アイルトン・セナ

ページ名:アイルトン_セナ

登録日:2009/09/14(月) 01:11:42
更新日:2023/08/07 Mon 17:29:23NEW!
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本名アイルトン・セナ・ダ・シルバ
Ayrton Senna da Silva


1960年3月21日生
1994年5月1日没


ブラジル・サンパウロ生まれ。裕福な家庭で育ち、4歳からカートを始め、8歳でジープを運転できたという逸話もある。
後にフォーミュラ・フォード1600、2000、英国F3を経て、F1のレーシングドライバーになった。
F1では3度のワールドチャンピオンに輝いた(1988年、1990年、1991年)


イギリス「F1 Racing」誌において、史上最速のF1ドライバー、史上最高のF1ドライバーに共に1位で選出された。
日本では通称「音速の貴公子」として知られている。名付け親はフジテレビのF1実況アナウンサーの古舘伊知郎。


若い頃には「ハリー」の愛称で呼ばれていた。





経歴


所属レーシングチーム(F1)
①トールマン(1984)
②ロータス(1985〜1987)
③マクラーレン(1988〜1993)
④ウィリアムズ(1994)


F1デビュー前

セナは、1960年にサンパウロで生まれた。その後、3歳の誕生日のときに、父親から手作りのカートをプレゼントされたことから、カートにのめり込むようになっていく。


カートレースを始めたばかりだった頃のエピソードで有名なのは、雨の中のレースでボロ負けしたのが悔しかったため、その後いつも練習しているカート場の路面に水をまいて、濡れた路面での走り方を研究したことだろう。


F1時代は雨のセナと呼ばれるくらい悪天候のレースに強かったが、もともと得意だったという訳ではないのだ。セナは天才と言われることが多いが、非常に努力家で負けず嫌いだったこともわかる逸話である。


1977年には南米のカート選手権でチャンピオンになり、1982年までカートの世界選手権に参戦した。


それと並行し、1981年にフォーミュラフォード1600の選手権に、1982年にフォーミュラフォード2000の選手権に参戦し、それぞれでチャンピオンを獲得した。


1983年にはイギリスF3選手権にトップチームのウエストサリーレーシングから参戦。ライバルのマーティン・ブランドルとの激闘を制して、見事チャンピオンに輝いた。
その後、F1参戦に向け、ウイリアムズやマクラーレン、ブラバムと言ったトップチームから、F1マシンのテスト走行の機会を与えられた。結果、ブラバムがセナの起用に前向きな姿勢を示したとされている。残念ながら実現しなかったが、これは当時のブラバムのエースドライバーだったネルソン・ピケ*1の反対が原因だったと言われている。
結局セナは、弱小チームであるトールマンのテストを受け、同チームで1984年のF1に参戦することを決めた。



F1デビュー&ロータス時代(1984〜87年)


1984年、セナは予定通りトールマンからF1デビュー。デビュー戦はマシントラブルでリタイアするものの、その後2レースではポイントを持ち帰ることに成功する。
この年のハイライトとなったのは、豪雨の第6戦モナコGP。13番手からスタートしたセナは、最速ラップを記録しながら前を走るマシンを一台ずつ交わしていき、2位まで上がることに成功。その後、トップのアラン・プロストを1周7秒以上早いペースで追いかけるが、あまりの雨に、78周を予定していたレースは31周で中断された。結局、レースはそのまま打ち切りとなり、プロストが優勝。セナは2位となり、F1で初めての表彰台を手に入れた。
しかし、セナはこの結果に納得がいかなかった。もしも、レースが最後まで続いていれば、セナがプロストを抜いて優勝できた可能性は十分にあったからである。*2セナが最後まで走り切れたセナは表彰式でも笑顔を見せることはなかった。
結局、ルーキーイヤーのセナは、前年までポイント獲得がやっとだったトールマンで、モナコを含む3回の表彰台に立つことに成功。その実績が認められ、翌年には名門チームのロータスに移籍することが決まった。


ロータスのマシンを駆ることになった1985年。第2戦ポルトガルGPで初めてポールポジションを獲得。豪雨となった決勝では圧倒的な速さを見せ、終始トップを快走。最後は2位に1分以上の大差をつけてF1での初優勝を決めた。第13戦のベルギーGPで2勝目を上げ、最終的にはランキング4位を獲得する活躍を見せた。


86年も2勝を上げ、ポイントランキング4位。しかし、マシンのパワー不足を嘆き、当時最強のエンジンと目されていたホンダを搭載するようロータスに働きかけた。結果、翌87年に念願のホンダエンジンを獲得したが、それでも2勝しか挙げることができず、ランキング3位がやっと。ロータスには、もはや往年の力が無い事を悟る。


マクラーレンで王者に

1988年、セナはトップチームの一角であるマクラーレンにホンダと共に移籍。チームメートは、既にマクラーレンで2度チャンピオンを獲得していたアラン・プロスト。そう、セナが初めて表彰台に立った豪雨のモナコで優勝を争ったドライバーである。セナとプロスト。この二人は生涯ライバルとなっていく。


マクラーレンはMP4/4という他を圧倒する速さを持ったマシンの開発に成功し、チームチャンピオンは早々に決めた。一方で、ドライバーズタイトルはセナとプロストがシーズン終盤まで一騎打ちを演じていた。


そんな中迎えた第15戦の日本GP。ここで勝てはチャンピオンが決まるセナは予選でポールポジションを獲得。決勝でも前に誰もいない状況からスタートするも、痛恨のエンジンストール。ホームストレートが下り坂だったおかげでエンジンが息を吹き返し最悪の事態は免れたが、スタートを失敗したことで14位まで順位を落としてしまった。しかし、セナはそこから1台、また1台と前のマシンを交わし、51周レースの27周目にプロストに追い付き、翌周の1コーナーでプロスト抜きトップに出た。そのまま最後まで走り切り優勝。初めてのワールドチャンピオンを獲得した。


プロストとの確執

1989年はプロストと共にマクラーレン残留するも、波乱含みのシーズンとなった。
マクラーレンの二人は「スタートで直後に前にいた方がレースの主導権を握る」という紳士協定を結んでいた。これが二人の確執を生む火種となってしまったのだ。
第2戦サンマリノGP。スタートからセナが先頭でレースを進めるも、2周目に他車が起こした事故がきっかけでレースは中断。スタートをやり直すことに。ところが、再スタート直後に前に出ていたプロストを、第2コーナーでセナがオーバーテイクをてしまい、そのまま優勝。前述の紳士協定をセナが破る形で優勝してしまったため、プロストの怒りを買う格好となってしまった。*3
この事件により二人の間に大きな溝が出来てしまい、シーズン中のマクラーレンのガレージはまるで別チームの様な雰囲気が流れる程だった。


そして第15戦日本GP(鈴鹿サーキット)で事件は起こった。
予選はセナがポールを獲得したものの、決勝ではスタートを上手く決めたプロストがセナの前に出る。
47周目。セナはプロストに追いつき、シケインで追い抜きを試みた。しかし、プロストはセナが並んだ瞬間にそのスペース塞ぎ、結果2台は接触。両者のマシンはそのままストップ。
プロストはマシンを降りてリタイア。しかし、ここで勝たなければチャンピオンの目がなくなってしまうセナはレースに復帰。マシンに傷を生い、修理のためにピットに入ったことから一度は順位を落とすが、最後は首位に返り咲きゴール。
しかし「接触後の復帰の際にシケインをショートカットし、正しいコースを通らなかった」という理由で優勝は取り消され失格に。チャンピオンもプロストの手に渡った。*4


マクラーレンの絶対エース(1990〜93年)

1990年のシーズン前はFISA*5から日本GPの接触事故を引き合いに出され「危険なドライバーである」という理由からスーパーライセンスを剥奪されかけるが、セナはホンダの説得されてFISAに謝罪をし、この話は取り消しに。


プロストはフェラーリに移籍し、マクラーレンには前年フェラーリにいたベルガーが入れ替わるような形で加入した。これにより、セナはマクラーレンの完全なエースドライバーとなる。


しかし、それでもセナにとって最も厄介なドライバーがプロストであることは変わらなかった。
この年の前半8戦でセナが3勝、プロストが4勝を分け合い、ポイントは僅かにプロストがリード。フェラーリはマシンバランスに優れていた一方、マクラーレンはホンダのエンジンパワー以外に頼れるものがない状況。しかし神懸かり的な走りで後半に入ってからの5レースで3勝と2位2回を記録し、ポイントでプロストを逆転。その後の第14戦スペインGPではプロストが優勝しセナがリタイアとなってポイント差が縮まったが、セナがポイント首位のまま。


そして、第15戦の日本GPをむかえた。今回は、プロストが優勝しなければセナのチャンピオンが決定する。状況は前年と逆である。


予選の結果は、セナがポールポジション、プロストは2位。


決勝レースのスタート直後、プロストはスタートを決めセナの前に出た。しかし、1コーナーでセナがプロストのインに飛び込み、両者は再び交錯。セナのマクラーレンとプロストのフェラーリはコースアウトして砂煙の中へ消えていった。たった9秒で二人のレースがチャンピオン争いごと終わってしまったのだ。この接触は多くの議論を呼んだが結局どちらのドライバーにもペナルティが出ることはなく、セナのチャンピオンが決定した。


しかし、セナは数年後に故意に接触した事を認めている。結局セナは、2度目のチャンピオンを前年の復讐 *6という後味の悪い形で決めることとなったのだ。


1991年もセナはマクラーレンに残留。ホンダはV12のエンジンを開発し、マクラーレンのマシンに搭載した。


迎えた開幕戦アメリカGP。セナは好調そのもので、ポールポジションからトップでレースを進めると、そのまま逃げ切って優勝。チャンピオンシップの出だしを最高の形で決めた。


そして、次のレースは、1991年のF1を語る上でも、セナを語る上でも欠かせないものとなる。


1991年第2戦ブラジルGP

第2戦ブラジルGP。セナの生まれ故郷で開催されるレースであり、母国のファンが多く駆けつけるレース。だが、セナはここまで7回母国のレースに挑戦したにもかかわらず、一度も優勝をしていないかった。それゆえに、セナがブラジルで勝てないのはF1ジンクスとして定着していた程である。


この年で8回目の挑戦となった母国凱旋レース。今年こそと意気込んでいたセナは、予選でポールポジションを獲得し、決勝も序盤はトップを快走。確実に優勝へ近づいていく。


しかし、この時の展開は決して楽ではなかった。2位にはウイリアムズのマンセルがつけ、セナはマンセルから猛追を受けていたのだ。それでも、中盤にマンセルはタイヤのパンクで後退。その後に、この年ウイリアムズが導入したセミオートマチックギアボックスのトラブルが重なりリタイア。


これで2位に上がったのは、同じくウイリアムズのパトレーゼ。しかし、彼のマシンにもマンセルと同様にセミオートマチックのトラブルが起きて、無理な走行はできなくなっていた。セナとは40秒差。これではパトレーゼが追いつくのは厳しく、セナは無難に走り切れば勝てる条件下にいた。


だが、セナの本当の戦いはここからだった。


セナの身体はシートベルトの不具合によってマシンに強く締め付けられ、思うような運転ができない。それによって生じた腕の疲労は酷く、ステアリングをいつも通り切ることも厳しくなっていた。


さらに、マクラーレンのギアボックスに不具合が出始める。まず4速のギアが使えなくなった。その後、3速と5速のギアも故障し、6つある内の、実に3つのギアが使えなくなってしまう。並のドライバーなら、この時点でリタイアを決断するであろう程の状態。そうでなくても、このままシフトチェンジを続けていては、ギアボックスが完全に故障して走行不能になってしまうだろう。この時点で、レースはまだ7周も残っていた。


だが、セナは諦めなかった。なんとしても母国のファンに優勝を届けるため、信じられない行動に出る。なんと、ここからゴールまで6速のみで走り切る決断をしたのだ。


低速コーナーではアイドリングスレスレの回転数で走行し、上り坂ではクラッチを蹴って無理矢理エンジンの回転数を上げる。そんな走りを毎周、毎周繰り返すセナ。マシンはすでに手負いになっているのに、その上で全く想定されない形で酷使されている。いつ止まってしまってもおかしくない。


セナのラップタイムは、トラブルを抱えているはずのパトレーゼすらも大幅に下回るもので、トップのマクラーレンと2位のウイリアムズの差はどんどん縮まっていった。さらに、突然降り出した雨が路面を滑りやすいものにし、ドライビングをさらに難しくする。それでも、セナはチェッカーフラッグに向けて走り続けた。


そして、ファイナルラップ。最初にチェッカーを受けたのは、セナのマシンだった。パトレーゼとの差は3秒を切るまで縮まっていたが、それでも2台の順位が入れ替わるまでには至らなかった。6速のギアだけでマシンを走らせ、トップを守り切る。それを実現したものは、セナの技術と執念という他なかった。


全てを超えて念願の母国初優勝を果たしたセナは絶叫と嗚咽を漏らした。国際映像でもこの時の無線は放送され、視聴者に大きな衝撃を与えた。疲労困憊になったセナはウイニングランすらできず、観客席前のバックストレートでマシンを止めた。そこで待っていたのは、熱狂する観客からのセナコールだった。


コースマーシャルの助けを借りでマシンを降りたセナは、マーシャルカーに乗せられて表彰台に到着。


表彰式でも憔悴しきった表情をしていたが、ブラジル国歌が流れると笑顔を見せ、受け取ったトロフィーを天高く突き上げると、今度はホームストレートの観客席から、大きな歓声を受けることになった。


余談ではあるが、セナがこの時のことを語ったインタビューを聞いたネルソン・ピケは「6速だけでF1マシンを走らせらわけがない。セナの話はデタラメに決まっている。」と口にした。しかし、マクラーレンの車載カメラには、終盤にセナが一切シフトレバーに触れず走っている証拠映像が残っていた。


ウイリアムズの躍進

悲願の母国優勝の後、セナは第3戦サンマリノGPと第4戦モナコGPを制し、開幕からの連勝記録を4に伸ばすことに成功。


一方でライバルと目されていたプロストは、開幕戦で2位に入って以降表彰台から遠ざっており、フェラーリの性能不足に悩まされていた。一方で、プロスト自身もサンマリノGPではフォーメーションラップで雨に足をすくわれてスピンし、スタートすらできないという信じられないミスを犯すなど、明らかに精彩を欠いていた。*7


シーズン序盤のセナはまさに絶好調で、敵はいないと言ってよかった。しかし、中盤からウィリアムズのナイジェル・マンセルがセナのチャンピオンに待ったをかけた。


マクラーレンはこの年、ホンダが新たに開発したV12エンジを搭載していた。以前使用していたV10以上のパワーを得られ、驚くことに重量もV10より軽かった。しかし、他のエンジンと比べて大柄で重いことに変わりはなく、そんなエンジンを搭載するマシンは、ライバルと比べて車体のバランスが優れているとは言えなかった。そのため、エンジンパワー以外にライバルに比べ優位に立てる部分がなく、ホンダに頼り切りというがマクラーレンの現状であった。


一方でウィリアムズはマシン全体バランスに優れていた。ウィリアムズに搭載されているルノーのV10エンジンは、単純な出力でホンダには及ばないが、それでもトップクラスにパワフルであり、一方で明らかにホンダのエンジンより軽くコンパクトだった。そして、車体性能は明らかにマクラーレンを凌駕していたのだ。


序盤、ウィリアムズはマシンの信頼性不足からリタイア続きだったが、マシンの改良を重ねてその欠点を克服し、中盤にはウィリアムズが4連勝。セナとマクラーレンは、ライバルの優位を許してしまった。


その後、ホンダのエンジンとマクラーレンのマシンも改良が進み、セナとマンセルは互角の戦いを繰り広げた。しかし、マンセルがマシントラブルに加えて自身やチームのミスによって勝てなかったレースでリタイアを重ねてしまった一方で、リタイアを1回に抑えて、勝てなかったレースでもポイントを確実に稼いでいたセナが、チャンピオンシップでは優位に立っていく。


タイトル決定の地は、第15戦日本GP。またしても鈴鹿だった。ここでポールポジションを取ったのは、セナのチームメートであるベルガー。セナは予選2位。マンセルはその後ろ3位。決勝では、優勝しないとチャンピオンの権利が消えてしまうマンセルに対して、「2位のセナがマンセルを抑え込み、その間にチームメートのベルガーを逃がす」というチームプレーをマクラーレンが仕掛ける。セナの後ろで焦ったマンセルは、自らのミスでコースアウトしリタイア。これでセナの3度目のタイトル獲得が決定した。


1992年、セナはマクラーレンに残留し、チームメートもベルガーのまま。3年連続のチャンピオンを狙っていた。


ところが、シーズン序盤、前年のマシンをアクティブサスペンションという強力なデバイスで改良したウィリアムズとマンセルの独走を止められないでいた。
セナは、信頼性のある昨年マシンの改良型で開幕の2レースを挑むも、まるでウイリアムズに歯が立たない。3レース目のブラジルGPで、急遽マクラーレンは完全な新型マシンを導入するが、セナもベルガーもマシントラブルでリタイア。熟成の進んでいないマシンは信頼性に欠けており、新車導入は完全に裏目に出てしまった。


結局マンセルは、前年のセナを超える開幕5連勝を記録。第6戦の舞台はモナコ。セナが昨年まで3連勝を上げていた得意なコースではあるが、ウイリアムズとマクラーレンの性能差が大きすぎるゆえに、セナには太刀打ちする術はないと考えられていた。


第50回記念モナコGP

そんな中迎えたモナコGP。セナは予選3位。その前にはウィリアムズの2台。ここでも大勢は以前の5レースと変わっていない。
しかし、決勝のスタートで、セナは予選2位のパトレーゼを抜き去ることに成功した。それでもマンセルのスピードにはついていけず、そのままの順位を走行。しかし64周目にタイヤのトラブルでマンセルがピットに入り、セナはマンセルの前に出た。


しかし、マンセルはこれまでモナコでの優勝経験はなく、是が非でもこの舞台で勝利を手に入れようとしていた。トップを奪い返すことを諦めるはずもなく、新品のタイヤでスパートをかける。最速ラップを何度も更新し、76周目にセナの後ろまで追いついてみせた。


その後は、マシンもタイヤも優位な状態にあるマンセルが前を伺い、狭い道幅と自らの技術でマンセルを押さえ込むセナが熾烈な戦いを繰り広げた。


殆どの全てのコーナーでセナに並びかけようとするマンセル、スタートから使い古し、ボロボロのタイヤで、いつスピンしてもおかしくないマシンを滑らせながら逃げるセナ、誰もその光景から目を離すことはできなかった。


結局、最後までマンセルはマクラーレンのマシンを抜くことができず、セナがこの年初めての優勝をあげる。ゴール直後にホンダのエンジンは息絶えるように白煙を上げ、マンセルは体力の消耗からか、表彰式のシャンパンファイトで地面に座り込んでしまった。


マシンもドライバーも限界まで力を出し切った死闘劇に、関係者やファンは度肝を抜かれた。


しかし、この年は最後までウィリアムズの圧倒的優位は揺るがず、年間タイトルはマンセルの手に。更に、マクラーレンにエンジンを供給していたホンダがこの年いっぱいでF1活動一時休止を表明する。


最後のセナプロ対決

1993年。前年休養をとっていたプロストが、マンセルの引退によって空席ができていたウィリアムズから復帰することが決まった。


一方で、セナもウィリアムズのシートを得ようとしたが失敗し、マクラーレンに残留することに。マクラーレンは撤退したホンダに代わり非力な中古のフォード・コスワース(V8)を搭載することになった。これにより、マクラーレンの唯一の武器とも言えたエンジンパワーを失うこととなった。


誰もがプロストの絶対的優位を、言い換えるとセナの大きな不利を疑わなかったが、セナはバランスが高じたマシンで予想外の好調ぶりを見せた。フォードのエンジンは出力こそ非力だったが、ホンダは無論、ルノーに比べてコンパクトで軽く、これまで大柄で重いエンジンを積んできたことで問題になっていたマクラーレンのシャシー性能の低さを改善することに成功していたのだ。
セナは開幕3レースで2勝を挙げる活躍。特に第3戦ヨーロッパGPでは、雨の中スタートで出遅れながらも、最初の1周目だけで5位からトップ立つという鬼神の如き追い抜きを見せ、そのまま3位以下を周回遅れにして優勝するという圧倒的なパフォーマンスを見せた。


一方、プロストはウィリアムズのマシンに不慣れで、スタートやピットでの発進が上手くいかないことが多く、更にチーム側のミスに振り回され、思うようにレースができないことも珍しくなかった。


特に、第6戦のモナコGPではプロストはポールポジションからスタートするものの、その際フライングというミスを犯してしまい、それによるペナルティストップを受ける際にエンストで大きく遅れてしまうなど、失態を重ねることに。


そんな中セナは、プロストのミスと、トップを走っていたシューマッハのマシントラブルなどもあり同レースを優勝。モナコでは、通算最多の6勝目を達成した。


しかし、プロストがウィリアムズのマシンに適応しはじめてから優勝を重ね、更には同じエンジンを積むベネトンの若きエース、ミハエル・シューマッハの台頭もあり、セナは中盤から暫く表彰台から程遠い戦いを強いられ、最後はプロストがチャンピオンを獲得。


チャンピオン決定後の第15戦日本GPでは、予選2位からスタートしたセナが決勝では雨を味方に付けて優勝。久しぶりの表彰台を獲得。
最終戦のオーストラリアGPでは、セナは久々にポールポジションからスタート。そのまま逃げ切り2連勝を決めた。


レース後に、この年限りで引退を決めていたプロストと和解の握手。二人の長かった確執がようやく終わった。そしてセナにとって、生涯最期の優勝がこのGPであった。


ウイリアムズ移籍(1994年)

運命の1994年、セナはマクラーレンからウィリアムズに移籍。引退したプロストの後任に収まった格好だ。マンセルもプロストも引退したことで、現役のチャンピオン経験者はセナだけ。そして、マシンはここ2年圧倒的なパフォーマンスを見せたウィリアムズ。セナの優位は誰の目から見ても明らかだった。


ところが、いざシーズンが始まってみると、セナの歯車は全くかみ合わなかった。


開幕戦ブラジルGPではPPからスタートするも、ピット作業でミハエル・シューマッハに逆転され、追走中にスピンを喫しリタイヤ。
第2戦パシフィックGPでも2戦連続のPPを獲得するも、スタート直後にミカ・ハッキネンに追突されてリタイヤ。
開幕2戦を消化した時点でのノーポイントは、デビュー以来初のことだった。


実は、前年まで高度な電子制御技術でドライバーの運転を支援しつつ、マシンの性能をより高い次元で引き出す「ハイテクデバイス」を使用したF1マシンが流行していた。代表的なものはアクティブサスペンションやトラクションコントロールなどで、それらを最も有効に活用していたのはウイリアムズだと言われていた。


しかし、この年からはそれらハイテクデバイスの多くが禁止され*8、ウイリアムズのマシンが持っていた優位は以前より小さくなっていた。
また、これまでのウイリアムズのマシンは、高性能なハイテクデバイスがドライバーの運転を助けることを前提として開発されてきた。しかし、この年のマシンはそれらの排除を命じられたことで、ドライバーにとって非常に運転しにくいものになっていたのだ。


悪夢の週末

そんな中むかえた第3戦サンマリノGP。ここで勝ってシューマッハを追いかけたかったセナだが、一方で、予選から重大事故が多発することになる。
まず予選1日目には、親密な間柄であった同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こす。
結果的には鼻骨骨折というものの、一時は安否を心配されるほどの大きな事故であり、セナは涙を浮かべならバリチェロを見舞っていたという。
翌4月30日の予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーでローランド・ラッツェンバーガーがクラッシュ。マシンの損傷はコクピットに穴が空くほど激しく、セナは心配のあまり、マーシャルカーで現場に駆けつけた。そこでセナはラッツェンバーガーの状態があまりにも深刻であることを知ってしまった。
ラッツェンバーガーは、その後病院に搬送されたが、懸命の治療も虚しくこの世を去った。グランプリ中の死亡事故の発生は、実に12年ぶりのことだった。


これら一連のアクシデントの中で、セナは心理的に不安定な状態となり、電話で当時の恋人、アドリアーナに「走りたくない」と話していたことが後に語られている。それでも夜には落ち着きを取り戻し、レースに出場する決意を固めていたという。


そして迎えた5月1日決勝。


セナは開幕から3戦連続のポールポジションからスタートし、1コーナーでも首位をキープしたが、後方での事故によりセーフティーカーが導入される。
そして再スタートが切られた後の7周目(現地時間午後2時17分)に超高速・左コーナー「タンブレロ」において、312km/hで走行中に突如マシンコントロールを失い、そのまま直進してコースアウト。コース右脇のコンクリートウォールに激突。
セナが駆るマシン・FW16は大破。セその際飛び散ったマシンのパーツがヘルメットを貫通してしまったことから、セナは頭部に致命傷を負ってしまった。


蘇生処置を施されつつヘリコプターでイタリア・ボローニャ市内のセント・マジョーレ病院に緊急搬送されたセナであったが、現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分に死亡した。享年34だった。


事故調査

イタリアの検察当局や司法当局がセナの事故における原因を調査。走行データから事故直前にセナのマシンに何らかの不具合があり、ステアリングが正常に機能しなくなっていたことと、それに気がついたセナが、事故を回避するためにブレーキを踏んでシフトダウンし、激突直前には200km/h程度までマシンを減速させていたことなどが明らかになった。
調査前はセナのドライビングミスが原因とする説や、精神的に不安定だったセナが自殺を試みたとする説まであったが、まとめて否定される形となった。
しかし、既に大破したマシンを調査しても、事故前にどの部品にどのような不具合があったかまで具体的に分析することは困難を極め、最終的にはステアリングコラムシャフト*9の故障が濃厚であるとしたが、明確な結論は出ることはなかった。


事故を起こした当該のウィリアムズ・ルノー・FW16は、イタリアの司法当局から2002年(事故から8年後)に返還された。すぐに車体は部品が第三者の手に渡ることを恐れ、ウィリアムズ家の敷地内で焼却され、土の中に埋められた。このため、再び事故の検証をしようにも車体の検証は不可能になってしまった。


一方で、エンジンだけはルノーに返還され、ルノーのエンジニアがそのエンジンを徹底的に調査したが、特段エンジンには異常が認められなかった。ルノーの資本提携先である日産自動車もこのエンジンを調べ上げたが、やはり異常は認められなかったという。


余談


趣味がラジコンの飛行機。日本の友人(ホンダ関係者)が毎年セナの為に作ってくれていた。


血液型はB型。左利き。


後述のように、「とんねるずの生でダラダラいかせて」や「笑っていいとも」など、日本のバラエティ番組に出演したことがある。


1992年の日本GPウィークのある日にフジテレビ系列の番組をジャック。宣伝や子供にカートの素晴らしさを伝えた。


また生ダラでアイルトン・タカこと石橋貴明とカート対決をし、(恐らくわざと)負けたために石橋にヘルメットをくれるよう要求され、セナも了承する。
が、それから程なくしてセナは事故で他界。ヘルメットはセナの死後に設立されたセナ財団を通し、石橋の手に渡った。


この番組に出演した際、セナはチョンマゲのカツラを被ったり、(石橋から半ば強引なフリによるものだが)ギャグをやったりと、
なかなか茶目っ気のある姿を披露してくれた。


食事がおいしいといわれたミナルディのモーターホームの常連客であり、その恩返しに現役最後の年は無給でミナルディから出走する計画をしていた。


ちなみにコミックボンボンで連載されていた漫画版の機動戦士Vガンダムにはセナそっくり……というかセナそのものの敵パイロットが登場している。今なら絶対アウトだろう……。


甥であるブルーノ・セナが2010年にF1からデビューを果たし、2012年までの3年間を戦った。F1では叔父ほどの活躍はできなかったが、その後WECやフォーミュラEなど、様々なレースに参戦している。


追記、修正はT-SQUAREの「FACES」を流しつつ、セナ足を刻みながらお願いします。


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  • ボーボボのルールが全くわからんゲームでボーボボが叫んでた「アイルトン・セーナー!!」 -- 名無しさん (2014-07-31 12:06:04)
  • ↑Zブロック基地のキバハゲ戦か……懐かしい話題を聞いた。 -- 名無しさん (2015-11-02 07:51:52)
  • 今宮さんと再会していてくれたら嬉しいな -- 名無しさん (2020-03-17 22:26:43)
  • 「生ダラ」でセナが亡くなった後にヘルメットが届いた時、貴さん収録後大号泣したんだってね…。無理もない。共演してくれた時は貴さんの方が興奮してたし… -- 名無しさん (2020-07-11 00:08:15)
  • 強いだけでなくどこか哀愁漂うドライバーだった。そこらへんも日本人受けした要因の1つかもしれない -- 名無しさん (2021-09-13 05:06:45)
  • 彼のテーマ曲FACESは、華麗かつ、曲調が激しく変化していく曲。まさに彼の勝ち取った栄光と、その陰に隠れた数々の苦難を表現した名曲だと思う。 -- 名無しさん (2023-06-29 12:44:39)
  • ↑3 石橋さんは普段から後輩芸人いじりでテレビ映りでは評判あんまりよくなかったけど、カメラのない所ではすごく誠実で真面目で面倒見がよくて人情味あふれる人柄だったそうだからね。そんな人が憧れの人と共演出来て夢が叶い喜びの絶頂から、そのあと間もなくその人が事故で亡くなってしまうなんて…俺らの何倍もショックだっただろうよ… -- 名無しさん (2023-06-29 12:48:11)

#comment

*1 ピケはこの年のF1チャンピオンでもある。セナと同じブラジル人だったが、リオ出身のピケはパウリスタのセナが気に入らず、これ以降も対立が絶えなかった
*2 実際、プロストはカーボンブレーキが冷え過ぎて効きにくくなっており、セナがプロストを容易に交わせた可能性は高い。ただし、当時トールマンのメカニックだった津川哲夫氏は、レース後にセナのマシンを調べるとサスペンションのパーツに亀裂が入っていたという証言も残しており、プロストを抜いた後にレースを最後まで走り切れたかという点には疑問が残る。
*3 セナは「再スタートは紳士協定の適応外」という主張をしていた他、「スタート直後がどのコーナーまでかが明確に定義されていなかった」とセナを擁護する声もある
*4 マクラーレンの監督であるロン・デニスは「シケインのショートカットはこれまでもあったが、失格になった事例はなかった」とこの裁定を批判している
*5 国際自動車スポーツ連盟。F1を始めとするモータースポーツの規則を決めていた組織。翌1991年にFIA(国際自動車連盟)がFISAを吸収し、その役割を引き継いでいる
*6 前年に起きた接触は、プロストのチャンピオンが両者リタイアでも決まる状況だったため、プロストが共倒れを狙って意図的に起こしたものだったとセナは考えていた。プロスト自身も後にその通りだったことを認めている
*7 これ以降プロストが大きなミスを犯すことはなかった一方で、フェラーリのマシンはスピードと信頼性の双方に苦しみ、シーズン終盤にチームやマシンの現状を批判したプロストは、その結果フェラーリを解雇されている
*8 禁止の理由は、ハイテクデバイスの開発には莫大な資金が必要となり、それがチームの大きな負担になっていたことと、ハイテクデバイスの支援により、F1マシンの運転が簡単になりすぎ、ドライバーの技術がレース結果に反映されにくくなったことを、FIAが嫌ったためだと言われている
*9 ドライバーが握るステアリングホイールと、前輪の向きを変えるステアリングシステム本体を繋ぐ部品。破損してしまえば、ステアリングホイールを回しても当然タイヤの向きは変わらない

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