登録日:2023/02/10 Fri 07:40:10
更新日:2024/07/05 Fri 10:43:47NEW!
所要時間:約 28 分で読めます
▽タグ一覧
野球 プロ野球 助っ人 外人 害人 ダメ外人 ネタの宝庫 ネタ外人 ネタキャラ ネタ選手 戦犯 ペテン師 何しにきた 巨人 阪神 プロ野球選手 アニヲタ野球選手名鑑 00年代
本項目では、2000年から2009年に掛けて入団した「ダメ外人」について解説する。
ダメ外人の定義及び他の年代のダメ外人についてはそちらの項目を参照。
【概要】
2000年代は野球界においても劇的な出来事が多く、「ダメ外人」に関しても大きな変化が起きた時代だと言える。
2004年にはプロ野球再編問題が勃発し、大阪近鉄バファローズの吸収合併による消滅と東北楽天ゴールデンイーグルスの創設といったNPBの体制に変化が起きた。
楽天は新規球団という事情による選手層の薄さなどの問題から助っ人の大量獲得を行うが、同時にスカウトや環境のノウハウ不足によって多数のハズレ外人も引き当てることになる。
結果として2005年の創設期の楽天に所属していた助っ人選手は暗黒外国人として語られることになる。
2005年オフからは育成選手制度が導入。中日ドラゴンズのエルネスト・ペレイラがこの制度で初の支配下枠昇格外国人として名前を刻むが、活躍することはなく退団している。
この時代のまだ外国人が積極的に育成選手として獲得される時代ではなく、元々の期待値や年俸などのコスト面で大きく損することもなかったことから、ダメ外人的な意味では注目される機会はなかった。
所謂「外国人育成選手」が存在感を発揮し始めるのは、育成選手制度が更なる賑わいを見せる2010年代まで待つことになる。
何よりもインターネットが普及したことにより、「ダメ外人」に関するネタが一層賑わうことになった時代と言えるだろう。
2ちゃんねる(現5ちゃんねる)における野球chやなんでも実況Jの発展により、良くも悪くもダメ外人に対する蔑称なども付けられやすくなった。
Youtubeやニコニコ動画などの動画サイトも発展し、後述するがダン・ミセリとケビン・ウィットの勝負が後世まで広く語り継がれることになったのは正にそういった時代を示す出来事と言える。
一覧
トニー・フェルナンデス(西武・2000)
長年MLBトロント・ブルージェイズのレギュラーショートとしてGG賞4回、通算2240安打と活躍したバリバリのメジャーリーガーで、2000年に来日。
90年代の項目で述べたように、前年の1999年にダメ外人に悩まされて3連覇を逃した西武がその輝かしい実績を買って補強した大物助っ人。
西武ではショートにあの松井稼頭央がいた事や、来日時既に38歳という高齢だった事もあり主にサードを守ったが、リーグ4位の打率.327をマークするなどその実力を発揮。残念ながらその高齢が原因で1年で退団しているが、独善的な我が侭など一切言わず、常にチーム第一の考えを持ち*1、メジャーで大きな実績を残した選手にありがちな「高いプライドで日本野球を見下した様な姿勢を取ったり、プレーに手を抜いたりする」といった問題とは完全に無縁な性格。
当然ながらチームメイトからの人望も厚く、当時の西武オーナー・堤義明までもが退団後に「ライオンズにないものを持ってきてくれた。ありがとうと言いに行かせる」と、編成担当者を帰国した彼の元に向かわせているなど、成績だけじゃなくて人間性も素晴らしい助っ人。
………え?何故そんな助っ人がこの項目に書かれているのかって?
その理由はズバリ、彼の数々の奇行にある。
- 何故か大きな帽子やヘルメットを浅めにかぶる癖があり、プレーの最中にしょっちゅう帽子を飛ばす
- 「走塁中にヘルメットが脱げ、その後三塁に滑り込んだ際に剥き出しの後頭部に送球が直撃し悶絶したシーン」を披露してしまい、この年の「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」によく用いられる
- 福岡ドームでは、トレーニング室備え付けのマウンテンバイクを勝手に持ち出して通路で乗り回す
- 練習時も、巨大なボールを両手に抱えて横に放り投げたり、ノックでわざとトンネルを繰り広げたりして周囲を唖然とさせる
などその伝説には枚挙に暇がない。
また、不振に悩んでいたある時、遠征中の地方球場で工事現場に置かれていた杭打ち用ハンマーを使って素振りを行ったら、その日の試合で猛打賞と復活。関係者に頼んでそのハンマーを譲ってもらった、という事もある。
上記の通り成績も性格も最高な選手ではあるが、この様な奇行が多い一面もまた印象に残る選手でもあった。
退団後はブルージェイズに復帰するも、ほどなくして引退。
2020年2月15日に腎臓病と脳卒中で死亡した事が明らかにされた。
なおフェルナンデスが在籍していた2000年の西武打線は前年に比べれば松井稼頭央の長打力向上もあってマシにはなったものの、「白にゃんこ打線」と呼ばれる破壊力不足は相変わらずだった。同時に来日したレジー・ジェファーソンは89試合に出場して10本塁打・48打点と期待外れな成績に終わり、シーズン終了を待たずに退団している。
翌2001年、フェルナンデスやジェファーソンに代わって入団したアレックス・カブレラとスコット・マクレーンの「ツインバズーカ」が大暴れしたことで、ようやく貧打の時代は終わりを告げたのだった。
クリストファー・カンバーランド(広島・2000)
あまり見かけない広島のダメ外人。
開幕3戦目に先発するも、1アウトしか取れずに3失点で降板し、2軍降格。
元々3Aでは少し悪い程度の成績だった様だが、何よりも日本向けの調整に苦戦したらしく、2軍でも投球フォームでボークを取られ続けてしまい、1試合4ボークの最多タイ記録を作ってしまった。
最終的に、同年にFA移籍した江藤智の穴埋めとして入団したものの活躍出来なかったジェフ・ボールと共に僅か1ヶ月で解雇。ボールが全く助っ人として機能しなかったことから、カープはシーズン途中でかつて在籍していたルイス・ロペス(1996-1997、2000-2002在籍)を呼び戻すこととなった。
とは言え成績不振は確かだが、当時のカープは貧乏球団だったため、両者共に他球団でありがちな多大な前評判や他のネタ等も無かったのでダメ外人と評するべきかは微妙な所。
当時の広島監督達川光男が彼の名前から、「カンバーランドががんばーらんと困る」とダジャレを披露したというネタはある。
ディンゴ(デービッド・ニルソン)(中日・2000)
連覇を狙う中日が打線の強化を目指し、ブルワーズから連れて来たオーストラリア代表の助っ人捕手。オーストラリアに生息する野犬の一種からこの登録名になった。
元々ディンゴはブルワーズに対して、2000年に開催されるシドニーオリンピックに参加させて欲しいと熱望していたのだが、ブルワーズがそれを認めなかった事で自由契約になったという経緯がある。
それを知らされた中日球団がディンゴに対してシドニーオリンピックへの参加を認めた事で、晴れて中日と契約する事となった。
中日は前年にリーグ優勝こそしたものの、他球団に比して打線の長打力が低かったため、レオ・ゴメス、山﨑武司とともにクリーンアップを組ませる構想だった。
当時捕手にはベテラン中村武志が君臨していたためにレフトで起用されたが、高い年俸に見合わず全く打てず*2、すぐに二軍落ちした。
守備もお粗末で、
- 守備が下手でエラーを連発していた当時ショートの福留孝介
- 同じく守備下手だったサードのゴメス
とともに魔のトライアングルを築き、中日投手陣を恐怖のどん底に陥れた。
シーズン途中には腰痛を発症し離脱。
それでも何とか復帰し8月に1軍に再昇格するも、再昇格直後の巨人戦において工藤公康のスローカーブの前にあっさりと見逃し三振を喫した事で、当時の星野仙一監督に「流石にこれではあかん」と突き放されてしまい、直後に懲罰交代させられ即座に二軍落ち。
その翌日に自らの意志で退団を申し入れたものの、当時の中日新聞の記事によると、星野はこの時点で既にディンゴとの契約を解除する事を決めていたという。
彼の不振ぶりを揶揄してかしなくてか、当時の2ch(現在の5ch)では「祖国の発音ではティンコと読むが、男性器を連想させるため登録名がディンゴとなった」というジョークも聞かれた。
但し、二軍に落ちても決して腐る事無く真面目に練習をこなし、また期待に応えられなかった事に関して球団幹部に真摯に謝罪をするなど、人間性に関してはとても素晴らしい人物ではある。
しかし、オリンピックではシドニー・アテネと何故か日本戦に強かった。この事から「シドニーオリンピックに向けての調整のために日本球界を利用した」という否定的な見方もあり、「腰掛け移籍」呼ばわりされる事も。
その後は「あらゆる誘いを断る。家族の為に時間が欲しい。」という理由から野球から離れていたのだが、2019年にオーストラリア代表監督に就任した。登録名は「ニルソン」。
余談だが彼からの強い推薦を受けて中日入りした親友のダニエル・カールソンもディンゴと同日に退団している。
但しこちらは父親が病気で倒れてしまい、とてもじゃないが野球どころでは無くなってしまったという事情があるのだが。
ブライアン・バンクス(ダイエー・2000)
前年度リーグ優勝&日本一を果たしたダイエーがシーズン途中の4月下旬に獲得したスイッチヒッターの助っ人。
2000年当時のダイエーは開幕早々に前年全出場を果たした正捕手の城島健司が指の骨折で戦線離脱し、正捕手が不在という状況に陥る*3。
さらに4番を務めていたメルビン・ニエベスが不振に陥ったことに加えて夫人の出産立ち合いで急遽帰国するという非常事態が発生しており、その様な状況も相まって急遽内外野を守れる他、スイッチヒッターでもあるだけではなくMLBではブルワーズ時代に野茂英雄とバッテリーを組んでいた経験から捕手としての活躍も想定し、年俸2000万円という格安のコスパで獲得した。
しかし、期待に反して蓋を開けてみれば本塁打はおろかろくにヒットすら出ないという悲惨極まりない打撃で、5月下旬に再来日したニエベスの代役にはならず、入れ替わりで二軍落ちのハメに。ニエベスが2軍降格した7月に再び1軍昇格を果たすも、ろくな活躍はできずまたしても2軍降格。
一応、守備や走塁はそれなりにこなしていたため守備固めや代走としての役割は果たすも、肝心の打撃面では打率.149、本塁打0、打点4というお粗末過ぎる成績に終わってしまい、ペナントレース終了前に戦力外通告を受け日本シリーズの登録メンバーにも選ばれずそのまま解雇となった。
結果として、ホークスが福岡に移転して以来初となる本塁打0でシーズンを終えた助っ人選手となってしまった。
ハワード・バトル(阪神・2000)
阪神暗黒期によくいたダメ外人。
来日当初から実力は疑問視されており、福本豊には一刀両断されていた。
開幕すると、彼がベンチ入りした試合はなぜか連勝を重ねたため「勝利の大黒柱」と呼ばれた。
もちろん実力で貢献したわけではなく、単なる偶然に過ぎなかったのだが…。
ジンクスが途切れると、実力不足が過ぎて6月には解雇となった。
結局、この年の阪神も助っ人外国人選手が
・当たりとは言い難いトニー・タラスコ
強肩を駆使した守備と明るい性格で新庄とは良きコンビ振りを見せていてファンからの人気もよかったが、打撃面では打率.239、19本塁打、57打点というパッとしない数字に終わってオフには阪神を退団した。また、不振だった時、セーフティーバントを狙うもアウトになった時、解説者から「主砲不在のチームに誰もバントヒットする助っ人なんか求めていない!」と批判された。
・こちらも同じく当たりとは言えないジェイソン・ハートキー
堅守堅打とハッスルプレーが持ち味の内野手、との触れ込みで、バトルの代役としてシーズン途中に阪神に加入するも、打率.272はまだしも本塁打は4と長打力に乏しく、またシーズン途中加入にもかかわらずチームワーストの12併殺打を喫するという有様で打率以外は振るわなかった。また、本業の二塁に和田豊が君臨しているというチーム事情もあり出場した試合全てで三塁を守ったが失策は14(こんなのでもバトルよりはまだマシだったのである)と全体的にはイマイチの結果に終わり、オフには解雇。島田紳助に「あれは助っ人外国人じゃなくて野球をした事がある外国人を連れてきただけ」と酷評され、福本豊には名前を忘れられた挙げ句「心筋梗塞」と言われてしまった。
・マイカ・フランクリン
前年の1999年に日本ハムファイターズに加入したスイッチヒッターで、サミー・ソーサに似ていたので「ダミー・ソーサ」と呼ばれていた。同年は日本ハムで打率.238、三振125と粗削りながらも30本塁打を放った打撃と、打率の1.5倍以上でかなり高い.361という出塁率をマークした選球眼で、90年代の項目で言及したナイジェル・ウィルソンの故障離脱の穴を埋める活躍でチームに貢献しオフには残留を果たす。しかし翌年は開幕直後こそ出番はあったが、ほどなくして怪我から復帰したウィルソンと新加入のシャーマン・オバンドーに出番を奪われて早々と二軍幽閉となった所を、阪神がバトルを解雇して枠を開けた上でシーズン途中に金銭トレードで獲得したのだが、阪神では膝の故障もあって打率.172、2本塁打、5打点(打率は日本ハムでは.200、本塁打、打点ともにゼロであり、打率はシーズン通算で.182)という日本ハム時代とはまるで別人レベルの惨憺たる打撃成績に終わり、当然ながらオフには解雇された。
と軒並み散々な連中しかおらず、結局定位置の最下位でシーズンを終える事となった。
エディ・ギャラード(中日→横浜・2000~2004)
こちらは前述のディンゴとは全くの真逆で、活躍しながらも言動や素行不良が問題になった選手。
前年限りで引退した守護神・宣銅烈*4の代役として、2000年開幕直後に抑え投手として中日に加入。
シーズン途中での加入にもかかわらずいきなりセーブ王を獲得する、日本で通算100セーブ*5を挙げるなど、活躍ぶりに関しては全く文句のつけようの無い選手で、同年に入団したメルビン・バンチ(2000-2002在籍、2000年の最多勝投手)とともに星野監督時代末期から山田久志監督時代にかけて中日投手陣の柱として君臨していたのだが……。
2003年6月、甲子園の外野でウォーミングアップをしていた際、飛んできた打球を素手で取りに行って両手を負傷してしまい、治療の為に二軍降格を余儀なくされてしまう。
幸い軽傷で済んだものの、下手をすれば指を骨折してしまいかねない危険な行為である。
野球解説者の小松辰雄も「有り得ない。プロの選手の行動ではない。自分がチームの柱だという自覚が完全に欠落している。」と痛烈に批判。
当時の山田久志監督からも二軍降格を言い渡された際に、当たり前の話だが相当厳しく怒鳴り散らされたらしい。
しかし、活躍もしているのでここまではダメ外人というべき人物ではなかった。
問題はそこからで、無事に怪我が完治したのだが、山田監督から二軍での調整登板を言い渡された際に、「今すぐ一軍で投げられる」と断固拒否。
結局周囲に説得される形で二軍戦に登板し、結果を残してすぐに一軍に再昇格したものの、ギャラードが離脱している間に代役として抑えを務めていた大塚晶文*6が大活躍した事で、山田監督はこのまま大塚を抑えとして起用すると明言。
ギャラードはまずは中継ぎとして投げさせて様子を見たいと語っていたのだが、なにが気に障ったのか、これに反発し、「自分は抑え以外は絶対にやらない。大塚は中継ぎにしろ。」と激怒。
この彼の横暴な態度が山田監督や球団幹部を完全に怒らせてしまい、シーズン途中に喧嘩別れの様な形で中日を退団。
そもそも離脱を余儀なくされる程の負傷の原因となったのは、彼自身の軽率な行動が原因であり、それで懲罰降格を言い渡されるのはもう一度言うが、プロとして当たり前の話である。
また代役の大塚が抑えとして大活躍した以上、怪我が癒えたばかりの彼をいきなり抑えとして使う事を不安視し「まずは中継ぎとして様子を見たい」という山田監督の主張も全くの正論であり、それに反発するなど到底有り得ない話である。
その後、ウェーバー公示されて横浜ベイスターズが獲得し、こちらでも抑えとして大活躍を見せる。
当時のトレードの期限であった6月30日*7を過ぎて他球団に移籍したという、非常に珍しいケースでもあった。
だがその横浜でも2004年にマリナーズから佐々木主浩が復帰した際に、起用法を巡ってまたも球団幹部と言い争いになる。
実際に佐々木との兼ね合いで起用法が一定せず、6月に右肘の手術の為に帰国したのだが、今季中の復帰が絶望になった事を理由に、そのまま球団から契約解除を言い渡され、またしても喧嘩別れの様な形で横浜を退団。
実績を残し球団側の起用方法も決しておかしくなかったのに、二度も起用方法にケチをつけて球団幹部を怒らせて退団に追い込まれてしまったという、非常に珍しいケースだと言えるだろう。
とは言え、元を辿れば自己管理のなっていないギャラード自身に非があるので擁護の余地等一切ないのだが。
とにかく「クローザー」に対して強烈なプライドを持っており、気持ちで投げるタイプであったので揉めてしまったのだろう。
その後米国に戻り3Aでプレーしたもののメジャー昇格はならず。引退後は投手コーチを務めている。
ドミンゴ・グスマン(中日→横浜→楽天・2002〜2008)
2002年から2006年にかけて横浜と中日で先発として活躍した右腕。
横浜時代は規定投球回数到達を果たしながらも不安定なところを問題視されて2年で退団となったが、翌年は拾われた中日で2桁勝利をマークして優勝に貢献。その後はケガで満足に投げられずに2006年途中に退団となり、2007年途中に楽天に加入し、そのまま2008年を迎える。
…ここまでは成績の悪さはもちろんネタ要素もなかった彼がこの項目に記載される理由は、ズバリこの2008年の開幕戦にある。
この年は野村監督から守護神に任命され、開幕戦のソフトバンク戦で2点リードの9回裏に満を持してマウンドに上がったのだが…
なんとアウトを1つも取る事が出来ず、たった7球で柴原洋に逆転サヨナラ3ラン本塁打を浴びるという最悪な形でゲームをぶち壊してしまう。その次の登板も9回裏の2アウト走者2塁*8でマウンドに上がり、あっさり同点を許すという有り様ですぐに先発に戻された。
この2試合の凄まじいインパクトから、ネットでは(後述する「○○スコ」に代わり)やらかした選手が「○○ンゴwww」と言われるネットスラングが誕生したのである。
先発転向後は好投を続けたものの、今度は打線の援護に恵まれずに「ムエンゴ」という新たなネタを産み出した結果防御率3.87も2勝7敗という成績を残し、オフには退団となった。
ちなみに足もかなり速く、中日時代はよくバントヒットで出塁しては盗塁を決めていた。
その際、手からベースに滑り込むのを森繁和コーチがやめさせようとしたが、足からスライディングする事が出来ずに結局森コーチも匙を投げてしまったという。
スティーブ・コックス(横浜・2003)
前年最下位に沈み、再び暗黒期を迎えつつあった横浜が山下大輔新監督のリクエストを受けて獲得したメジャーリーガー。2000年から2002年までメジャーで3年連続2桁本塁打を記録しており、かつ当時28歳と年齢的にも全盛期を迎える頃であった。
年俸は2年総額6億4000万円。
横浜は同時に韓国の斗山ベアーズで活躍していたタイロン・ウッズも獲得したが、ポジションは同じ一塁手であり、かつメジャー未経験の33歳であることから前評判はコックスより明らかに低く、その証拠にウッズは年俸5000万円の単年契約だった。
前年の打撃陣が壊滅的だった横浜にとって3年連続二桁本塁打の助っ人は文句なしの補強だったが、コックスはキャンプ中盤で故障離脱。
その後5月下旬に漸く1軍に上がるものの、すぐに故障が再発し、その後も経過が芳しくない・置き続けるのも現場が困ると判断してシーズン終了後に解雇。年俸は1年分だったがそれでもたった数試合の出場で3億2000万。
これだけならちょくちょくある話だが、3年契約だった為、横浜はコックスに対して2年目の年俸と契約オプション破棄の違約金合わせて7億円以上を支払う羽目になってしまった。
保険で取ったタイロン・ウッズ(年俸5000万円)は40本塁打を打って本塁打王を獲得する活躍を果たしたが、さすがに彼1人だけではどうする事もできず、横浜は暗黒期へ突入する事となった。
中村(捕)、コックス(一)、村田(二)、古木(三)、内川(遊)、鈴木尚(左)、金城(中)、ウッズ(右)
の守備位置は歴史に残る守備軽視型布陣として語られている。
なお支払った金額に対して当時の球団社長は「授業料にしては高すぎた」とコメントしている。
陳文賓(ダイエー・2003)
2002年オフにダイエーが獲得した助っ人野手。
....だが、2003年当時のホークスの助っ人と言えば
- パ・リーグで大暴れし日本シリーズでは18年ぶりにリーグを制覇した阪神と死闘を繰り広げたあの「ダイハード打線」にいたペドロ・バルデス
- 「チョップ、チョップ、パナマ運河ー!」で有名なフリオ・ズレータ
の印象が強いため彼を知らないホークスファンも多い。
彼自身はもともと台湾のプロ野球チームであった和信ホエールズ*9でプレーしていたが、2002年に現役引退を表明した秋山幸二の後継者として外野を守れる強打者を探していたダイエーが笹川隆とのトレードで獲得。日本のチームと台湾のチーム間でのトレードという歴史的な出来事で入団し、当時は華々しい入団会見が開かれた。
春季キャンプでは豪快なホームランを連発するも、オープン戦で不調に陥り更に守備の不安もあって開幕は2軍スタート。4月は2軍暮らしが続くが、5月2日のロッテ戦で遂に1軍昇格を果たす。
しかしその試合で3打数ノーヒットに終わると、同月7日のオリックス戦でも代打でノーヒットという散々な結果に終わり2軍落ち。最終的に先述したズレータが途中加入ながら活躍する様になった事もあって、結局1軍復帰はならず10月に戦力外通告を受け、中信に復帰した。
ちなみに最終成績は1軍で打率.000、本塁打0、打点0という野球選手とは思えない様な成績であった。
なお、当時ダイエーの監督を務めていた王貞治氏は彼の事をとても気にかけていた様であり*10、「上半身の力に関しては問題ない。下半身の使い方を練習しろ。」と退団後もアドバイスを送っていたとの事。
クリス・レイサム(巨人・2003~2004)
2003年に松井秀喜のメジャー移籍に伴い、不安のあった外野手の補強という事で巨人がヤンキースから獲得した。
打率.221、本塁打7と打撃面もイマイチだったが、それ以上に同年5月21日の対ヤクルト戦でのアウトカウント勘違い事件が有名。
レフトフライ捕球後、まだ2アウトだったのに3アウトだと勘違いしてボールをスタンドに投げ入れてしまう。これにより2塁走者が進塁、得点を許してしまい、先発投手の高橋尚成は完封を逃してしまった。*11このプレーには「レイサムビーム」という通称が付けられた
そして2004年、残留はしたものの1軍昇格の機会もなく、そのまま退団。
ダメ外人扱いされてはしまったが、ファンのサイン要求に気軽に応じる等、礼儀は良かったらしい。
マイク・キンケード(阪神・2004)
2000年シドニー五輪野球アメリカ代表の金メダル獲得メンバー。投手以外なら何処でも守れるユーティリティプレイヤーとの触れ込みで入団し、実際に複数の守備位置を無難にこなしていた(本来は三塁手で、五輪の際も正三塁手だった)。
オープン戦で打率が4割を超えて本塁打も量産し、長年失望し続けていたファンに「バースの再来」と期待され「キンちゃん」の愛称で呼ばれる。
しかし、オープン戦終了前からシーズン開始直後にかけて内角が弱点であることがバレてしまい、そこを狙われまくる。
そして極端にホームベースに寄るフォームが噛み合わさり、初打席で上原浩治から死球を喰らって以降、内角攻めをされ続ける内に死球が増え、僅か26試合で12個と日本記録のペースで当てられてしまう*12。
時にはわざと当たりに行ったと判定され、死球を取り消された事もある。故に「当たり屋キンちゃん」と盛大にネタにされた。
最大のネタは頭部に死球を当てられ鬼の様な形相でマウンドへ駆け寄るも転倒した一幕。
その後はリハビリを続け、1軍復帰するも鳴かず飛ばずで解雇となった。
何のリハビリかと言うと、死球が原因で骨折してしまったんです……。
悪気があった訳では無いだろうが、グリーンウェル、メンチに並ぶ阪神三大ネタ外人の一人。
ヘクター・カラスコ(近鉄・2004)
近鉄最終年に来日した炎上神。
オープン戦は好調だったが、来日2試合目からセーブ機会でのセーブ失敗を繰り返す炎上ぶり。
中でも開幕直後の西武戦で2点リードの場面に登板した際、1イニングで6失点(最後は和田のサヨナラ満塁本塁打)を打たれた試合は伝説。
夏に中継ぎ転向で復調したものの、開幕直後の防御率20点台や炎上する投手が「~スコ」と呼ばれる様になる等伝説を残してしまった。
なんだかんだで8勝8敗5セーブと岩隈、パウエルに次ぐ成績を上げたが、近鉄の球団合併に伴い退団。
同年の球界再編騒動では選手会所属の選手でもないに関わらず、合併反対運動に参加している。
帰国後は制球力が向上し、メジャー定着を果たした。
セドリック・バワーズ(横浜→楽天・2004~2006)
2004年のシーズン途中にフロリダ・マーリンズ傘下3Aアルバカーキから横浜ベイスターズに移籍してきた助っ人投手。
横浜での登録名はセドリック。
育成枠扱いだった上に専属通訳も用意されずに寮入居など、助っ人外人としては少し変わった環境が話題を呼んだ。
異国に溶け込もうと若手選手と交流を積極的に図るなどの努力を見せ、2004年シーズンは途中加入ながらチーム最多タイの7勝を挙げる大活躍。この結果を見て待遇も他の外国人選手と同等に引き上げられ、翌年も7勝を記録するなどそこそこの助っ人だったが、四球が激増し不安定な投球を見限られて自由契約に。
気性が激しい一面があり、炎上した際に自身を見限ろうとした牛島監督に反抗して「敗戦も結果的に1点差で試合は壊していない。自分は頑張っている」と述べた上、「50」と書かれた速度制限の道路表示を差しながら「負けたら、あそこに寝転んで車に轢かれて死んでもいい」と言い放ったのは有名。
横浜時代はまだ「多少ネタ要素があるがハズレでもない微妙外人」程度の立ち位置だったのだが、問題はその後。
横浜を自由契約になった後の2006年、今度はまだ創設期で戦力の薄かった楽天が獲得。楽天では登録名がバワーズに変更になった。
当時の楽天は投手戦力の弱さから、一定の計算が見込めるバワーズに期待の声が上がったが、なんと母親の看病*13のため帰国した事で開幕一軍を逃す。
日本に戻った後、二軍での調整中に肩を痛めたまま最終的に9月には退団し、結局1軍で投げる事すらなかった。
楽天でのあんまりな期待の裏切りっぷりに、当時の野村監督は「バワーズは会った事ない。街で会っても分からんな。詐欺や」と酷評した。
ダン・ミセリ(巨人・2005)
00年代最高クラスのネタ外人。
守護神不在だった巨人が獲得した現役メジャーリーガー。
来日早々ビッグマウスを披露したが、オープン戦から球威、成績に不安が残ったまま開幕を迎えた。
そして開幕戦の9回セーブシチュエーションで初登板。
しかしクイックの下手さからあっさり盗塁を許し、更に本塁打2発を浴びて案の定敗戦投手となる等、当初の不安は的中。登板した全試合で炎上し、「炎上神」「パセリ」「ゴミセリ」等の蔑称もつけられた。
セーブ条件が整った際、横浜ファンから「ミセリコール」が出た事すらあるが、その時は堀内恒夫監督も流石に起用しなかった。
事前の触れ込みでは150km/h台のストレートに決め球のスライダーが武器とされていたが、巨人時代は140km/hそこそこのストレートに「垂れる」と評されるほどキレの悪いスライダーという、とても当時のチームの一軍レベルとは程遠いスペックであった。
練習も真面目にやらない、あんまりな成績(たった4試合で失点7、防御率23.63)&肩の故障から二軍での再調整を促されても、「本人の同意なしで二軍に落とせない」という契約を盾に二軍落ちを拒否する*14等、素行の悪さも見受けられた。
そして案の定開幕から数日で戦力外。
短期間の内に
等と短期間で数々の伝説を残した。
その為チームメイトのタフィ・ローズ、果ては「他人の悪口を言うのを誰も聞いた事がない」程人柄が良かったブライアン・シコースキーからも批判された。*17
シコースキー「クビになって観光なんてとんでもない。外国人の恥だ。」
やくみつる「日本観光のオプションツアーとして、読売ジャイアンツの体験入団があった。」
巨人はこの年ミセリ騒動等をきっかけに投手陣の駒不足や、チーム打率の低迷など以前から懸念していた点が次々と表面化し、球団ワーストの80敗を喫し、Bクラスの5位に低迷した。
元々は巨人からのオファー前に引退も考えていたらしいが、退団後はメジャーに復帰。そこそこの成績を残した事から、日本の野球をナメていたのではないかという噂も。
ゲーブ・キャプラー(巨人・2005)
2005年に守備力強化の為にレッドソックスから獲得したバリバリのメジャーリーガー。
キャンプでは外野から目の覚める様な送球を見せ、オープン戦でも左投手に強いバッティングや俊足で内野安打を稼げるプレーでファンを期待させたが、開幕すると17打席ノーヒットを含め111打数で17安打、打率.153、本塁打3、打点6と低迷。
期待された守備でも、浅いセンターフライで鈍足の選手にタッチアップのサヨナラホームインを許す失態を犯す。
また腰痛を訴えたにもかかわらず、前述のミセリ同様に「本人の同意なしでの二軍落ち不可」という契約を盾に二軍落ちを拒否する等した。
腰痛が治らない事を理由に7月に退団。
その後しばらく色んなチームを渡り歩いて2011年に選手を引退し、2017年にフィラデルフィア・フィリーズの監督に就任し2019年まで務めた。
続く2020年シーズンからはサンフランシスコ・ジャイアンツの監督に就任。最初は就任前の経歴から批判も相次いだものの、翌2021年シーズンはチーム最多勝を記録した上にドジャースの優勝を阻止し地区優勝を果たすなどして名監督としての評価を築いた。しかし続く2シーズンは連続でポストシーズン進出を逃す結果に終わり、2023年9月に3試合を残して解任された。
なお、本人によると日本の食生活等を始めとしたライフスタイルに馴染めなかったらしく「金が理由で日本に行ったのは間違いだった」と発言している。
バート・ミアディッチ(巨人・2005)
典型的な巨人の緊急獲得ダメ外人。
2005年の7月に前途のミセリの穴埋めとして、当時コーチ留学していた岡崎郁が直々に視察をした上で獲得。
クローザーとして期待されての入団だったが、制球難やクイックの下手さ等で自滅する事も多く、7月27日の対中日戦で投手の川上憲伸に特大ホームランを打たれる*18等して9月に登録抹消。シーズン終了後に解雇された。
アーロン・マイエット(楽天・2005)
創設時の楽天が獲得してきた助っ人投手。
2004年アテネオリンピックでカナダ代表として出場した経験を持ち、3A級で19セーブを挙げた実績から守護神候補として獲得された。
しかし、開幕2戦目のロッテ戦で0-19の7回裏から登板すると、2回7失点という数字を叩き出して伝説の「0-26」事件の記念すべき最後の失点投手として球団史に名前を刻んだ。
その後も炎上した末に僅か3試合の登板、それも1セーブも挙げられずに防御率20.77という驚異の数字を叩き出し、シーズン途中に解雇された。
2005年の楽天は新規球団という立場もあってまともな獲得調査も出来ず、この様なハズレ外人を引いてしまったとも言われる。
だが楽天退団後、2006年のWBCにカナダ代表として出場した事は一部で話題を呼んだとか。
エリック・アルモンテ(日本ハム・2005)
2001年~2002年に巨人に在籍していたヘクター・アルモンテ投手の実弟。
2005年に日本ハムが獲得した内野手で、3割2分、20本は打てるという当時のスカウトの触れ込みで入団した。
開幕戦こそ1軍で出場し、選球眼の良さは高評価されるも肝心の打撃で好成績を残せず、さらに守備でも失策を連発し、当時の高田繁GMには「(あんな守備じゃ)全然ダメだ」とぼやかれてしまい、2軍降格。
シーズン途中の7月からはなんやかんやで持ち直して代打や指名打者として起用されるも、結局打撃面では向上せず2年契約でありながらシーズン途中の9月に解雇となった。
また、前述の守備のまずさや打撃不振もあってか、当時ショートのレギュラーを務めていた金子誠を二軍に下げてまで使う意味はあるのかという批判もあった。
しかし後述のメンチやセペダと同様、性格は非常によく練習態度も真面目で後輩の面倒見は良かったため、若手選手からは慕われていた模様。
ケビン・ウィット(横浜→楽天・2005~2007)
2005年、中日に移籍したタイロン・ウッズの代役として獲得。
前年は3Aで本塁打王に輝いており、左の大砲として期待されたが殆ど活躍出来ず。「日本の野球は難しかった」とだけ残し解雇。
その後3Aで本塁打と打点の2冠王に輝き、2007年に楽天に入団するも、鳴かず飛ばずで1年限りで退団。
なお彼の日本初打席の相手となった前述のダン・ミセリとの対戦は、とてもプロ同士の戦いとは思えない低レベルなものだったためにニコニコ迷勝負に数えられる事になった。
アンディ・グリーン(日本ハム・2007)
2007年に来日したファンの期待が高かった助っ人外人。
打撃不振、エラー、腰痛の最凶トリプルコンボで4月の内に2軍降格し同年8月に戦力外通告。「空振りなんてサヨナラね」なんて応援歌で歌われてた。
その後、方々を渡り歩いたのちにニューヨーク・メッツとマイナー契約を結び、なんと2009年にメジャーに返り咲いた。
後にサンディエゴ・パドレスの監督となり、2018年に西武から日本代表の牧田和久が加入した事で再び日本の野球ファンにその名前が知れ渡ったが翌年9月にシーズン終了を待たずして解雇。現在はシカゴ・カブスのベンチコーチをしている。
アダム・バス(楽天・2007)
2007年のシーズン途中に楽天が緊急補強として拾ってきた助っ人投手。3Aで好投していた事から注目されたという。
アリゾナ・ダイヤモンドバックスでは、名前をネタにされて「FISH」という渾名がチーム内で使われていた様だ。
初登板こそ敗戦投手になったものの5回3失点と先発として最低限の役割を果たすが、以降の登板は全て炎上して期待を裏切る。
特に3試合目のオリックス戦の炎上ではチームを最下位に叩き落した事から野村監督の怒りを買い、「タクシーを用意してくれ、あいつは帰りのバスには乗せない」との発言と共に見切られた。
結局1年で戦力外通告となり、その後はサンディエゴ・パドレスのキャンプ招待選手としてマイナー契約。2008年は3Aで50試合を投げたが、2勝2敗はともかく防御率8点台とここでも振るわなかった。
''李炳圭''(中日・2007~2009)
韓国球界(KBOリーグ)のLGツインズで活躍した選手で、韓国では李承燁などに並ぶスター。2006年にはWBC韓国代表として選出され、同年オフに中日入り。
来日直後は同じく韓国球界で活躍し、中日でもプレーした大先輩である李鍾範*19と同じく「韓国のイチロー」と称された。
打率は平凡(2割5分前後)で打点も特別悪くは無かったりと極端にダメと言う訳では無いのだが、ダメ外人と称される最大の原因は怠慢守備。
- とにかく信じられない様な守備(打球の逆側に走る等)で仲間の負担を増やす
- いつまでも進歩しない打撃技術・弱肩・全力で走らない=やる気がない
などの有様に、コーチまでもが怒っており、ネット上では取扱説明書が作られた。
この例に倣ってか、近年のネット上では、FA、トレード、戦力外などにより移籍した選手に対し、同様に取扱説明書を作られる事が増えている。
また2007年9月2日の広島戦では二死満塁の場面で打席に立ったが三球三振してしまい、翌日の中日スポーツで中日OB・評論家の木俣達彦から「(この結果は)案の定である」と酷評された*20。
怠慢守備が目立った一方で素の人柄自体は悪くないらしく、パオロンやドアラとはよく絡んでいた。
事実その影響からか、スタメンを外れるとチームの成績が良くなるネタもあったものの、この項目で挙げられている選手では珍しく3年間も在籍している。
日本に馴染めなかった部分も大きかったのか、古巣LGに戻ると再び活躍し日韓通算2000本安打も達成。引退後には彼の付けていた背番号「9」が永久欠番となった。
ルイス・ゴンザレス(巨人・2007~2008)
当時長年に渡り不動のセカンドを務めていた仁志敏久の流出に伴い、巨人が2006年オフに獲得した選手。
オープン戦ではかなりの好成績を残し、迎えた2007年。ハマスタでの横浜との開幕戦で現DeNA監督の三浦大輔から本塁打を放ち鮮烈なデビューを飾るが、その次の打席でデッドボールを食らい二軍落ち。
しばらく一軍と二軍を行き来するジェットコースター状態を送っていたが、同年9月に一軍に上がると9月12日の阪神との伝統の一戦で先制グランドスラムを放ち、また得点圏打率・守備力の高さでも活躍しチームの5年振りとなるリーグ制覇に貢献した。
翌2008年も残留したものの、FAでヤクルトからラミレスとグライシンガー、横浜からクルーンが来た事でチーム内の外国人枠が埋まってしまい開幕は二軍でスタート。
しかし、シーズン途中にイ・スンヨプが不振で降格すると一軍に上がり、同年4月29日の広島戦で決勝ホームランを放ち自身初のお立ち台に上がった。そして交流戦でも初戦に4安打と大暴れし、誰もが久しぶりに巨人は自前で優良助っ人を手に入れた……かと思われた。
同年5月の横浜戦、デッドボールを脇腹に喰らってまたしても抹消。
そこまでなら良かったのだが、なんと23日にドーピング検査で陽性反応が出た事が発覚。
しかも4月30日の広島戦の時に検査をしたところ、翌日グリーニー*21に含まれている成分が大量に検出され、当初は否認するが別の検体からも同じ物質が検出されたため、本人の抗議もむなしく同年6月に契約解除が言い渡されそのままクビになった。
帰国後はMLB時代の古巣であったコロラド・ロッキーズとのマイナー契約を経て、その後台湾プロ野球の統一セブンイレブン・ライオンズ*22と契約を結ぶも、巨人時代のやらかしが災いして最終的に契約破棄となった模様。
ケビン・メンチ(阪神・2009)
典型的な阪神の高額年俸ダメ外人。
オープン戦から140km/hの速球にすら対応できないなどショボさを連発。
- 開幕しても全く打てない
- 名前がメンチという事もあってフライを上げる度にネタにされる
- レオナルド・ダ・ヴィンチを捩って「レオナルド・ダ・メンチ」とあだ名をつけられネタにされる
といったこともあった。
年俸1億6000万、打ったヒットの数は8本、1本あたり2000万円でございます。
一方、練習態度は真面目で二軍落ちも素直に受け入れ、慈善活動にも積極的に取り組むなど、人間性においては歴代阪神外国人の中でもトップクラスと評され、同じダメ外人である元巨人のフレデリク・セペダの様にファンに愛されているまであった。
キャンプ中などの無双を取り上げた大阪版サンスポの見出し一覧がよくネタにされる。通称「メンチコピペ」。
スコット・ドーマン(広島・2009)
数少ない広島のダメ外人。
セットアッパーとして期待されるも、ノーコンによる不安定なピッチングで殆ど活躍出来なかった。
アウトを一つも取れずに降板する事も二度あり、特に二度目であるロッテ戦の方はプロ野球ワースト記録となる1イニング15失点の最大の要因にもなった。
その後2軍落ちして、6月の終わりに解雇。
チェイス・ランビン(ロッテ・2009)
ロッテが入団テストで助っ人とは思えない年俸(2000万)で獲得した外国人野手。
ユーティリティプレイヤーであることが売りだったが打率は.192と大苦戦して二軍でも打てない始末だったため、同年限りで切られてしまった。
態度面では怠慢と言った様子はないどころかむしろハッスルプレーが目立つなど試合では全力な様子が見られたのだが、全力な姿勢に対して応じてくれない成績の印象も重なって記憶には残る選手ではあった。
また、自身の応援歌BGMをバックに「ランビンダンス」なるダンスを踊るというパフォーマンスをしていた。
何故か2ch(5ch)で「ランビン、ビンビン」として弄られ、一部のネタスレで利用されたことで名前を残すことになる。
ゲイリー・バーナム・ジュニア(ロッテ・2009)
ランビンと共にCPBLからNPBにテスト入団に合格してやってきた助っ人野手。年俸はなんと1300万円と格安。
開幕直後こそ打ったがその後は徐々に成績が低迷して最終的に1年でクビになった典型的ハズレ助っ人のパターン。ちなみに死球数がかなり多かった。
バーナム・ジュニアがネタになったのは野球の成績と言うよりもその画力であり、油絵が趣味でメチャクチャ絵が上手いことで有名だった。
バレンタインの肖像画を描いて持ってくる(しかもその肖像画を空港のトイレに忘れて空港係員に届けてもらう)、ファンの描いたイラストを採点するイベントが開かれるなど野球選手と言うよりも「画伯」としての活躍が目立った。
今でもこの選手の名前を聞くとプレイよりも絵について思い出すファンが多いようだ。
トッド・リンデン(楽天・2009~2010)
2009年、シーズン途中に来日。
実力は打率.291を記録するなど十分だったのだが非常にキレやすく、かつキレた時の態度が酷すぎた事で有名。
6点ビハインドの日ハム戦で代打として起用された際、何を勘違いしたか「6ランホームランを打てという事か」と激高してコーチに侮辱の言葉を連発した。
その数日後に当時監督だった野村克也に謝罪へ向かうも、Tシャツ・短パン・サンダル姿という舐め切った服装に加え態度の悪さで火に油を注ぐ結果に。
成績が悪くないため契約更新されたのだが、2010年にも球審に暴言を吐き退場*23。その際野村の後任のマーティ・ブラウン監督に宥められるも、「何でジャップの肩を持つんだ」と批判。
その事が切っ掛けでブラウンの怒り*24すらも買った。その結果、謹慎・罰金処分が下されて同年に退団。
そもそも嘗て在籍していたワシントン大学時代からもチームの規則を何度も違反し、挙句キューバ製葉巻の密輸もあって退部処分を受けていた人物だった為、獲得した楽天フロントの責任は否定できないだろう。
また上記の謝罪数日後に野村克也が城島健司を批判した際、「あいつは人間失格。ジャパニーズリンデンや」と態々引き合いに出されたというエピソードもある。
他方、野村監督のたわい無いボヤキで自分や家族が貶される事に対して鬱憤を貯めていた、慣れない日本文化に順応する意欲もあったという証言も。
2009年も問題行動がありつつも契約を更新されていた事から球団も更生に期待したのだろうが、翌年のそれ以上の問題行動があってはこうなる事は当然である。
追記・修正お願いします。
[#include(name=テンプレ2)]
この項目が面白かったなら……\ポチッと/
#vote3(time=600,6)
[#include(name=テンプレ3)]
▷ コメント欄
- 今思うとトニーの後頭部に送球食らうの全然わらえないし、トンネルはともかくボールを横に投げるのはメディスンとかだったのかなーとおもわんでもない -- 名無しさん (2023-02-10 23:10:29)
- ガイドライン違反 誹謗中傷している項目です - -- 名無しさん (2023-02-11 22:45:23)
- 総合相談所に書きましょう -- 名無しさん (2023-02-15 12:47:41)
- ダン・ミセリ…マジで何しに来た… -- 名無しさん (2024-04-25 23:25:04)
- アダム・バスの名字はランディ・バースと綴りが同じ(本来の発音はバスが正しい) -- 名無しさん (2024-05-22 22:26:15)
- 「現役時は活躍したが引退後にやらかし」も含むなら、セラフィニ(ロッテ→オリックス)もここに載るべきじゃないかな。 -- 名無しさん (2024-05-28 23:41:05)
- この時期の日本ハムはダメ外人に二軍限定で完全な罵倒の歌詞の応援歌を使っていた。アンディ・グリーンはキャンディ・キャンディの替え歌で「空振りなんてサヨナラ、ね アンディ アンディ」。ジェイソン・ボッツは崖の上のポニョの替え歌で「ボッツ ボッツ ボッツ ジェイソン・ボッツ 大きな 大きな ファール」。 -- 名無しさん (2024-06-22 01:08:02)
#comment(striction)
*2 NPBで唯一の本塁打は4月7日の対横浜戦(横浜スタジアム)だったが、同日にはともに同年から中日入りしたバンチがノーヒットノーランを達成した日でもある。
*3 他の候補にはベテランの坊西浩嗣や当時ルーキーの的場直樹がいたが戦力としては不十分であり、一塁手にコンバートされていた吉永幸一郎が急遽5年ぶりにマスクをかぶる事態になっただけではなく、内野手登録されていて捕手経験ゼロの林孝哉までがブルペンで投手の球を受けなければならないという深刻な有様だった。
*4 「韓国球界史上最強の投手」と呼ばれ、1996年-1999年まで中日に在籍。1年目は日本球界への適応に苦しむも2年目からは守護神として活躍し、特に1999年は彼に加えてサムソン・リー(本名:李尚勲)、李鍾範と併せて3人の韓国人選手が投打の主力として活躍していたため、彼らは「韓国三銃士」と呼ばれた。引退後は韓国代表監督などを務め、親日家としても知られる。
*5 148試合目での達成で、当時のNPB史上最速記録。また通算120セーブは2008年にマーク・クルーン(巨人)が更新するまでNPBの外国人投手として最多記録でもあった。
*6 圧倒的な奪三振率を誇る近鉄不動の守護神として君臨していたが、前年オフにポスティングで渡米を試みるも失敗。本人は自由契約を求めたが結局中日に金銭トレードされた。
*7 2008年以降7月31日までに延長された。
*8 回の頭からマウンドに上がった小倉恒が先頭打者に四球を出して降板し、後続の吉崎勝が2アウトを取った
*9 2002年からは中信ホエールズに改名。
*10 王氏も台湾国籍であるが、陳とは異なり出身地は日本である。
*11 余談だが、チームメイトだった上原浩治はこのミスを犯したのを後述のキャプラーと間違えて覚えていた。
*12 因みに2004年年間最多死球はグレッグ・ラロッカの23、当時の年間最多記録は1952年の岩本の24である。なおMLB時代の死球はドジャースに所属していた2003年の2回のみ。
*13 ただ、家族の看病等の理由でチームを離れる事自体はおかしい事ではない
*14 これは日本では横暴だと取られかねないが、実は日本に比べてメジャーとマイナーの待遇が雲泥の差である大リーグでは特に珍しい事では無い契約内容である。但し日本と違って戦力外通告に関するルールが定められていないので、結果を残せなければシーズン途中だろうと情け容赦なく解雇されるのだが。
*15 横浜スタジアムの事。事実非常に狭い事で有名ではある
*16 この時ファンからサインをねだられたが「M」と殴り書きしただけ
*17 逆を言えば、彼は素行の悪い外国人選手には厳しいという事でもある
*18 但し川上は打撃も得意な投手である点は留意すべき点である。パワプロでは内野手の荒木よりもパワーが高い設定にされていた(これを知った荒木はヘコんだ)事がある程である。
*19 韓国の起亜タイガースで活躍し、1998年~2001年にかけて中日に在籍。死球禍による故障や守備位置、外国人枠の問題から中日では韓国時代ほどの成績は残せなかったが、1999年には2番打者として中日のリーグ優勝に貢献した。背番号7は起亜球団の永久欠番になっている他、中日時代に誕生した彼の息子・李政厚は2017年に韓国球界の新人王を獲得している。
*20 李は前の打席で安打を打っていたが、木俣は「そのヒットは偶然に近く、タイミングはことごとく狂っていた。(代打の切り札)立浪和義を代打に出すべきだった」と評している。
*21 クロベンゾレックスという物質を主成分としたアンフェタミン系の食欲抑制薬の俗称。アメリカで流通していた製品のカプセルが緑色だった事に由来しており、日本プロ野球でもかつて使用例があったとされている。
*22 現:統一ライオンズ
*23 英語だと問題ないだろうと好き放題言った相手が、海外留学経験があるなど語学力抜群の福家(ふけ)英登氏であったため、内容を完璧に理解されたというおまけ付き
*24 監督として最多退場回数を記録した程の審判への抗議への厳しさから苛烈な人物と思われがちだが、実際には律儀で温厚な人物であり、ファンサービスにも積極的な事から選手・ファンともに人望は厚かった。度重なる抗議も「選手を守る為」だったという。
コメント
最新を表示する
NG表示方式
NGID一覧