会して蝦夷へ渡り、箱館戦争では宮古湾海戦に参戦するも負傷、弁天台場攻防戦で降伏。
敗戦処理のため、箱館奉行・永井尚志から隊長に任命される。
戦後、投獄の後、新島へ流罪となるも釈放。


維新後は豊岡県(現在の京都・兵庫)で官吏となったが免官され、東京に戻る。
しかし東京に戻った後謎の切腹を遂げる。妻に「他言無用」と言い残したとされ、詳細については不明となっている。
が、近年、回想録や写真が見つかり、明治30年頃まで生存していたと言われる様になった。



  • 中沢琴なかざわこと(?~1927年)

世にも珍しい女性隊士。
上野の国で剣術道場を営む家の生まれで薙刀の達人。
新選組の前身である「浪士組」に参加するため男装して兄と共に新選組に入隊した。
入隊後は市中の見回りや、倒幕派との戦いに参加し、戊辰戦争で敵に囲まれた際は、敵兵を切り捨て囲みを突破したという武勇伝を残している。
「自分より強い男と結婚する」という志を持っていたが、結局現れなかったらしく、生涯独身であった。



  • 原五郎妹女はらごろうめ

同じく新選組の女性隊士。
一応実在していたとされている中沢琴と違って新選組の研究者の間でも謎とされている女性。
当時十七歳で会津藩出身らしいという事以外分かっていない。
「妹女」という呼び名から原五郎という隊士の妹だという説や、上記の中沢琴と同一人物ではないかという説もある。



  • 三好胖みよしゆたか (1852年~1868)

新選組の隊士の中では珍しく大名家の嫡男出身。
本名は小笠原胖之助おがさわらはんのすけ
肥前唐津小笠原家の十代目当主・小笠原長泰と側室・浜との間に四男として江戸の屋敷(外桜田上屋敷、本郷弓町中屋敷、深川高橋下屋敷かは不詳)に生まれる。
万が一の跡継ぎとして、または何処の大名家に養子に出してもいいように、儒学・剣術・槍術・馬術を学び、馬術は免許皆伝を授かった。
義理の兄で老中を務める小笠原長行の計らいでお供として伴い、京都や大坂で政治の表舞台を知った。
戊辰戦争で義兄の長行は最終的に奥羽越列藩同盟に参加するが、この人は小笠原家を出奔して徳川宗家の処分に反発する「彰義隊」に参加。
敗れて潜伏した後、榎本武揚が指揮する徳川脱走艦隊に身を投じ、同船していた輪王寺宮(彰義隊が擁立していた盟主。後に奥羽越列藩同盟の盟主になる)の護衛を兼ねて会津若松に向かう。
会津戦争にも参戦したが、猪苗代の戦いで敗れて仙台に敗走。
仙台で再び、徳川脱走艦隊に身を投じて蝦夷地に向かう。
この時、新選組も会津戦争で人数が激減しており、人数を補充するため、他家出身の家臣団を参加させることにした。
三好胖と名前を改めて入隊するのはこの時である。
蝦夷地に上陸した後、五稜郭にいる太政官の軍隊と交戦になり、1868年10月24日戦死。



  • 阿部十郎あべじゅうろう(1837年~1907年)

「局ヲ脱スルヲ許サズ」を謳う新選組を二回も脱走した脱走のプロ。
その後、御陵衛士、赤報隊と所属組織を転々とし、後年は北海道でリンゴ栽培を営んだ。




・新選組が関わった事件・



  • 池田屋事変

「池田屋の変」「池田屋事件」とも呼ばれる。
京都を焼き討ちし、その隙に孝明天皇を拉致して中川宮や松平容保を暗殺する算段を京都「池田屋」で会談しようとした攘夷志士達を一網打尽にした*8、新選組史上で最も有名な事件。
ちなみに多くの作品では「この時沖田が胸を病み吐血」とされてきたが、近年では「ここで発病していると鳥羽・伏見の戦いで既に死んでいる可能性が高い」とする説が有力となり、
『風光る』や『龍馬伝』では龍馬が暗殺された近江屋事件直前に発病したことになっている。
宮部鼎蔵、北添佶摩など、それなりに有力な志士がこの事件で討たれ、新選組の名を世に知らしめた。
桂小五郎(後の木戸孝允)も参加する予定だったが、直前に脱出している。


実はこの時期、新選組の存在がかなり屋台骨から揺れていた時期らしく、この事変がなければ存続が危うかったらしい。
京都焼き討ち計画も、佐幕側の残した史料にしか存在しないため、適当な理由をでっち上げて功績を挙げることで存続を図ったのでは、という説も。



  • 鳥羽・伏見の戦い

長きにわたる戌辰戦争の緒戦となった合戦。
薩長軍の銃砲の前に刀槍で武装した新選組は損害が多く、援軍のはずだった他藩の予期せぬ裏切りなどもあって井上源三郎、山崎烝などの隊士が戦死した。
この戦いの後他の旧幕府軍と共に江戸へと戻り、「甲陽鎮撫隊」で巻き返しを図るも失敗。永倉、原田の相次ぐ脱退など、新選組は崩壊への道を緩やかに、着実に歩んでゆく事になる… 
それでも、人数は定期的に補充していたが…




追記・修正は局中法度に則ってお願いします。


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  • 若者の夢と言えば
    聞こえは良いが、
    きついこと言うと
    政権末期に創設された 軍閥配下の治安部隊かな -- 名無しさん (2014-01-08 19:37:34)
  • 副長は現代まで生き残って漫画家になってるとか吸血鬼やスタンド使いになってるとか言われてるが・・・まさかな。 -- 名無しさん (2014-01-08 21:04:54)
  • そして一番隊組長が最優のサーヴァントに -- 名無しさん (2014-01-08 21:18:48)
  • ↑最優(笑)になる恐れが… -- 名無しさん (2014-01-08 21:25:28)
  • 尊皇攘夷の有志集団として、幕府に集められながら、途中から徳川体制を支持する孝明天皇の暴力装置として変質し、孝明天皇の思想に殉じた集団かな。近藤と孝明天皇は、徳川体制での攘夷にこだわっていたのは、共通しているから。そして、孝明天皇が長州を嫌い抜いていることが、新選組を長州狩りに駆り立てる要因であるし。 -- 名無しさん (2014-01-08 23:40:03)
  • PS2のゲームやると、誰コイツって隊士が多くて面白い。創作のヤツも多いが -- 名無しさん (2014-01-09 00:54:21)
  • ゆとりのオレはゲーム風雲新撰組で存在を知った -- 名無しさん (2014-01-09 01:10:03)
  • 容保とこの人らが守護に選ばれた理由聞いて 泣いてもうた


    …イケメンで女にモテそうだったかららしい
    長州人が歌上手くて金払いが良かったからその対抗にとは -- 名無しさん (2014-01-11 10:17:27)
  • 学問的に斎藤一の写真は本人って確証は出てないな。こいつ斎藤じゃね?くらいの感覚だよ -- 名無しさん (2014-01-11 11:05:46)
  • この項目史実寄りの記述と創作の記述が混ざってるな・・・ どっちかに寄せたほうがいいかも -- 名無しさん (2014-01-11 11:15:08)
  • ↑ぶっちゃけ弁別不可能だろ。史実だと思ったら創作由来の話だったりとかよくあるし -- 名無しさん (2014-01-11 18:42:00)
  • 手代木直右衛門勝任さん
    上司なのに 空気どころか 存在が無かったことに…
    まあお陰で助かったわけだが -- 名無しさん (2014-01-13 09:06:07)
  • 漫画とかだと題材になる事が多いな。 -- 名無しさん (2014-02-24 17:17:45)
  • 実際は創作の部分が多いが(それも含めて)やっぱりこれだけの個性的な人物が集った集団って魅力的なんだよなぁ -- 名無しさん (2014-04-06 13:02:52)
  • 奇兵隊や海援隊、陸援隊と比べると、キャラ立ちしている奴が多い。 -- 名無しさん (2014-04-06 13:35:55)
  • 龍の印は正義の印 この世に悪がいる限り 天に代わって悪を討つ -- 名無しさん (2014-07-10 23:16:08)
  • カンリュウサイは一機減った。 -- 名無しさん (2014-07-11 11:28:58)
  • ハートを磨くっきゃない! -- 名無しさん (2014-08-27 00:09:18)
  • たまに新撰組を異常に叩く人達がいるけどあれは何なんだろうか、先祖を斬られでもしたのか? -- 名無しさん (2014-08-28 18:31:23)
  • 宇宙戦艦ヤマトの古代以外の艦長の名前の元ネタ(沖田、土方、山南)なのは知ってたけど、長官(東堂)や空間騎兵隊(斉藤始)もそうだったのか  -- ??隊長 (2014-08-28 18:45:25)
  • ↑2 古株の日本史研究者で学生運動上がりの人は、学生運動側を維新志士と自称し、学生運動を鎮圧した機動隊を武道の有段者が多いのと理屈より腕力という偏見から新選組と蔑んだそうな。事実、NHKの「その時、歴史が動いた」のBOOK版・編集後記では大学の研究者に新選組の件で訪ねたところ、「研究価値ゼロ!あんなのは新選組マニアどもに勝手にやらせとけばいい。学会でも物笑いのたねにされるだけです。、自由民権運動を取り上げてください! -- 名無しさん (2014-08-29 09:10:48)
  • すまん、続きです。と協力を断られたそうです。学界特有の、教授の好む題材で教授の気に入る論文を書いた人が出世する学界では、新選組は敬遠される存在だったよ。学生運動上がりの教授らはマルクス・レーニン主義の、階級闘争と進歩主義の歴史観に縛られていたからね。 -- 名無しさん (2014-08-29 09:18:08)
  • ちるらんとかアツくて好き -- 名無し (2014-08-30 16:56:37)
  • なんか愛されすぎだとも思う。実際そういう奴らじゃねぇだろ。 -- 名無しさん (2014-09-19 14:55:10)
  • ↑実際、今でこそ京都観光ではメジャーで人気だけど、当時の京都民からはほぼ嫌われ者だったみたいだしな... -- 名無しさん (2014-09-19 17:36:29)
  • 遠くから見てる分には面白くても、身近にいられたら困るってのは、これに限ったことじゃないからねぇ… -- 名無しさん (2014-09-19 19:30:42)
  • Wikiで斉藤の写真(肖像画?)見てみた …スポックだった -- 名無しさん (2014-09-19 19:45:00)
  • 烈風散華 -- 名無しさん (2014-09-19 22:02:38)
  • ↑3、4 新選組と同じ時期に出てきた長州の奇兵隊も地元の評判はあまり良くなかったぞ。新選組と一緒で後世の人に美化されている。新選組は歴史好きの人々で、奇兵隊は右よりの歴史家からは日本陸軍の雛形と称えられ、左翼系の歴史家からフランス革命における義勇軍の日本版と呼ばれたww。新選組も奇兵隊も攘夷をするために集められた有志集団だが、奇兵隊は攘夷を果たしたけど、毛利家からの解散令を無視して高杉晋作のクーデター軍に途中から参加して存続、第二次長州征伐や戊辰戦争で活躍したのち、毛利家が名前を改めた山口藩の常備軍編制問題がこじれた脱隊騒動で遊撃隊と並んで反乱勢力の中心となって粛清。新選組は攘夷をするはずが、治安維持に転用されて、戊辰戦争で壊滅。まぁ、どっちも末路は寂しいものだが。 -- 名無しさん (2014-09-20 12:18:28)
  • 鳥羽、伏見では「もう刀や槍の時代ではありません」(by土方歳三)、道場では近藤勇たちでは道場破りに歯が立たなくて神道無念流から渡辺昇らを借りてきて対抗した。唯一の取り柄の暴力も中途半端でだらしないイメージ。 -- 名無しさん (2014-09-29 07:53:28)
  • 人気があるから、新撰組を扱った作品は結構あるよね。漫画だけでもかなりあるから、みんな目が肥えてて厳しいのかも。実際に打ち切りになってたね、マガジンで前に連載してた漫画。 -- 名無しさん (2014-10-05 10:45:16)
  • 手代木直衛門の私兵 -- 名無しさん (2015-02-02 12:59:18)
  • ↑手代木さんはかなり後からの出番だよ。それに手代木の私兵と言うなら、弟が幹部を務める見廻組だろう。 -- 名無しさん (2015-02-28 16:04:43)
  • 赤穂浪士はやれ仇討じゃないやれ狂信集団だと罵られていながら、ただの暴力集団でしかない新選組は過剰に養護される。正直今の日本に引くわ -- 名無しさん (2015-06-24 00:57:49)
  • あの有名な浅葱色の羽織って実際は池田屋以降は廃止されてたんだな…しかもかつて着ていたのは隊長格ぐらいだったとか…… -- 名無しさん (2015-06-24 10:08:37)
  • ↑↑実際に現代的価値観からすれば赤穂浪士は逆恨みなのは間違いないし、新撰組に関してもテロリストが横行し奉行所が役立たずの無法地帯化した京都で治安維持の任務で優れた成績挙げてたからね。実は明治期の元志士たちも治安維持機関としての新撰組の効能は認めてる。 -- 名無しさん (2015-06-24 11:10:26)
  • 松之大廊下の刃傷沙汰に喧嘩両成敗は適用できないからなあ。遺恨の詳細な資料さえ出てくれば話は違うんだが。ところで新撰組の十番隊編成って間違いの可能性もあるんだっけか -- 名無しさん (2015-07-05 02:03:51)
  • あれ、松の廊下で上野介だけ助かったのは、その日綱吉の母ちゃんの誕生日で時間を掛けたくなかったのと、綱吉自信がインテリで喧嘩両成敗を野蛮に感じたから勝手に破ったからじゃなかったか? -- 名無しさん (2015-07-05 02:06:22)
  • まず喧嘩両成敗自体明文化された法じゃなく慣習法であった。けど実は攻撃者に対し反撃してはならないわけではなく正当防衛はきちんと認められてたりする。浅野が抜刀(この時点で切腹もの)して切りつけたが吉良は抵抗せず(できず?)切られるままだった。なので態度が殊勝であるとして許された。抜刀してタラ処罰の可能性はあったかもしれない。これが各種資料から読める範囲でわかることかなー。綱吉は法に反した幕臣は一貫して厳しく処断してる。これは浅野だけってわけでもない。 -- 名無しさん (2015-07-05 02:51:04)
  • やっぱり組長になるには卍解を会得してることが条件なの? -- 名無しさん (2015-07-05 03:11:32)
  • タグに護廷十三隊も入れた方がいいかもな -- 名無しさん (2015-09-18 04:20:04)
  • 確かに、るろ剣の斉藤を見てから史実を見ると、(史実の斉藤には申し訳ないが)ぶっ飛んだあとに絶望する; -- 名無しさん (2015-09-18 08:34:16)
  • 沖田って平安貴族みたいな顔してんな -- 名無しさん (2015-11-07 02:10:48)
  • ちなみに山崎烝は棒術に精通。 -- 名無しさん (2016-01-06 15:29:25)
  • 猿でもわかる新撰組 「戦いで死ぬより内部粛清の方が多いって何なの、お前ら?」「カルト団体か何かか?山岳キャンプ事件かよ」 -- 名無しさん (2016-04-11 00:53:05)
  • ↑集まった隊士が根無し草で失う物がない人が多かったので、違反しても武士みたいに社会的な罰則や罰金では効果が無いんで言うこと聞かすために仕方なく極刑にするしかなかったという説もあるらしい -- 名無しさん (2016-04-11 01:15:27)
  • 忠臣蔵46+1を作ったインレが、今度は新撰組を題材にするそうだな。個人的に楽しみ。 -- 名無しさん (2016-08-13 20:05:15)
  • ↑2尊皇攘夷が幅を利かせていた頃はそれほど、粛清は多くなかったが、攘夷が出来なくなり、長州征伐にシフトチェンジした頃から粛清が増えてきた。 -- 名無しさん (2017-03-12 05:22:29)
  • 仮面ライダードライブのロイミュード幹部3人のモチーフにも使われた。 -- 名無しさん (2017-03-24 23:16:02)
  • 実は戦後しばらくは悪役扱いの方が多かった。ただ、悪役といっても「格好いい悪役」「強い悪役」のイメージだったらしいけど。 -- 名無しさん (2017-04-15 10:49:19)
  • まあでもライバルの維新志士たちも客観的に見ればテロリストの集まりだし。 -- 名無しさん (2017-04-15 13:17:02)
  • るろ剣ではかっこよかった斎藤も、修羅の刻では斎藤の副官というサブキャラ扱いだったとさ…… まぁ、土方沖田がメインだったし仕方ないが(涙 -- 名無しさん (2017-06-01 15:04:57)
  • 新"撰"組と新"選"組の表記があるけどまあどっちでもいいらしい。どっちかというと後者が多い。 -- 名無しさん (2017-07-24 09:30:31)
  • 最近の研究によると芹沢鴨は有栖川宮家に対して攘夷実行のために奉公を申し出ていたことが分かったそうだ。暗殺の理由は芹沢の素行不良より、会津藩に無断な行動をして怒りを買い有栖川宮熾仁親王に難癖をつけられたくなかった幕府の思惑によるもの、なのかもしれない -- 名無しさん (2017-08-17 22:51:46)
  • こんだけ比較的近い時代なのに下手な昔の頃より判らない事が多いっていうね、今でも新資料が続々見つかってくるぐらいだし凄いわ -- 名無しさん (2017-10-15 12:22:22)
  • ↑所詮新撰組は歴史的には敗北者側だからな。結局のところ歴史は勝者によって語られるもの。当然資料や証言も勝者の方が多く残る -- 名無しさん (2018-01-29 22:46:37)
  • 近藤たち天然理心流の一同が京都に行っている間、佐藤彦五郎ら多摩地域の豪農等が出稽古などで天然理心流を支えていた。甲陽鎮撫隊にも人、金、武器を拠出していた。門人たちの中には近藤たちの敗戦を目の当たりにして、武力で政府を批判するのを諦め、言論で批判する方向に転向した人もいたとか。東京三鷹の豪農・吉野家もその一人とか。 -- 名無しさん (2018-11-17 18:58:54)
  • 日本版梁山泊だな -- 名無しさん (2019-01-23 00:45:19)
  • 恋愛関連だと土方・沖田と重要キャラ2人がフリーだから妄想しやすいってのがあるだろうな。幕末だと近藤等下手に恋愛入れると(現代的視点から見て)浮気話になりかねん組もいるし(会津・薩摩・長州と現地妻の実例があるのを見るとなおに)。 -- 名無しさん (2019-01-23 10:29:25)
  • 市川崑の人形劇(?)版映画はソフト化されてたっけ?あれは監督の実験精神が横溢する傑作だったんだが… -- 昼太郎 (2019-04-03 20:38:54)
  • FGOで新選組イベやってるから見に来たが、女体化させなくても、女性隊士ちゃんといるやんけ!!  -- 名無しさん (2020-10-11 20:51:53)
  • 女性人気バリバリな組織のイメージ 学園モノ以外の乙女ゲーって、新選組か平安舞台にしてる印象しかない -- 名無しさん (2020-10-15 10:09:00)
  • 池波小説好きだからか、なんやかんやで新八好きやわあ。 -- 名無しさん (2020-10-15 11:10:40)
  • 銀魂と言い、薄桜鬼と言い、幕末Rockと言い、沖田ってやたらとドSな性格してるけど元ネタ何かあるの -- 名無しさん (2021-02-16 15:37:03)
  • ↑、記録なんかから普段は近所の子供とか相手に遊んだりおやつあげたりと面倒目が良い一方で、稽古だと苛烈すぎる程スパルタだったらしいと言われてるので(懸かり稽古で相手が降参してもやめなかったり、気絶するまでしごきを止めなかったこともあるらしい)、その辺由来かと。 -- 名無しさん (2021-02-16 16:28:52)
  • 当時の長州藩のやってたことがガチのド外道だったので、むしろ治安維持組織としての新選組って割と頑張ってた方なんだろうなと考える。当時の京の市民には嫌われてたとのことだが、後世での人気を考えると何らかの下地はあったんだろう -- 名無しさん (2021-05-21 23:26:13)
  • 報告にあった荒らしコメントを削除。 -- 名無しさん (2021-05-23 17:12:03)
  • 当時と現代では体制が全然違うから比較するのは難しいが、しいて言うなら警察の業務委託を受けたNGOだろうか。 -- 名無しさん (2021-05-29 10:22:41)
  • ↑敢えて言うなら、PMC() -- 名無しさん (2021-07-06 22:08:23)
  • 史実に即して描こうとするとサムライ・武士道モノよりも任侠モノっぽくなる人たち。最終的に大体死ぬとこも含めて。 -- 名無しさん (2021-10-14 22:35:43)
  • 手代木様の新撰組への権限はどれ位やろう -- 名無しさん (2021-10-25 14:23:32)
  • ↑8 口先では「かわいそう」と言いながら、人を斬って平然としている描写が新選組血風録にいくつかある。元ネタはそのあたりでは? -- 名無しさん (2021-10-26 00:17:24)
  • いくつになっても、男子は刀を振り回すのが好きだろう? -- 名無しさん (2021-11-13 20:31:10)
  • 斎藤一の晩年に青年の前で竹刀で空き缶を射抜いた話が本当にすごい、目の衰えているであろうその年齢で静物とはいえ的確な一突きができるのは文字通り身に沁みついた動きだからとしかいいようがない -- 名無しさん (2022-02-23 22:35:20)
  • 某政治哲学者の人が「彼らは直系的な武士ではなかったがゆえに、より武士らしくあろうとした」というのは正鵠を得ているし、某番組で「わざわざお揃いの隊服を着ているのはどちらかというと村人的」と評されていたのがおもしろかった -- 名無しさん (2022-02-23 22:38:11)
  • [ -- 名無しさん (2022-03-28 18:25:47)
  • 「風光る」の男装女性隊士は全くの創作かと思ってたら実際にいたの!? -- 名無しさん (2022-03-28 18:27:22)
  • どうしようもなく好きだ、沖田さんは美形だと心から信じている。 斎藤さんも晩年の写真見つかってきちんと男前って分かったし。 -- 名無しさん (2022-03-28 19:04:49)
  • 京都人から嫌われてたって田舎もんに厳しいだけだろ。薩摩も長州も同じように嫌ってただろ -- 名無しさん (2022-04-26 14:26:49)
  • 江戸時代モチーフの創作の題材の双璧を成す赤穂浪士と間接的ながらも史実的につながりがあるっぽいのが(赤穂浪士は秩序を乱した逆恨みでオタ方面の人気はあまりなく、新選組は彼らなりに秩序を保とうとしていてオタ方面の人気が高いという違いとかあるけど) -- 名無しさん (2022-05-09 12:25:44)
  • ↑2薩摩・長州は京都で金を大量に使い、派手に遊んで京都の景気を潤したので評判はそれなりに良かった。新選組は相方の会津武士が貧乏で金を使わず、遊ばずに屋敷で部屋飲みや勉学、武芸に勤しんだ為、禁門の変の後、会津武士が実権を握ると京都は不景気になり、民衆からケチ、疫病神扱いされた。  -- 名無しさん (2022-07-26 16:08:17)
  • ↑ちゃうちゃう。新選組が京の民衆から嫌われたのは横暴だったから。普段から滅茶苦茶えばりくさってたり、嫌疑がかかった相手をしょっ引いて死ぬほど痛めつけた挙句、嫌疑が晴れると謝罪もせず放り出したりとか普通にやってたんよ。これは京に住んでた学者や山崎丞が出張した時に世話役を務めた役人が日記に書き記してる。ただし、学者の方は近藤と土方を横暴だのなんだのボロクソ叩いてるけど、「新選組がきてから京は平穏になった」と新選組の治安維持能力自体は評価してる -- 名無しさん (2022-08-22 00:13:29)
  • ちなみに新選組の横暴さは江戸にまで噂が流れてて、天然理心流のパトロンだった佐藤彦五郎が手紙で「ちゃんと部下を取り締まれ」と苦言を呈してる -- 名無しさん (2022-08-22 00:24:46)
  • 会津藩公用方としては、万年金欠で上洛して来てるんだし新選組に資金調達をやらせたらそうせざるを得ないかと…特に手代木様は幕府工作や暗殺でかなり使い込んでるし -- 名無しさん (2022-08-22 09:19:36)
  • ↑8中沢琴が所属してたのは新選組じゃなくて新懲組。彼女の兄は浪士組に入った後に江戸に帰って新懲組に入隊したから、中沢琴も兄について行って新懲組に入ってる。ただし、浪士組の名簿に中沢琴の名前はないから、京には兄の付き添いでついていっただけってのが研究家の間での定説 -- 名無しさん (2022-08-26 01:14:15)
  • この項目小説の設定と時代遅れの研究と最新研究がごっちゃになってるから誰か整理できる人いないかな。 -- 名無しさん (2022-11-19 22:43:07)
  • 土方が鬼の副長とか結構言われるが、大正とかの文献を見ると鬼の局長=近藤勇の事を指してるんだよね。じゃあ鬼の副長自体はどこから…ってなると、初出は司馬遼太郎の小説だったりと結構後世の主流になってる情報が史観準拠になってる。 -- 名無しさん (2023-03-01 11:55:12)
  • 創作で一番キャラがブレないのは沖田かな。 -- 名無しさん (2023-04-02 08:35:33)
  • 沖田君の愛刀加州清光って東条総理おそろいでゴールデンカムイで土方さんと共演した牛島さんは彼の暗殺を試みて返り討ちとか… -- 名無しさん (2023-05-30 16:48:23)

#comment

*1 宗派的には肉食OKだったが、あまり肉食が浸透していなかった当時の周囲からの視線は冷たかった。ただ、これはかつて隊内に病気が蔓延し隊員の気力が低下した際、医者に「清潔にすること」「肉食をして英気を養う事」と意見されたのを取り入れた為と言われている。
*2 「天狗党の乱」は芹沢の死後に起こっているので、「水戸藩出身の尊皇攘夷志士」というくくりでの「天狗」「天狗党所属」にあたる。
*3 長州毛利家に門人の多かった神道無念流の免許皆伝。実の兄が水戸徳川家の公用人で京都にいる。水戸徳川家の攘夷派として長州毛利家とコネがある。水戸徳川家は有栖川宮親王家と血縁関係で宮中にコネがある等
*4 日付に関しては18日説と16日説がある。古くは18日とされていたが、近年の研究では16日説が優勢。
*5 当時は読みが同じであれば漢字にはこだわらなかった。新選組の選の字も、「選」と「撰」が当時から混用されていた。
*6 諸説あり
*7 作家の司馬遼太郎氏は、新選組の取材をした際に実際に幼少期に沖田と遊んでもらったという老婆と話をしている。
*8 実は結構逃げられてるが

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