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尭、舜、禹とは、中国古代の王である。ここでは三人まとめて解説する。
【三皇五帝】
まず、古代中国における「三皇五帝」というものについて軽く触れる。
簡単に言うと、中国の世界と文明を作った偉大な神々や賢者の総称である。
しかしそのメンバーは一定しない。
論文を書いた中国人が、とりあえず「自分の思想で一番重要な古代のヒト」を「三皇」とか「五帝」と評したためである。
ハッキリ言うと「論文を書いた人の数だけ三皇五帝がいる」のだ。なんと迷惑な……
そのため、「三皇」というと伏羲(ふっき)、神農(しんのう)、女媧(じょか)、燧人(すいじん)、祝融(しゅくゆう)、黄帝(こうてい)の「六人」*1。
「五帝」は伏羲、神農、太昊(たいこう)、炎帝(えんてい)、黄帝、少昊(しょうこう)、顓頊(せんぎょく)、嚳(こく)、尭(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)、湯(とう)の「十二人」の名が上がったりする。とりあえずこの中から3人と5人を選ぶのだ*2。
しかも、これはとりあえず日本語版Wikiに乗っている有名どころを列挙しただけで、他にももっといる。これが最低限だ。
ところでこのメンバーを見ると、ほとんどが人間であると言うのがおもしろい。
伏羲や神農、女媧は神とされているが、燧人やそのちょっと前に現れた有巣(ゆうそう)などは、人間の中から現れた賢人とされている*3。
そして黄帝(姓は公孫or姫、名は軒轅)は古代中国世界を統一し運営した「王」であり、中国人の開祖とされる*4。
中国では「人間の世界は人間によって統治・運営するものだ」という考えが大昔からあったのかもしれない。
この黄帝の死後、王位は黄帝の子孫のうち有力なものに継がれていき、ついに尭にいたる。
【尭】
「尭」というのは王としての称号であって、本名ではない。
姓は伊祁、名前は放勲といい、黄帝の子孫である。父も帝の一人で、父と兄が死んだあとに世襲した。
初めは「陶」、次いで「唐」の地を領主として治めたため、「陶唐氏」、もしくは「唐尭」とも呼ばれる。首都は平陽。
尭の統治で知られているのは、四人の大臣(羲和・羲仲・羲叔・和仲)を用いて暦を制定し、一年を三六六日と定め、三年に一度の閏年で調整させて、人々に定期的な農業などの標を与えたことである。
また、あるときは太陽が十個も現れて中国全土を枯渇させた*5。
この灼熱地獄にあって、尭は弓の達人であった羿(げい)を抜擢。彼はその弓で太陽のうち九つを落とし、世界を救ったと言う*6。
一方、その頃の中国は黄河の大氾濫にも悩まされていた。
そこで治水を行なおうとしたが、群臣から推挙された鯀(こん)は治水に失敗する。
また、尭は王として君臨するうち、年老いて死期を悟るようになった。
尭には丹朱と言う息子がいるが、あまり聡明ではなかったため、尭は我が子ながら後継にしたくなかった。
群臣のなかで有力者だった共工も推挙されたが、尭はやはり不適当と見なして却下した。
賢人として名高い許由に国を譲りたいと申し出たこともあったが、許由からはそっけなく断られてしまう。
そこで、民間ながらも名が挙がったのが舜である。
【舜】
舜と言うのも王としての諡号であり、姓は姚、名前は重華*7。
従って、王に即位する前は「姚重華」というべきかも知れないが、基本的に舜と呼ばれる。
「虞」を治めたため、「有虞氏」「虞舜」とも呼称される。
母親が早く死んだために、父と継母、そして継母の産んだ子とともに暮らしていたと言うどう見ても中国版シンデレラです本当にry(ただし男だ)な出生の持ち主。
しかも継母や異母弟のみならず実父にさえ嫌われ、こき使われ、さらに一度ならず命まで狙われると言う、いよいよもってシンデレラと同じように苦労を重ねていく。
しかし、舜はどんな辛い目に遭わされても良く働き、両親を支えて弟を愛し続けた。
これがいわゆる「孝」の至上であり、その不幸ぶりもあいまって周囲からは認められており、その評判が尭のもとにも届いたと言うのである。
そこで尭は、まず自分の娘二人を舜に嫁がせて、彼の人となりを近くで観察。
王子さまならぬ王女さま、それも二人から婿に迎えられた舜だったがガラスの靴のイベントはない、彼は調子に乗ったりすることはなく、むしろ彼の優しさや生き方は二人の王女さえ感化させ、貞淑で篤実な女性へと成長していく。意地悪な継母や異母弟への復讐イベントもない。
そこで尭は舜を起用して政治をさせてみた。
あるとき、歴山の農民が、農地の境界線を巡って争っていた。
そこに出かけた舜は、農民たちのあいだで一緒に農耕に励んだ。
そして一年が経つ。農民は舜の立派な働きに感化されて、誰が言うでもなくまじめに働き、争うこともないままに、溝や畝までが整った。
この舜の働きで、歴山は舜耕山とも呼ばれたと言う。
同じころ、黄河のほとりで漁師たちが争っていた。やはり、波止場を巡っての縄張り争いである。
舜は同様に現地に行き、漁師たちと一年をともに働いて過ごす。彼らは年長者に波止場を譲るようになった。
東方では陶工たちが手抜きをして、粗雑な陶器ばかりを作っていた。
舜はやはり現地に赴き、一年かけて一緒に土器を作る。陶工たちはみな舜の行いに導かれ、陶器は上物ばかりになった。
言わば「徳化」――己の人徳で人々を導く――の鑑のような男である。
彼の死を望むほど憎んでいた家族も、舜の家族を決して恨まず、支え続ける姿にいつしか心が折れ、恥じて手を出さなくなった。
朝廷に用いれば百官は勤務に励み、諸侯や異民族は敬意を向け、摂政として用いると国家の政治を良く治めた。
ここに至り、尭は舜に王位を譲った。
王と言う至尊の地位と、国と言う最大の資産を、自分の息子に継がせず、きっと人々を導ける聖人・舜に譲ったのである。
帝位を譲られた舜は、尭のころからの課題であった黄河の治水に着手。
尭の世に抜擢されたが失敗した鯀を処刑(もしくは流刑)したが、その一方でその息子の禹を起用し、ついに黄河の治水に成功する。
そのほかの業績として、窮奇・渾沌・饕餮・檮兀の「四凶」といわれる怪物を四方に流して辺境の鎮守としたり、悪事を為す四人の臣下・部族を追放したりしている。
【禹】
禹は、先立って尭の治世に黄河の治水に挑んだが失敗した、鯀の息子。
姓は姒(じ)、名前は文命。字は密とも。黄帝の子孫ではあるが、実際はほぼ西方・羌族の出身らしい。
鯀は治水失敗の責任を取って舜に処刑されたが、舜はその息子の禹は能力があり、かつ熱意もあると見て、あえて抜擢したのだ。
なお、三国志にて街亭の戦いで北伐を失敗させた馬謖が、「舜が鯀を斬りながらも禹を用いたように、我が一族には連座させないでください」と諸葛亮に嘆願したのはこのこと。
起用された禹は、父が失敗して死んだ事業と言うこともあり、大変な熱意でもって治水に挑んだ。
家の近くを通りすがっても、家族の顔を見にちょっと足を止めることさえしなかったと言う。
あまりにも励みすぎたために彼の足はすねの毛も生えず、手はあかぎれでヒビだらけになり、片足が衰えて不自由になったらしい*8。
そうした心身を忘れた勤労ぶりが功を奏して、ひどい氾濫を繰り返していた黄河はなんとか治まった。
治水に成功した禹の功績は大いに讃えられた。
禹はその後も忙しく働いた。大陸を流れる各地の大河を測量してそれぞれ治め、馬車や犬ぞり、船などを駆使して全土を巡り、土地の物産や生産力、土地の性質などを研究。
ついに大陸を九の州に分割し、その天下を良く治めたと言う。
折しも老年期にさしかかっていた舜は、かつて尭が息子たちではなく自分に王位を譲ってくれたことを思い返していた。
見渡せば、舜の息子である商均もやはり聡明ではない。
そこで、彼もまた禹に禅譲することを決意。
舜が死んだあと、禹はいったんは商均を王に立てたが、人々は禹の元に集まったため、結局は禹が王として即位した。
首都は陽城に置かれ、国号は「夏」と定めた。
最期は南方へと巡業していたさなかに没し、会稽山に葬られたという。
【王朝の始まり】
禹の治世は、尭・舜以来の老臣である皋陶(こうよう)が、公正な司法官として名を馳せていた。
禹は自らも老年になったことで、自分も尭や舜と同じように、王位を息子の啓にではなく、賢者である皋陶に譲ろうとした。
しかし皋陶は禹に先立って死んでしまう。
そこで禹はやむなく、それに次ぐ賢人であった伯益に王位を譲り、後事を託して没した。
だが、伯益は禹の息子である王子啓に王位を返上した。
尭が王位を舜に譲ったときや、舜が禹に譲ったときも、当初はそれぞれ前任者の子供に譲っていたが、この場合は伯益が執政として天下を治めた時期が短く、人々は伯益よりも王子啓のほうに集まったのである。
こうして、啓は父の跡を継いで王として即位した。
つまり、初めて親から子へと世襲される国家――王朝が歴史に誕生したのである。
禹の立てた王国は、その国号を「夏」といった。
これが、中国最初の王朝である「夏王朝」であった。
なお、夏については大諸侯と言う意味で「夏后」とも呼ばれ、禹を初めとする王家は「夏后氏」とも呼ばれた。*9
ただ、後世に夏后禹と呼ばれることは原則としてなく、ほぼ「夏禹」と呼ばれている。
【評価】
天下を統べる王でありながら、その国家を私物化することなく、賢者を選んで後任に据えた三人の行動は、無私の鑑であり、人の上に立つものの至上の姿とされている。
もちろん、尭や舜が生きていたのは、例えば司馬遷が史記を研究していた時期から逆算しても二千年ほど昔である*10。
故に、そのまま業績が伝わっているわけもないが、彼ら三人の古代王の逸話は、時に権力に縛られて道を踏み外す後代の支配者たちのことを思うにつけ、ますます噛み締めるべきものがあるように思う。
また、舜はどれほど苦しめられても決して親や家族をないがしろにしなかった「孝」の理想であり、言葉や強制によらずして人々を導く「徳化」の体現者でもある。
特に彼の在り方は、後年儒教において「聖人というものの具体例」として大いに称揚される。
禹は、君主として身を粉にして働き、しかも成功して中国の一つの基礎を定めた。
中国では洪水の害が他の大文明に比べても特にひどく、その黄河を治めた禹のエピソードは、中国における『王朝』という組織が作られていく過程を象徴したものだ、とも良く言われている。
つまり、中国は極めて早い時期から大規模な王朝、組織が誕生したが、それは「黄河の氾濫に対抗し、治水を行なうために、中国人は早期から団結することを強いられていたからだ」というわけだ。
その「団結と王朝発生の歴史」の象徴が、禹だと言うわけである。
ただし、否定的な意見もある。儒教を批判した韓非子は「舜が優秀であれば、尭が無能ということになる」として、優秀ならばどちらも立たないとして有名な『矛盾』という言葉を残している。また「当時は宮廷といえども現在の門番にすら劣るような生活水準であり、『天下を譲る』といってもたいしたことではなかった。」と評しており
もちろん、現実に尭・舜・禹のような聖人君子がいたとは考え難い。歴史としては出来過ぎだ。
しかし、中国人にとっては「それが本当か」は関係なかったはずだ。
「歴史とは、現実に何が起こったかではなく、何が起きたかと人々が信じたかである」と論じた、西洋の学者がいた。
彼らの存在は、たとえ現実でなくとも、人々への教戒や指標として様々な書類に記され、人々はその存在を学び、自らの糧としていったのである。
そう思うのなら、「聖人とはなんであるか」「名君とはなんであるか」を象徴する尭・舜・禹の存在は、やはり「歴史」として学ぶ価値があると思う。
【考古学的見地】
この尭舜禹の逸話は、あまりにも作為的・教訓的すぎているため、そのまま「事実」であったとは考えられない。
また、禹を始祖とする夏王朝も、長らく「実在しなかった、架空の王朝だった」と説明されてきた。日本では現在でもそうである*11。
しかし近年は考古学の研究が進み、かつては発見されていなかった、殷よりも昔の時代の、かつ殷に匹敵するほどの大規模な宮殿・城郭都市の様相、そして遷都の過程がはっきりしてきている。
しかもその夏王朝末期の大都市が、殷の勢力によって攻撃され、吸収されたこと、現地の住民たちは王朝交代も気にせず日常生活を送っていたことなどなど、夏王朝の研究は多いに進んでいる。
さらには、この夏王朝時代の城郭都市・都市国家よりももっと古い時代に、殷代のそれにも匹敵する巨大な城郭都市の痕跡(陶寺遺跡)までもが発見され、
一部には「夏王朝はもちろんのこと、夏王朝以前の広域の指導者、すなわち尭舜伝説のもととなった存在はあったのではないか」という説まで出ている*12。
実は殷王朝も、一昔前は「実在しない」「司馬遷の捏造」「王名表とか、司馬遷が適当に捏造した、ゴミクズ資料」などと散々に叩かれていた。
しかし長きに渡る研究の結果、殷王朝の実在は諸外国さえ否定できないレベルで確定した上、「司馬遷の妄想」とか散々に言われていた殷王朝の歴代王の名前も、相当一致することが発覚した――と言う経緯がある。
もちろん、司馬遷は考古学者ではなく官僚であり、彼の調査や解釈は漢王朝の実情や、わずかに残る周王朝の記録が元であった。
そのため完全に一致していたわけではないが、彼が書いていたことは、かつて考古学者が頭ごなしに否定していたような「妄想・捏造のゴミクズ資料」ではなかったのである。
禹や舜、尭は「いま現在はまだ発見されていない」というだけであり、それは「新証拠によって覆りうる」ということだ。
そして、それを追い求める人たちがいる限り――歴史のロマンもまた、終わらないのではなかろうか。
【余談】
他の場所に入れられなかったためにここに記すが、禹は「神」としても祭られている。
というより、「禹」という文字自体が龍神の一種らしい。
さらに禹は、宮廷の奥に鎮座して国を導く「聖王」というよりも、最前線で率先して労役に励む「労働者」としての顔が強かった*13ために、官僚や学者よりも民間での信仰が篤かった。
聖王としての図式が確立した後の春秋戦国時代や秦漢代でも、旅行の神・医療の神として扱われていることが多いこと、禹の歩き方を再現した「禹歩」が、呪法の基礎として現代でも用いられていることなどから、
「もともと信仰されていた神を人間として描いた」というよりも、「禹の描写が民間で好まれ、関羽と同じく神として扱われた」とみる方がいいだろう。
「禹」の文字が龍神を現すといっても、「姒文命が水を治めるのに成功したから、龍を現す禹の文字を奉った」とも考えうる。
尭と舜が儒教で重要な存在となったことは上述したが、道教でもこの三人は「三官大帝」として祀られている。
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- 或いは曰く、これは矛盾の言である。-
………………さて。とりあえずはこんなところか。
上の記述は、基本的に「史記」の「三皇五帝本紀*14」、それに「夏本紀」をベースに書いたものである。
多少の差異はあれども、後世にもたいていはこういう理解となっている。日本語版Wikipediaでもこんな感じだ。
これらは、別に始皇帝のように「イメージだけで発生した、ありもしない虚像」ではなく、多くの書物に記されていると言う意味で「史実」である。間違ってはいない。
しかし、これだけでもない。
冒頭、三皇五帝について「論文を書いた人の数だけ三皇五帝がいる」と書いた。
そして、その「書いた論文」が、いや「論文を書く人」が猛烈に増加した時期がある。
春秋戦国時代だ。
西周時代から漢字や漢文が大発展して、論文を書く人も増えた。
そこに、春秋戦国時代と言う「人材の売手市場」といわれる時代が現れた。ちょっとでも才覚があれば、それこそ「鶏の鳴き真似」や「窃盗術」でさえ、有力者に召し抱えられて、才能を発揮できた時代である*15。
そうなると、少しでも自分の見識に自信がある人は、それを論文にしたためて次々発表するようになった。
ところで、そうした論文を書くときに「俺はこう思いました、マル」だと、あまり売れない。信憑性がない。
と言って、当時は古典の参照とか出典確認だとかが気軽に出来た時代でもない。図書館は存在しないし、文献資料もそんなにまとめられていない。
というより、文献を当たり引用するという考えそのものがなかったと思ったほうが正しいだろう。
では、当時の人たちはどう論文を書くのか?
ズバリ、自分の意見を述べたあとに「古代の賢人も俺と同じことを考えて行動していた」というのだ。
もちろん、その論者はまったく新しい考えを打ち出すのだが、発表するにあたっては自分のオリジナルとは言わずに「俺と同じ考えを古代の賢者もやっていた」「古代の賢者の行いは、俺の思想と一致するのだ」と説くのだ。
さらにこの流儀は春秋戦国が終わってからも延々と使われるようになる。
まあ、それはそれで一つの流行でありルールでもあるから、それはそれでいい。
しかし、そこで妙なことになったのが尭たちだった。
尭たちの存在など、春秋戦国の人たちから見てもはるか古代である。本当のことなど確かめようが無い。
しかし彼らは古代中国では既にビッグネームであり、それゆえ論者の権威付けに散々引用され、結果としてさまざまな異説、解釈が産まれることになった。
そしてそのなかには、尭や舜、禹の「聖人君子」像を木っ端微塵に吹っ飛ばすものさえ存在する。
いや、論文だけではなく、尭たちを扱った単純な文献資料のなかにも、だ。
【異説・尭/舜/禹】
さきほど、西周や春秋戦国時代には資料を引用する考えはなかったと言った。しかし、これは正確には誇張である。
実際にはある程度、資料は保存される傾向にはあった。論文が無定見に増えたのは本当だが、資料保存の観念や記録の概念は当時もそれなりにあった。
それらのほとんどは二千年以上の時の中でほとんど散逸・忘失していったが、一部は他の資料に記録されるなどして、現在も残っている。
そのなかでも最も有名なものが「竹書紀年」である。
三国時代の末期、晋が呉を滅ぼして天下を統一する直前の西暦279年に、戦国時代の墓から発見されたものだ。
竹簡に書かれたためにこの名がある。
現在は散逸しているが、模写されて記録された一部が「史記索隠」や「史記正義」、「山海経」などの一部資料に残っている。
そしてそこの微かな記録を読むと、
- 「かつて尭の徳が衰えたために、臣下であった舜に捕えられる結果となった」
- 「舜は尭を平陽に捕えて、帝位を奪った」
- 「舜は尭を捕えて丹朱を幽閉し、父とは会おうとしなかった」
……これでもまだ一部である。
舜は尭に譲られたのではなく奪ったのであり、親孝行であったと言うのも後世の捏造だと言うわけだ。
実際、春秋戦国時代の書物を紐解くと
- 「尭は慈悲深くなどなかったし、舜は両親を幽閉して弟を殺した」
- 「尭の死後、丹朱が即位した(が、その後舜に殺されて)葬られた」
などという記述を見つけることもある。
さらに、司馬遷である。司馬遷は「史記・五帝本紀」を書くにあたって、こうした逸話を「五帝本紀には」載せなかった。
しかし、実はこうした聖人君子ではない古代王たちの逸話を、史記の各所に潜ませている。
例えば、「禹が伯益に王位を譲ったが、伯益は禹の遺児である啓に譲り直した」という逸話。
一般には、王位を賢人に譲る清廉な禹と、降って沸いた幸運をそれでも王の子に返した無欲な伯益、といった美談である。夏本紀にもそう書かれてはいる。
しかし、「燕召公世家*16」には、
- 「昔、禹は王位を伯益に譲ったが、王位を継げなかった啓は謀反を起こして伯益を殺し、夏王朝を立て直した」
- 「禹は伯益に譲ると言う美名だけは獲得したが、実際はちゃんと息子に継がせたのである*17」
- 「しかし人々はその様を見て、禹も権力に執着していると思った」
という記録が堂々と載せられている。
ついでに言うと、その個所では「尭が許由に禅譲しようとしたのも、彼が受けないと見越した上でのことだ。尭は天下を譲るという美名を受けて、しかも天下を失わなかった」ともある。
類似した話は「戦国策」など他の資料にも記されている。
考えてみれば、彼らはそもそも「権力の世界」で生きる「王」であったのだ。
むしろ竹書紀年などに記されたこうした像のほうが、より実像に近いであろう。
そして春秋戦国時代の末期になって、一人の思想家が現れることになる。
秦の始皇帝の師である韓非子である。
韓非子も、もちろん十万字の大著「韓非子」*18という論文を書いたために、幾度か尭舜や禹について触れている。
しかし、
- 「斉の桓公は臣下の使い方を知らなかった暗君で、臣下の使い方を教えなかった管仲は忠臣ではない」
- 「管仲は君主の権威を背負うだけで政務を執れる。しかし彼はあえて身分を尊くして屋敷を豪勢にし、君主並みの権威を誇った。執政が国政を左右することと、執政の身分が高いことは関係がない。管仲は政治を知らなかったか、強欲だったかのどちらかだ」
などなど、非常に鋭い眼力をもって、多くの美談をナデ斬りにし、「いかに良く統治するか」を究明した韓非子である。
尭舜については
- 「宮殿は粗末なかやぶきで、柱もナマの材木同然。食事も衣服も粗末で、今の門番よりも生活に苦しかった」
と王の生活を描写し、統治に励んだ禹に至っては
- 「忙しく走り回ったから、すねの毛が無くなって生える暇もなかったほどである」
と述べた上で、
- 「こんな生活をしていれば、だれだって禅譲したくもなる。彼らが王位を譲ったのは、奴隷同然の苦しい生活から抜け出したかったからで、ことさらに賞賛することではなかった」
- 「逆に現代の人々が、下級役人であっても地位にしがみつくのは、地位に就くことで莫大な財産を培って、子孫にも残せるからである」
- 「古代人が尊くて現代人が卑しいのではない。実入りの重い軽いの違いがあるだけだ」
と述べて、「禅譲する聖人」という尭たちを、讃えるべき存在ではないと喝破した。
さらには
- 「尭や舜は、我々(韓非子)の時代から考えても何千年も前のことである。世の論客は『これこそ尭舜の教えである』とうそぶくが、然るべき根拠もないのに『正しい』と主張するのは愚かなことで、絶対に確かめられないことを語るのは欺くことである」*19
- 「このような『愚誣の論』――妄想じみた愚論か、最初から騙すこと前提の適当な論説は、用いてはならない」
と猛烈に批判した。
そしてその韓非子の、尭舜伝説に関するもっとも強烈な批判こそが「矛盾」である。
矛盾と言うのは韓非子が造り出した言葉で、「理論的に、絶対に両立しえない概念」である。
「何物も貫く矛」と「何物も貫けない盾」は、同時に存在しない。
矛が盾を貫けたのなら「何物も貫けない盾」はウソになり、盾が矛を防いだのなら「何物も貫ける矛」はウソになる。
両方壊れたとすれば、両方がウソだったと言うだけのことだ。
さて、尭舜である。
尭は、長く王として君臨していたが、己の後継足りうるかを確かめるため、舜を起用した。
舜は、土地を巡って争う農民、波止場を争奪する漁師、不正をする陶工のあいだに入り、それぞれ一年を掛けて人々を正しい方角に導いた。
尭は無欲の賢人で、舜は「徳化」の際たる賢人である――と言う。
しかし韓非子は、これを「矛盾だ」と喝破した。
尭は名君と言われている。しかし、尭が名君として国を良く治めていたのなら、農民や漁師が争い陶工が不正をすることはないはずだ。つまり舜が「徳化」する余地はない。
逆に、農民や漁師が争い、陶工が不正を働いたと言うことは、尭の統治に過失があったということである。
舜が賢能を発揮したと言うことは、尭に過失があったと言うことであり、尭が名君であったと言うのなら、舜は手柄を偽ったのだ。
尭と舜はまさしく『矛盾』で、二人ともを聖人君子と誉め讃えることは出来ないはずである」
どうだろう。なるほどと思うか、強弁だと思うか。
もちろん、韓非子は尭舜や禹に恨みを持っていたわけではない。彼らの説話を捏造しては乱舞する、世の学者たちを批判したのだ。
あるいは、ちょっと考えれば明らかな矛盾が見える論説をありがたげに拝聴し、定見もなしに用いては業績を上げられず、それでいながら彼らの弁舌にすぐに騙されて処罰も出来ない、道理のわからない愚昧な君主を諫め、批判したのでもあろう。
また、この話は尭と舜の理論的な矛盾であるとともに、君主と臣下の究極的な矛盾の指摘でもある。
三国志の登場人物、劉備と諸葛亮、劉禅で例えてみよう。
諸葛亮はだれもが認める天才軍師である*20。その諸葛亮が、天下無敵の能力を発揮して国を導くならば、君主である劉備や劉禅は存在する意味はないはずだ。
ぶっちゃけてしまえば、諸葛亮が劉禅を放逐して君主になったほうが話は早い。
逆に、劉備が名君であり、その能力で国家を導けると言うのなら、諸葛亮はせいぜい劉備の優秀な補佐官止まりである。天下を覆うほどの才気などは発揮しようがない*21。
実際、曹操配下の軍師と言ってだれが浮かぶだろう。能力の高い曹操のもとでは、荀彧たち錚々たる軍師は、劉禅時代の諸葛亮ほどには目立てなかった。
君主が優秀であるなら臣下は優秀な補佐官止まりで目立つことが出来ず、臣下が歴史に名を残したときは、君主の影が薄いときなのだ。
韓非子は、尭舜をたとえに用いて「君臣の矛盾」を説いた。それは同時に「尭舜伝説の矛盾」でもあるのだ。
なお、韓非子の「尭舜矛盾」の話はもう少し続く。
そもそも、舜は一つの問題に一年掛けて人々を導いた。三年掛けて三つである。
しかし天下は広大で、問題事などはいくらでも起きる。舜のような賢人は数少ない(数多くいるのであればいよいよ重宝するに足らない)。
数少ない賢者で数多い問題に、一件につき一年掛けて対処させても、統治などはおぼつかない。
まして舜でも難しいことを、凡庸な君主と平凡な朝臣を前提とする、普遍的な統治方法にするのは馬鹿げている。
賞罰の法律を天下に行き渡らせて法令を定め、賞するべきを賞して罰するべきを罰すれば、天下はあっという間に治まるだろう。
もちろん、役人の不正などを禁じ、法律を厳格かつ適切に運用されればではあるが、そうした考えを持たずに現場に突撃して徳化しようなどと言うのは、無謀・無策と言うものだ――と。
ちなみに「韓非子」において「矛盾」が使われるのはもう一つある。
「尭や舜のような賢人は、法による統治とは矛盾する」という意味である。ここでは尭舜のことは「権能で世を治められる君主」の代表格となっている。
詳しくは『韓非子』の項目を参照のこと。
とにかく、尭舜禹と言えども実態は聖人君子などではなかったようだ。
あるいは、不正役人や凶暴な支配者に常に支配されてきた中国人の「聖人君子の支配者などいるはずがない」という思いの反映というべきか。
そして、史記において禹・啓親子と伯益の殺し合いの歴史が、三皇五帝本紀にではなく、一見関係なさそうな燕召公世家に書かれていたことを思うと、
「どこになにが潜んでいるのか分からない」と戦々恐々するとともに、「どこに新しい発見があるか分からない」という楽しさもまた、見出しうるのではないか。
追記・修正をして、歴史を紡ぎましょう。
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▷ コメント欄
- 尭舜禹の伝説は、全部網羅しようとすると際限なく増えるので、読みやすさを優先して有名どころ・重要部分のみに限りました。ご指導いただければ幸いです。 -- 作成者 (2018-05-25 22:02:51)
- イギリスにおけるアーサー・ペンドラゴンみたいな存在か。 -- 名無しさん (2018-05-25 22:29:15)
- 俺には目からウロコの記事だったわ。尭・舜・禹のイメージが史記で描かれてるのしかなかったから。 -- 名無しさん (2018-05-25 22:50:04)
- 中国史の人相変わらずいい記事書くなあ -- 名無しさん (2018-05-25 23:28:07)
- 韓非さんのマジレス最高。やっぱこの人未来を生きているわ -- 名無しさん (2018-05-26 00:16:57)
- 記事はめちゃくちゃ面白いけど相変わらず脚注が多すぎる -- 名無しさん (2018-05-26 01:48:01)
- もし、彼らがサーヴァントになったとしたら、普通のやらオルタやら、その他のものまでいろいろ出てきそうだな(フケイザイダータイホセヨー -- 名無しさん (2018-05-26 12:03:38)
- 韓非子についても知りたくなる良い記事だわ -- 名無しさん (2018-05-26 12:31:40)
- 膨大な記録というのはそれだけ魅力があるんだなって -- 名無しさん (2018-05-27 02:58:38)
- ゼウス「仲良くなれそう」 -- 名無しさん (2018-05-28 12:56:08)
- ↑尭「謀反起こされてから言ってください」舜「頑張って働いたあげくに乗っ取られたよ」禹「嫁や息子と団欒する暇もなかった」三人「贅沢極めてヤリたい放題ヤッてたあんたと仲良くしたくありません」 てな感じでジェラシーもってそう -- 名無しさん (2018-05-28 22:57:22)
- 堯舜はどちらかと言うと神話だからまあ…それでも実在はしていたようだけど。禹からは人間の時代だからまあ -- 名無しさん (2018-06-04 10:20:44)
- 編集したゾイ。君主と部下のところは劉邦と劉秀の違いとか入れたかったがなんかだめそうなんでやめといた -- 名無しさん (2018-06-04 12:10:34)
- ところで前半の最後の >歴史とは、現実に何が起こったかではなく、何が起きたかと人々が信じたかである って誰が言ったんだ?軽く調べてみたが言ったらしい人名が一つも出てこなかったんだが。 -- 名無しさん (2018-10-27 14:30:35)
- ↑ある意味真理ではある -- 名無しさん (2020-12-15 16:46:23)
- なるほどご老公や上様が名君であるなら代官や幕閣がことごとく悪人揃いのわけがないと… -- 名無しさん (2021-05-02 01:36:14)
- 「ここでは触れないこととする」って一文を見たとき「偉そうに勿体ぶってねえで教えろや」とムカついた自分の短気さがイヤになる。自分で調べれば済む事だってのに…… -- 名無しさん (2021-05-02 01:53:51)
- 舜「大変だー、継母や異母弟が何者かに殺されてしまった!どうしよう(棒読み)」なんて事もあったりして -- 名無しさん (2023-05-16 01:04:55)
- 韓非子先生…すげぇ -- 名無しさん (2023-11-22 23:15:44)
- 今日の会議の最大の議題は我々が……三皇(五帝)なのに六人(十二人)居ることだ……… -- 名無しさん (2023-11-22 23:24:52)
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*2 三皇は伏義と神農は固定で残り1枠を選ぶ事が多いが
*3 有巣は人々に巣=家を作って安全に住むことを教え、燧人は火の起こし方を発明して生の肉を喰うことによる食中毒を防がせたとされる。
*4 あと東洋医学の祖。ユンケル黄帝液の名前はここからとられている。
*5 これは蜃気楼だといわれる。一部地域では、蜃気楼の影響で地平線に複数の太陽が浮かぶことがあるそうだ。
*6 一説には彼は神だったとも。のちに彼は太陽神の恨みで神の座を奪われ、不老不死の薬を巡って妻の「嫦娥」に裏切られる。
*7 姓については「嬀(ぎ)」とも言われる。周から春秋戦国の諸侯「陳」の公室は嬀姓であり、舜の子孫を称した。
*8 ちなみに「禹歩」という道術の儀法は、この「禹が片足を引きずって歩いた様」を再現したものだと伝わる。
*9 「夏侯」ではない。
*10 禹は概ねBC2070~1900年頃の人間と定義されている。
*11 日本がことさら否定的なのは、一つには日本史とは全く関係ない分野故の扱いの小ささや、国外のことなので出土資料などの調査が難しく、どうしても中国の研究より遅れることも原因である。まあこれはしょうがないことだが(例えば中国の方が日本よりも日本史に詳しいということはありえないだろう)。
*12 実際このあたりには、遅くとも三世紀には尭の霊廟が立ち、その逸話も多かった。
*13 後漢時代の舜と禹を描いた絵を見ると、舜はいわゆる「皇帝」らしく描かれているのに、禹は粗末な身なりで測量図を持った「労働者」らしく描かれている。
*14 正確には、司馬遷が書いたのは「五帝本紀」のみ。「三皇本紀」は後代の加筆。
*15 孔子のように就職に失敗した例もあるが。
*16 「召公奭(セキ)を始祖とする、燕国の歴史」という意味。
*17 啓が謀反を起こすことを禹は織り込み済みだった、という意味。
*18 「韓非子」という呼び方は、詩人の韓愈が「韓子」と呼ばれるようになってしまい、紛らわしいために「韓非子」に変更されたもので、韓愈以前は「韓子」「韓非」と呼ばれていた。「史記・秦始皇本紀」にも、二世皇帝胡亥が「韓子」と呼ぶシーンがある。
*19 これが「実証主義」
*20 実際はそうではない、という反論は勘弁願う。ここでは「そういうこと」としておく。
*21 事実、劉備時代の諸葛亮は軍事的にはほとんど用いられなかった。兵站司令官・関羽の補佐か、行政府の筆頭といった地位である。
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