鈴衛佑規

ページ名:鈴衛佑規

登録日:2021/04/05 (月) 18:25:13
更新日:2024/05/27 Mon 10:07:45NEW!
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鈴 衛 残 留





鈴衛すずえ 佑規ゆうきとは、元プロ野球選手である。


解説

兵庫県立伊丹西高等学校

広島東洋カープ(1996~2006)


1977年9月29日に兵庫県伊丹市で生まれる。
ポジションは捕手だが、アマチュア時代には投手などの経験もある。
伊丹西高校で活躍後に広島東洋カープに入団し、長い間同じ球団に在籍を続けた選手。


選手としての特徴

強肩・強打の捕手という売り込みだったが、プロ野球生活でそれを発揮する機会はなかった。
特にその強肩は遠投で105mを記録したことがあると言われており、その肩を活かして外野守備をすることもあった。
投手を務めていた高校時代の3年生の時には、県大会で4連続完投勝利を挙げるなどの耐久力の強さも見せている。


二軍では11年間で400試合以上出場するなど、ウエスタンの観戦をするファンからは鈴衛の姿はお馴染みの光景となっていた。


経歴

プロ入り前

伊丹市立天王寺川中学校に入学し、田中総司*1とバッテリーを組んで全国ベスト4の結果を残した。
その後に進学した伊丹西高校では1年からレギュラーとなり、3年夏の県大会で4番・エースとしてベスト16。


1995年のドラフト会議で広島東洋カープから6位指名を受けて入団。
伊丹西高校は野球界的には無名の高校であり、鈴衛以前に同校からプロ野球選手となった人物は1990年にドラフト指名を受けた長見賢司しか存在していない。
長見は1990年のドラフト会議で西武ライオンズから1位指名され、華々しく入団したが、結果を残せずに投手から外野手へ転向。1997年にデニー友利とのトレードで横浜ベイスターズへ移籍したが、一軍出場は同年のみと、プロ野球の世界では成果を残すことができず、2000年限りで現役を引退している。


プロ入り後

高卒下位指名の選手ではあったが、プロ入り4年目の1999年に代走という形ながら一軍デビューを果たす。
ところが捕手や代打として使われる機会は殆どないままに二軍暮らしが続く最中、広島球団は正捕手であった西山秀二*2や、二番手捕手であった瀬戸輝信*3の後継として、2000年前後のドラフト会議で多くの捕手を獲得する。
後に名捕手として知られることになる石原慶幸などが現れるなど、正捕手争いのライバルは多く、更には第2・第3捕手*4の座の争いもヒートアップするが、鈴衛はこの争いに敗れた。


一軍に出場する機会が殆どないまま時間が経過した2005年、二軍で.359という高打率を挙げたため鈴衛は6年ぶりに出場選手登録。
代打で初打席に立つかと思われた場面が一度だけあったが、結局は代打の囮と言う形であって一軍で一度も打席に立つことはなかった。


プロ11年目のシーズンである2006年10月16日、ついに球団から戦力外通告を受けて引退。


引退後

引退翌年からはブルペン捕手としてチームに残ることとなったが、1年在籍したのみで退団。
2008年に広島時代の同僚である阪神タイガース金本知憲のリハビリキャンプに同行すると、翌2009年には阪神でブルペン捕手として在籍。


以降はオールスターの打撃捕手や2020年に行われた石原慶幸の引退試合にて、定期的に元気な姿が確認されている。


余談

  • 当時の選手名鑑などの解説によると、鈴衛にとっての理想の女性は広末涼子や我妻佳代らしい。




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この選手は経歴だけで言えば正直な話、プロ野球の世界には大量にいる「芽の出なかった無名選手」の中の一人である。
しかし、色々とあって一部のプロ野球ファンからカルト的な人気を集め、引退から長い時を経た現在でもネットの野球ネタでは語り継がれている程の選手となっている。


鈴 衛 残 留

プロ野球の世界(というかプロスポーツの世界)は実力勝負の世界であり、経歴的な実績もなく力不足の者は数年程度で戦力外と言う名前のクビとなる。
そんな訳で一軍の試合にも全く出ていなければ二軍でも所謂「帝王」的な期待感もなく、ドラフトも弱小高校の下位入団*5と言う立場だった鈴衛はいつしか戦力外通告を受ける筆頭候補扱いを受けていた。
残酷な話だがこのスペックの選手が戦力外通告を受けるのは不思議な話ではなく、現に鈴衛と似たようなプロ入り後の生活を送った選手は数年程度で殆どが戦力外となっている。


ところが、鈴衛は首が涼しいプロ8年目の2003年には春のセンバツ優勝経験もあるドラフト1位捕手・白濱裕太が入団したにもかかわらず、追いやられることがなく奇跡的に残留を果たす。
しかも翌年(2004年)は石原が正捕手に定着。鈴衛も流石にもう駄目かと思われたが、チーム内の捕手が相次いで引退・退団した*6ことで、捕手の人材不足が危険視されたためかまたしても残留。
2005年もドラフト候補で捕手が不足していた事から残留を果たし、戦力外を受けた2006年も第一次戦力外通告は避けている*7


(選手的な働きの意味で)何もしていないにもかかわらず、奇跡的に残留を続ける鈴衛はファンなどからも注目され始めることになる。
広島ファンも、二軍でしか見ない存在なのに生き残り続ける鈴衛を「由宇の妖精」と名付けた。
2ちゃんねる(現5ch)のプロ野球板などではオフの鈴衛の動向を注目視する文化が踏まれ、残留が決定的になると「 鈴 衛 残 留 」というスレッドが伸びることになった。「鈴衛の一日」というコピペも作られたほどである。


一軍で見られた数少ない場面が、代走とネクストバッターサークルでの代打の囮役だったというのも語り継がれる理由だろう。
捕手として一軍でマスクをかぶった場面も一度だけあるのだが、それも1イニングだけの捕手だったというのも何とも言えないところである。
しかも一軍に出ていない数年間のシーズンでも年俸は10~20万円程度上がっており、成績やファンの印象に反してフロントには評価されていた様子もうかがえる。


何故残留できたのか?

鈴衛が何故残留を続けられるのかはネタ抜きで考察されており、鈴衛が現役当時のネット上でのファンブログやSNSでも議論が行われていた様子が残されている。


実は一軍実績もなければ二軍でも活躍していない選手でも、捕手の場合は10年近く在籍できるパターンは割と珍しくない。
捕手は野球のポジションの中でも人材不足になりやすく、代わりが効きにくいという点から戦力外通告の構想では後回しにされやすい側面がある。
現に捕手を切った球団では、その後に相次いで怪我のアクシデントが起きたせいで元プロの球団職員と育成選手契約を結んで一時的にやり過ごすという事も起きている。


捕手の中には一塁や三塁などのサブポジションを持っている選手も多いので、他のポジションの緊急事態時には代役で入れる選手も多い。
プロ野球球団は一軍だけではなく二軍の運営も考えなければいけないため、二軍では成績以外に「順風満帆にチームの試合を回してくれる選手」が求められる。
ただし、捕手が人材不足になりやすい点を考慮しても鈴衛の同一球団での在籍年数は長いと言われていた訳だが。


鈴衛は明るい性格でチームのムードメーカー的な人柄だったとも噂されており、人格的な面で球団から評価されていたという説も出ている。
二軍における後輩の世話役や人間関係の活性化などで働き、実質的なブルペン捕手やバッテリーコーチ的な立場でもあったのかもしれない。
実際の人格や人間関係などは関係者でないと分からない部分もあるため、憶測的な要素もあるが。


後継者?

上述したように「由宇の妖精」と揶揄された鈴衛だが、後に由宇の妖精の二代目と呼ばれる選手が広島に登場する。
その選手は、初代である鈴衛のチームメイトであると同時に立場を脅かすライバルでもあった白濱裕太である。
白濱も一軍での実績がないにもかかわらず、プロ野球では20年近く在籍し続けるなど超一流選手とほぼ変わらないプロ年数を歩むことになった。


ただし、白濱は一軍では30試合以上出場したシーズンもあり、安打や本塁打を打った経験もある。
ついでに言うと、白濱は鈴衛と違ってドラフト1位指名でアマチュア時代の経歴も輝かしいため、期待通りの結果を残せなくともその特権で長年在籍できることは珍しくはない。
それを考慮しても白濱の球団での在籍年数がかなり長いことは事実ではあるが…。
晩年は正捕手の會澤がFA権取得、石原がいつ引退してもおかしくない年齢(2020年限りで現役引退)と下手すれば主力捕手が2人同時に抜ける可能性もあったため、そういった意味でも白濱を簡単にクビには出来ないという事情もあったが、2022年オフに戦力外通告を受けて19年のプロ生活にピリオドを打った。
チームにはスタッフとして引き続き所属しており、2023年からは中日ドラゴンズ担当のスコアラーとなっている。


また、他球団でも元埼玉西武ライオンズの中田祥多もプロ12年間で一軍出場数が12しかなく、
1度は怪我の影響で戦力外通告を受けて育成契約になったこともあるが、12年間西武に在籍した。
その後、2019年には野手としては最年長(当時29歳)でプロ初ヒットを打った。結局その年でついに戦力外通告を受けたが、12年プロとして戦った経験を買われてかブルペン捕手として西武に残ることになった。
ちなみに、その年のファン感謝祭で現役引退の報告をファンにした際は
「このままのペース(ヒットが12年に1本)だと2000本安打には2万4千年かかる(要約)」と自虐しながらファンとチーム関係者に挨拶をした。



追記・修正は、一軍に殆ど出場しない状態で同じ球団に10年以上在籍することに成功した人にお願いします。


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  • 鈴 衛 記 事 制 作  -- 名無しさん (2021-04-05 20:31:36)
  • 俺「昔広島にこれと同姓同名の名前の選手いたような」→本人の項目で「え」 -- 名無しさん (2021-04-06 17:27:52)
  • ↑俺と全く同じ -- 名無しさん (2021-06-22 00:10:17)

#comment(striction)

*1 伊丹北高校・立命館大学を経て、1999年のドラフト会議前にダイエーを逆指名してドラフト1位で入団。しかしプロ入り後は故障もあって結果を残せず、2004年限りで戦力外通告を受け現役を引退。その後は伊丹市内で整骨院を営んでいる。
*2 怪我が多かったが、1994年・1996年にベストナイン・ゴールデングラブ賞を獲得(セ・リーグの1990年代の捕手では、これらの賞を複数回受賞したのは彼以外にヤクルトの古田敦也のみ)。
*3 大学ナンバーワン捕手として期待されるも、西山の存在からなかなか正捕手になれず、一時は引退騒動も起こしたが、西山が怪我でほぼ全休した1998年には代わって正捕手の座を担った。
*4 鈴衛の現役当時は、西山・瀬戸・石原のほか、木村一喜(2002年に100試合以上に出場)・倉義和(2005年に100試合以上に出場し、その後も石原と正捕手の座を争った)といった捕手が在籍していた。
*5 プロ野球では基本的にドラフト下位の選手は上位の選手よりも戦力外通告や他球団への人的補償などによる放出を受けやすい。理由としては単純な期待値の違いや金銭的な投資のレベルの違いがある。アマチュア時の所属団体も有力な人材が出ていない団体の場合は、後々のドラフト指名や人間関係に支障が出にくいために軽視されやすい傾向にある。
*6 かつての正捕手だった西山は同年限りで(引退勧告およびコーチ就任の打診を拒否して)巨人に移籍。瀬戸(同年からコーチ兼任)も現役を引退し、コーチ専任となった。
*7 プロ野球ではその年の状況や選手数や球団の運営方針などにもよるが、戦力外通告は一次と二次の2回に分けて行うパターンが見られる。一次はどんなことがあっても絶対に戦力的に必要のないレベルの選手や自由契約による他球団への移籍活動の時間を少しでも多く稼ぎたい功労者的選手に対して行うことが多く、二次はドラフト後の選手枠や同ポジションの選手数などの影響次第で戦力的に不要になる選手に行われやすい。

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