ミホノブルボン(競走馬)

ページ名:ミホノブルボン_競走馬_

登録日:2012/06/22(金) 02:18:56
更新日:2023/10/02 Mon 13:20:07NEW!
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92年、皐月賞。


そのモンスターの名は
ミホノブルボン


常識は、敵だ。

──2011年 皐月賞CM



ミホノブルボンMihono Bourbonは、日本の元競走馬、種牡馬。
「サイボーグ」「坂路の申し子」等のニックネームで知られた。
92年の皐月賞とダービーを圧倒的な逃げ切りで制し、シンボリルドルフ以来となる無敗での三冠制覇に挑戦した。



◆データ


生誕:1989年4月25日
死没:2017年2月22日(28歳没)
父:マグニテュード
母:カツミエコー
母父:シャレー
生産者:原口圭二
馬主:(有)美浦商事→(有)ミホノインターナショナル
調教師:戸山為夫→鶴留明雄→松元茂樹
主戦騎手:小島貞博
通算成績:8戦7勝[7-1-0-0]
獲得賞金:5億2596万9800円
主な勝ち鞍:91'朝日杯3歳ステークス、92'皐月賞・東京優駿
タイトル:91'最優秀3歳牡馬、92'JRA賞年度代表馬・最優秀4歳牡馬



《誕生》


ミホノブルボン(以下ブルボン)は北海道門別の原口牧場に生まれた。
父のマグニテュードは6戦未勝利ながら血統を評価されて日本に輸入された種牡馬であり、ブルボンを含め4頭のG1馬を出す成功を収めている。
母のカツミエコーは地方競馬の条件馬で、繁殖入りして初めて産んだ仔がブルボンである。
ブルボンの生産者は当時の人気種牡馬だったミルジョージをカツミエコーと交配させたかったのだが、種付け料が高額だったために断念。
代わりにミルジョージと似た血統のマグニテュードを交配させたという逸話が残っている。*1
原口牧場は家族だけで経営するごく小規模な生産者で、父と母父は両方とも代替種牡馬*2。母も地方の1勝馬で、かつ初仔。
そんなブルボンはわずか700万円という安値で購買され、栗東トレーニングセンター・戸山為夫厩舎に入厩することになる。



《灰かぶりと魔法使い》


戸山師は管理馬にスパルタ調教を課すことで知られ、1968年のダービー馬タニノハローモアを筆頭に多くの活躍馬を輩出したが、
その代償に多くの馬を故障させた「実績」でも名高かった。
一方で進取的な思想も持ち合わせており、当時導入されたばかりの坂路コース(脚部に少ない負担で多くの運動量をこなせる)をいち早く調教に取り入れたパイオニアでもあった。
戸山師はブルボンのもつ傑出したスピードを即座に見抜いたが、ただその長所を伸ばして育てるのではなく―――それまでの調教師生活で培った、自らの持論を実行に移す。


「全てのサラブレッドは本質的にスプリンターであり、短距離レースと長距離レースの違いは陸上で例えれば100m走と400m走程度の違いに過ぎない」


「ブルボンのスピードに調教でスタミナを補強すれば、カール・ルイスのような万能ランナーになりうる」


「いかなるコース、距離、展開であろうと、1ハロン12秒台のラップタイムを刻めばどんな馬にも負けない」


それは単に強い馬を作るというだけの試みではなく、究極理想のサラブレッド像への挑戦であった。



《坂路のシンデレラボーイ》


1日4本という過酷な坂路調教で鍛え込まれたブルボンは、戸山師の愛弟子・小島貞博騎手を背に中京芝1000mでデビュー。
古馬でも31秒台で上等とされた栗東トレセンの坂路*3を29.9秒で走破していたことなどから、単勝1.4倍という圧倒的支持を受けた。
レースでは致命的な出遅れを喫してしまうが、直線一気の戦法に切り替え無事勝利。当時の2歳レコード58.1秒を叩き出し、持ち前のスピードを証明した。
次走は1600mの条件戦を選択し、先行策から6馬身差をつけ大勝。
年末の朝日杯3歳ステークス(G1)では抑える競馬を試みたことが裏目に出てしまい、ハナ差まで追い込まれてしまうがなんとか勝利。
3戦3勝でJRA賞最優秀3歳牡馬に輝き、見事世代の主役に躍り出た。



《常識は、敵だ》


ブルボンの父マグニテュードはすでに快速の桜花賞馬エルプスを出す成功を収めていたが、ブルボンの後に出たマサラッキが1999年の高松宮記念を勝つ等
産駒は短距離戦線での活躍が目立ち、「1600mまでの種牡馬」というのが衆目の一致するところだった。
ブルボン自身も胴が詰まった典型的なスプリンター体型であり、デビュー年の最長距離は朝日杯の1600mであった。
しかし戸山師は「2000mまでなら誰にも負けない」との自信を胸に、愛馬をクラシック戦線へと送り出す。
前哨戦スプリングステークスでは「ノーザンテーストの大物」と呼ばれたノーザンコンダクトに1番人気を奪われたが、7馬身差をつけて圧勝。
「納得のいかないレースをするようなら短距離路線に転向する」とも考えていた戸山師はこれで腹を決め、ブルボンの皐月賞出走を決断した。


迎えた大一番。
ブルボンは馬なりのまま中山2000mを走り切り、2と1/2馬身差の勝利を飾った。
絶対的なスピードの違いを武器に先頭を奪い、自分のペースを保って進み、一度も前を譲らずゴールへ辿り着く。
「逃げ」を超えた勝利への進撃ともいうべき走りは、まさに最強馬のそれだった。
鞍上の小島貞博騎手はデビュー22年目、40歳にして嬉しいクラシック初制覇を成し遂げ、インタビューでは人目をはばからず涙を流した。


皐月賞を制したブルボンは、誰もが認める世代の頂点として日本ダービーに臨む。
皐月賞からさらに400mの距離延長となったが、結果は2着に4馬身差をつける圧勝。前年のトウカイテイオーに続く無敗の二冠を達成する。
「限界」という言葉など、もはやブルボンには無縁なものと思えた。



《魔法の解けるとき》


ブルボンは夏を北海道でのリフレッシュに充て、再始動戦となった京都新聞杯を快勝。
菊花賞へ向けて死角はないかに思われたが―――戦前の記者会見において、戸山師は報道陣に調教師としての本音を漏らしている。


「本当は使いたくない、菊花賞に出すのは人間の欲目だよ……」


そして迎えた菊花賞
ゲートが開くと、「何が何でもハナを切る」と宣言していた同型の逃げ馬、キョウエイボーガンの松永幹夫騎手が玉砕的な大逃げを敢行する。
これを見た小島騎手は前を譲り、戸山師が指示した1ハロン(200m)12秒ペースではなく―――13秒代の「普通の」ペースを選択。
しかし先頭を奪われたブルボンは完全にエキサイトしてしまい、それを無理に抑えられたことでさらに消耗。
残り100mでライスシャワーとマチカネタンホイザの強襲に遭い、ついに先頭を譲る。
マチカネタンホイザこそ差し返し意地を見せたが、三冠の夢は淀の直線に散った。


長距離種牡馬リアルシャダイを父に持ち、小柄で胴の長いステイヤー体型のライスシャワーは戸山師が最も恐れていた相手だった。
皐月賞、ダービーを経て確実にタイム差を縮めてきたこの小さな巨人、もとい馬が、ブルボン陣営にとってどれほどの恐怖だったかは想像に難くない。


血統と馬体。
確かな裏付けを持った挑戦者の前に、ブルボンと戸山師の挑戦は終わりを迎えた。



《それぞれのそれから》


古馬戦線での活躍が期待されたブルボンだったが、筋肉痛ともいわれる詳細不明の故障で復帰戦を回避。
さらには放牧先で骨折してしまう。


戸山師はかねてより患っていたガンが再発し、闘病生活に入る。
しかし容体は好転せず、93年5月29日、当年のダービー前日に肝不全で他界。
戸山厩舎の調教助手だった森秀行調教師が新たに開業して主な管理馬を引き継いだのだが……
森師は「走るかわからない馬を引き取るわけにはいかない」と主張し、ブルボンを引き取らなかった。


「俺の悪いところを真似することはない。いいところだけ取って俺を越えなあかんよ」


森師は戸山師の遺言を自分なりに実行した。
戸山師が息子のように愛した小島騎手を全ての馬から降ろし、河内洋や武豊らフリーのトップジョッキーに乗せ換えた。


「馬は馬主のもので、調教師は馬主を喜ばせるのが仕事」


「わずかな理解者から安馬を預かって鍛えるより、効率的に賞金を稼いで馬主に利益をもたらし、高馬を預けてもらうことが勝ちに繋がる……」


競馬に徹底したビジネス感覚を持ち込んだ森師にとって、ブルボンや小島は捨てるべき非合理に他ならなかったのだ。


追われるようにフリーになった小島騎手は、騎乗機会の減少に苦しみながらもタヤスツヨシで95年のダービーを勝ち、01年に引退。
調教師に転じ中山大障害優勝馬テイエムドラゴンを出すなど活躍したが、12年1月、厩舎の一室で経済状態を苦にした*4とみられる自殺を図り、その生涯を終えた。


ブルボンは鶴留明雄厩舎を経て松元茂樹厩舎に移籍し、再起を目指した。
しかしターフへの帰還はついに叶わず、1994年に引退。生まれ故郷で2012年まで種牡馬として繋養された。
そこそこの血統背景にクラシック二冠と強調材料はあったものの、その強さは調教の賜物として評価されたこと、
トニービン、サンデーサイレンス、ブライアンズタイムといった大種牡馬が出始めていた時期であったことが重なって、
繁殖牝馬にはあまり恵まれなかった。
しかし地方重賞馬は出しており、クラシックホースとしての意地は見せている。
種牡馬引退後も穏やかな余生を送っていたが、2017年2月22日、老衰により28歳でこの世を去った。


現在の競馬界では調整のほとんどを外部の育成施設で行うのが当たり前になり、馬づくりに調教師の個性が反映される余地はほぼ失われた。
距離適性の分化も進み、この先第二第三のシンボリルドルフディープインパクトが現れることはあっても、第二のミホノブルボンが現れることはないだろう。


だからこそ、彼らの戦いの記憶は尊くかけがえのないものとして語り継がれるのである。



◆創作での扱い


展開やコースを気にせず、精密にラップを刻んで走りきるというレーススタイルを貫き通したブルボンの姿は、
「みどりのマキバオー」の牝馬スーパースナッズ、「優駿の門」のアルフィーといった漫画のキャラクターにも影響を与えており、
令和の時代においても高い知名度と評価を保っている。
また、その来歴から創作物に登場する際は大体において戸山調教師とセットで扱われる事が多い。


よしだみほの『馬なり1ハロン劇場』のトヤマ調教師はミホノブルボンに厳しく接する人として最初期にちらっと顔見せし、
その後トヤマ氏の本に勇気づけられ休養中のブルボンが再起を誓う…なんて話を書いた直後にリアルで引退するオチが付き、
更にその後コジマ騎手が彼の死を引きずるシーンが入った(そしてブルボン似のチョウカイキャロルが彼の真似で励まし一緒にオークスを征する)程度だったが、
代わりに功労馬となった後のブルボン自身が、同じ牧場で育った牝馬ウキヨノカゼにスパルタコーチをするエピソードが描かれている。(しかも2度


やまさき拓味の『優駿たちの蹄跡』ではメイン回をほぼ戸山調教師に乗っ取られていた
しかも後にそれとは別の戸山調教師のメイン回も描かれている。(一応ブルボンもセットで登場しているが)


競走馬擬人化ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』にも登場しているが、ゲームで語られる彼女の父親と
アニメ版に登場した彼女のトレーナーは明らかに戸山調教師をイメージさせるキャラとなっている。



◆余談

《血統の話》


父マグニテュードは競走成績こそ6戦未勝利で、種牡馬としてもイナリワンなどの父ミルジョージの代替種牡馬的なポジションではあったが、
86年の桜花賞馬エルプスを出している上に、その父ミルリーフは史上初めて「英ダービー」「キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス」
「凱旋門賞」を同一年に制した歴史的名馬であり、母アルテッスロワイヤルも英愛オークス・英1000ギニーを勝っているという超良血。
曾祖母カミヤマトは半姉(異父姉)に2017年現在でも唯一の3歳(旧4歳)牝馬での有馬記念勝ち馬で、末裔には同期の名スプリンター・サクラバクシンオーや、
1歳下のダービー馬ウイニングチケットがいる一大牝系の祖スターロッチがいる。
三流の血筋からスパルタ調教で成り上がったというイメージの強い馬ではあるが、実際のところは血統も決してズタボロというわけではないのである。


《サイボーグのルーツ》


マグニテュードの産駒は気性の荒さで知られていたが、ミホノブルボンは非常に我慢強く、人間に従順な馬として有名であった。
この気性はおそらくミホノブルボンの祖父―――大種牡馬ミルリーフに由来している。


ミルリーフは競走馬時代に、3歳で、イギリスのダビーステークスやキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、そして凱旋門賞といった名レースを制してヨーロッパの年度代表馬になるという素晴らしい成績を残していた。


4歳になってもガネー賞とコロネーションカップという現在ではG1に格付されているレースで勝利し、馬インフルエンザでエクリプスステークスを回避したこと以外は順調だった。しかし、凱旋門賞連覇に向けての調教中に躓き、左前脚を骨折してしまった。
この骨折は重篤なもので、予後不良に相当する状態であったとされる。


競馬に興味を持った人間であれば、「予後不良」という言葉をおそらく聞いたことがあるだろう。
骨折や脱臼を発症した馬に高確率で下される診断であり、当該の馬は速やかに「安楽死処分」となる。
なぜ脚を壊しただけで命を奪われなくてはならないのか?
それはサラブレッドという生き物が抱える、根本的な欠陥ともいえる問題に原因がある。


サラブレッドの心臓は、身体の大きさに比してまったく能力が足りていない。
これを補っているのが「歩くことによる刺激」であり、歩けなくなったサラブレッドは血液をうまく循環させることができなくなる。
そして身体の端から腐っていき、地獄の苦しみの中で死を迎えるのである。


「だったら何としても治療して歩けるようにしてやればいいじゃないか」と思うかもしれない。
しかし馬には言葉が通じない。
大がかりな治療はその後の安静期間がセットであり、気性の荒いサラブレッドはそれを乗り切れない。
痛みに暴れて他の部分をおかしくするか、あるいはまた脚を壊してしまう。
だからこそ、重度の故障を発症した馬はその場で安楽死させてやるのが最善とされてきたのだ。


それでも、ミルリーフの馬主は愛馬の命を諦められず、自らの資産を投げうって治療を施す。
常識的に考えれば助かる可能性は限りなく低い。死ぬことが確定した馬に、余計な苦しみを与える行為でしかない。
―――しかし、ミルリーフは非常に我慢強く、人間に従順な馬であった。
小柄な馬体で、脚にかかる負担が小さかったことも幸いした。
6週間もの安静期間を乗り越え、ミルリーフは見事死線からの生還を果たしたのである。


流石に現役復帰は叶わずそのまま引退してしまったが、その後ミルリーフは種牡馬としても成功し、その血はミホノブルボンへと受け継がれた。




追記・修正は、限界まで鍛え抜いた肉体でお願いします。


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  • ミホノブルボンの競争馬としての終焉が戸山元トレーナーの残したものを排除したうえで、馬主たちの意見なども取り入れたうえで腕のいい騎手(リーディング争いレベル)を優先して騎乗させる森秀行トレーナーの時代の始まりでもあったのだろうか? -- 名無しさん (2022-09-03 19:47:29)

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*1 「ミルジョージなんて高すぎるしそもそも考えてなかった」との談話もあり、真偽は不明。
*2 マグニテュードについては前述の通り。シャレーは当時人気の種牡馬だったダンディルートと父馬が同じで、安く配合できる代用品として用いられていた。
*3 当時の計時距離は500m
*4 親族が作った借金を肩代りして経営苦に陥っており、翌年度の調教師免許の更新さえ危ぶまれていた

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