登録日:2022/09/28(日) 22:16:17
更新日:2024/06/27 Thu 10:36:38NEW!
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マイナー兵器 マイナー戦車 戦車 兵器 そびえ立つクソ 多砲塔戦車 超重戦車 不義の子 オイオイオイ イレギュラー ぼくがかんがえたさいきょうのせんしゃ オイオイオイ、ポンコツ戦車だわこいつ ほう…多砲塔戦車ですか、たいしたものですね スッゲ~~重量……(150t) なんでもいいけどよォ、相手はあの連合国先輩だぜ お荷物(物理)
「オイオイオイ」
「超兵器だわアイツ」
「ほう 超重戦車ですか…」
「たいしたものですね」
「150ミリの主砲は破壊力が極めて高いらしく
対ソ戦前に完成できればゲームチェンジャーになるくらいです」
「なんでもいいけどよォ」
「相手はあのソビエト連邦だぜ」
「それに特大肥厚の150ミリ前面装甲」
「これも速攻を許さないディフェンス力です
しかも副砲2門もそえて攻守バランスもいい」
「それにしても岩畔大佐個人の権限でこれだけの兵器を開発できるのは
超人的な活動力というほかはない」
「よし…と――」
●目次だわコイツ
オイ車とは、大日本帝国陸軍が第二次世界大戦初期から中期にかけて開発していた超重戦車である。
オイ車の名は、情報漏洩防止の為の暗号名であり、その由来は大型戦車イ号車を略したモノとされ、大イ車という表記もあったらしい。開発に携わった三菱重工の技師達からはミト車と呼ばれていた。
特徴
この戦車は複数の砲塔を備えた多砲塔戦車でもあり、完成していれば世界最大の多砲塔戦車になるはずだった。
また本兵器の特徴はなんといっても、一人の将校が事実上の予算横領を行い、独断で開発を進めさせたという所にあり、ここが他の戦車とは一線を画す特異な部分であるシャール2C「他人事とは思えない」。さらに組立分解を考慮していたこともオイ車にしか見られない点である。
よく勘違いされやすいが、オイ車はアメリカとの戦争に備えて作られた切り札でなければ、もろちん南方の島嶼戦*1を想定していた兵器ではない。
旧陸軍の兵器としては珍しくない話だが、ソ連と満州国境上のソ連要塞陣地を突破することを念頭に置いた兵器である*2。
類似兵器との比較
なお、ドイツが1944年に開発した超重戦車 マウスと何かと比較されることが多いが、
マウスは対戦車戦闘を重視しした車両であるのに対し、オイ車は厳重に防護された要塞陣地の攻略及び突破である点で大きく異なる。兵器としての性格はソ連軍が開発したKV-2に近いが、大重量から敵前付近での組み立て分解を考慮して作られていた点からも*3「自走式の攻城砲」という性格が極めて強い特殊兵器であった*4と言っても過言ではない。
マウスもオイ車も重戦車としても巨大であり、機動戦をそこまで考慮していない点で共通しているが、
マウスはあくまでもそれまでのドイツ製重戦車の発展形であり、ある意味では従来戦車の延長上にある兵器といえる。
ところが、オイ車は日本の国内で行われてきた戦車開発の研究や流れ、方針などをほぼ無視して開発が断行された、
いわば『日本戦車界の突然変異』的な立ち位置の兵器であり、ぶっちゃけ色んな意味でイレギュラーである。
構造
オイ車は車体の前方部分に小型砲塔が2基、後部に1基、そして一段盛り上がった中央部に大型の主砲塔が1基という構成をしており、合計4基の砲塔を搭載していた。砲塔の形状はすべて正六角形である。
本兵器は150tの大重量と重防備陣地の攻略という特殊な任務故に通常の輸送は考えておらず、満州の前線基地まで分解して船舶や鉄道で輸送し、基地内で組み立てて目標地点まで運転することを想定していた。
そのため平面と直線で構成されており、さらに従来の日本戦車とは異なり、車体に骨組みはなく装甲板で直接戦車の重量を支え、形状を保つ構造となっていた*5。
武装
オイ車の主砲(予定)は九六式十五糎榴弾砲の流用もしくはその改造型であり、その口径150mmに及び、世界的に見ても戦車砲としてはトップクラスである。
このような巨砲が選ばれた理由は重防備陣地のトーチカを破壊するためには最低限このクラスの火砲でないと、分厚い鉄筋コンクリートの壁で防護された敵火砲を破壊することは困難であると見られていたためである*6。
もちろん主砲は車体中央部に配置された主砲塔に搭載する予定だった。
副武装としては軽砲2門と機関銃の搭載が予定されていたが、この「軽砲」というのが具体的にどのようなものだったかはよくわかってない。
九七式中戦車に搭載された一式47mm戦車砲という説が有力視されているが製図に書かれた物と合ってないという指摘もある。
この軽砲は主砲塔の前方に配置された2基の副砲塔に1門ずつ装備される予定だった。
残りの機関銃は車体後部の砲塔に連装式に装備される予定だったが、恐らくは、九七式車載式重機関銃であろう。
防御面
オイ車の防御面を構成する装甲は、正面部で150mm、側面でも70mmとあのティーガーⅡに匹敵する*7厚さで、開発時期的に考えてもかなりの重装甲である。
しかし、正面は75mm装甲板の上にさらに75mmの装甲板をボルト留したものであり、車体側面に関しても35mmの装甲板に履帯を挟んで35mmの装甲板を配置した上での70mmであった。
複数枚重ねの装甲は単純な一枚板よりも劣るため、おそらく額面上の数値通りの防御力はないとおもわれる。とはいえ、75mmという数値は設計時の段階では年代的(1941年)に考えれば、まあまあ厚い方ではある。
。
試作車は軟鋼板で構成されていたが、海軍の協力下でオイ車に搭載予定の75mm装甲板が完成していたとされる。一枚板でないのは組立分解を重視したためであろうか?
正面装甲150mmという厚みは、トーチカに備えられているであろう野砲*8を始めとするあらゆる火器に耐えるために想定されたらしい。
機動性
オイ車は最高で時速約30km/hを、普通の状態でも時速約19km/hを発揮することを目標とし、旧式航空機に使われていたガソリンエンジン「ハ9-II乙」2基を戦車用に改造を加えて使用した。最大出力は2基合わせて1200馬力である。
しかし、後述の走行試験の結果を考慮すると、達成できなかった可能性が高い。
その他
オイ車の内部は広く人が立って歩けるほどだったと言われ、その搭乗員も11人と多かった。運転席は前方に配置された2基の副砲塔に挟まれた中央部に配置され、運転手は席の前にある3箇所のペリスコープ*9を覗いて外部の様子を確認した。
変速レバーは油圧によるアシスト装置が供えられていたものの動作が重く、両手で操作しなければならなかったという説がある。変速器は黎明期の日本戦車やソ連戦車によく見られる戦車後部にエンジンと共に配置されていた。サスペンションも国産戦車とは違う方式だったようだが、砲塔抜きで96tの重量を誇る、試作車の走行試験に耐えられなかった。
大まかな開発の流れ
オイ車の開発を発案したのは岩畔豪雄陸軍大佐(当時・最終階級少将)といわれている。
彼は「謀略の岩畔」の異名を持つ多彩な軍人であり、陸軍省の中枢部署である軍務局軍事課*10で辣腕を振るい、機密予算を自由に出来る立場にあった。
また同時に陸軍中野学校(スパイ養成所)の設立者で、大陸で大量にバラ撒かれた偽札の製造やインド独立工作にも関与する諜報員でもあった*11。
オイ車の開発をするきっかけとなったのは、陸軍の仮想敵国であったソ連が超重戦車を開発した情報をうけたためとされるが定かではない*12。
…というのも、オイ車はその計画を含めて謎が多い戦車であり、今でも不明点が多いのだ。
まずその形状も戦後長らくよく分かっておらず、近年になって図面と日誌が発見されたことでようやく判明したというほとである。
日誌によれば、開発が始まったのが、対米戦の準備でてんやわんやの1941年(昭和16年)4月頃であったとされる。
その完成は同年7月を予定していたが、オイ車の開発は陸軍の基本方針及び戦車隊側の兵器開発方針を無視したものであり、組立を担当する相模造兵廠側もかなりの難色を示していたとされる。
さらに担当の三菱重工とも連携を取れず、資材の調達や組立には遅延が重なった。
それでもオイ車の開発は進んでいき、1942年(昭和17年)2月9日には車体部分のみではあるが試作品が完成、3月16日には兵器局長や陸軍関係者達による視察を受けた。
構造的な問題が指摘されていたが、同年の3月26日に工廠側に砲塔の製作を指示するも砲塔は最後まで完成することはな、かった。
同年4月13日にオイ車の最初の試運転が三菱の艤装工場の前で行われた。試運転の結果は変速機の性能や操縦性は意外と良好だったものの、夜間であったことや走行距離が短かったため、十分な試験ではなかった。
そこから一年の間をおいて1943年(昭和18年)の5月末から6月上旬にかけて三菱重工から相模造兵廠へ輸送するため分解作業が行われ、相模造兵廠へは7月に到着、組立作業がなされた。
同年8月1日、オイ車の二度目にして本格的な走行試験が行われた。走行は一応出来たが、結果は惨憺たるモノで、最初は試験場の道路を破壊しため、場所を変えて黒土の場所に変えたが、今度は地面に埋まり、方向転換がなかなかできなかったという。
全く走れないというわけではないとはいえ、最終的には車庫入れの際に脚回りが負荷に耐えきれずとうとう破損してしまった。修理や改良も検討していたが、この時点でソ連戦が現実的でないという考えが広まったことから放棄されることが決まった。
オイ車は1944年に解体されたとされる。オイ車の開発は開発・生産現場に混乱を招き、資材の浪費を招いただけであった。
ただ、「まがりなりにも150tを越える超重戦車を一から開発・設計した」という事実だけは開発スタッフの経験値として残り、後に戦中日本戦車として最大重量となった五式中戦車の開発に当たっては、オイ車の開発過程で得られた知見が結構反映されていたりする。まあそっちも結局実用化できなかったんだけども・・・
関連兵器
ジロ車
オイ車と同じ時期に開発されていた自走砲。
九五式重戦車の車体を改造して九二式十糎加農砲(長砲身105㎜砲)を搭載した。
想定していた役割は満州国境上のソ連陣地にあるトーチカの攻略と、オイ車と被るがオイ車とは違い対戦車戦闘も考えられていた。
大きさ重量ともに当時の日本戦車としては最大級だが、輸送は可能だった*13。というか輸送できないと本土や外地(満州)にある試験場で試験を行えないため、開発が許可されないのだ*14
[[「オイオイオイ」>「オイオイオイ」「死ぬわアイツ」(グラップラー刃牙)]]
「ポンコツだわコイツ」
「ほう 多砲塔戦車ですか…」
「どうしたものですかね」
「多砲塔戦車は戦闘の効率がきわめて悪いらしく
第2次大戦直前に開発している国家はどこにもないくらいです」
「なんでもいいけどよォ」
「相手はあのアメリカ合衆国だぜ」
「それに特大サイズの150トンの重量」
「これも即効性の死亡フラグです
しかも2枚重ねの装甲で防御力も低い」
「それにしても総力戦中だというのにこれだけ無駄遣いできるのは
超人的なお荷物というほかはない」
「加筆訂正よろしくお願いします…と――」
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▷ コメント欄
- オイオイオイ、ポンコツ戦車だわこいつ -- 名無しさん (2022-09-28 23:55:56)
- ほう…多砲塔戦車ですか たいしたものですね -- 名無しさん (2022-09-29 00:08:49)
- スッゲ~~重量……(150t) -- 名無しさん (2022-09-29 00:42:33)
- なんでもいいけどよォ、相手はあの連合国先輩だぜ -- 名無しさん (2022-09-29 07:12:50)
- RUSEだとキングタイガーより強い砲に火炎放射器とロケットランチャーまで装備したチート戦車だったから感動したのになあ... -- 名無しさん (2022-09-29 09:32:21)
- なんでバキネタがと思ったらオイ車だからか…w -- 名無しさん (2022-09-29 13:00:35)
- 仮に試験結果が良好でも、大陸にある基地内ならともかく太平洋の島々で到着後に組み立てとか無理だろうし遅かれ早かれ運命は決まっていたのは無いだろうか -- 名無しさん (2022-09-29 18:46:34)
- 「ぶおおん、ぶおおん」 O-I Experimentalがせまってきます。 「ぶおおん、ぶおおん」 O-I Experimentalがせまってきます。「ぶおおん、ぶおおん」 M4くんのりゅうだん砲は間にあいません。 「おかあさあん」 それがM4くんの最後のことばになりました。 -- 名無しさん (2022-09-29 19:14:38)
- ↑ふたば☆ちゃんねる乙 -- 名無しさん (2022-09-29 23:38:49)
- どう転んでも上手くいく代物ではなかったよなぁ・・・1式戦車10両のほうがよっぽど役に立っただろう -- 名無しさん (2022-09-30 07:56:08)
- それにしても第二次世界大戦中だというのに、あれだけ予算横領して開発を進めるとは、超人的なお馬鹿さんというほかはない -- 名無しさん (2022-09-30 11:14:02)
- ↑日本軍に限ったことじゃないけど、無知な将校が階級を傘に兵器の開発を強要するのはいろいろあったらしい。 -- 名無しさん (2022-09-30 11:40:00)
- WOTではデカイ、硬い、遅いのわかりやすい重戦車でけっこう強いのよなコイツ -- 名無しさん (2022-09-30 20:05:35)
- ちなみにテスト段階では武装や増加装甲が施されてなかったので、重量は90tちょい。それでも軸受けがほぼ全滅、ギアもバリバリ割れてたので全備の150tとなるとそもそも走行以前に艤装が無事行えたかどうかすら怪しい・・・・多分無理だコレ! -- 名無しさん (2022-09-30 21:50:22)
- 日本軍の最重量戦車が26tであることを考えると重戦車の技術開発自体は必要だったんだが目標が明後日だったな -- 名無しさん (2022-09-30 23:06:47)
- 日本どころかドイツやアメリカの技術力でも当時に150トン戦車なんか不可能だわ -- 名無しさん (2022-09-30 23:30:46)
- 地球の地面がオイ車に非対応だっただけだから… -- 名無しさん (2022-10-01 02:36:55)
- 正味150tあったらアスファルト上の走行も怪しくないか? -- 名無しさん (2022-10-03 21:49:01)
- ↑3 マウスは188トンあるぞ!こっちも故障頻発とか重すぎて橋を渡れないとかまぁうん -- 名無しさん (2022-10-03 21:57:13)
- oi misu おい なんだこの鉄クズは おい 紀伊店のか オイ -- 名無しさん (2022-10-05 11:22:52)
- ↑3 確かに接地圧(地面の面積当たりにかかる重量)は1.5kg/cm2で188tのマウス(1.3kgm/cm2)よりも重いが、実は大抵の普通乗用車より軽かったりするので、道路がしっかりしていればアスファルトの耐久性的には問題ない。というかむしろそれ以前の問題というか、この旧態依然とした足回りで150tを支えるのはどう考えても無理が過ぎる…… -- 名無しさん (2022-10-10 21:54:17)
- オイオイオイ、死ぬわこいつのネタも入ってるわこいつ。尊いんだ絆が深まるんだ。忌憚の無い意見ってやつっスね -- 名無しさん (2022-10-16 21:31:20)
- ↑ 詰め込みすぎwww 笑えるけどwww -- 名無しさん (2022-12-15 21:52:48)
- 塹壕戦、トーチカ戦に有利な多砲塔は有利、そんなふうに考えていた時期が俺にもありました -- 名無しさん (2023-05-22 13:04:53)
- ジロ車のほうならまともに開発してればかなり役に立ててたのでは? -- 名無しさん (2023-07-16 20:36:01)
#comment
*2 どうもアメリカとの戦争が長期化するとは考えていなかった模様。それどころか、アメリカとの開戦場当たり的に決定したようで、当時の陸軍兵器行政本部長官であり、陸軍中将でもあった直晴次氏は「開戦の数ヶ月前に南方作戦の準備を命じられたため、北方向けに研究整備された兵器弾薬が南方の気候や地形に耐えられるか頭を抱えたが、研究する間もなく開戦に突入してしまった」とい回想している。
*3 戦車という枠組みで見れば珍しいが要塞砲や攻城砲ではよくある。
*4 任務がかなり限定的なため、おそらく量産は考えていないと思われる
*5 試作車は軟鋼でできていたが、強度に問題があったこと、骨組みのない構造だったことというのもあわさって、車体の一部に大重量による負荷がかかっていた。、それが脚回りに伝わったことで、転輪の脱落やサスペンションの破壊に繋がった。
*6 徹甲彈を用いれば1000mで約100㎜強の垂直装甲板を撃ち抜き、成形炸薬彈を用いれば、有効射程は短いが約150~180㎜の垂直装甲板を撃ち抜けたが、このクラスともなると、普通の榴弾でも直撃すれば戦車を戦闘不能に追い込むことは難しくはなかった。
*7 こちらは正面150mm、側面80mm。ただし傾斜を付けているので単純比較は早計である
*8 野戦で試用するメインの大砲。75㎜クラスのものが主流である。
*9 固定式の潜望鏡
*10 その権限の強さから「軍に関わるモノの問題もカネの問題も軍事課の裁可が無くては何一つ処理出来ない」とも呼ばれた
*11 岩畔は知米派であり、オイ車の開発中に仕事で一時渡米している。オイ車の顛末や現場に与えた混乱を考えると、岩畔はもしかしたらアメリカのスパイだったのだろうか?……などと疑われてもしょうがない。
*12 オイ車以前にも、昭和一桁年代の頃から分解可能な超重戦車のアイディアは提案されているが関連性は不明。
*13 戦車の重量制限は実はどこまでの範囲にあったのがよく分かってない。重量制限に言及した最古の例は、初期の国産戦車開発の中心人物だった原乙未生の回想であるが、明確にどこまでが限界か提示されておらず曖昧なものになっている。
*14 ベースとなった九五式重戦車は戦前の国産戦車としては最大級で、重量は26t、車幅も2.7mに及ぶが、これでも列車輸送を考慮して設計された値であり、寒冷地での性能試験のために冬の満州へ輸送されている。
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