登録日:2023/05/23 Tue 23:30:00
更新日:2024/07/05 Fri 13:28:53NEW!
所要時間:約 15 分で読めます
▽タグ一覧
中国史 韓愈 韓退之 韓子 儒教 唐 唐代 儒者 古文 散文 古文復興運動 道仏排斥運動 文人 詩人 文豪 厳格 左遷 サメ ワニ 唐宋八大家 推敲
韓愈とは、唐代の政治家・詩文家・儒者。
字は退之。
唐代の文学者として、そして当時の古文復興運動の第一人者として、柳宗元と併称される。
諡号から「韓文公」とも言われる。
また尊称として「韓子」とも呼ばれた。……が、そのせいで別の韓子が「韓非子」になってしまった。
生没年は768年~824年12月25日。
その著作は「昌黎先生集」に収録される。
【来歴】
◇出生
前漢黎明期、劉邦の同盟者だった韓王信(韓信ではなく、春秋戦国時代の韓国の末裔。張良が擁立したほう)の後裔……を名乗っているが、詳しくは不明。
いちおう漢代から続く家柄ではあるらしい。
韓愈が生まれたのは768年。両親が年老いてからの子であったこともあり、兄たちとはかなり年が離れていたようだ。次兄の息子、つまり韓愈にとっての甥が、韓愈と同世代だったという。
しかしそのせいか、韓愈が三歳にならないうちに父母が相次いで死去。家長となった長兄もまもなく任地先で亡くなり、兄嫁のもとで養育されることになった。
◇官界へ
韓愈はそれでもよく育ち、七歳で読書を始め、十三歳から文章をよく書けるようになった。
786年(徳宗の時代)、十八歳から科挙にも挑むが、三度落ちる。これは、当時の科挙が美麗さ重視の文体「駢文」であったのに、韓愈は自由論文的な「古文」で回答したためだった。
792年の科挙は、陸贄、梁肅という古文家が試験官を担当した。
韓愈はかつて梁肅の門下にいたことがあり、さらに試験官たちが美麗さ重視の駢文に疑念を持っていたことも幸いして、韓愈は無事合格、進士となった。
しかしその後も官界をうまく渡れず、昇進が遅れたり宰相への上奏が却下されたりしている。
796年、汴州にて反乱が起きると、討伐軍の武将として参戦した。とはいえ 肝心の司令官が七十代のおじいちゃんだったり、敵を倒すより先に死んじゃったりして 目立った功績は挙げなかった模様。
801年には先達からの推薦を受けて、国子監の四門博士に就任。二年後の803年には監察御史となる。
しかし関中(長安一帯)で起きていた干ばつ・飢饉の調査に当たって、京兆尹(首都圏行政長官)の李実を弾劾したところ、相手が皇室の外戚であったため、かえって韓愈のほうが糾弾された。
結局は自分が陽山県の県令に左遷されるが、現地では住民に細やかな統治を行ったため、慕われたという。
ほどなく、年が近く兄弟同然だった甥にまで先立たれる。
805年には憲宗が即位。これにより大赦令が出され、韓愈も荊州江陵府の法曹参軍となるが、韓愈は失望の念が強かったという。
811年には国子博士となり、当時の論文が評価されて礼部の郎中に推挙される。
815年~817年には淮西の反乱鎮圧に武将として参加し、今度は軍功を挙げて刑部侍郎に昇進した。
◇排仏により左遷
しかしほどなくして、韓愈は儒教復興運動と道仏排斥運動をやり過ぎて失脚する。
時に西暦819年(元和十四年)正月、鳳翔県の法門寺という寺院に祀られている仏舎利(釈尊の遺骨)が、三十年に一度のご開帳の年である。これを宮中に迎えて、三日間の大法会を行うと決まった。時の皇帝・憲宗自らも参拝する。
これに対して韓愈は上奏文を出して反対。
その論文がすさまじく、皇帝は仏陀に参拝すべからずという理由を、
「仏教伝来前の三皇五帝は長寿であった。仏教伝来後、中華は大乱が続き、皇帝はほとんど短命、これが仏教の害である」
といかにも儒教らしい天命論での攻撃から始まり、
「仏陀なるものはそもそも夷狄」「仏教とは先王の法言を語らず、先王の法服を着用せず、君臣の義、父子の情を知りもしない」「子は父親を親として扱わず、臣は君主を主として扱わず、民は仕事をしなくなる」
と、儒教の説く中国伝統の論理・倫理とは絶対に相容れないものであると激しく糾弾。文明人たるものが受け入れるべきではない、野蛮人の理論だと攻撃。
さらに、各地の寺院や行われる法会が莫大な富を「浪費」させるとした。
とどめに 「仏舎利なんぞ朽ち果てた骨、汚らわしい残滓に過ぎぬ」「そんなものは川に捨て経本は焚書し、教団・教義を根絶やしにして天下の惑乱を断つべきだ」とまで上奏した。
当然、憲宗は激怒した。
実は皇帝は韓愈を死刑に処そうとしたが、韓愈の友人だった裴度と崔群がなんとか取りなし、死を減じて潮州刺史として左遷となった。
潮州とは今でいう広東省で、南海に面する地域であった。左遷というか流刑である。
残された家族もまた家長の赴任先である潮州に向かったが、その路上で韓愈の愛娘が、もともと病弱だったところにこの旅程により体調を崩し、道中に死去。
連絡を受けた韓愈*1は大きな衝撃を受け、さらに左遷中の身の上への思い、おりしも陝西省あたりで大雪に当たったことからの感慨、そしてたまたま次兄の孫の韓湘*2に出会ったという偶然もあって、「左遷至藍関示姪孫湘(左遷されて藍関に至り、姪孫の湘に示す)」という詩を作って渡した。
一封朝奏九重天
朝に一封の文を九重の尊き天子に捧げれば
夕貶潮陽路八千
夕には八千里彼方の潮州に流される
欲為聖明除弊事
聖明なる天子のために弊害を除きたいと思えば
肯将衰朽惜残年
なんで老いさらばえた余命を惜しもうか
雲橫秦嶺家何在
雲が秦嶺山脈に横たわる、我が家はいずこぞ
雪擁藍関馬不前
雪は藍田関を埋め尽くし、馬も前進しない
知汝遠来応有意
汝が遠くから来たその意志は私には分かっている
好収吾骨瘴江辺
瘴気のこもる川辺にてどうか我が骨を集めて欲しい
◇潮州刺史
潮州に到着してからは民政に尽力。学問を興し、住民たちの借金を返済させて、債務奴隷状態から解放させた。
また当時の潮州ではサメ(ワニ?)の被害が多く、主に漁師たちから問題になっていた。
韓愈はこれに対して「祭鰐魚文」を作り、
「海に豚と羊を一頭ずつ贄として備える。これと引き換えにして、サメたちは七日以内にこの一帯から立ち去れ。
そもそも、古来より人間の聖王たちは人間に害をなす毒虫・魔獣たちを四海の果てに追放した。サメたちは人間の世界にあってはならないものなのである。
七日までは待つが、それ以上たってもこの近海を縄張りにし続けるつもりならば、皇帝から勅命を受けた潮州刺史として汝らを討伐する」
と布告した。
果たして一週間後、韓愈はサメの被害を確認してから、領民を総動員してサメの駆除に乗り出した。結果、近海でサメの害はなくなったという。
彼はこの一件で現地の民衆から大いに慕われ、宋代にもこの地域には韓愈を祭る廟があったという。
また潮州赴任中はさすがに田舎暮らしに参ったらしく、皇帝に対して謝罪と赦免を乞う上奏を重ねた。
それが効いたのかはわからないが、のちに袁州に赴任した。現在の江西省である。ちょっと内陸部にはなったが、つまり左遷は解除されなかったことになる
◇晩年
憲宗から穆宗に代替わりすると、勅命で都へと返り咲くことが許される。
その後は国子監の祭酒、兵部侍郎、吏部侍郎を歴任し、京兆尹と御史大夫を兼任するなど、それなり以上に昇進した。とくに吏部侍郎だったことから「韓吏部」と呼ばれるようになる。
824年の八月、病により引退。十二月二日(西曆12月25日)、長安・靖安里の自宅で死去。享年五十七歳。
礼部尚書の官位を贈られ、謚号は「文」となった。
翌825年三月、河陽に葬る。
【人物】
極めて熱心な儒者であった。
彼の儒学復興に対する熱意は後述するとしても、監察御史の役割であるにせよ皇帝の外戚を容赦なく弾劾しようとして逆に自分が左遷されたり、仏舎利を迎えようと準備している皇帝に「夷狄の野蛮な教え」と思いっきり罵倒しながら反対論文を上奏したり(それでまた左遷されたり)と、熱心というより極めて攻撃的で武闘派な性格をしている。
おかげで人望も乏しかったようで、彼の行動は生前にはあまり顧みられなかった。
韓愈は同時期の柳宗元とともに、のちに「唐宋八大家」と呼ばれる。その弁論・理論の明確さと激しさ、激しい熱意からである。
しかしそのメンバーとみれば、唐代中期の韓愈と柳宗元の次は、北宋の欧陽脩・蘇洵・蘇軾・蘇轍・曾鞏・王安石となっており、前半二人と後半六人の間で約200年もズレがある。
これは、韓愈には200年も後継者が現れなかったことを意味するといえる。まあ、唐が滅んでそれどころじゃなかったのもあるけど。
ただしそれだけに理論の明快さと力強さは当時随一のものがあった。
また200年も継承されなかったというのも、裏を返せば、その理論は200年後になってもなお強い輝きを発するものだったと言うことであろう。
特に、儒教の理論面に与えた影響は大きく、宋代に程頤・程顥兄弟や朱熹たちが登場して朱子学が誕生するにいたる原動力は、韓愈の活動と論文によるとまで言われるほどである。
【儒者・文学者として】
政治家・官僚としてはそこまで活躍したわけではない韓愈だが、文学者、そして儒者としては大きな影響を残している。
特に、当時隆盛を極めた道教・仏教に、儒教の理論を強化して対抗したことが特筆される。
◇古文主義
韓愈の時代までは「駢文」が一般的だった。これは「二頭立ての馬が並んでいるように、均整美がある文章」という意味だが、文言の美麗さに走りがちで、実際的な論文には向かなかった。
韓愈はそうした、非実用的なまでに華麗な文体を激しく嫌い、「古文」というもっと自由闊達で深い議論ができる文体を提唱した。古文と言わず「散文」という場合もあるが、同じ意味である。
それによって韓愈は、自身の明晰な理論を、切れ味鋭い文体で強烈に主張できた。そのあたりは、「韓子」つながりの韓非子と似ていなくもない。あっちは法家の象徴にして道教哲学の大家だが。
後世、彼が「唐宋八大家」の筆頭に挙げられたのは、単に生まれが早かったからだけではない。
生前から柳宗元と協力して古文復興運動を指導しており、理論を定め、実際に論文を作り、成就させてきたからだ。
韓愈本人の性格が、たいへん意志の強い自信家だったこともあり、周囲の批判・反対をものともせず提唱し続けた結果、次第に門徒も増えていき、宋代には文壇の主流派となった。
◇理学の先駆
魏晋南北朝から隋唐にかけて、中国は道教と仏教がおおいに栄え、逆に儒教は勢いが落ちていた。
韓愈の古文復興運動は、同時に儒教古典の復興運動である。
つまり影響力を失った当時の儒教ではなく、春秋戦国時代の古典儒教*3の鋭い理論を復活させ、道教や仏教を追い払って中国思想の主流とすべしとする意思があった。
その古典儒教を復興させるには、古文のほうがよかったのである。
こうした韓愈の古文・古典主義が、一方で宋代の理学(朱子学と陽明学)の先駆ともなった。
彼は孔子の思想を正しく継承できたのは孟子までとし、自分は孟子の次の継承者と規定。孔子と孟子の思想を現代に復活させるとした。
実は孟子の存在が儒教の中で大きくなったのは、こうした韓愈の運動が原因だった。宋代には書物『孟子』が「四書」の一つに加わった。また『太学』が四書に入ったのも韓愈の影響らしい。
◇尊儒反仏
彼の思想の中心。
韓愈は儒教復興に熱意を燃やし、そのために道教と仏教を排撃し続けた。
その象徴が、「◇排仏により左遷」で触れた憲宗の仏舎利招致への大反対である。
もちろんその後の歴史を見て分かるとおり、仏教も道教も中国史から消え去ることはなかった。
ただし韓愈は、この仏舎利招致の一件で突然暴走したのではない。
もともと韓愈は、儒教を理論面で補強し、道教・仏教に対抗する運動を続けていた。「原道」という論文はその一つである。この道とはもちろん、老子の説く「万物の真理」としてのタオではなく、儒教の道徳である。
もともと人間は、野生のままでは獣同然である。それに対して古代、聖人が現れて、人々が生きるために必要な、技術や倫理道徳を与えたのである。
害獣害虫の駆除や、衣類・食糧・住居の発明、工業や商業、医療や薬学、死者の埋葬と先祖の祭祀、礼儀の規定。そして政治、すなわち統治。それら一切は聖人が創始した。
人間には羽毛も獣皮も魚鱗もないから寒暑には耐えられず、爪牙もないから獣と食料を争うこともできない。
聖人がいなかったならば、人類はすでに滅びたはずである。
故に、君臣民はそれぞれ役割がある。君主は政令を下し、臣下はその政令を庶民に実行させ、庶民は政令を実行してそれぞれの業務を遂行する。それが聖人の定めた秩序であり、そうして文明社会は成り立つ。
しかるに仏教徒はその出家主義により君臣関係・親子関係を破棄しようとし、道教徒は無事を為せといって文明を破壊しようとする*4。
古代の聖王は、文では詩経・書経・易経・春秋を定め、法では礼義・音楽・刑罰・政治を定め、階層秩序でいえば士農工商を定め、人間関係では父子・師友・主客・兄弟・夫妻を定め、服装では麻服と絹服を定め、住居では家屋を定め、食事では穀物・野菜・魚肉を定めた。そうして中国の文化を創った。これが儒教の教えである。
しかもその教えは、尭、舜、禹、湯王、文王、武王、周公、孔子、孟子と伝授されてきた。つまり人類文化の始まりから貫徹されるものなのである。
孟子の死後、教えを継ぐものはいなくなった。我々はこの教えを再び継がねばならない。まずは仏教徒を還俗させて人間に戻し、道教徒の書物を焚書して、寺院・道観からたたき出すのだ。その上で聖王の教えを広めるのである。
この、「儒教の道こそ中国文明の源流である」と声高に主張する「原道」の論文は、韓愈が「儒教中興の祖」といわれる由縁である。
やがて彼の思想は宋代にいたって発展継承される。
しかし結果として言えば、韓愈の理想はそこまでは実らなかった。
特にその宋代には、儒教の世界観に道教の思想・理論が本格的に流入するからである。
また韓愈自身も、潮州左遷時代、「サメに対する退去文章」を書いて、壁に掲示してからサメ駆除を始めたことがあるが、
この「生け贄を捧げてから、サメたちに文章で伝え、聞き入れなければ処罰する」というのは、道教の符術そのものである。「文字に霊力が宿り、捧げた文章には力がある」という考えも、「サメ神への生け贄」「生け贄を捧げたのに言うことを聞かなければ攻撃するぞ」というのもまさしく道教的だ。
それでなくても、韓愈自身の姪孫(次兄の孫)の韓湘は、「八仙」の一人にもあげられるほどの著名な道教徒で(「韓湘子」と継承付きの呼び方でも知られる)、しかも彼の師匠は呂洞賓と漢鍾離というこれまた超有名な仙人である。
そして韓愈と韓湘は、少なくとも対立する関係ではなかったようだ。すると韓愈はあんがい道教にも近かったといえる。
思えば、民衆も士大夫も同じ中国で生まれ育った。道教も儒教も、同じ文化圏で生まれ育った。根は一つである。その世界観や生活感情に、違いがあるわけではなかった。
韓愈は仏教や道教の排撃を望んだが、先王の教えの復興はともかく、他教の排斥はどだい無理な話だったのだ。
◇詩文
生涯を通じて多くの詩文を残した。
後世には、詩人としては李白・杜甫に次ぐ唐代第三の詩文家に挙げられている。
彼の作風は当時の主流から外れるものも多く、そのぶん批判されることも多かったが、宋代の詩文においては大きな影響を残した。
例えば王安石は韓愈の作風について「文中の硬直性や高慢さを排した、適切な力で作られた」と評しており、清代の葉燮(1627~1703)という人物は「韓愈こそ唐代詩文の一大変換点だった。その力は大きく、その思想は雄大で、その後の文化の始祖といえる」とまで絶賛している。
◇墓誌
韓愈は、墓誌銘の揮毫を得意とした。唐代の長安ではただでさえ、墓碑への記銘が非常なこだわりをもたれていた時代であり、分けても文豪として名高かった韓愈のもとには門前市を為すぐらいだったという。
韓愈も来る者拒まずで受諾したため、「我が家を先に受けてくれ!」と頼む貴族たちが積むカネが積もりに積もったという。
依頼一件でどれぐらいもらったかは、まあ相手にもよるが、あるケースでは「馬一匹に鞍・銜がセット、プラス白玉付きの腰帯が一条」、別のケースでは「絹五百匹」*5だとか。
もうすさまじく儲かっていたようで、おかげで「墓諛」(墓におもねるもの)とまでそしられていた。
この謗りも、よくよく考えてみれば「祖先祭祀」を掲げる儒教徒・韓愈への皮肉という意味もあったかもしれない。
【その他】
- 推敲
韓愈と同時代の詩人に、賈島という人物がいた。
彼はある時ロバに乗っていたところ、ふと詩情を浮かべてそれを形にしようとした。
しかし「鳥宿池辺樹、僧推月下門」と編んだところで、「推」の字を使うのと「敲」の字を使うのとどちらが良いかで詰まってしまった。「推」は「押す」、「敲」は「叩く、ノックする」のニュアンスがある。
悩んだ賈島は、馬上で押す動作とノックする動作を繰り返しながら完全に作詞に没頭してしまい、手綱を握られなくなったロバは適当に歩き始めた。
たまたま、正面から韓愈の隊列が行進していた。しかし賈島はまったく気付かず、妙な動作をしながら韓愈の行列に突っ込んでしまう。
護衛につかまってやっと「えらいことをした!」と慌てた賈島だったが、韓愈はどう見ても刺客とは思えない文人の奇妙な動作に興味を持ち、「何でわしの行列に突撃したのだ。うつろな目つきで」と諮問した。
賈島は謝罪しながらも「詩を思い浮かべて悩んだあまり、完全に没頭してしまったのです」と説明する。
すると、そこは文人・韓愈である。詩の悩みとなれば興味がわき、どんなものかを尋ねる。
「鳥宿池辺樹、僧推月下門」の「推」と「敲」のどちらが良いか。「推」なら「門を押す」、「敲」なら「門を叩く」となる。
韓愈もしばらく考えていたが、やがて「ならば『敲』の字がよい。『推』の字には『こっそり盗む』という意味があるのだ。『敲』の字がよかろう」と指導した。
「推敲」という言葉はここから出たのだ、という。
以後、賈島は韓愈の門人となった。韓愈の推薦を受けて官界にも入るが、昇進には恵まれなかったという。
- 肖像画
韓愈の肖像画は多く存在するが、ほとんどは士大夫らしい髭を蓄えた姿である。
しかし北宋時代の沈括(1032~1096)という人物の記録によると、本当の韓愈は髭が薄く、また肥満だったという。
現在一般に伝わる肖像画は、実は五代十国時代の韓熙載という人物の肖像と混ざってしまったデザインだというのである。
この韓熙載という人の諡号は「文靖」で、江南の人から「韓文公」と呼ばれていた。それで、同じく「韓文公」と呼ばれていた韓愈と混同が起きたのだという。
- 仏舎利
韓愈が左遷される切っ掛けとなったあの鳳翔県の法門寺に祀られていた仏舎利であるが、1987年に発見された。
唐朝の歴代皇帝が奉納した副葬品も見つかっており、874年からずっと封印されていたとか。
また仏舎利を収めた容器は四つ見つかり、本物は一つだけ、残り三つは廃仏政策で狙われることを考慮した影武者だそうである。
韓愈が批判した819年開帳の仏舎利は、影武者の一つだと見られている。
追記・修正は推敲してからお願いします。
[#include(name=テンプレ2)]
この項目が面白かったなら……\ポチッと/
#vote3(time=600,5)
[#include(name=テンプレ3)]
▷ コメント欄
- 唐代は仏教がイケイケGOGO!な時代だったから韓愈みたいな熱心な儒家はよっぽど焦ってたんだろうな -- 名無しさん (2023-05-24 13:52:32)
- 根拠は無いけど「始祖の教義に戻って天職に励もう」という考えはプロテスタントの労働倫理に近いものを感じる 時代はかなり離れるが商工業が隆盛し始めると古今東西同じようなこと考え始めるのかも -- 名無しさん (2023-05-25 00:11:35)
- 三国志以外の中国史項目も増えてほしいな -- 名無しさん (2023-05-26 00:52:25)
- 儒教がキマった人間は廃仏運動をやりたくなるものらしい。日本でも保科正之や徳川斉昭ら「勉学に熱心な名君」とされる大名クラスがしばしば行っている。 -- 名無しさん (2023-06-06 13:09:04)
- いくら相容れないからといって、仏舎利をただの骨は中々に出てくる言葉じゃないな… -- 名無しさん (2023-10-19 01:06:35)
- 反道教のはずなのにサメの話見て???と思ったがやっぱり「それって道教じゃん」とツッコまれてたw -- 名無しさん (2023-10-19 04:41:21)
#comment(striction)
*2 ちなみに彼は儒者ではなく道家。中国の「八仙」の一人で、呂洞賓と漢鍾離というこれまた有名な仙人の弟子だったという。
*3 といっても春秋戦国時代の儒教の影響力はさほどでもなく、最初の全盛期は漢代だが
*4 韓愈は老荘における「無為自然」を何もしないで古代の原始時代へ回帰すること、とみていたようである。
*5 ざっと当時の四百貫銭に相当。ちなみに韓愈の一ヶ月の消費は二十五貫銭だったとか。一回で一年半分の生活費が稼げ、それが何件も続いている、ということか。
コメント
最新を表示する
NG表示方式
NGID一覧