登録日:2020/05/08 Fri 07:43:47
更新日:2024/05/17 Fri 13:07:25NEW!
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スティング(Sting)は、1959年3月20日生まれの米国のプロレスラー。
本名:スティーブ・ボーデン(Steve Borden)
ネブラスカ州オマハ出身だが、ケーフェイ(プロレス上のギミック)ではカリフォルニア州ベニスビーチ、ノースカロライナ州シャーロット、更にはEvery Man's Nightmare(†人々の悪夢†)出身等とされていた。
ド派手なコスチュームに顔面のペイントという、アメリカンプロレスの申し子の様な見た目の為に日本(特に初来日の全日本プロレスでは)では実力を侮られたりした時代もあったが、米国では90年代を代表するトップレスラーとして記憶されている名選手である。
公称サイズ、身長191cm、体重120kgと中々に大柄ながら身軽な動きも可能で、万能型のヒーロー的キャラクターで活躍した。
特に、生まれ育ったNWA~WCWで活躍し、特に誕生時から参戦していたWCWではライバル団体のWWF(WWE)には靡かない純血のエース格で象徴であった。
尚、以前は短髪でペイントやコスチュームも明るいイメージだったのだが、90年代後半からは映画『クロウ』を意識した、トレンチコート姿でダークで無機質なペイントの神出鬼没の怪人へとイメージを変化させている。
WCW崩壊後も頑なにWWEからの勧誘には乗らず、後に設立されたTNAに参加する等していたが、プロレス人生の最後が見えてきた2014年に、最後の最後の未知の大物として、遂にWWEにも登場。
実際の活動期間は一年余り(番組に登場したのは数ヵ月で数える程)であったが、WCWとWWEの視聴率戦争を意識したトリプルHとの因縁対決や、ベルトへの挑戦も実現。
そして、16年のWWE殿堂入りを最後に、31年に及んだ現役生活からの引退を発表した。
口元に両手を添え、吠える様に“Woo!”と叫ぶのが決めポーズ。
【来歴】
ロサンゼルス郊外のベニスビーチのゴールドジムで
インストラクターとして働いていた所を、同ジムでプロのボディビルダーを目指してトレーニングを積んでいたジム・ヘルウィッグ(後のアルティメット・ウォリアー)と共に、AWAで活躍していたプロレスラーのジム・バスチェンに揃ってスカウトされる。
85年11月にヘルウィッグとのコンビで“フリーダム・ファイターズ”のフラッシュとジャスティスを名乗って、テネシー州メンフィスのCWA(USWA)でデビュー。
如何にも80年代な若くてマッチョなコンビとして、ルーキーで下手くそながらデビュー直後から人気を博し、AWA南部タッグタイトルへの挑戦のチャンスも与えられた。
86年3月から“カウボーイ”ビル・ワットの主宰していたUWF(日本のものとは別)に“ブレード・ランナーズ”のスティングとロックを名乗って参戦し、それ以降、引退までスティングのリングネームを使い続けることになった。
キャリアの初期はプロモーターの意向もあって“ロード・ウォリアーズ”をパクったギミックで活動していたのだが、程無くして既に結婚もしていたヘルウィッグが、より大きなビジネスを求めてUWFから離脱したことからチームは解散。
一人となったスティングだったが、新たにエディ・ギルバートや リック・スタイナーと組んでタッグ王座に就く等、順調にキャリアを重ねると共にプロレスを学んでいった。
87年にUWFがNWAジム・クロケット・プロモーションの買収を受ける。
そして、88年に更に、テッド・ターナーのTBS(日本のものとは別)にNWAが買収されてWCWが設立されると、スティングは若手ながらベビーフェイスのトップに立ち、団体の顔になっていくのである。
【WCW時代】
WCWでは、ベビーのトップとしてNWA世界王者でヒールのトップのリック・フレアーや、日本から武者修行に来ていたのが、破格の人気により米国に定着していたグレート・ムタ(武藤敬司)との抗争を繰り広げ、連日の様に彼等との戦いを重ねて、急速にレスラーとしての実力を高めていく。
88年3月27日ライバル団体のWWFがレッスルマニア4を開催している裏で行われたCrash of The Championsでは、フレアーのタイトルに挑戦して45分時間切れまでを戦い抜き引き分け、観衆と視聴者に実力が本物であることを知らしめた。
ムタこと武藤によれば、当時はこの3人がそのまま団体のトップとして、フレアーは別格としても、自身もスティングも高いギャラを得ていたという。
89年に全日本プロレスに参戦するべく初来日。
米国での活躍からファンには期待されていたものの、全日本(馬場)側には見た目の派手さを敬遠されたのか、新人を抜け出していない頃の田上明には勝利したが、常連のダニー・スパイビーに敗退している。
一方、本国では90年にフレアーを破り、当時のムタでも届かなかったNWA世界ヘビー級王座を獲得。
しかし、NWA世界ヘビー級王者として臨んだ、91年に新設されたWCW世界ヘビー級王座の決定戦では、フレアーに敗れて初代王者にはなれなかった。
その後は、WCWの主役の一人としてフレアーやレックス・ルガー、ビッグ・バン・ベイダー等とWCW世界ヘビー級王座を巡り争う一方で、ベビーサイドの大将格として活躍。
尚、90年代にはWCWが新日本プロレスと提携を結んでいた関係で、ビッグマッチを中心に大物ゲストとして度々と来日。
嘗てのライバルである武藤(ムタ)と戦ったり組んだりすることが多かったが、意外な所では猪木の引退記念ファイナルカウントダウン格闘技トーナメントに参加し、異種格闘技ルールを勝ち抜き、猪木とも対戦していたりする。
本国でも、団体のトップとしてプッシュ候補の中堅や、WWFからの移籍組と試合の中で絡む役回りを担う等、実際には非常に器用に立ち回れる職人肌の選手なことが窺える。
93年にハルク・ホーガンが、94年にランディ・サベージがWCW入りすると、ルガーも交えたマッチョなベビーフェイスとして活躍。
96年より本格的に始動させたルガーとのタッグでは、ロード・ウォリアーズといった大物や、ハーレム・ヒート(スティービー・レイ&ブッカーT)といった実力派タッグとも鎬を削り、シングル戦線に留まらない活躍を見せた。
しかし、同年5月27日にアウトサイダーズを名乗りケビン・ナッシュとスコット・ホールが移籍。
7月7日に絶対的ベビーであった筈のホーガンや現場責任者のエリック・ビショフが彼等と結託してnWoが結成されると、世間からの注目と番組の人気はともかく、以降のWCWでは特にメインイベントで乱入や裏切り劇が頻発してまともに試合が成り立たなくなる。
10月より、やりたい放題のnWoに対抗する為か、ブラック&ホワイトの『クロウ』をイメージしたキャラクターにイメージチェンジ。
nWoメンバーがリングを占拠してやりたい放題していると天井から音もなく降下し、黒バットや新必殺技のSDD(裏DDT)で蹴散らしていくというキャラを確立。
nWoが裏切り劇を助長させて勢力を拡大させていく中で、明確に敵対する孤高のヒーローポジションで活躍した。
尚、この時に出現していたnWoの偽スティング(nWoスティング)で、後に新日本プロレスの常連外国人となっ世間のたうたジェフ・ファーマー(スーパーJ)とは勿論、別人である。
97年末には、ホーガンより4年ぶりにWCW世界ヘビー級王座を奪取するが、モントリオール事件を経て移籍してきていたブレット・ハートの疑惑の裁定等で王座を剥奪されてしまう。
しかし、翌98年2月の再戦にてサベージの介入により勝利を収めてベルトを取り戻す。
しかし、この頃よりWCW内のシナリオ展開が粗雑になって行き、nWoがホーガン派とナッシュ派に分裂。
それまではnWoから距離を置いていたスティングもナッシュ派に加入。
ナッシュ派のカラーに合わせて、レッド&ブラックのペイントも登場し、後には白黒と組み合わせたカラーリングも見られるようになった。
同じく加入していたザ・ジャイアント(ビッグ・ショー)と組んでナッシュ&ホールよりタッグ王座を奪取したが、今度はナッシュと組んでホール&ジャイアントとタッグ王座を巡って抗争を開始した。
分裂したnWoに加え、チームWCWも交えた抗争が繰り広げられる中、10月より90年代前半のWWFの招致にして、同じサソリ固め使いのブレットとの待望の抗争が開始されるも敗れ、そのまま負傷欠場に追い込まれるアングルによりフェードアウトさせられてしまう。
この間はTV中継の無いハウスショーには出場して単発で試合はしていたものの、メインストーリーから離れていた99年1月に悪名高きフィンガーポーク・オブ・ドゥーム事件が発生し、nWoは勿論、自分に替わるポジションにいたゴールドバーグも、WCWその物の求心力も急速に下がっていった。
4月に番組に復帰するがシナリオの質は下がり続け、nWoも消滅。
混乱する団体は、本来は重用すべきでは無い人間を重用した結果、WCW世界ヘビー級王座の価値も下がりまくり、フレアーやスティングの様なメインイベンターすらが粗雑な扱いを受けるようになり、ブレットもゴールドバーグとの試合中のアクシデントで引退同然の欠場に追い込まれていた。
00年からはフレアーが音頭を取るミリオネアーズクラブに加入。
同じペイントレスラーで、怪奇派の大物バンピーロと抗争。
尚、この時期には猪木の介入による新日本プロレス内のゴタゴタと混乱に嫌気が差していた武藤がムタとして契約参戦していたが相変わらずメインストーリーは混乱続きで、ホーガンも逸早くに団体その物から離脱、フレアーやスティングやムタが頑張っても求心力は取り戻せないという有り様となり、アティチュード路線全盛のWWFとの格差は決定的となっていた。
そして、01年3月にWCWは活動を停止。
最後のNitroにて、スティングは業界の偉大なる先達にしてライバルであったフレアーと対戦して勝利。
放埒な番組展開の中でもプロレスリングを守り続けようとした二人は抱擁して互いを讃えた。
【インディー時代】
こうして、01年早々にWCWばかりかECWも崩壊すると、WWE(WWF)は双方の団体の映像コンテンツと、十把一絡の若手を買い上げ、それぞれの団体で活躍した中堅以上の大物とは個別契約を結び始める。
しかし、スティングは要請に応じず、オーストラリアのWWAや、TNAへの単発参戦、ハワイのHCW、NWAミッドアトランティックが韓国で行った旗揚げ戦等に参加するものの、何れも年に数える程の活動に留まり、表舞台から姿を消していた。
05年夏には、アティチュード時代のWWFの主役であったケン・シャムロックやミック・フォーリーとプエルトリコでの新団体設立の話が起こっていたが、前売り券の不振により頓挫している。
【TNA時代】
05年末に漸くTNAと契約し、06年より参戦。
TNAではジェフ・ジャレットやナッシュといったWCW時代からの同僚は勿論のこと、WWEを離脱したカート・アングルやロブ・ヴァン・ダム、やジェフ・ハーディー、新世代のAJスタイルズやサモア・ジョー等との対決も実現した。
WWEの隆盛やWCW時代に比べると世間の注目は遥かに低かったとはいえ、40代ながらTNAでも団体のトップグループに属して活躍した。
アングルが結成したレジェンド軍メインイベントマフィアや、ホーガンを除くオリジナルnWoのメンバーと結成したthe BAND等に属し、TNA世界王座にも4度も就いている。
10年にナッシュと共に契約更新はせずに一度は退団するも、11年に入ってWWEがアンダーテイカーの復活をネタに話題を集め始めると、対抗してネタにされ、早々に呼び戻されている。
12年に入るとGMに就任してTNAを仕切るアングルが展開されるが、ヒールユニットのエイシズ・アンド・エイツと一年に渡って抗争。
尚、同年6月にTNA殿堂に迎え入れられている。
その後の14年1月に、元は共にチームを組んでいたマグナス(ニック・オールディス)が保持するTNA世界ヘビー級王座に挑戦するも、マグナスが属するチーム・ディクシーの乱入により王座挑戦に失敗すると、今度こそTNAから完全に離脱した。
【WWE時代~引退】
14年4月に遂にWWEと契約し、同年にWWE殿堂入りしたばかりだったのに直前に逝去してしまっていた、最初の相棒であり、親友でもあるアルティメット・ウォリアー(ジム・ヘルウィッグ)への追悼インタビューに登場。
以降、各種イベントやサイン会にWWEスーパースターとして参加していた。
WCW崩壊後、10年以上を経てのスティングの登場を実現させたのはビンスの娘婿で現場責任者でもあるトリプルHで、長期間に渡り粘り強くスティングという偉大なるプロレスラーの登場を訴え続けていたそうで、それが当人にも引退の二文字が見えてきたタイミングで心境の変化と重なったのかもしれない。
実際の番組への登場は11月のサバイバーシリーズで、トリプルH派閥のチーム・オーソリティとチーム・シナとのエリミネーションマッチで、自分とステファニーの権力を守るために乱入したトリプルHによりドルフ・ジグラーが痛め付けられる中、会場が暗転すると共にタイタントロンにスティングが映し出され、大歓声と共に入場。
トリプルHとにらみ合い、痺れを切らして襲われた所をかわしてSDDで叩き付け、ジグラーをセス・ロリンズの上へ寝かせてチーム・シナの勝利を呼び込んだ。
年が明けた15年1月のRAWにて、オーソリティとの1vs3のハンディキャップマッチ戦の終盤に姿を現し、劣勢だったシナが勝利するきっかけを作る。
2月の新PPVファストレーンにて、自身の邪魔をするスティングに対して、WCWの伝説が今更にWWEに上がるのか(すっとぼけ)とする訴えの中で登場。
前回に続き、襲われるも切り返し、更にはハンマーを持ち出されるが黒バットを突き付け、捨てさせておいてからSDDでKOした。
3月のレッスルマニア31で、遺恨戦が組まれる。
中盤から、トリプルHにD-ジェネレーションX(ロード・ドッグ、ビリー・ガン、Xパック)が加勢すると、スティングにはnWo(ホーガン、ナッシュ、ホール)が加勢する、嘗ての月曜視聴率戦争の縮図とも呼べる展開の中で、終盤にはショーン・マイケルズまでもが乱入。
二度目のスコーピオン・デスロックの体勢に入った所をマイケルズのキックで倒されるもカウントをはね除け、黒バットでハンマーの柄を破壊するも、最後はスティンガースプラッシュをハンマーの鎚のカウンターで倒したトリプルHが勝利。
試合後には、トリプルHから差し出された握手に応じる。
9月にセス・ロリンズの保持するWWE世界ヘビー級王座に挑戦するも、試合中に負傷し、丸め込まれて敗退。
16年1月にWWE殿堂入りが発表され、4月の授賞式ではフレアーがインダクターを務めた。
そして、この場で正式に引退を発表。
プロレスラーとしては引退するがお別れではないとの言葉を残した。
【AEW】
スティングとWWEの契約が切れ、グッズが買えなくなったことから噂は立っていたが、2020年12月のAEWに登場。マネージャーやコメンテーターではなく現役選手として複数年契約を結んだ。現在AEWは、インディ団体出身、新日本プロレス絡みの若手、中堅を中心とながらも、選手、裏方も含めてクリス・ジェリコ、ビリー・ガン、ディーン・マレンコ、アーン・アンダーソン、タリー・ブランチャード、ジェイク・ロバーツ、タズ、ジム・ロス、ビッグ・ショー、クリスチャン(ビッグ・ショーとクリスチャンはスティングよりも後に移籍)などNWA、WCW、WWEを支えたベテランが集まりつつある。
【主な得意技】
- スコーピオン・デス・ドロップ
長いのでSDDと表記されることが多い。
いわゆるリバースDDT。
黒白コスチュームとなってからの必殺技で、突如として姿を現して混乱しているnWoメンバーを次々とKOする為に使用されていたのが、試合でも決め技となっていった。
大技であるツームストーン・パイルドライバーから繋げることもあった。
ボディスラムの体勢から入る(ブリティッシュ・フォール)型や、ジャイアント(ビッグ・ショー)相手には、コーナーポストからのスイング式を繰り出して仕留めている。
- スコーピオン・デスロック
サソリ固め。
米国では、この技はもう一人の代名詞的使い手であるブレット・ハートの影響からシャープ・シューターと呼ばれることが定着しており、また他に現れた使い手達も別の名称を用いていたのだが、スティングはオリジナル(長州力)へのリスペクトからか、直訳した名称で使用し、自身のキャラクターのモチーフもサソリとしていた。
尚、使い始めたのはブレットよりも早く、米国での先駆者である。
高身長で足が長いために、正直に言うと(短足が活きる)サソリ固めとの相性は悪い体型なのだが、大一番ではエグい程に腰を落としていった。
- スティンガー・スプラッシュ
ジャンピング・コーナー・スプラッシュ(ジャンピング・コーナー・ボディアタック)。
代名詞的な技で、相手をコーナーに振ってから、かなり距離がある状態から飛んでいく。
主にペースを握ったり変えるのに使用された。
また、スティングの場合はダイビング・ボディプレスもスティンガー・スプラッシュの名称で使用されている。
- フェイスクラッシャー
実況では“飛びつき式ワンハンド・ブルドッグ”とも呼称される。
魅せ技の一つで、腹部へのキック等で体勢を崩した相手に対して豪快に決めていく。
- リフトアップ(ミリタリースラム)
どちらかと言えば、その場飛びでトップロープを簡単に越せる程の跳躍力が売りの選手なのだが、大型のボディビル出身の選手としての矜持からか、魅せ技として使用し続けた。
フレアーはともかく、大型の部類に入るムタ(武藤)も余裕で抱えあげることが出来た。
この他、ドロップキックやダイビング・クローズライン(ラリアット)、飛び付き式DDTといった飛び技も得意としていた。
追記修正は音もなくお願いします。
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- ブレードランナーズ時代は塩と言われてたけど必死の練習もあって試合巧者になってったんだよね、ここら辺が後のウォリアーとの差になって行くことになる -- 名無しさん (2023-08-17 00:50:04)
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