浅野藤太郎

ページ名:浅野藤太郎

登録日:2011/06/15 (水) 00:44:41
更新日:2023/08/18 Fri 11:52:13NEW!
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人物 幕末 新選組 新撰組 岡山県 医者 浅野藤太郎 浅野薫 隊士 備前



浅野藤太郎(生年不詳~1867年頃)は、備前国(現在の岡山県辺り)出身の新選組隊士。のちに薫と名を改める。



入隊前は医者であったという。
1863年末頃の入隊とされるが詳細は不明。
1864年4月末頃、浅野は諸士調役兼監察として島田魁、山崎烝、川島勝司とともに、京都に潜伏する長州浪士を探索。古高俊太郎捕縛に貢献。
6月5日の池田屋事件では、近藤勇隊に属した。
6月13日、明保野亭事件で犠牲となった会津藩士に弔歌を詠んでいる。
7月19日の禁門の変では軍事方をつとめた。



浅野は文武に通じ、近藤や土方歳三に重用されていたという。
副長助勤だったとも伝わることから、新選組でも能力が高く評価されていたことが窺える。



しかし、浅野の運命は急転する。




同年7月に暗殺された父の敵討ちの為新選組に入隊していた佐久間象山の遺児三浦啓之助について、
佐久間家断絶を惜しむ京都所司代松平定敬から松代藩への帰藩を促すように要請があった。
土方は松代藩との交渉に、浅野を参加させた。
9月23日、浅野は土方とともに松代藩士北沢正誠と交渉を行う。
しかし、三浦は自らの知らない所で交渉が行われていたことに反発し帰藩を拒否。
さらに、三浦を可愛がり養子の周平とともに常に隣に置いていた近藤は自らが不在の時に三浦の処遇を決めようとしたことに激怒。
以降、浅野は長期にわたり記録から姿を消していることから、三浦帰藩交渉に関する責任を取らされ、降格、あるいは謹慎処分となったのではないかとされている。



浅野が再び姿を現すのは、三条制札事件の時である。
1866年8月から度々発生していた、三条大橋の制札が引き抜かれるという事件に対応するため、
新選組は隊士約30人を原田左之助隊、新井忠雄隊、大石鍬次郎隊に分けて警備に当たっていた。
浅野は新入隊士の橋本皆助とともに、変装して大橋を見張り、制札を引き抜こうとする者が現われた際に待機している仲間へ知らせる役目を任されていた。
9月12日、土佐藩士が三条大橋に現われ、制札を引き抜く動きを見せた。
橋本は新井忠雄隊へと注進したが、浅野は乱戦を怖れて迂回してしまったため、大石鍬次郎隊への連絡が遅れてしまった。
結局、新選組は8人いた土佐藩士のうち5人を逃してしまった。
(但し当日の新選組隊士は事件前に酒を飲んで酔っており、浅野のみが醜態をさらしたわけではない)



事件の後、橋本の働きが賞讃される一方、浅野は臆病な振る舞いを咎められて新選組を追放された。
その後、浅野は以前から接触していた伊東甲子太郎を訪ね御陵衛士(名目上は新選組の分派)に加わろうとしたが、
隊士の移籍は禁じられていたために山科に潜伏した後土佐へと逃走するという話に落ち着いた。
しかしながら浅野は近藤に接触しようと屯所へ戻ろうとして、沖田総司に斬られた。
遺体は桂川に落ち、流されたという。




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