島津の退き口

ページ名:島津の退き口

登録日:2011/11/05(土) 23:42:02
更新日:2023/10/30 Mon 13:48:36NEW!
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戦国時代 関ヶ原の戦い チート ドリフターズ 鬼島津 妖怪首おいてけ 島津義弘 殿 東軍逃げて超逃げて 死んがり すてがまり 歴史に残る退却 豊久は犠牲になったのだ… 寝耳に島津 エクストリーム帰宅 島津の退き口 退却



譜代恩顧の将卒ら
国家の存亡この時と
鎬をけずる鬨の声
天にとどろき地にふるう




島津の退き口とは関ヶ原の戦い(以下関ヶ原)で島津義弘らが行った伝説である。



概要

敗戦した軍が撤退するときは敵とは反対の方向に向かって逃げるのが普通である。
だがこの島津の退き口ではそうしなかった。
じゃあどこに逃げたんだよ?という話になるが、なんと島津軍は



敵陣に向かって退却したのである


敵陣に向かって退却したのである



敵 陣 に 向 か っ て 退却したのである



大事なことなので(ry
しかも島津軍は300人で数万以上の東軍に向かって退却したのである。
普通の人はそれを特攻と呼びます。



関ヶ原の前

島津義弘は家康の救援要請を受け、鳥居元忠が籠もる城へ1000人という少数*1で援軍に向かったのだが入城を拒否され、
さらに西軍に人質をとられていたため、当初東軍に加入する予定を変更して西軍に加入する事になった。
ところが味方になった西軍も西軍で少数である事から島津軍を軽視。関ヶ原前に起きた戦の退却中、島津軍を置いてけぼりにする
関ヶ原前日の作戦会議に提案(島勝猛とも)した夜襲を拒否るなどを行い義弘軍の士気を下げていった。*2


そもそも、関ケ原の合戦の西軍側の家康討伐の口実自体が「家康が勝手に島津に加増した」というもの。
家康が主張した通り、島津が慶長の役からの撤退時に明・朝鮮を痛撃したお陰で無事に帰国出来た将兵は多数に上った点は事実であり、
西軍としても投降して来た島津軍の扱いに困った事は想像に難くない。
何しろ、東軍、西軍問わずにこの時の島津軍の奮戦で被害を最小限に抑えられた恩義を感じている者は多数居たのだ。



関ヶ原開戦

関ヶ原の間は島津軍は兵を一歩も動かさなかった。当たり前である。
戦線が膠着して数時間後例のアレにより1万5千の無傷の軍勢が西軍の側面から一気に襲いかかった。
大谷吉継軍が壊滅すると、東軍主力とがっぷり四つの戦いを繰り広げていた宇喜多秀家軍・小西行長軍も続けて壊滅、最後まで持ちこたえる石田三成軍の戦線崩壊も時間の問題となる。
西軍陣地の背後に位置する中山道と北国街道はたちまち敗走する西軍とそれを追撃する東軍が入り乱れ、結果的に義弘軍の陣は全方位を東軍に囲まれた状態になってしまった。


その時の島津軍の軍勢は時折陣を攻めてくる東軍と戦っていたため300人に減少(1000人説あり)していた。義弘は覚悟を決めて切腹を行おうとしていた。



そして島津の退き口へ…

しかし義弘は妖怪『首おいて…島津豊久の説得を受け翻意し、家康の本陣に向けて退却、敵中突破を行うことを決意。
もはや戦の大勢が決した以上、何としてでも本国に戻って徳川へ恭順の意を示さねば島津の家そのものが危うい為、
何としてでも島津義弘は帰国せねばならず、逆に義弘さえ帰国できれば島津の勝利であったのだ。


逃走経路は前方の東軍を突破した先にある関ヶ原南東の伊勢街道。動かずじまいの毛利勢の背後は手薄であり、ここに陣取っていた長宗我部盛親軍は既に撤退を始めていた。義弘はこのルートに全てを掛けることになった。*3


かくして島津軍は前線にいた東軍随一の勇猛を誇る福島正則の軍団を蹴散らし、徳川本陣目の前で転進して伊勢街道を退却した
井伊直政、本多忠勝、松平忠吉ら徳川の主力部隊がこれを追撃したが、殿(しんがり)文字通り死ぬまで足止めをし、
全滅したらまた別の隊が殿を務めて死ぬまで足止めを…と後に言う「捨て奸」を行い義弘の退却時間を稼ぐ。
槍と火縄を抱えて座り、敵軍が見えたら将を狙撃し、弾切れないし射撃不能になったら槍を構えて特攻するという文字通り時間稼ぎの捨て駒であったが、
島津兵の士気は高く、志願しない者の方が少ないくらいであったという。
阿多長寿院盛淳や島津豊久といった島津勢の主だった武将も次々と東軍の前に「捨て奸」となって立ちふさがり、追いすがる井伊直政や松平忠吉に手傷を負わせ、遂には追撃を中止させる。
こうして大きな犠牲を払いながらも、義弘は見事敵中突破を成功させたのだった。


義久率いる本隊は、大阪への最短経路を取り囮となった捨て奸部隊と別れた後、長束正家の案内で伊勢街道をさらに南下する遠回りで伊賀を越えて、三輪山平等寺に身を隠す。
そこで東軍の落ち武者狩りをやり過ごした後、堺港から船で薩摩へと逃れる。途中、立花宗茂との合流や黒田水軍との遭遇戦などさらなる波乱に見舞われながらもなんとか薩摩に辿り着いた時、義弘に従ったのはわずか80人であった……
そしてその後、近衛信尹の支援などでさらに生き残った十数名が合流した。何なんだお前ら。


まあ東軍からすると既に大勢が決まっていて、リスクを考えるとどの程度無理する必要があるのかどうかすら曖昧な中で小勢で猛攻を仕掛けてきて、
その後逃げたので追撃しようとしたら捨て身の銃撃部隊が何度も待ち受けていたとあっては士気が上がるはずはなかっただろう。



その後

義弘は当主である兄と共に家康との和平交渉に勤める。
兄も兄で引きこもりに定評がある人物なので



家康「当主上洛しやがれ」


兄「いま持病が酷くなっているから無理(嘘)」


家康「……」


と家康の要望を上手く受け流し本国の軍備増強の時間を稼ぐ。
流石に怒った家康は島津討伐軍を結成したが、長期戦になると反家康派が反旗を翻す恐れを危惧してか、戦は起こらなかった。
結果的には家康は態度を軟化させざるを得なくなり、


家康「家臣(義弘)が勝手にやったことだから領地はそのままな」


と関ヶ原本線に西軍参戦した中で唯一領地安泰を得ることが出来た。
なお、家康は遺言で遺体を島津の方に向けろと書いた程義弘を打ち取れなかったことを憂いており、その250年後、薩長同盟による倒幕という形で家康の懸念はある意味現実となる。
ちなみに家康が葬られた久能山東照宮の宮司さんの言葉によると西欧列強への警戒の為に西に向けろと言われたとされる。
別に島津への警戒心というわけではないらしい。



余談

  • 鳥居元忠の入城拒否は家康の策略ではないかと言う説がある。もしそうなら家康は大変な間違いをおかしていたのかもしれない。
    • ただし、元忠の入城拒否の話は江戸時代になってからの島津家の記録に初めて見られる話であり、当時の義弘の手紙では彼が西軍加担に旺盛だったことから
      「戦後に島津家が西軍加担を正当化するために創作したのではないか?」という説も出ている。
    • 元忠は自身と同じく守将を命じられた木下勝俊(小早川秀秋の兄)も「信用できない、出て行かなければ殺す」と追い出しており、元にした可能性もあるが実際やりかねない部分もある。
    • なお援軍を断った鳥居軍はその後三成側の軍勢と戦い、雑賀孫市で知られる雑賀衆の生き残り(後に水戸家家臣となり、子孫は雑賀姓を後世に残した)に倒された。
  • 井伊直政はこの時島津軍の兵士に狙撃され負傷したが、ここから約260年後「桜田門外の変」で直政の末裔井伊直弼は水戸浪人に拳銃で撃たれ、薩摩藩士に首を刈られたという。
  • 義弘ら西軍勢が生還できた理由の一つに、農民らによる落ち武者狩りがあまり積極的でなかったというものがある。戦国時代を通して積極的に行われていたのだが、ラスボスが推し武将を召し抱えられなかった八つ当たりや刀狩りで意欲と武力を削いでいた。

  • 追撃した東軍の被害とその後
井伊直政狙撃され負傷。しかし戦後の和平交渉では仲介人として奔走する。彼がいなければ領地安泰はなかった。
重傷の身で、西軍諸将の処分を決める戦後処理に加えて三成の旧領の再開発まで任せられる
オーバーワークっぷりにもう寿命がガリガリと削られてしまった。
2年後に過労と狙撃された際の鉄砲傷による破傷風で死去(なお破傷風の潜伏期間を考えると、関ヶ原の鉄砲傷が直接の原因であることはあり得ないが。もしかしたら古傷がぶり返したのかもしれない)。享年42。
和平交渉が完了する前に亡くなったため、残った仕事は本多正信に引き継がれた。
島津にわりと酷い目に合わされた人が一番島津を擁護した辺り、何か相通じるものがあったのかもしれない。
松平忠吉負傷するも島津豊久を討ち取る軍功を挙げた。
彼もこのときの傷が原因だったのか7年後に死去(悪性の腫れ物を原因とする説もある)。享年28。嫡子がいなかったので弟の義直が後を継いだ。
本多忠勝馬を撃たれ落馬するも本人は無傷。戦前の西軍武将の調略で功を挙げて桑名に領地をもらった。
戦後処理で彼が真田信之とともに真田昌幸・幸村親子の助命嘆願を行わなければ2人の命はなかった。島津については不明。
9年後、嫡男忠政に家督を譲って隠居、翌年桑名にて死去。享年63。


現在

現在でも鹿児島では、この時に島津義弘たちが味わった苦難を忍び、彼を祀った妙円寺まで歩くという「妙円寺参り」なる行事が存在する。
この項目冒頭のフレーズは、その際歌われる「妙円寺参りの歌」の一説である。


この事件を扱ったフィクション作品


第1巻で取り上げられているが、なぜか島津義弘の他は家臣軍一同という扱いになっており、豊久や直政等他の関係武将はかけらも出てこない。直政の逸話に関しては後に幕末編で子孫井伊直弼が登場した際触れられたが。


  • 薩摩義士伝

「島津の退き口」という名称こそ出ないが、関ヶ原の戦にて齢六十六の義弘が五十人ばかりの寡兵で家康の本陣を突破し、撤退に成功したという逸話自体は登場する。
そしてここでも豊久や直政等他の関係武将はかけらも出てこない
この戦で島津討伐に失敗した家康、もとい徳川幕府は
下手な犠牲を払って島津の気〇い残党を産むよりはと、正面衝突を避け懐柔策や婚姻政策によって島津の戦意や財産を削ぐ搦め手に出るようになった。
そして時は9代将軍・家重の代。ついに幕府により薩摩藩に何十万両もの負担を強いる「宝暦治水」が命じられるのだが、
本作はその宝暦治水を通して薩摩武士の生き様を描いた作品となっている。


一方の島津側はこの撤退戦を屈辱と捉えており、
どうにも苦しい時は「チェースト関ヶ原」と叫んで当時の義弘の無念を想い、耐え忍ぶ習慣があるという。


昨今のアニヲタ的には島津豊久を主人公とした本作の第一話が有名だろうか。
ここでは豊久の顛末がやや異なっており、直政勢の槍衾に貫かれながらも直政に一矢報いて生存し、舞台となる異世界に飛ばされたことになっている。
なお、この漫画では松平忠吉は影も形も出てこない。史実では豊久を討ち取ったとされる主要人物のはずなのだが、どうにも不憫な男である。
また、直政を撃って退却させたのが豊久になっているため、本来直政を狙撃したとされる島津側の立役者、柏木源藤*4も地味に割を食っている。


11上にて「関ヶ原の戦いの歴史再現」の一環として実行。
…されたのだが、主導者である島津・義弘が癒し系動物で、関ケ原が秋のスポーツ大会だったため、「他参加者の疲労を餌にして増殖する義弘がトラックを埋め尽くす」という珍事件に。どうしてこうなった。
なお作中に登場する島津関係者は義弘のみで、一応直政は「同じ名を持つ女性」が代役扱いされたが(本物は行方不明)、豊久・松平忠吉・柏木源藤等はかけらも出てこなかった。


追記・修正は敵中突破してからお願いします。


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  • こん時のショックで家康さん 散々島津&毛利に散々嫌がらせした所為で 後に徳川がフルボッコにされるとは
    てゆーか本末転倒? -- 松永さん (2013-08-06 12:03:55)
  • これ、義久と一緒に島津に帰れたのが80人なのであってあとから遅れて帰ったきたやつを入れたらもうちょい増えるらしいね。やっぱおかしいわ薩摩隼人。 -- 名無しさん (2013-08-06 12:46:20)
  • 全員ドリフターズの豊久みたいなヤツだったんだろうか……薩摩怖い*5))))) -- 名無しさん (2013-08-06 13:08:26)
  • 朝廷に反攻した隼人の血を引く連中が薩摩にはごまんといたからな。反骨精神と戦闘能力じゃ世界屈指の連中といってもおかしくないはず -- 名無しさん (2013-08-06 15:09:54)
  • 直政の致命傷はおかしいだろ。生きてるし。 -- 名無しさん (2013-08-06 15:18:27)
  • ↑↑そんな朝廷にすらも反抗する隼人の血を受け継ぐ戦闘民族 スーパー薩摩人をてなづけた近衛前久って… -- 松永さん (2013-08-06 17:05:19)
  • 勝った勝ったと安心してたらなんか九州の端っこの戦闘民族が死に物狂いで突っ込んできたでござるby東軍 -- 名無しさん (2013-08-06 17:25:44)
  • 実際は小物扱いされた島津より、大物扱いされた石田、宇喜多、小西の方に東軍の主力が追撃かけて見向きされなかったから、突破出来たって聞いたな、まぁ島津の精強や運の良さもあるが -- 名無しさん (2013-08-06 20:28:27)
  • そらド田舎大名のほっといても壊滅しそうな数の軍よりは別のに力を入れるわな。まあ、それでも大したことなんだろうけど。 -- 名無しさん (2013-08-06 20:31:13)
  • 石田三成は何故戦が下手くそなくせにそうやって出しゃばるのか -- 名無しさん (2013-08-07 05:31:19)
  • ↑プライドが無駄に高いからだろ -- 名無しさん (2013-08-07 07:13:50)
  • 実際は、前方突撃の段階では激戦にはならず、脇をすり抜けていった謎の軍団が島津だと気づいた井伊直政が追撃を開始した事で本格的な戦闘になっている。 -- 名無しさん (2013-08-07 10:59:02)
  • …途中で誤送信しちまった。とはいえ、徳川家中最強の井伊家の軍団を小勢で退けているのだから、途方も無い武勲ということには違いはない。 -- 名無しさん (2013-08-07 11:01:16)
  • スパルタvs島津 東西戦闘民族がちんこ対決 -- 名無しさん (2013-08-07 11:24:58)
  • やたら強かったのは大将の首に文字通り島津全体の命運かかってるのもあったんじゃないかな -- 名無しさん (2013-08-07 14:32:44)
  • 気合入ってたのと三成達に馬鹿にされた分の鬱憤晴らしだろうな。だとしても凄い -- 名無しさん (2013-08-07 15:10:05)
  • と言うか、こんな退却の仕方されたら勝ち戦で戦う必要もない東軍からすればあまり戦いたくないというところも成功の理由だな -- 名無しさん (2013-09-11 12:23:55)
  • 勝ち戦確定の状況で死んだら死に損すぎるのにそこで文字通り死狂いのバーサーカーどもが突っ込んできたら逃げ腰にもならぁな。そのへんまで読んで勝敗決してから捨て身特攻決断したなら大した戦闘民族だよ島津は… -- 名無しさん (2013-09-11 14:47:14)
  • 只の田舎侍に幕府を倒されるとはねぇ・・・ -- 名無しさん (2013-09-14 12:45:50)
  • どっかで東軍兵士的『関ヶ原三大トラウマ』の一角って言われてるの見て凄い納得した(因みに残り2つのうちの一つは『島左近』) -- 名無しさん (2013-09-16 01:20:35)
  • 西軍は全体的に烏合の衆だが強い奴は強いからな…鬼島津に鬼左近、大谷隊、小早川にぶちギレて特攻しようとした宇喜多とか… -- 名無しさん (2013-10-02 13:48:50)
  • まぁ東軍は統制されてた上に、西軍に劣らない猛将揃いだったから西軍が負けるのは仕方ないね -- 名無しさん (2013-10-02 16:53:24)
  • 「ええい!薩摩の兵士は化け物か!」薩摩兵「まだだ!まだ、終わらんよ!」って感じかなぁ。薩摩こえぇ -- 名無しさん (2013-11-07 15:08:12)
  • 薩摩の方々凄すぎだろwww三十六計逃げるにしかずとはまさにこのこと。 -- 名無し (2014-04-09 12:53:21)
  • もし元忠が島津を伏見城に入れてたらどうなってたんだろうな? -- 名無しさん (2014-04-09 13:02:29)
  • 本多忠勝さんなんで落馬しても何事もなく無事なんだよwww薩摩隼人もおかしいが、忠勝さんも色々酷いwww -- 名無し (2014-04-19 13:59:50)
  • そらホンダムやもん落馬したぐらいで傷一つつかんわ 何?馬が可哀想?聞こえんな -- 名無しさん (2014-05-26 19:37:05)
  • ↑ホンダムだし乗ってるのもSFS的なモノじゃね? -- 名無しさん (2014-06-01 13:24:57)
  • ↑モビルホース(風雲再起)ですね分かりません -- 名無しさん (2014-06-01 13:30:34)
  • お豊の家系ってすごいなぁ。 -- 名無しさん (2014-06-01 13:33:04)
  • 追撃した東軍の被害とその後がこじつけ過ぎでくそわろたwww -- 名無しさん (2014-07-10 03:41:43)
  • 義弘が三成くんに「家康ン所に真夜中に奇襲するんだ」と言ったけど三成くんはスルー。後にその奇襲こそ西軍勝利の大チャンスだったのが判明するわけだが、スルーされた義弘は「こいつ戦略性ねぇよ」と三成を見限った。これも島津撤退の理由の一つであったと思う。 -- 名無しさん (2014-08-27 01:54:34)
  • ↑2 もし島津を受け入れたなら小早川も行けれてただろうし、そもそも関ヶ原が起きなかった可能性はある。家康と三成が居る以上似たような戦は起きただろうけど -- 名無しさん (2014-10-05 04:14:15)
  • ↑9 24時間で終わった関ヶ原がもっと短くなってた可能性がある。 へたしたら関ヶ原がないかも。 -- 名無しさん (2014-10-27 10:58:03)
  • 「へうげもの」では自陣に突っ込んでくる島津を前に褌一丁の家康が脱糞してて爆笑した。 -- 名無しさん (2014-10-27 11:03:59)
  • 島津って本当の漢の集まりだな。 -- 名無しさん (2014-10-27 12:14:02)
  • のぼうの城でもそうだったが、石田三成は基本的に他人の意見聞かないよな。 -- 名無しさん (2014-10-27 14:49:52)
  • ↑基本官僚系だからな>三成 -- 名無しさん (2014-10-27 15:36:50)
  • ↑2 歴史小説を鵜呑みにするのもどうかとは思うが、三成は大仕掛けな戦はできても奇襲の発想は無い。嘘か真か、光成が関ヶ原の構想を大谷吉継に説明したときに「なんで早く俺に言わないんだ!一緒にいたときにでも家康の首落としてきてやったのに…」と嘆かれたとか。 -- 名無しさん (2014-10-27 15:46:46)
  • ↑吉継は直前まで家康側だったんだからその話はちょっと嘘臭いな -- 名無しさん (2014-10-29 13:47:49)
  • エクストリーム帰宅もスゴいのだが殿から生き残ってそのまま薩摩に帰ってきた十数名もヤバい、どうやって生き残ったんだ・・・ 戦闘民族恐ろしすぎる -- 名無しさん (2014-10-29 15:03:09)
  • ちなみに島津さんが関ヶ原本戦でやる気なくしたのは、三成の家臣が島津方に馬上に乗ったまま出陣依頼した(普通は下馬くらいするのが礼儀。しかも目下のものが馬上から発言するなんて島津じゃなくてもぶちギレるレベルの無礼)せいで完全にやる気なくしたかららしい。三成ェ... -- 名無しさん (2014-11-03 11:55:41)
  • ↑本当に勝つ気があったのか疑わしくなって来るな。言っちゃ悪いが家康が相手するまでも無い位無能 -- 名無しさん (2014-11-03 12:11:37)
  • み、三成さんは空気読めないことで有名だしそれは家臣の教育が悪かっただけだから…(震え声) -- 名無しさん (2014-11-29 19:44:16)
  • 人数少ないせいで軽く見られたのかね? 西側に来たのも、けっこう行き当たりばったりっぽいし。 -- 名無しさん (2014-11-30 20:24:31)
  • 三国志だと徐盛を彷彿とさせられるエピソードだ -- 名無しさん (2014-11-30 22:19:47)
  • 真面目に言うと当てにならんよ、三成からすりゃ戦歴だけは凄いが、1000人未満の軍に東軍に付こうとしてた事知ってりゃ塩対応もあながち間違いじゃない -- 名無しさん (2015-01-15 11:12:24)
  • ↑家康の兵力とかを考えたら使えそうな駒は塩対応より使い倒した方が良い様な気がするんだが…… -- 名無しさん (2015-01-15 12:05:33)
  • 正直あの戦闘民族を数だけで判断してはいけないむしろ少ない方が危険だ -- 名無しさん (2015-02-01 02:49:21)
  • どっちにしろ士気はやばかったろうなあ。それこそ鬼の形相で攻めてくるんだろうし…で?なんで忠勝さん無傷なんですか -- 名無しさん (2015-02-22 06:24:53)
  • 忠勝実はスピードタイプだから頑丈ってより見事に受け身とって着地したんだろ -- 名無しさん (2015-03-02 10:43:48)
  • ちなみに帝国海軍設立時に薩摩から人材を採用しまくったため、一部習慣は薩摩のものが現在でも残っている。武道や応援団で有名な押忍という挨拶もじつは元々薩摩の言葉 -- 名無しさん (2015-07-25 04:52:02)
  • 直政の鉄砲傷の破傷風は嘘だな。潜伏期間とっくに過ぎてるし -- 名無しさん (2016-01-23 02:57:08)
  • 島津軍の士気・戦闘力って、下手したら東軍単品・西軍単品を上回ってるんじゃ...... -- 名無しさん (2016-03-09 14:21:39)
  • ↑忠義の篤さでは圧勝してるな。 -- 名無しさん (2016-04-25 07:57:39)
  • このとき取り逃がした島津と毛利がのち -- 名無しさん (2016-05-14 15:14:26)
  • ミス このとき取り逃がした島津と毛利が後に徳川の世をひっくり返すんだから歴史ってのは面白い -- 名無しさん (2016-05-14 15:15:21)
  • 家康の遺体を西のほうに向けろっての島津・毛利を警戒じゃなくて西欧列国を警戒してたんだけどな・・・島津信仰怖いわw -- 名無しさん (2016-06-16 03:36:51)
  • それだと向けるの南じゃないの?当時は南蛮人なんだから -- 名無しさん (2016-08-24 02:57:45)
  • そう呼んでただけで交易してた相手が何処にいたかくらい当たり前に知ってるぞ?家康はイギリス王室とも繋がりあったし -- 名無しさん (2016-08-24 04:32:35)
  • wikiによれば、島津軍が最初にぶつかった福島軍は6000。戦いで半減していたとしても3000で、島津の約10倍だし、この時点で粉砕されそうなもんだけどなぁ……(首傾げ 『一人20機の割り当てだ。MDだけを相手にするならなんとかなるだろう』と言ってたトロワたちだって、弾薬切れなどでピンチだったんだぞ? 島津軍にはゼロシステムでも搭載してたのか?(再び首かしげ -- 名無しさん (2016-08-24 05:44:56)
  • 戦国無双だとまともに受け入れられてまともに戦ったあとに帰るから余計すごいことになってる -- 名無しさん (2016-08-24 10:21:27)
  • ↑3どこにいたか知ってても結局地理的な都合上南からくるわけだから警戒するのは南側だな 西なんか見てても見えないし まあ幕府倒壊のきっかけになった白人は西でも南でもなく東から来たわけだが・・・ -- 名無しさん (2016-08-24 11:29:37)
  • ↑相手の国を見張ってるって意味なんだが・・・ほんと大丈夫か?wあと島津じゃなく西欧を見てるって言ったのが久能山東照宮の宮司さんだから適当な憶測の千倍は確証あるのよね -- 名無しさん (2016-08-24 15:11:49)
  • どっちにしろ徳川政権を倒すきっかけは西からではなく東から来ちゃったわけで・・・さすがの家康もアメリカの成立・台頭までは予見できるわけもなく・・・ -- 名無しさん (2016-08-25 13:02:35)
  • まぁ家康時代はアメリカのアの字も無かったからな・・・予想のしようもねぇw -- 名無しさん (2016-08-25 21:01:29)
  • 撤退して帰る途中にスーパーチート侍こと剛勇鎮西一の立花宗茂と合流してるんだよなぁ -- 名無しさん (2016-10-08 20:51:10)
  • 後に放浪して生活苦の挙句に東軍へ復帰したチートさん -- 名無しさん (2016-10-08 21:39:44)
  • 武勇の薩摩、そして隣の日向からは江戸時代最高の名君と呼ばれる上杉鷹山公が生まれている。九州は武勇だけじゃないぞ -- 名無しさん (2016-10-08 21:52:08)
  • 他の地方にも沢山いるとはいえ九州の武将には化け物と奇跡を起こす奴多すぎ -- 名無しさん (2016-10-09 00:10:47)
  • 本多の落馬で無傷も地味にイカレよな -- 名無しさん (2016-10-31 14:41:31)
  • 創作が白旗上げるくらい島津一族と薩摩武士は色々おかしいw -- 名無しさん (2016-10-31 23:45:31)
  • 色々おかしい部分が創作かもしれんがな -- 名無しさん (2016-12-17 20:08:45)
  • もしかして、 -- 名無しさん (2017-01-10 10:48:38)
  • ↑ミス; もしかして、鹿児島の県庁と県民が一体になって、完全武装したら、日本からの独立簡単にできるんじゃないのか?(汗 あいつらなら、北朝鮮のミサイルもホームランで打ち返せる気がするぞ。 -- 名無しさん (2017-01-10 10:49:51)
  • 関ヶ原での島津軽視はしかたなかろ。地の利もわからん小規模部隊にでしゃばられても邪魔だし。そもそも関ヶ原は布陣の時点で西軍が圧倒的に有利で、そのまま押さえ込めるはずだ -- 名無しさん (2017-02-08 08:35:27)
  • それが小早川始め裏切りが連鎖的に起こっての西軍総崩れだから、 -- 名無しさん (2017-02-08 08:38:16)
  • 創造での退き口イベントは、とても壮烈でよかった。 -- 名無しさん (2017-02-08 09:26:32)
  • ↑2 家康の調略が巧妙だったんだけどな -- 名無しさん (2017-02-08 12:22:16)
  • 義弘「お前も、お前も、お前も、俺のために死ね!」兵卒「うおおおおおお!」 捨てがまりを義弘が主導したかはともかく、こんな戦法ですらない何かをよく逃げもせず実行したよな… -- 名無しさん (2017-04-19 10:53:49)
  • まぁ華々しく散れば遺した家族&お家を大事にしてもらえるって言う見返りもあるから -- 名無しさん (2017-04-19 11:11:47)
  • ↑2 300人で3000人を包囲殲滅するような奴らだから常識で計れない何かがあるんだろう・・・ -- 名無しさん (2017-06-28 19:14:36)
  • 率直に言ってヤバい集団(誉め言葉)。 -- 名無しさん (2017-06-28 23:29:18)
  • 西欧に対して西に向けたのに、今度は東からペリーがやってきたでござるww それはそうと、退き口のあとに義弘が読んだと言われる句『春秋の 花も紅葉も とどまらず 人もむなしき 閑路なりけり』も入れてほしいなぁ。 -- 名無しさん (2017-08-09 15:37:54)
  • 戦国時代の九州って本当に日本なのか?異世界と繋がってたわけじゃないよな -- 名無しさん (2017-08-09 16:33:50)
  • ↑義久「こんなこともあろうかと、兵士たちの遺伝子を改造しておいたんだ」 -- 名無しさん (2017-08-20 08:04:25)
  • 九州っていうか薩摩って基本肉を食わない時代に肉食ってたらしいしほぼ外国だなぁ -- 名無しさん (2017-08-20 08:34:46)
  • もし本能寺が起こらずに信長vs島津って流れになってたらさぞおもしろい歴史になってたんだろうなあ -- 名無しさん (2017-08-23 09:54:34)
  • 鹿児島弁がさっぱり分からずに三成が「???」となったのが後世で塩対応として語られた説好き。残ってる文書が書き言葉だから抜け落ちがちだけど、鹿児島の人間と関西の人間が標準語の無い時代に会話しようとしたら間に通訳挟まないと無理ゲーすぎる -- 名無しさん (2018-01-24 03:18:24)
  • とりあえずこう言うしかない。 「島津、ヤバい」 -- 名無しさん (2018-03-20 21:41:40)
  • ↑2 それはあるかもしれない。鹿児島の濃いところの言葉は同じ九州人でもわからん(当時と今の話し言葉は違うだろうが -- 名無しさん (2018-04-16 09:46:09)
  • 柏木シロベロンさんは? -- 名無しさん (2018-04-16 10:28:49)
  • 薩摩ではこの屈辱を忘れまいとチェスト関ヶ原を本当に合言葉にしていて、今でも運動会とかでチェスト関ヶ原と叫ぶことがあるとか -- 名無しさん (2018-04-16 12:55:58)
  • ↑3、そういや元々東軍に行く予定だったから薩摩言葉わかる奴が三成の陣内にいなかった事もあり得るのか -- 名無しさん (2018-04-16 13:38:22)
  • ↑ あー東軍に連絡取ってた人を当てにしてた、ってのはあるかもな。まさか置き去りにしたというのも西軍側の呼びかけが理解できなかったとかじゃ…正解不正解に関わらずこういう当時の状況を考えるのは面白いな -- 名無しさん (2018-04-17 09:23:00)
  • 義弘と三成同士は仲が良かったんだけどな。台無しにした家臣が戦犯よ -- 名無しさん (2018-04-22 19:23:51)
  • 「敵陣に向かって逃げる」というパワーワードはもう忘れられそうにない -- 名無しさん (2018-07-11 12:39:03)
  • 三成と薩摩弁の話だけど、 ↑2の方が指摘のとおり、三成は島津の内政にアドバイスする立場だったことがあるので、薩摩弁通じても良さそうなんだが、歴史はわからないから面白いな -- 名無しさん (2018-11-29 00:39:36)
  • 大河ドラマで見てみたいもんだが、今の役者さんで島津のバーサーカーどもの再現をするのは無理だろうな -- 名無しさん (2019-06-11 10:41:12)
  • これが不問になったのって毛利長曾我部を改易してるせいで、処罰しようにも背かれたら薩摩に直接大軍送り込むルートがなくて関ヶ原延長戦始まるからじゃないの?九州の東軍組は黒田派手加藤鍋島秋月高橋松浦とかいるけど、小西残党が島津に合力したら表高同等ぐらいだし -- 名無しさん (2019-06-23 20:21:53)
  • 関ケ原は家康側にも一応三成を討つという大義名分があった。一方島津と戦うとなると家康個人の私戦となる(しかも島津は強いうえに防衛線なので死に物狂いになるので苦戦必至)+勝っても得るものは実質35万石程度の石高で統治に苦労する土地だけなので家康も恭順するなら領土安堵を認めたほうがいいやと判断した。 -- 名無しさん (2019-07-24 19:29:25)
  • 江戸と九州地方との距離的な問題もあっただろうし、石田三成が没したとはいえこの時点では豊臣家自体は健在だから、誰かがそれを担いで後背を突かないとも限らない。まぁ、この時点で無理に仕掛ける程の価値は無いわな -- 名無しさん (2019-07-25 11:02:40)
  • なお「捨て奸」は本来武田の戦術で、殿が追いつかれるたびに全滅するまで抗戦するというもの。島津のように鉄砲隊を予め伏せておくものではないが、武田の捨て奸に似ていると言われたのが島津の戦術の名前として後世に伝わったものらしい。 -- 名無しさん (2020-12-21 11:33:38)
  • 東軍と西軍双方から島津軍が少数で侮られたというより、「信頼されなかった」のではないだろうか 鳥居元忠の立場からして連絡のない島津軍が突然現れて、信用しろというのも難しい話 言い方は色々あったかもしれないがとりあえず追い返してしまうこと確定なら言い方などどうでもよくなるし -- 名無しさん (2021-03-02 05:23:02)
  • 鳥居元忠は籠城戦で自分達が全滅するまで時間稼ぎするのが一番の目的なんだからそりゃ自称味方であっても城に引き入れるようなことはしないやろ -- 名無しさん (2021-06-12 13:24:12)
  • そういえば源凸、もとい源藤さんが噛み倒したってネット掲示板とか漫画とかでしか見ないんだけど、元々のソースはどの辺りなんだろうか…… -- 名無しさん (2021-06-12 13:40:02)
  • ↑2 ただ、それならそれで「我らはこれから捨て石となり玉砕する身、あなたたちを巻き込むわけにはいかない。あなた方の働き場所はここではなく家康様の元であろう」と、家康のところに参陣するよう誘導すればよかったのに……。それとも、家康ははなから、島津をこの関ヶ原でつぶすつもりだったのかしら。 -- 名無しさん (2021-06-12 13:50:48)
  • ↑それでもし島津に裏切られたら鳥居にとっては不忠の極みになってしまうので 鳥居側には島津を信じる理由がなかったのでしょう -- 名無しさん (2021-06-22 18:55:48)
  • 義弘達の薩摩弁が通じなかったのはわりとマジだと思う。北の果ての南部氏なんかも「上方の連中と話しても訛りを馬鹿にされて不愉快だから、用事のないときは屋敷に閉じこもってる」って内容の手紙が残ってるぐらいだからマジで「こいつら何言ってんだ?」みたいな感覚は当時の人間同士でもあったと思う -- 名無しさん (2021-06-22 20:46:51)
  • 一次資料を検討するとどうも島津は最初から戦っていて西軍総崩れの時も別に敵陣を突っ切る気はなくて単に近くの城に逃げ込もうとしただけの模様。それでも西軍の関ヶ原着陣組で大将を無事に本国へ帰せただけ相当なもんだけど。 -- 名無しさん (2021-10-29 23:03:49)
  • ↑一番近くの城がある、よし、そこへいこう!とは理論的になっても、それしか方法がないとはいえ結果死線をくぐれるのはすごいと思う、それこそ大将が生きてりゃ上等なのは変わらないのだから -- 名無しさん (2021-12-16 18:23:26)
  • 義弘公は佐土原城に辿り着いた時、家久夫人に息子を死なせてしまったことを詰め寄られたとか… -- 名無しさん (2022-07-04 20:44:29)
  • 一次資料だけとしてもどっちにしろ頭おかしい連中だろ… -- 名無しさん (2023-02-18 00:55:31)
  • 信長はうちのところは弱いから長槍な、にたいして大将生きてりゃ上等!ができたのは、殿様にしんそこ忠誠があってこその行為だから(じっさい帰りの帰途に肉を義弘に食べさせようとしたのを、輿を担いでいた兵士が殿には悪いが城に帰るまでは我々は死ねないと泣く泣く肉を食べたという噺もあるし)名君だったのだろうね -- 名無しさん (2023-02-24 23:10:27)
  • 300JP(スリーハンドレッドジャパン) -- 名無しさん (2023-06-13 02:51:49)
  • 例のアレw -- 名無しさん (2023-08-01 22:31:38)
  • 「薩摩関連の逸話は3割ぐらい盛られてるから鵜呑みにしないほうが良い」「…待て、3割!?」の象徴みたいなエピソード -- 名無しさん (2023-08-01 22:36:23)
  • 最初にこの話を聞いた時は「百倍の兵力差で突破されたり返り討ちにされてる福島や井伊ってどんだけ無能なんだよ」って思っていたら無能どころか最精鋭と聞いて驚いた -- 名無しさん (2023-10-29 17:22:22)
  • 某漫画のローマ救国の英雄的には『つまらない戦争』だってね。うん…… -- 名無しさん (2023-10-29 19:58:27)

#comment

*1 本来、島津家の石高だと約2万人の動員が可能だが、義弘には本国の兵を動かす決定権がなかった&どっかの黒い軍師の怪しい動きに備えなければならなかった&ぶっちゃけ島津は直前まで絶賛内乱中(庄内の乱)だったので疲弊していた
*2 三成は島津の事をかなり気遣っていて、私人としてはそれなりに仲が良かったということもあり、「少人数で無駄死にさせないようにした」という説もないこともない。また、島津の布陣場所が三成の近くである事から、三成に「切り札として温存されていた」とする説もある。
*3 ちなみに街道を避けて関ヶ原北方の伊吹山に逃れた西軍諸将に小西行長・石田三成・宇喜多秀家らがいるが、小西行長は関ヶ原からの脱出に失敗、辛うじて伊吹山を越えた石田三成も居城の佐和山城にたどり着けず、北近江の山中で東軍に捕らえることになる。宇喜多秀家は落ち武者狩りに遭遇してしまうも、それを指揮していた地元の郷士に匿われ、妻の実家である前田家の伝手を頼って逃げ延びることに成功した。
*4 島津氏の陪臣(家臣の家臣)と言われる。一応史料によっては豊久が直政を撃ったと取れるものもあるようだが、この柏木が撃ったとされる方が一般的。また、撃った直後に無名の自分ではなく主君川上四郎兵衛の名乗りを挙げた謙虚な男とされているが、一方で普通に名乗りを挙げようとしてズッタズタに噛み倒したとも言われており、ドリフの一件も含め後世の伝承、創作において何かとかわいそうな男である。
*5 ((;゚Д゚

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