登録日:2011/12/26(月) 13:16:53
更新日:2023/08/12 Sat 19:36:22NEW!
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野球 プロ野球 野球選手 アニヲタ野球選手名鑑 西鉄ライオンズ 兵庫県 神戸市 ホームラン 伝説の幕開け 大下弘 東急フライヤーズ 東映フライヤーズ セネタース 青バット
2011年。
統一球が導入されたこの年は、ホームランの魅力や重要性を改めて思い起こさせる一年となった。
そのホームラン、戦前は殆ど重視されていなかったのをご存知だろうか。
かつては打者の勲章とは則ち打率に他ならず、また打法の違い――打者は強いゴロを打て、そうすればライナーも出る。とにかくフライは打つな――もあり、本塁打の殆どはランニングホームランだった。
それまで真理とされてきた日本野球の打撃論。
その全ては、戦後突如現れた一人の青年によって根底からひっくり返された。
大下弘。
日本の野球を変えた男。
彼の名が初めて歴史の表舞台に現れたのは1945年11月23日から行われた東西対抗戦である。
それは戦後わずか3ヶ月、日本中が焼け野原となっていた中、全国から選手が集まってきて試合をしたという「想像を越えた壮挙」だった。
参加した戦前からの実力者たちが互いの無事を喜び懐かしがっている中に、皆が見知らぬ白面の青年がいた。
聞けばその大下という青年、明治大学中退後応召・入隊したという。戦前はプロ野球界にいなかったのだ。知らぬのも無理はない。
その男が打ちまくった。
特に第3戦で放った右中間上段に叩き込んだホームランには誰もが我が目を疑った。
前述したように日本野球ではライナーやゴロが重視され、フライを打つのは愚とされていた。
しかし大下の打球はフライだった。それも45度に近い角度で上がっていき、長い滞空時間を経てゆっくりとスタンドに舞い降りてくる。まるで虹のように美しいそれは、今まで無かった全く新しいタイプの打球だった。
全4試合行われた東西対抗戦の表彰があった。
ホームラン賞=大下弘
殊勲賞=大下弘
最優秀選手賞=大下弘
伝説が幕を開けた。
1946年、プロ野球レギュラーシーズンが再開。
大下はセネターズの一員として出場し、20本塁打を放ち本塁打王に輝いた。
この20本という数字に誰もが度肝を抜かれた。
戦前のシーズン最多本塁打は中島治康(史上初の三冠王)の11本だった。そもそも戦争で中断されるまでの9年間、シーズン二桁本塁打を記録した打者は中島も含めてたったの2人しかいない。
おまけに用具も粗悪であり、特にボールは酷かった。日本中が飢えに苦しんでいた当時、まともなボールなど作れるわけもない。仕方なく戦前に製造され残っていたものを再生して使っていた。
更にいうとこの年のリーグ全体のホームラン数は211本。つまり1人で全体の1割近いホームランを打っているのである。ちなみにこの時は1リーグ7チームでペナントを行なっていた。
野球レベルの低さや球場の狭さを加味しても、この20という数字には現在では計り知れないほど大変な価値があったのである。
大下は翌年も17本で本塁打王。おまけに首位打者もかっさらった。
この時期の大下は赤いバットを使用していた川上哲治に対抗し、全体を青で塗装したバットを使い、青バットの大下として絶大な人気を誇った。
その人気たるや、大下のホームランを見ようと押し掛けた観衆が後楽園球場に殺到、入れなかった人々が後楽園球場を二巻きし、さらにその列が水道橋の駅まで続いたほどだった。
こんな風景は、戦前は絶対に見られなかった。一番人気は東京六大学野球であり、日本で最高の試合は早慶戦だった。職業野球と呼ばれたプロ野球など、一部の野球マニアしか見なかった。
大下のホームランは、プロ野球を一般大衆に認知させる最初の一歩だったのである。
(これは後の天覧試合で決定的なものとなる)
かくして世の中、ホームランを打たずんば野球人にあらず、という風潮になった。戦前戦中から強打者と唄われた連中は、面子にかけても大下に勝たねばと、彼の打法を研究してホームランバッターへの転向を志した。
球界もホームランの魅力を引き出さんと、48年からラビットボールを導入。川上哲治・青田昇が25本でホームラン王に輝くと、翌49年は藤村富美男が46本、さらに50年には小鶴誠が51本を放つ。空前のホームランブームが球界を覆い尽くした。
面白いのは大下である。
史上空前のブームを巻き起こした張本人は、この頃からホームランへのこだわりを捨て、アベレージヒッターへの転向を図った。小鶴が51本塁打を放った50年、大下はたったの13本しか打っていない。代わりに打率.339で二度目の首位打者となる。
1951年。あまりにも飛びすぎるとしてラビットボールが廃止されたこの年に、大下の打撃は完成を見る。
打率.383、本塁打26で二冠を獲得。さらに三振はたったの18。
特に打率は「打撃の神様」川上をも上回る史上最高記録(当時)であった。
大下はボールの質に左右されない、60年後の中村剛也にも通ずる本物のホームランバッターだったのである。
52年からは西鉄ライオンズに在籍。56年から3年連続日本シリーズで巨人を叩き潰し、黒の軍団・野武士軍団と恐れられたチームの四番打者として活躍した。
59年、引退。首位打者・本塁打王各3回、打率三割以上9回を残した。
生涯成績は1547試合出場、1667安打、201本塁打、861打点、146盗塁、打率.303。
引退後はコーチや監督をやったが上手くいかなかった。
晩年は少年野球の育成に力を入れていたが脳血栓で倒れ、手足の自由を失う。
1979年5月23日、死去。享年56。
死因は長い間脳血栓の後遺症による心筋梗塞と言われていたが、実際は睡眠薬致死量をウイスキーで飲み下した自殺だったという。
華やかな全盛期からは想像もつかない寂しい最期であった。
逸話
- あだ名は「ポンちゃん」。ポーンポーンと大きなフライばかり打っていたから。
- 平和台事件では血塗れになりながらも事態の終結に奔走した。
- 当時球界一のイケメンであり、女性によくモテた。
- また女性を口説き落とす早さも異常だった。曰く、「宿舎に着く。女中さんが荷物を持って部屋に案内する。もうその間に交渉が成立してしまうという魔術のような早業の持ち主」。
- 天下の名将・三原脩の打者評
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