登録日:2023/07/17 (月曜日) 17:58:00
更新日:2024/07/11 Thu 13:37:48NEW!
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逃げ上手の若君 楠木正成 軍神 名将 英雄 既婚者 不審者 汚部屋 恐妻家 師匠 七生報国 武士 南北朝時代 三木一草 湊川の戦い 逃即是生 建武の新政 三徳兼備 七生滅賊 菊水
常識 伝統 美学 成功体験 大兵力…
そういった檻に囲われた者は固く強いが 檻の隙間を突かれると逃げ道が無くとことん脆い
弱者は檻に囚われるべからず
卑怯や臆病と言われようが自信を持って逃げるべし!
鳥は何故格好良う映るか?この空全てが逃げ場だからでござる!
縛られず囚われず 広く高く雄大な逃げ道を常に征くべし!
逃げることは生きる事 この正成の信念にござる
楠木正成とは足利尊氏と並んで南北朝時代を代表する武将の1人。
本項目では、史実を元に創作されている漫画作品『逃げ上手の若君』におけるキャラクターとしての楠木正成を扱う。
●目次
データ
レアリティ (1335年) | ☆☆☆☆☆ | UR | |
能力 | 南北朝適正 | ||
武力 | 88 | 蛮性 | 90 |
知力 | 98 | 忠義 | 100 |
政治 | 61 | 混沌 | 100 |
統率 | 99 | 革新 | 94 |
魅力 | 95 | 逃隠 | 100 |
※ステータスの詳細
- レアリティ:その年代における人物の重要度。なのでステータス数値とレアリティが比例しない場合もある。
- 能力面
武力:刀、弓、馬術などの個人戦闘力
知力:知識、機転、戦略などの総合力
政治:内政、調略、権力争いを制する力
統率:政治体制や味方の軍をまとめる力
魅力:善悪に拘らず人を引き寄せる力
- 南北朝適正
蛮性:荒々しい時代を戦い抜く生命力
忠義:高すぎるか低すぎる時に力となる能力値
混沌:次々に変わる環境、状況への適応力
革新:古きに拘らず新しい世界を作る意思や発想力
逃隠:人の眼が行き渡らない時代に適応する能力
- 技能:楠木流兵法
自軍全ての武力と統率20%上昇、敵軍全ての武力と統率20%下降
- 技能:悪党の流儀
1ターン休みと引き換えに逃げと奇襲が必ず成功する
- 技能:太刀打(甲)
太刀適性40%上昇
- 技能:雑草の鬼才
兵が計算通りに集まらない
概要
後醍醐天皇の倒幕運動及び天下取りの原動力となった作中随一の大英雄で、「三木一草」の一人に数えられる。
かつて瘴奸入道が軍略を称えていた「楠木殿」その人であり、共に戦い、負け戦にあたって瘴奸を逃がした縁がある*1。
その風貌は何処かさえない中年オヤジ。
平時は事あるごとに顔芸*2をしながら常にヘコヘコしている卑屈さすら漂う挙動不審の変質者であった。
主人公の時行に対してはその素性を怪しみながらも逃げ好きのよしみから、彼に「弱者が強者に勝つ秘訣」を教えると約束して屋敷に招く。
そこで彼は自らの信条である「固定観念という囚われの檻からも逃げる」ことを教え、時行に「逃げる事は生きる事」の信念を伝えた。
さらに彼は帝に提出した「楠木正成がこれまでの戦で使ってきた軍略を全て記した記録書」の下書き*3という、謂わば逃げの達人による極意書を誰にも見せないことを条件に時行に手渡した。
また、時行らが足利尊氏の暗殺に失敗して逃亡を図った際には「助けるのは一度きり」と、然り気なく助け舟を出している。
彼の残した記録書は後の中先代の乱において大きな力になっており、時行にとっての師匠と呼ぶべき男である。
マーキング・パターンは「菊水」。
人物
一人称は「拙者」。
その名声に反して「土豪上がりのしがない役人」を自称するなどかなり謙虚で穏やか性格。
挙兵時に苦労をかけたということで奥方にも頭が上がらず、家でも常にヘコヘコして逃げ回っている冴えない一面を持つ。
かつて部下だった瘴奸のことは「濁った眼をした腐れ外道」「殺されて当然の大悪党」と散々な評価だが、同時に本心から懐かしがり生存を喜ぶなど、善悪に頓着しない性質が見られる。
実際手配書にて教えを授けた時行の素性を知ると「世が世なら主君だったか」*4と驚きながらも大笑。
時行との関わりは結局京都滞在のひとときのみだったが、逃げ好き仲間の縁として相当印象に残ったらしく、帝への注進の引き合いにも出してもいる。
そして「軍略とは自分が生きた経験の中にしか無いもの」という思想を持ち、それ故に身近にあるあらゆる出来事や人との出会いを大事に記憶することを心掛けている、
ちなみにその知名度に反して実は字下手な上に部屋を片づけられないタイプの男。
部屋には戦に利用できるものは無いか色々試す過程でそこらかしこにゴミが雑然と散らばっている。
肝心の軍略の記録書の下書きは最早暗号レベルの字の汚さであり、おまけに軍略とは何にも関係ない落書きがそこかしこに書き殴られている。
本人は「下書きだし誰も見ないからいいかなって…」というノリだったらしく、冷や汗をかきながら弁明している。
また穏やかな表の顔に反して内心ではかなり荒っぽい部分もあり、イラっとすると笑顔の仮面の裏で相手を「てめぇ」呼ばわりしたりとガラの悪さがたまに出る。
特に自身の編集担当であった坊門に対しては内心イライラが募っていたらしく、時行に手渡した奥義書の下書きには坊門に対する愚痴があちこち散見されている。
能力
「日本開闢以来の名将」「軍神」と称される程に軍略に長け、鎌倉の大軍相手に僅かな手勢で何度も撃破を繰り返した日本一の合戦上手である。
その輝かしい異名に違わず、13巻現在ステータスに100が3項目もある唯一のキャラクター。
その本質は合戦に際して「生存」に最も重きを置く逃げ上手であり、時行も「通じ合うものを抑えきれない」と感じている。
普段の卑屈な態度も頭をヘコヘコキョロキョロすることで、相手の情報を上下左右から立体的に計測するスキャニングである。
いついかなる時でも確実に逃げる算段をつける逃げの極意を持ち合わせており、時行とは初見時からシンパシーを感じて緊張感ある対峙をしている。
「…何だろう。すごい高度ですごい下らねー鍔迫り合いをしている気が」
この味方の強みや敵の弱みを瞬時に読み取る洞察力は人材活用の面でも発揮されており、倒幕の反乱時には寄せ集めの素人ばかりにもかかわらず、一人一人に適切な役割を与えて戦力としている。
また「糞を出して投げる事など赤子でも出来る」と宣うように、うんこを用いた策は特に好んで使用していたらしく、奥義書の内容はほぼ「うんこ軍神ドリル」めいてる部分もある。
実際、史実での正成の得意策で、他作でも大活躍なように、うんこが合理的な戦術なのは疑いようがないのだが、頻繁に坊門にうんこを食わせようとする落書きを残しているのを見るに正成の感性が小学生男子に近しい気がしてならない。
高兄弟からは「切れ者なのに猫被ってる狸」狸なのか猫なのか「いずれ消さねばなるまい」と警戒されていた。
実際軍略の武勇は日本全国に轟くものの、個人の武勇についてはほとんど知られていないが、これも正成の意図的な戦術であった。
軍略
- 鬼心仏刀封じ
そう思う時点で君は逃げ下手だ
刀で勝つ事に囚われている
時行に弱者が強者に勝つ方法を教えるため、自身の屋敷内で手合わせした際の策。
手合わせ前に賄いからちょろまかした強飯のおにぎりで鬼心仏刀の初動である動脈斬りを防いだ。
刀で勝つ事に囚われた時行の固定観念の裏を掻き、あえて身近なもので斬撃を防ぐ形で教えを授けた。
ただ、この策の真の恐ろしさは
- 時行の構えを見ただけで、鬼心仏刀の本質を「逃げながらの動脈斬り」と見抜く洞察力
- その上で瞬時に対抗策を導き出す思考力
- 持っていたのは完全な偶然であるにもかかわらず、巧くおにぎりを活かす応用力
- いくら事前に予測ができていたとはいえ、時行の渾身の斬撃をギリギリまで見極めて防ぐことを可能にする瞬発力
など、正成本人の能力の高さがそのまま反映されていることに他ならない。
弱者が強者に勝つためにはちょっとした工夫の他に、将としての総合力も必要となるのだろう。
- 第一次京都戦の陽動策
神の如しは汝の策よ 楠木正成
箱根・竹ノ下の戦いで義貞を破った勢いのまま進軍する尊氏の動きを予測して後醍醐天皇を京の外へと逃がし、逆に尊氏を防御の弱い京へと誘導。
その上で「楠木死んだ」「帝まだ尊氏のこと好きらしいよ」「うどんあります」等の数々の虚報を流して油断させてから本陣を突く情報戦による奇襲策。
さしもの尊氏も見事にこの罠に嵌ったうえ、楠木・北畠・新田連合軍の攻撃を受けてはひとたまりもなく、僅かな手勢を伴って九州へと落ちのびざるを得なくなった。
北畠顕家も正成のこの軍略を非常に高く評価しつつも「花の都を罠場に使いおって」と小言を溢してもいる。
- 坊門に没られた策
没 企画が弱い
(坊門てめえ!)
わけのわからない九州の大勝利で膨れ上がった大兵力を動員して攻め入る尊氏への対抗策として提案した策。
まず、後醍醐天皇を再び比叡山へと逃がした上で、急な進軍で兵糧の備えがない尊氏軍を再び京都に誘い込み補給路を遮断させる。
そのまま帝を餌に尊氏軍を京に釘付けにし、やがて飢えた兵士が次々投降する頃を見計らって新田軍と楠木軍で左右から挟み撃ちにして殲滅するというもの。
しかし、坊門清忠から「帝が短期間で2度も逃げることは威信の低下に繋がる」と没にされた上、肝心の帝も「ここで逃げるわけにはいかぬ」と逃げることに消極的になっていたため実現することはなかった。
これによって正成は僅かな手勢をもって京の外で尊氏が率いる大軍と戦うという勝ち目の薄い戦に挑まざるを得なくなる。
- 偽京の計
京を使った防衛戦なら楠木は足利に勝るゆえ
巻き菱と16の突撃で京32の路を区画した
湊川の戦いで使用。
700騎の楠木軍に対して10万騎の尊氏軍、南北朝分断による錦の御旗対策、義貞が見え見えの分断策に引っ掛かるなどの逆境の中、尊氏軍の弱みである直義に向かって16回もの突撃を敢行。ブラコンの尊氏が焦って、高兄弟率いる精鋭に直義を助けるよう命じたところで影武者と交代。
手強い護衛を引き剝がして孤立させた尊氏の元に正成が単騎で乗り込むという分断策。
また16回の突撃の際に密かに巻き菱を敷設して京32の路を模した区画を形成。一騎打ちの邪魔に容易に入れない結界を作り上げた。
正成の見立てでは、この結界は「我が郎党なら百数える間は保てる」という。
望んだ環境を得られないのならば、自ら環境を作れば良いという策士としての正成の面目躍如の策である。
- 個の武
軍略の天才楠木正成
個の武の強さは聞いたことが無いが果たして…
偽京の計そのものを囮に用い、尊氏を孤立無援にして一騎打ちを申し込んだ正成。
100秒の内に仕留めることができれば逆転勝ちとなるが、正成と言えば少数精鋭を巧みに使いこなす奇策・奇襲が主であり、あまり個の武が強い印象はない。
尊氏もそのことに疑念を持っていたが…
個の武 隠すのも策でござる
個の武も滅茶苦茶に強かった。
家人では相手にならんと評されるレベルに強い護良親王を雑兵を殲滅する片手間で制圧できる異次元の武を持つ尊氏が、一刀を受けただけで心底ビビって冷や汗を流し、その後の剣戟も防ぐので精一杯な辺り相当な強さである*5。
その斬撃は一撃で甲冑の大袖を削り抉る程に強烈。
さらにシャイニングウィザード蹴り一発で骨を折るなど体術にも優れているうえ、天泣含み針による奇襲も躊躇なく行い、相手が致命傷を負って倒れても残心を取るなどひたすらに隙がない。
一連の戦闘によって尊氏は刀を遠くに飛ばされ失い、一時的な失明に利き腕の負傷、片足と首の骨を折る大怪我を負っている。
ナレーションによると「百倍の敵に楠木正成は16回もの突撃を敢行したという」と解説されており、そんな奴の個人武勇が弱いはずがなかった事を窺い知れる策。
活躍
中先代の乱の後の1336年延元の乱では尊氏と敵対。
一度は策によって尊氏を九州にまで追い落とすことに成功するが、敗走する足利軍に勝った側から兵が離反してついていく尊氏のわけのわからないカリスマ性を前に顕家と共に警戒。
そして九州でわけのわからない逆転勝利をおさめて攻め上がってきた尊氏軍への対抗策として再び後醍醐天皇に召集された。
しかし、そこで逃げる事を辞めたことで弱体化した帝に策を却下されたことで「あの日見た夢は褪せてしまった」と失望。
それでも帝に「偉大な英雄ほど逃げ上手」であるという注進をした上で最期の戦いである湊川の戦いに赴いた。
またこの時、櫻井宿で我が子の多聞丸と次郎と別れる際には「母に似て気性が荒い2人が命を大事にしてくれるように」という願いを込めて「正行」*6と「正時」の元服名を与えている。
時行のことは中先代の乱で死亡したと知らされながらもその生存を見抜いており、最期までその身を案じていた。
同年の2度目の決戦地となる湊川の戦いを勝ち目の薄い戦としながら、新田義貞と共闘。
死力と知恵を絞り切った分断策により尊氏をあと一歩のところまで追い詰めたが、最終的に尊氏の磨き抜かれた人の武力の前に敗北。骨喰の一刀で斬り伏せられた。
さようなら楠木殿
奥方の料理美味しかったです
激闘の後尊氏は心の底から正成の死を惜しんで涙を流し、正成も「わけのわからない天下人」である尊氏の本質に最も近付いた上で皮肉抜きに「最強」と認めるなど、敵対しながらも互いを高く評価し合っていた。
そして正成ともう会えないことを惜しんだ尊氏の「死んだら直帰で生まれ変わって来て下さい!また敵でも全然良いので!」の提案に笑い呆れながらも「七度生まれ変わっても必ずや逆賊尊氏を殺しに参るよ」*7と返すなど、どこか爽やかな雰囲気のまま軍神はその一度目の生を終えた。
あ あと
殺した後も奥方の料理また食べに行っていい?
…正気か てめえ?
えぇ~駄目?
そういうとこでござるぞ尊氏殿
…ていうか静かに死なせてくれでござる
内心自らの敗因を「帝への忠義から逃げられなかった」と分析した正成は、尊氏を倒せるのは戦上手ではなく逃げ上手と確信。時行に「逃げるのを生きるのを辞めるなよ」の言葉を遺している。
正成の死後、己の誤りをやっと認めた後醍醐天皇は尊氏に降伏するも不屈の覇気で吉野に逃走。尊氏が立てた北朝の天皇を否定し、南朝の天皇として君臨することでいよいよ南北朝時代の始まりとなった。
日本で初めて政権選択の自由が生まれたとも言えるこの時代、初めて政権を選択し再び世間を驚かせたのは果たして、正成の逃げの極意を受け継いだ少年であった。
余談
- 日本開闢以来の名将
史実でも日本最高峰の英雄として崇められており、
といった数々の輝かしい尊称で敬われ、ゲリラ戦や情報戦を得意とする稀代の軍略家だけでなく、電撃戦を得意とする猛将としても非常に高い評価を受けていた。
明治時代には「大楠公」といった名称で敬われ、湊川神社で祭られる神にもなっている。
正成の評価は明治から第二次世界大戦の頃まで、天皇を中心とした国威発展の思想「皇国史観」が展開される中で「天皇に最期まで尽くした忠臣」としてより強固に高まっていった。
しかし正成の凄まじいところは皇国史観が改められた戦後においても、評価が下がるどころかさらに上がるところにある。
というのも、皇国史観は「忠臣」の部分のみクローズアップされており、他の正成の優れた部分には見向きもされていなかったのだ。
現代では単なる武将にとどまらず、近畿で成功を収めた大商人としての活躍など多面的に評価されている。
- 三木一草
楠木正成も含めて称される「三木一草」とは建武の新政下で後醍醐天皇に重用された4人の寵臣
- 楠木正成
- 結城親光
- 名和長年(伯耆守)
- 千種忠顕
の総称。
「クスノ“キ”」「ユウ“キ”」「ホウ“キ”」「チ“クサ”」の名前に因んで付けられたが、4人ともあまり高貴な家の出ではないため「どこの草木とも知れない」という意味を孕んだ蔑称としてのニュアンスもある。
「本当に草木の意味を持ってるの楠木と千種だけじゃーか」とか「名和に至っては官位持ち出す辺り無理矢理じゃねーか」などのツッコミはしてはいけない。
本作でも一応登場しているのだが、正成以外は全員チョイ役程度の登場であった。
- 櫻井の宿の別れ
忠義の将である楠木親子の人気を不動のものとしている『太平記』の名場面の一つ。
死地とわかっていながら忠義を尽くすために湊川の戦いに赴く正成が道中の櫻井の宿で、せめて息子だけは…という親心から、数え11歳の嫡男である正行に「拙者が死んだ後も天皇に忠義を尽くせ」と諭し、菊水の紋の入った短刀を授けて今生の別れを告げたという。
ただ、現在の研究では『太平記』や本作の設定とは異なり、この別れの際の正行の年齢は既に20歳前後だと推定されており、高確率で創作と見做されている。
また、正成が時行に肖って2人の息子に「正行」と「正時」と名付けたというのも、本作独自の創作要素である。
正行の読みが「まさつら」と変わった読みなのも「「行」だと露骨すぎてバレる」と言うのが正成の弁だが、時行の読みも実は「ときつら」だったのではないかという説もあったりする。
そして正成の親心と言霊とは裏腹に、彼の逃げ上手を一番受け継いだのは「行」でも「時」でもない「儀」で……
追記修正よろしくお願いします。
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▷ コメント欄
- 本当に素晴らしい人なのに、(「逃げ若」では)上司にも仲間にも恵まれなかった人。 -- 名無しさん (2023-07-17 19:50:30)
- 主人公が史実でほぼ関わりのない北条時行だから仕方ないんだが、この時代を象徴する大英雄の一人なのに出番も活躍も少なすぎたな…。 -- 名無しさん (2023-07-17 21:21:32)
- 皮肉なことに正成の息子で一番逃げ上手だったのは、時行の名前を全く受け継がなかった正儀だったりする。 -- (2023-07-17 22:42:52)
- 正直「え、もう退場!?もったいねえ!」ってなった。 -- 名無しさん (2023-07-18 00:22:16)
- 尊氏の提案もぶっとんでるし、それに返す正気か、とそういうとこでござるぞとか、シュールな笑いとも生死感が今と全然違う故ともとれる和やかさ、好きだわ -- 名無しさん (2023-07-18 11:55:00)
- 正成自体が大河とかでもある程度ガッツリ肝据わった器のデカい人物として描かれること多いんよな。 -- 名無しさん (2023-07-18 12:03:42)
- 正成は無茶苦茶神格化されてる存在なのに、盛られた部分を除いて確実と思われる史実だけを見ていく方がむしろ判断の合理性が際立って凄みが増すというとんでもない武将。正確な情勢把握と「だろう」「違いない」に惑わされない冷静さは今でもそのまま通じる理想があるんだよね。でも大楠公と崇めてた連中は誰もそれをできてないという。。 -- 名無しさん (2023-09-26 18:27:04)
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*2 大河ドラマ『太平記』で楠木正成を演じた武田鉄矢に似せた顔マネをする。
*3 なお下書き段階のため、字が汚く何が書いてあるか一見ではわからない。それどころか明らかに関係ない落書きや愚痴まで記された悪文の見本市で、渡した張本人が時間をかけて解読することを薦める始末。時行は一晩かけてやっと序文を読み終えた。
*4 正成の出自はハッキリしないものの、後醍醐天皇にスカウトされる前は北条高時に仕える御家人だったとする説がある。
*5 一応、それ以前にも時行の鬼心仏刀を容易に防ぐ身体能力の高さと、百倍の足利軍に対して16回もの突撃をしながら生き延びるなど正成の個の武の強さを示す伏線はあった。
*6 読みは「まさつら」。「まさゆき」にすると流石に露骨過ぎる、とは正成の弁。
*7 いわゆる「七生滅賊」(七生報国とも)。『太平記』では弟の正季の死に際の決意の言葉であり、正成はこれに同意したという話として伝わっている。
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