登録日:2015/03/26 (木) 23:14:00
更新日:2024/01/12 Fri 10:52:09NEW!
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剣豪小説 武士 短編 藤沢周平 秘剣 臆病 不倫←未遂 臆病剣松風
藤沢周平の短編剣豪小説。世に語るべからざる「秘剣」を身につけた武士と、その周辺の人々を主人公に据えた短編小説のシリーズである”隠し剣”シリーズの内の一編。
初出は文芸誌「オール読物」の1976年12月号。
現在は”隠し剣”シリーズを纏めた短編集「隠し剣孤影抄」(文春文庫)に収録されている。またその他、藤沢氏の全作品を収録した「藤沢周平全集」の第16巻に収録されているが全集だけあってこっちは生粋のファンでもなければ手を出しにくいであろう。
□概要
秘剣を題材とした短編剣豪小説”隠し剣”シリーズの第二作目。前作は「邪剣竜尾返し」、次作は「暗殺剣虎ノ眼」。シリーズではあるものの、基本的に各話間に繋がりは無く、これ一話で完結する。
秘剣を題材としているものの、その要素は前作に比べ少なく、どちらかというと夫婦の関係に主軸が置かれている。ただ当然、斬り合いの描写が手を抜かれている訳ではなく、寧ろそれまで軽んじられていた分、秘剣が遣われる場面でのカタルシスは随一であろう。
【物語】
鑑極流の秘伝を伝える剣の達人という触れ込みに惹かれ、瓜生新兵衛と夫婦となった満江は夫のその看板との格差に愛想を尽かしかけていた。なにせ夫の新兵衛と言えば、総身は痩せ細り、性格はひどく臆病でとても剣を遣うような男には思えないのである。
そんなある日、外に出ていた満江は従兄の千田道之助と再会する。かつて道之助は、親族間でも話題にあがる程の放蕩息子で、欲しいものは力ずくで手に入れる様な乱暴な男であったが、その性は今も変わらず、満江を半ば脅すように強引に酒に誘う。
夫への不満や、仮にも親族という安心感もあり、それに付き合う満江であったが、やはりと言うべきか道之助のねらいは満江そのものであった。酒の力も手伝い、満江は危うく不貞を犯しかけるもののすんでのところで逃れる。だが、その背にかけられるのは「もう一度あってくれるだろうな」という道之助の関係を求める言葉であった。
一方、時は少し遡る。
海坂藩家老、柘植益之介は部下の宮島彦四郎に同門の瓜生について尋ねていた。無論、そのような話題を出したのは単なる興味からではない。それには藩の状況が関係している。
現在海坂藩は世継ぎ問題に揺れていた。争っているのは世子和泉守を擁する”世子擁護派”と、和泉守を廃し自らの次子忠次郎を次なる藩主に据えようと画策する、吉富兵庫を筆頭とする”兵庫派”の二派である。
このままであれば和泉守が次代藩主に就くことになるが、右京太夫と吉野兵庫は親交が深く血縁関係もある。和泉守が何らかの事情で廃されれば忠次郎が次代藩主の座に付く可能性も高くなる。そして実際、和泉守の舌役(毒見役)が毒によって倒れていた。これは兵庫が本格的に、和泉守を亡きものにしようとしている事を意味している。
その為兵庫をこれ以上藩政に関わらせたくない益之介は和泉守が害される事のないよう、護衛を付けようとしていたのだ。そこで白羽の矢が立ったのが瓜生である。
事情を聞いた宮島は瓜生を推す柘植の意見に首肯する。瓜生は鑑極流に存在する秘剣の一つ、松風の秘剣を伝える武芸者であり、松風の秘剣は護衛役にうってつけの守りの剣だからである。ただ同時に宮島は「瓜生を説得するのは難しいだろう」と言うが……。
【登場人物】
○満江
新兵衛の妻女。元は二百二十石を喰む家の娘であったが、剣の秘伝を伝える達人という、自分のあったことのないタイプの男である事に惹かれ百石の瓜生家に嫁入る。嫁入りから五年が経つが未だに夫婦間に子はできていない。
五年の間に起こした旦那の数多くのヘタレな行動を(隠れ)見ており、今では夫が剣の達人であることを信じていない。その為、外見はヒョロく性格はヘタレで剣の腕は少々遣う程度(だと思っている)旦那の事を軽んじている気持ちがある。
とはいえ、現在は禄米上げ(藩財政が困窮しているときに行われる一時的な税金のようなもの)で多少録は減ったものの、百石喰みの二人暮らしという事で特に困窮している訳でもなく旦那に対する不平不満があることを除けば至って普通の中流武士家庭の人妻といった感じ。
そんな日々を過ごす中、かつては毛嫌いしていた従兄、千田道之助と再会するが……。
○瓜生新兵衛
普請組に勤める百石取りの武士。母親が二年前に逝去しており現在は妻女の満江と二人暮らし。
全体的に痩せ細り、普請組の外勤めで日にあたる部分だけが日焼けした浅黒と色白のまだら模様の様な肌と細い目が特徴的な、満江曰く「とても剣を遣うようには見えない」外見。
また、彼を語る上で外せないのが、度を越して臆病なその性格であろう。そのビビリな行動の数々は、結婚当初「外見こんなだけど実は知る人ぞ知る剣の達人な旦那カッケー」を期待していた満江をあえなく落胆させた。
行動の一例を挙げると
- 大きな地震のあった時、満江は寝たきりの老母(しかも新兵衛の母親。満江にとっては義母にあたる)を励ましながら看病していたというのに新兵衛は一目散に家から飛び出ししばらく帰ってこない
- 町内の大通りに暴れ馬が現れた時、華麗に鎮めるでも町人たちの盾になる訳でもなく自分はさっさと脇の小道へと逃げ入ってしまう
- 上記の和泉守の護衛の話を打診された際、真っ青になり声も出ない程に脅え、あげく一度は断った
等がある。何やら今の俺らでは普通に取りそうな行動も混じっているが、この時代の武士の男と言えば、一家の大黒柱で滅多なことでは動じず、武士として町民たちの規範となるべき存在であり、そして封建制の性として上からの命令にはほぼ絶対服従であることが求められていた、という事を付記しておきたい。
こんなではあるが、剣士としては鑑極流の皆伝どころか秘伝の技の一つを授けられた程であり、同門からの評価も(臆病な性を呆れられつつも)すごぶる高い。
そしてその為、一度は辞した和泉守の警護役を無理矢理押し付けられてしまう事になる。
○千田道之助
満江の従兄。現在どのような勤めに付いているかは不明。ただ昼間から酒を飲み歩いているところを見ると……。
かつては親戚一同を困らせる程の遊び人であり、三日も四日も家に帰らない事も少なくなかったという。満江の兄曰く彼がこのような性格になったのは「かつて将来を約束していた女性に裏切られ、突然家中の某に嫁入られたせい」らしい。が、当時の満江にはそんな話も関係なく、深酒と茶屋遊びにばかり精を出していた従兄の事を無頼漢の如く嫌っていた。
嫁入り前の満江にとって男性と言えばこの遊び人の道之助か、根っからの文系な兄の二人であり武芸者への憧れを増長させたため、ある意味で瓜生家への嫁入りを決めさせた元凶と言えなくもない。
ある日偶然満江と再会し、美しく成長した満江を半ば強引に酒の席へと誘うが……。
以下ネタバレ注意
あれが、松風です。松の枝が風を受けて鳴るように、相手の剣気を受けて冴えを増す。瓜生の剣はよく秘伝を伝えております
道之助との突然の再会があった夜、満江は新兵衛に呼び止められる。道之助との一刻がもう顕れてしまったのかと不安に思う満江であったが新兵衛の話は全く別のものであった。
新兵衛は藩の情勢を簡潔に満江に説明した。藩の跡目争いが行われている事、その為世子和泉守に対して警護の人間が要る事、その役を新兵衛に打診されていた事、そして自分はその役に気が進まない事も。
そんな旦那に対し普段の調子を取り戻した満江は揶揄するように「怖いのですか」と言う。
だがそんな言葉に対し顔を上げた新兵衛の表情に現れていたものは恐怖だった。彼は本当にその役を怖がっていたのだ。そしてそれを満江に対し隠しもしなかった。
その表情を見たとき、満江の心には夫へのいとおしさが溢れていた。夫を悲しませる理不尽なものに、心の底から怒る程に。そして満江は新兵衛を抱きしめ、嫌ならやめればいいと言うがそれを新兵衛は否定する。「もう引き受けてしまった」と。
新兵衛が松風の秘剣を遣ったのは、それから半月後の事だった。
その日、新兵衛は和泉守の護衛として書庫に付き添っていた。刺客が現れたのは和泉守の用事が終わり、新兵衛と共に書庫を出て長い廊下に差し掛かった時である。
刺客は中老の柳田と、その脇を固める二人の三人で構成されていた。無論、柳田はその場を動かず、脇の二人が刺客を担う。
斬り合いは廊下のほぼ中央で行われた。刺客二人に新兵衛一人が相対する姿勢である。
二人は流石に刺客だけあって、機敏な剣を遣った。その上数の利もあり、絶え間無い剣戟が新兵衛を襲う。それに対する新兵衛は防戦一方である。二人の剣を受け、まるで風に揺れる葦のように頼りなく揺れていた。
だが刺客の二人も、柳田も和泉守も、ついでに廊下の端から覗きみていた柘植も気付く。頼りなく揺れている新兵衛はその実斬り合いを始めた場から一歩たりとも動いていないということに。
新兵衛の防御は時を経る毎に粘りと堅牢さをましていく。そしてその防御が果てしなく続くかと思われたその時、刺客の打ち込みを外した新兵衛が一瞬の速さで二人の命を屠っていた。その勢いのまま新兵衛は更に柳田も一瞬で倒し、無事警護役としての役目を果たしたのであった。
一方同刻。瓜生家にて。
庭で草木に水をやっていた満江の下に道之助が訪れる。無論、夫の居ぬ間にあの日の続きを求めに来たのだ。だが最早満江の心に道之助は無かった。満江は道之助の誘いをキッパリと蹴る。
それでも「今日は機嫌が悪いようだから後日」と未練がましく言い募る道之助に対し満江は脅すように言い放った。
「おやめになった方が、身のためですよ」
「そんなことをなさると、夫に言いつけます。ご存知ないんですか。新兵衛は鑑極流の達人で、あなたをこらしめるくらい、わけもない人ですよ」
それを聞いた道之助は今度こそ本当に瓜生家を出て行った。もはや訪れることはないであろう。
だが道之助に対しそういったものの、満江は剣の達人としての夫を愛しているわけでは無かった。律儀に城勤めを続ける夫を、そしてあの夜目にしたひどく臆病な夫を愛していたのだ。そしてまた、そんな自分にも満足を感じていた。
やがて庭の水遣りも終わる。その時には最早、満江は道之助が訪れた事も忘れていたのだった。
追記修正よろしくお願いします。
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- この夫婦は好きだな。 -- 名無しさん (2015-03-26 23:18:37)
- 良いな……。 -- 名無しさん (2015-03-27 00:01:50)
- 隠し剣シリーズの暗い雰囲気的に、すれ違いの悲劇に終わるんじゃないかとヒヤヒヤしたわ。純粋なハッピーエンドで終わって本当に良かった。 -- 名無しさん (2015-03-27 00:41:35)
- 絶対NTR来ると思ってたゾ -- 名無しさん (2016-12-15 16:22:20)
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