殿(しんがり)

ページ名:殿_しんがり_

登録日:2018/04/15 (日) 11:46:20
更新日:2024/02/19 Mon 13:55:23NEW!
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殿 戦国時代 死亡フラグ 貧乏くじ 前田慶次 豊臣秀吉 ガイウス・ユリウス・カエサル しんがり 責任重大



殿(しんがり)とは、リアル「ここは俺に任せて先に行け!」であり、リアル死亡フラグである。



概要

想像してもらいたい。
時代のイメージは大体戦国時代ぐらい。
あなたの所属する軍が敵軍にコテンパンにやられてしまい、何とか逃げ延びなければならないというシチュエーションだ。
背後からは、敵軍の追跡部隊が猛追を仕掛けてきている。
一方、こちらの軍はほとんど半壊しており、まともに戦えるだけの戦力すらない。
ではどうすればいいのか?






誰かが最後尾に立って足止めする他はない







……殿とは、そんな超困難な役割を任された不運な人のことである。


何が難しいのか?

まず、大前提として殿が必要になるのは逃走戦だけである。
つまり、敵軍は戦に勝って士気が高く、一方で自軍は戦に敗れて士気が最悪、という状況である。
そして、基本的に昔の戦と言うのは総大将の生死がそのまま軍の最終的な勝敗になる。
逆説的に言えば、例え戦に負けても総大将さえ何とか逃がせば決定的な敗北は免れるし、一方敵軍は勝利を決定づけるために全力で追いすがって来るのは間違いない。


殿は、そんな状況で軍勢の最後尾に立ちはだかり、追撃しにやって来る敵軍を何とかして足止めする役割を担うのである。


基本的には、命を捨てる覚悟の危険度最高ランクの役割である。
少しでも多くの味方を逃がさなければいけないため、少数精鋭でなんとかやりくりすることを求められる。
そもそもが負け戦の状況なので、まともに戦える味方自体がろくにいないことも珍しくないし、援軍もほぼ期待できない。
指揮官の判断が良くて軽い負け戦で済む場合は殿が全滅まですることは少ないが、それでも最も危険な位置で死亡率が高いことには変わりない。
とても酷い負け戦の時には全滅は必至で、むしろ命を捨ててでも時間稼ぎをすることが求められる場合もままある。


戦国時代の戦の功績は基本的には大将首や首の数で決まるが、殿では例えもう少し首を稼げそうな状況だろうと深追いは決してしてはいけない。
もっとも、殿を務めるということは負け戦な上に撤退中なのだから殿が首の数を気にすることは少ないというか、そんなことを気にする余裕がそもそもあまりない。
深追いに関してはむしろ追撃側の方が注意しなければならず、
深追いした追撃側の武将が討ち死に→その隙に殿すら逃走する負け戦としては最高の戦果を挙げる…という場合も少ないながらもある。



基本的には最後尾で死に物狂いで敵を追い払いながら、出来れば自分たちも逃げる、というのが殿の戦い方。
しかしながら「相手に突撃しながら戦う」というのは楽なのだが、「逃げながら戦う」というのは心理的にも判断的にもとても難しく、その意味でも大変困難な役割でもある。
だが、放棄することは許されない。誰かが殿を務めなければいけないし、殿が役目を放棄すると味方全体が危険に晒される


一応、何とか生還すればこの上ない名誉として扱われたが、報酬に困るべき場合もあるだろう。負け戦だし
しかし財政状況に余裕があるなら殿を務めた者達には当然他の者よりも多くの報酬が出る。というか出さないなら裏切りや離反を招く。




「生還率最低」「報酬もあまり期待出来ない」「でも責任はものすごく重大」という嫌な上にも嫌な要素ばかりな役割。それが殿である。




指揮官の側からしても、いざとなった時に殿を誰に任せるかというのはかなり重大な決断である。
「そもそも簡単にやられる」「責任感がなくすぐ逃げる」ような奴には任せられないので、必然的に有能な人材に任せざるを得ない。
でも、そいつは大抵帰ってこないのである。有能で忠誠心に溢れていたのに


しかし任命される側からしても責任のある地位・部下を抱えている身のため、
殿に至った経緯にもよるのだが、内心はともかく喜んで請け負うしかないのが戦国時代における常識となっている。
部下と言っても同僚に近い者や、指揮官から預かっている兵、傭兵に近い者など立場も色々である。
特段の事情もなく拒否しようものなら、その後指揮官からの不興を買うことも当然だが、何よりも味方に背中から斬られてもおかしくない。




ちなみに何らかの事情で敵が追ってこられないのなら味方を追い越さない範疇で素直に逃げれば良いため、
生還率は極めて低いものの、前述の通り殿になったからと言って絶対に全滅するというわけでもない。
ついでに言えば生還した時の恩賞をどうするかは問題だが、だからと言って殿が全滅する方が損失が遥かに大きいので、出来れば生還することも重要な仕事である。


殿はあくまでも追撃を食い止めるために最後尾に配置している軍という扱いであり、敵軍に向かって突撃する(特攻)ようなことは例外である。
例えば早めに危機を察知して逃走出来れば殿もそのまま逃げられるし、逆に殿軍が包囲網(連携)などを崩すために突撃する場合もあまりないが一応ある。
全ては状況次第である。



戦国時代の武勲で有名な武将は戦の場数が多いだけに負け戦の経験も大抵は有り、そして殿を務めて生還した経験のある武将も結構多い。
これは重要な武将が殿を任されやすいのに、殿を果たした上で自身も生還出来れば更に評価が上がるためだと思われる。
殿から生還した武将は後世においてかなり有名になりやすいことも関係している。


殿を務めるも時間稼ぎも出来ずに大将首が取られた場合など、歴史の陰に埋もれた武将だとよく分からない・知られていないことも多い。
そもそも負け戦を招いた状況やら指揮官などに話が行きがちなので、殿大成功や劇的なことをした場合でもなければ語られることは少ない。
そういう意味でも本当に不遇である。


逆に、後述の武田晴信の様に、戦況では圧倒的有利で敵に追撃が出来ないぐらいの損害を与えたが季節や物資不足で帰国しなければならない状況で主君の息子の様な若手の大物を歴戦の精鋭と組ませて疲労困憊の敵を牽制させて「殿の勲功を果たした」と表彰する事も有る。




ちなみにしんがりの語源は「しりがり」、つまり列の後ろで駆ける人ということ。




有名な殿

ガイウス・ユリウス・カエサル

なんといきなり初陣で殿を務めている。
紀元前81年当時のローマはマリウス派(民衆派)とスラ派(閥族派)の血で血を洗う抗争がスラ派の勝利で終わっていた。
元々ユリウス・カエサル家は閥族派の最穏健派に属し、「貴族の中では話が分かる方」という印象を民衆派や同盟市民にも抱かれていた。
民衆派のマリウスも元々は姻戚関係にあったユリウス・カエサル家の支援を受けていたのだが、スラのクーデターで一時失脚したマリウスが復権した際に反対派は無論、自身の失脚を庇いきれなかったとして当時のユリウス・カエサル家の当主で元執政官であるルキウス・ユリウス・カエサルを始めとした自身に好意的だったローマの有力者まで大虐殺した。
マリウス死後に民衆派のリーダーになった執政官のキンナは流石に遺族達の怒りを恐れて、自身の娘と穏健派貴族のリーダー格であった故・ルキウスの甥であるガイウスを結婚させたものの、スラの逆襲に遭い敗死。
ガイウス・ユリウス・カエサルはキンナの娘婿という事でスラに処刑されそうになったものの、スラ派の中にもユリウス・カエサル家の悲劇に同情している者が多々おり、そのうちの一人でアナトリア総督のマルクス・ミヌキウス・テルムスの保護を受け、レスボス島攻防戦で初陣を飾った。
詳細は不明ながら、この戦いで殿の功績を挙げた者に授与される”市民冠”*1を受けたのが彼の初の軍歴である。
最終的にマルクス・ミヌキウス・テルムス率いるローマ軍はレスボス島の制圧に成功し、「最も苦戦した場面で被害を最小限に抑え込み勝ちに繋げた功労者」として後の終身独裁官の軍歴は始まったのである。



武田晴信

此方も初陣で殿を務めている。
1536年に晴信の父・信虎は息子の初陣祝いに信濃佐久の海野口城に攻めかかったが、予想以上の城兵の抵抗により決定打を欠き、遂に撤退を決断。
此処で晴信が「折角の初陣で戦功が欲しいから殿をさせてくれ」と言い出し、信虎は家老で歴戦の部将である板垣信方の隊が補佐する条件で此れを許可。
城兵には追撃の余力はもうなく、楽に殿の武功で跡取り息子の箔を付けられる・・・と思って、信虎が撤退した夜に、晴信と信方が独断で城に夜襲をかけて壊滅させてしまう
信虎は「今回は勝てたから良かったものの、一族の跡取りが独断行動の末に戦死したとなると取り返しがつかない事になりかねないぞ」と当然の叱責を行ったが、数年後に晴信と信方に自身が追放されてしまう。


この戦いは辺境の小城の攻防戦と言う事で記録があまり残っておらず、以上の話もどの程度の信憑性かやや疑われる。



木下藤吉郎

有名な「金ヶ崎の退き口」の戦いにおいて殿を務めた。
藤吉郎時代の戦働きとしては、最も有名な部類になるだろう。
明智光秀もここで殿を務めたと言われている。
徳川家康も……と言われているが、家康は立場としては信長と対等の同盟者なので信長としては彼に殿を頼むなど出来ない。
そして家康にもそこまでする義理は当然ないため、かなり微妙。
そもそもこの話が登場するのが徳川方の資料だけというのもあり、家康を持ち上げるための創作と思われる*2


朝倉攻めの際、妹婿である浅井に裏切られ、前後を挟み撃ちにされた織田軍の決死の撤退戦であり、最終的に信長の供はわずかに十騎だけだったと伝えられる。
そんな状況でも生き延びることができたのは、藤吉郎らの活躍があってこそであり、
そしてこの困難な戦いを生き延びた藤吉郎が織田家の中で立場を高めていくきっかけにもなった。


…と言われていたが、経路などが不明瞭なことや、そもそも藤吉郎よりも地位の高かった明智光秀や池田勝正達が参加していることから、
最近では殿軍を率いていたのは池田勝正ではないかとされており、話が盛られていた疑惑がある。
ただし一武将として殿に参加して何らかの功を成し、恩賞も得ただろうとは言われている。
藤吉郎のみ恩賞の資料が残っており、黄金数十枚を与えられたとのこと。そして奪った横山城の城主に任命された。



前田慶次

最上軍が守る長谷堂城を攻めあぐねていた直江兼続。状況は一進一退だったが、関ヶ原での西軍敗戦の報により最上が一気に勢いづく。
「もはやこれまで」と自刃しようとした直江兼続を押しとどめ、畑谷城に兼続と共に籠城し、上杉軍の撤退までの時間を稼いだ。
前田慶次の後半生の戦いでは、最も有名な戦である。


薩摩のバーサーカーたち

島津の退き口参照。
色々と頭がおかしい撤退戦



ミシェル・ネイ

ナポレオン・ボナパルト『真の勇者の中の勇者』と太鼓判を押された撤退戦の達人。
ナポレオン最大の敗戦であるロシア遠征におけるべレジナ川の戦いではロシア軍の猛追撃にも一歩も引かずにナポレオン達を逃がし、自分達も生還すると言う抜群の武勇と統率力を発揮した。
尤も、守りの戦には滅法強いが、攻めに回ると勢いに乗り過ぎて判断ミスを起こす悪癖も有り、ワーテルローの戦いでは砲兵との連携を取れずに騎兵による総攻撃を開始するもウェリントンに耐えられてしまい、敗北の要因となってしまった。
誠実で男気に溢れる性格はナポレオンや大陸軍の兵士達に愛された。



「追記・修正は俺に任せて先に行け!」


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  • アクセル・アルマーもかな -- 名無しさん (2018-04-15 11:49:01)
  • しんがりが務まるくらいの人ってことで偉い人を「殿」というようになったという説を聞いたことがあるが -- 名無しさん (2018-04-15 12:42:49)
  • 「殿」はもともと御殿の意味で、「大臀筋」とかの「臀」の代用として尻の意味が、転じて最後尾を意味するようになったと聞いた。そういえば集団の名乗りシーンで順番が最期になった人も「しんがり」と名乗るね -- 名無しさん (2018-04-15 12:52:44)
  • あれ、慶次の殿って、籠城戦だったのか。花の~読んだり、信長プレイしてたから、てっきり野戦で殿やってたのかと思ってた。 -- 名無しさん (2018-04-15 14:08:23)
  • 第一次北伐の趙雲の殿は神業 -- 名無しさん (2018-04-15 16:09:48)
  • 最近ではワンピースのジンベエも・・・ -- 名無しさん (2018-04-15 16:46:57)
  • 武田信玄の海ノ口城での殿で城を落としたエピソードも有名な部類では? -- 名無しさん (2018-04-15 17:00:17)
  • 織田信長も尾張時代に総大将が殿を務める異常事態をやらかしたとか。 -- 名無しさん (2018-04-15 23:39:59)
  • 殿に妙に強い武将もいたりして歴史ってものは面白い -- 名無しさん (2018-04-16 09:39:09)
  • 最初期の御城プロジェクトでは殿させたユニットが捕虜になって、身代金を支払わなければロストするシステムがあったらしい。怖すぎるわ -- 名無しさん (2018-11-08 18:39:06)
  • 昔見たジャンプの読み切りに父親が戦場から逃げた臆病者とバカにされている少年がいたが 実は殿だったって話あったな -- 名無しさん (2018-11-08 20:45:40)
  • あの本多忠勝も殿の上手さに定評があった武将の一人 -- 名無しさん (2019-07-24 16:35:38)
  • 織田家臣の佐久間信盛は、かかれ柴田に対して退き佐久間と呼ばれ、殿軍を得意としたといわれる -- 名無しさん (2019-07-24 17:41:05)
  • 「しんがり」を「との」と読み間違えられたまま収録されたゲームがあったなw -- 名無しさん (2019-07-24 17:46:49)
  • ↑5,金払えずロストしたユニットが敵兵にアレコレされる妄想で抜いたプレイヤー絶対居る -- 名無しさん (2019-07-24 21:12:46)
  • 三国志での殿だとやっぱ長坂の張飛のやつが一番有名かな? -- 名無しさん (2019-07-25 07:24:58)
  • 薩摩のバーサーカー達で草。 -- 名無しさん (2021-10-20 19:16:29)
  • ↑ クレイジーすぎるんだよあいつら -- 名無しさん (2022-03-08 06:25:45)

#comment

*1 厳密には殿の時間稼ぎによって命拾いをした兵士達から謝礼として贈られるものであり、ローマ軍の中では戦勝の将に次ぐ名誉ある賞とされていた
*2 事実であるとすれば、「殿が自軍最後尾近くに逃げてきたので徳川軍の一部が援護した」程度であろう

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