登録日:2017/04/11 Tue 07:23:18
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『ケビン・ナッシュ(Kevin Scott Nash)』は、1959年7月9日生まれの米国のプロレスラー。
ミシガン州レントン出身。
身長2m10cmに及ぶ長身に、体重140kg越えの巨体を誇り、大型レスラーにありがちな腰痛に悩まされつつも現役生活を続け 、年齢を重ねた現在でも迫力ある見た目を維持している。
90年代初めのWWFの主力選手の一人として“ディーゼル(DIESEL)”のリングネームで活躍。
“HBK”と化していたショーン・マイケルズの用心棒として登場した後に、そのマイケルズも含むトップ選手達と抗争してWWF世界王座も獲得している。
96年にWWFでの頂点王座獲得のバックアップもしてくれた盟友であるスコット・ホールと共に、WWFとの契約期間を残したままでライバル団体WCWに移籍。
商標登録の関係から本名のケビン・ナッシュとして、オリジナルNWOのメンバーとなり、業界のトップヒールの地位にも収まっていた。
超大型選手でありながら、脚の長い筋肉質の肉体に長い髪を靡かせたワイルドな容貌も注目され、WWF時代は“ビッグ・ダディ・クール(Big Daddy Cool)”
WCW時代は“ビッグ・セクシー(Big Sexy)”の異名もとった。日本ではテストと共に、親しみを込めて「もっさり」または名前とかけて「なっさり」などと呼ばれている。
【略歴】
学生時代はバスケットボールで活躍。
長身と運動神経を活かし、テネシー大学在籍当時にはセンターとしてNCAAスウィート16選出に貢献。
卒業後、ドイツでプロ生活を送っていたが膝の故障から廃業し帰国。
帰国後、アトランタのナイトクラブで用心棒をしていたのを目に留めたWCW副社長のジム・ナイト・ハードに見出だされ、プロレスラーとなるべくパワープラント(レスラー養成所)で学び初める。
90年8月に“Dr.X”のリングネームでデビュー。
その後、“スティール”と名を替えてブレイド(アル・グリーン)とのコンビ“ザ・マスター・ブラスターズ”として活動を開始。
スタイナー兄弟と抗争するもベルト獲得には至らず91年3月に解散。
シングルプレーヤーとなると、何故か『オズの魔法使い』をモチーフとした“Oz”に変身。
ケビン・サリバンをマネージャーとした。
この時期、新日本プロレスにも“ザ・グレート・Oz”として来日。
この時はナッシュより更に背の高いエル・ヒガンテの代役であったが、巨体に加えて蛍光グリーンの派手なコスチュームを記憶しているファンも多い。
この後すぐにカジノの用心棒ギミックの“ビニー・ベガス”に変身してダイヤモンド・ダラス・ペイジとの“ベガス・コネクション”として活動。
92年には新日本プロレスに再来日して橋本真也とも対戦している。
WCWでは結局は満足に活躍の機会を得られないままに退団。
93年8月より“HBK”ショーン・マイケルズの用心棒として“ディーゼル”を名乗りWWFに登場。
これまでで最も“素”に近いキャラクターであり、現在の“ケビン・ナッシュ”というレスラーの基本もここで完成した。
94年4月にレイザー・ラモン(スコット・ホール)を破り、インターコンチネンタル(IC)王座を獲得。
8月にはマイケルズとのコンビでWWFタッグ王座を獲得してトップレスラーの地位に登りつめる。
尚、この頃にまだまだキャリアも浅く、下手くそだったナッシュを友人のホールやマイケルズといった名人が直接指導していったことでプロレスも上達したのだという。
11月にマイケルズと喧嘩別れしてタッグ王座を返上。
MSGでボブ・バックランドに挑戦してWWF世界王座を獲得し、団体の頂点に立つ。
この時期には95年11月にブレット・ハートに破れるまで、WWFやWCWでは珍しい長期政権を樹立した。
これは、お茶の間の絶対的ヒーローとして君臨できたハルク・ホーガン以降の最長保持記録だったという。
また、この時期はリング上のアングルを抜きとしてマイケルズ、ホール、ショーン・ウォルトマン(123キッド)、ポール・レヴェック(トリプルH)とナッシュによる仲良しグループ“クリック”が、プライベートを越えて、WWFのリング内外にまで影響力を発揮していた頃でもあった。
自らの待遇への不満を敢然と口にし、ストーリーラインやグループ以外の選手のプッシュにまで悪影響を及ぼしたとして訴えられるに至り、WWFはホールとナッシュを素行不良を理由に出場停止処分とする。
すると、これを聞き付けたのかWWFに月曜戦争を仕掛ける等、年々攻勢を強めていた古巣のWCWから声が掛かると、
何と二人は契約期間が残っているにもかかわらずに移籍を決めてしまう。
これについてはWWFも裁判所に訴えるも解答が流されてしまい、本当に二人はWWFを飛び出ることになってしまった。
96年5月の二人の最後の試合では、試合後にマイケルズ、ウォルトマン、ポール・レヴェックの3人がベビーとヒールのアングルを無視してホールとナッシュと抱擁を交わし“クリック”の絆をアピールするカーテンコール事件を起こす。
この事件は二人が去った後のハンターさん(トリプルH)の境遇等、後々まで影響を及ぼすのだがそれは別の話。*1
96年7月にホールとの“ジ・アウトサイダーズ”としてWCWに登場。
エリック・ビショフの発案により「ビンス・マクマホンの命令でWCWを潰しに来た」と宣言。当のビンスはそれを聞いて憤慨してただろうけど。
*2
……尤も、このギミックは上手くいかずに早速行き詰まりを見せてしまう。
せっかく大物ヒールに成長した二人を持て余してしまう可能性もあったが、其処に声を掛けて来たのが業界最大の大物でありながら、ファンからは全盛期は過ぎたと見なされてしまっていたハルク・ホーガンだった。
ホーガンはホールとナッシュ、更にビショフをも巻き込んだ一大派閥の構想を持ちかけ、それがNWOの誕生となったのである。
NWOでは、中心人物としてWCW世界王座を保持するホーガンを支え、ホールとのコンビでWCWタッグ王座として君臨。
この NWOには新日本プロレスのトップであった蝶野正洋とザ・グレート・ムタ(武藤敬司)も参加し、二人をリーダーとする派生軍団 NWOジャパンとして、日本でも大ブームを起こしたことで知られる。
NWO効果は凄まじく、元々はWWFのTV戦略の後追いであり喧嘩を吹っ掛けた立場であったWCWに視聴率戦争での長きに渡る勝利をもたらした。
日本でも一昔前なら視聴率が一つの指針となっていたが、人口密度が低く、受信環境さえあれぱ(えねーちけーが受信料払えとダーマしてくることをのぞけば)番組を垂れ流してくれる日本のTV事情とは違い、人口密度の低い米国では昔からケーブルTVで見たいチャンネルや番組コンテンツを取捨選択するのが一般的である。
つまり、コンテンツが面白ければ見られて金になるが、つまらなければ切り捨てられてしまうだけであり、WWFの『マンデー・ナイト・ロウ(Monday Night Raw)』とWCWの『マンデー・ナイトロ(Monday Nightro)』 の関係は単なる同ジャンルの裏番組以上の意味があり、視聴率戦争は正に会社の死活問題だったのである。
親会社の潤沢な資金を利用し、旬の著名人をも巻き込んだビショフの戦略は功を奏し、一時期は本気でTVを利用して新たなるプロレスというコンテンツの在り方を実現させていたビンスに覚悟をさせる程だったとも言われる。
詳しくは『WCW』の項目を参照していただきたいが、この NWO全盛の流れの中でWCWの栄枯盛衰の中心人物となったのがナッシュだったのである。
この時期のWCWは正に NWO中心というかやりたい放題、身内同士で展開が組まれるカオスを呈していった。
日本の NWOジャパンがヒールの方が力を持っても、あくまでも本隊は正規軍というスタンスを守りブランドイメージを保ち続けたのに対して、本国では誰も彼もがチームに引き入れられたり、流れに乗れないような選手は除外されたりした末に肝心の試合の部分のクオリティも下がってしまっていく一方だった。
金に物を言わせて引き抜いた大物達はビッグネームではあるが既に限界の見えるロートルとなっており、ビショフが見映えのいい大型選手ばかりを重用する中で、世界王者の中の王者であるリック・フレアーですらが旧世代の象徴として冷や飯を食っていたというのだから呆れるばかりである。
話題作りだったのか、98年5月には NWOはホーガン派とナッシュ派に分裂。
そして、12月にはWCWの良識あるファンの最後の砦であった“超人類”ビル・ゴールドバーグが、スコット・ホールによるスタンガン攻撃のアシストがあったとはいえ、ナッシュに破れてデビュー以来の173連勝の記録を破られた上に、WCW世界王座を奪われてしまう。
これについては、WWF時代同様にナッシュがシナリオに口を出すようになった結果だ、として邪推するファンも居るものの、ナッシュ自身の弁によれば決めたのは“上の人間”だという。
そして、一時代を築き上げた NWO ……ひいてはWCWその物の凋落を決定付けたのが特に悪名高い『フィンガーポーク・オブ・ドゥーム』事件である。
ざっとした経緯は以下のようになっている。
①ゴールドバーグからのスッキリとしない勝ちに納得のいかないナッシュが完全決着を念頭に置いた再戦をアピール。
ファンも大喜び。
↓
②アングルにより警察に拘束されたゴールドバーグの会場入りが遅れ、代わりに対立していたホーガンが「引退」を掛けてナッシュとの対戦をアピール。
↓
③ナッシュとホーガンの戦いがスタートするも、ナッシュはホーガンに軽く押されただけで大袈裟に倒れて3カウントを奪われると王座はホーガンに……観客( ゜д゜)ポカーン。
↓
④仲間割れしていたホールとホーガン、ナッシュがホーガンのセコンドの大先生共々に NWOの復活を白々しくアピール。
↓
⑤やっと登場してきたゴールドバーグが茶番を吹き飛ばしにきたと思いきや、まだまだ茶番は続いており、ベビーの大物として NWOと対立していた筈のレックス・ルガーまでもがゴールドバーグを裏切り、全員でリンチして背中にNWO とスプレー……。
おわかりいただけただろうか?
この糞シナリオには、全盛の頃より落ちていたとはいえ、まだまだ人気を保っていたNWOをファンが見限るには充分であった。
この日のWWF『RAW』では、ザ・ロックvsマンカインドのWWF王座の録画試合がメインであり、その試合結果をビショフの指示で番組内で暴露していたにもかかわらず、それを見るために数十万人の視聴者が『RAW』にチャンネルを変えたという。
……この事件を受けて『ナイトロ』自体の視聴率も低迷の一途を辿ってゆき、既に若くもなかった一介の技巧派中堅レスラーから自己演出により新たなる価値観を築き上げたストーン・コールド・スティーブ・オースチンの登場と、プロレス団体の経営者として腹を括り、自らも表舞台に出ていく覚悟を決めたビンス・マクマホンの自らの恥も外聞もネタにするかのような悪徳経営者を演じての戦いを皮切りとするアティチュード路線により、ライブ感覚でプロレスとドラマを体感する手法が定着していた新生WWFは逆攻勢を強め、遂にWCWは崩壊に追い込まれる。
00年になって、ナッシュが庇い続けていた盟友のホールが遂に解雇。
復活していたNWOも自然消滅のような形となった後もトップ選手の一人として残るも、この当時のWCWのトップ勢は前述のように名前だけのベテランばかりで、試合内容でも魅せていたWWFとの差は広がるばかりであった。
01年1月に「引退」を掛けてスコット・スタイナーと戦うも破れる。
しかし、01年3月にはWCW自体も崩壊するのであった。
WWFに、崩壊したWCWやECW勢が集い、その中でも生き残った顔ぶれが定着して一段落もついた02年2月に、ホーガン、ホールと共にオリジナルNWOとして社名を新たにしたWWEに登場。
二大エースとなっていたザ・ロックとストーンコールドに3vs2のハンディ戦ながら勝利すると、3月のレッスルマニアⅩ8でストーンコールドvsホール、ザ・ロックvsホーガンの戦いをサポート。
この戦いでロック以上の声援を集めてしまったホーガンがいきなりベビーに戻ってしまうと、矢張りオリジナルメンバーの一人であるウォルトマン(Xパック)を呼び寄せNWOとして活動を開始……するも、自身の膝の故障で離脱。
続いて相方のホールが5月に素行不良により解雇。
7月に復帰するも、そこでも大腿二頭筋断裂の重症を負って休養に入ると、折角のNWOも活かせないままに消滅。
03年に復帰するも精彩を欠き、クリス・ジェリコとの髪切りマッチに破れて短髪にされる等、存在感を出せないままに、契約を延長せずに退団した。
04年には日本に登場し、当時話題を集めていたOH砲(小川直也&橋本真也)とホールとのジ・アウトサイダーズを復活させて対戦するも破れる。
11月からはTNAに参戦し主戦場とするようになる。
TNAではWCW時代の同僚の他、カート・アングルやブッカーTといったWWEでの活躍を経てきた選手達とも顔合わせが実現。
更にはAJスタイルズやサモア・ジョーの様なマニア上がりの新世代とも対戦し、底力を見せつけた。
10年にTNAを退団すると、WWEとレジェンズ契約を結び、幾度かのスポット参戦を果たす他、インディー団体にも参戦。
12年にレジェンズ契約が終了すると、武藤体制時代の全日本プロレスに参戦し、日本のファンにも健在をアピールした。
14年にはまたもWWEに登場するようになり、盟友ホールのWWE殿堂入りのインダクターも務めた。
翌、15年3月には自身もWWE殿堂に。
前年のホールの時と同じく“クリック”のメンバーが現れ祝福を受ける。
そして、翌日のレッスルマニア31で行われた“WCW vs WWF”の最後の戦いとも呼ぶべきスティングvsトリプルHの戦いに於いてD-XがトリプルHの救出に入ると、ホーガン、ナッシュ、ホールがオリジナルNWOとしてスティングの救出に現れ歓声を浴びた。
嘗ての視聴率戦争を両団体に分かれて競いあった盟友同士の豪華な邂逅であった。
以降もWWEを始めとしたプロレス団体に顔を見せたり、インタビューに答えたりと元気な姿を見せている。20222年には盟友のケビン・ナッシュと最愛の息子を失ったこともあって一時期精神が不安定だったが、現在は回復済み。最近はAEWのケニー・オメガがお気に入りなようで、新日本との合同興行におけるウィル・オスプレイとの試合ではオスプレイの出した危険技に対して文句を言っていた。
【得意技】
■ジャックナイフパワーボム
ナッシュの代名詞である放り投げ式のパワーボム。
単に“ジャックナイフ”と呼ばれる場合も多いが、プロレスでジャックナイフといえば一般的には相手の足をとってからブリッジして固めるクイック技のことを指すために混同させないようにパワーボムまで表記される場合もある。
所謂投げっ放し式のパワーボムなのだが、ナッシュの場合は自身の長身を利用して胸元辺りまで持ち上げた後で、無造作に手を放して自由落下させる場合が多く、独特の無重力感というか雑さが持ち味となっている。
大型選手にも仕掛けることが出来るが、ザ・ジャイアント(ビッグ・ショー)に仕掛けた時には途中で指が外れ、鋭角に首からマットに突き刺して大怪我を負わせてしまったことがある。
■ビッグブーツ
長身で脚も長いこともあってか説得力があり、名手の一人といえる。
蝶野にあやかって“ヤクザキックUSA”と称されていたこともある。
■スネークアイズ
持ち上げてから顔面をコーナーポスト等に無造作に打ち付けていく。
■サイドウォークスラム
■チョークスラム
追記修正はウルフパックサインを決めてからお願い致します。
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*1 ※今でこそ、リングでは血で血を洗うような抗争をしていながら裏では仲が良いという事は、ファンの間でも周知の事実と化してるが、この事件は、リング上での出来事が紛れもない真実であると信じていた当時のファンに、見せてはならない素の部分をさらけ出してしてしまったという点でも衝撃的な事件であった。*2 ※因みに後年トリプルH率いるD-XがWCWの興行をしている会場に現れて挑発行為をしたのは本当にビンスの命令を受けている
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