西大寺鉄道

ページ名:西大寺鉄道

登録日:2012/10/24(水) 20:05:32
更新日:2023/08/07 Mon 12:42:18NEW!
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鉄道 軽便鉄道 岡山県 廃線 黒字 両備グループ 西大寺鉄道



「鉄道路線が廃止された」と聞くと、多くのwiki籠りの皆様は赤字で廃止という事を思い浮かべるかもしれない。
乗客が減少したり、路線が災害で被害を受けたり…様々な要因からの脱却が不可能となった結果、その路線は歴史の中に消えるという結末は、
数多くの鉄道路線が迎える事になる話である。


…だが、中には例外も存在する。
この項目で紹介する西大寺鉄道の鉄道路線が廃止になったのは1962年の事だが、実はその時まで一回だけの例外を除き、最後まで黒字経営を続けていたのである。



★概要
西大寺鉄道が岡山の町に開業したのは1912年の事。
開業当初は蒸気機関車による運転であったが、1915年の路線延長を経て、1931年以後はガソリンカーも併用して運用するようになる。
この鉄道は、線路の幅が狭い俗に言う「軽便鉄道」の一つであったが、この鉄道には一つ大きな特徴があった。線路の幅が、914mmだったのである。
…何故これを強調するのかと言うと、実は本州でこの線路の幅を採用した鉄道は非常に珍しく、石川県の馬車鉄道くらいしか他に例が無いのだ。
戦前は福岡県などの九州北部でも多くみられたのだがそれらは戦後までに全廃され、戦後に残ったのはこの西大寺鉄道のみであった。
どうしてわざわざこの幅を採用したのかはいまだ不明のままである。


先程この鉄道が最後まで黒字のままで終わったと述べたが、その理由の一つが名称の由来である「西大寺」にある。
現在も毎年二月に「西大寺観音院会陽」、
いわゆる裸祭りが開かれるのであるが、その際の乗客輸送にこの西大寺鉄道が大きな役割を果たしていた。
所有車両を総動員させ、たくさんの客を一気に運んだのである。
特に戦前は屋根にまで乗客が溢れ、蒸気機関車と気動車が力を合わせないと客車が動かせないほどの混雑。
深夜まで運行が続き、他の鉄道の機関士が応援に駆け付けると言う事態にまでなったという。
この祭りの収入は、一日で一年の収入の大半を叩きだすとまで言われるほどであった。
ちなみにもう一つ、黒字経営を維持した理由があるがそれは後述。


なお、1955年以降は子会社であった両備バスを吸収、社名をそちらから受け継いだために「両備バス西大寺鉄道線」となった。
その結果、社名に「バス」とついている鉄道路線と言う変わった事態となった。



★車両
この年に一度の大イベントに備え、路線の長さに比べてかなり多くの機関車や気動車を導入していたのも特徴である。


蒸気機関車は最大9両が在籍したが、何故か異様に煙突が長いという妙な特徴があった。
軽便鉄道の車両は普通の鉄道と比べて車両の大きさが小さいのだが、
この鉄道はトンネルや鉄橋など高さの制限がある建築物が無かったのをいい事にどんどん煙突を伸ばし、当時の国から高すぎると許可が貰えないほどになってしまった。
…ただしそんな許可知った事かと無許可でどんどん伸ばしていたようだが。


ちなみにそんな事になったのは、火の粉や煙が客車にいる乗客に降りかからないようにすると言うちゃんとした理由がある。


さて、この蒸気機関車たちに代わって投入されたのは、数多くの気動車である。


最初に投入されたキハ1~キハ5は、見た目は定員20名と小柄ながらかなりの力持ちで、客車を1両常に牽引する事を前提に設計されていた。
運転席が片方しかない「単端式」と呼ばれる構造だが、後ろ側に貫通路が設けられており、車掌が検札で他の車両に行けるようにもされていた。


続いて登場したのはキハ100。両方に運転台が備えてある大型の気動車として登場した…


…のだが、色々と新機軸の設定を採用したのが仇となり、故障を頻発してしまった。そのためか詳細な資料や写真すら残っていないという謎の車両である。
それに代わって投入されたキハ6とキハ7は、より安定したエンジン構造で、こちらは主力となって活躍した。
当然ながらキハ100に用は無くなり、戦時中はエンジンが降ろされて客車にされてしまった。
…だが、戦争が終わった後、とんでもない形で転機が訪れた。
新たにエンジンを取りつけ、もう一度気動車として再起する事になったのだが、その際になんと分裂増殖してしまった。
真ん中から車両をぶった切り、それぞれに運転台を取りつけ、2両の単端式気動車のキハ8・キハ10として新たに登場したのである。
ちなみに元々のキハ100の窓の数の関係で、微妙に車体のレイアウトは違っていたとか。


なお、2両の車両を1両に合体すると言う方法は意外と各地の鉄道に見られ、伊予鉄道の客車や下津井電鉄の電車などに例があるが、
その逆となるとこのキハ100くらいしか例がないようだ。


気動車はこのように珍車揃いの一方で、客車は各地でよくあるレトロな風貌であった。



★廃止
ここまで取り上げた車両たちのうち、これらの気動車は全て路線が消える時まで生き残った。
その理由としては先程述べた西大寺の祭りの際の乗客輸送もあるがもう一つ、現在沿線を走る鉄道路線にまつわる事情がある。


戦前の「改正鉄道敷設法」という法律に、当時一部区間に峠の難所を抱えていた山陽本線の代替路線として、ある鉄道路線の建設が明記されていた。
当時の国鉄、現在のJR西日本が所有する赤穂線である。
かねてより計画が進んでいた事もあり、西大寺鉄道では路線への投資を最低限に留め、出費を節約していたのだ。
これも、黒字のまま廃止になった大きな要因と言われている。


赤穂線の計画路線と並行して運行されていたこの鉄道のように、かつて既存の私鉄が国鉄線の開通によって廃止になった時、
補償金が国から支給されているのが普通であった。だが、その状況は戦後になって一変する。
戦前の「鉄道省」から、公社である「日本国有鉄道」へと経営の形が切り替わったため、この制度が無くなってしまったのだ。
この赤穂線が開業する流れの中でも、並行して運用していた赤穂鉄道が廃止されてしまい、会社が解散するという事態になったのだが、
その際も一切補償金が支払われないという事態となった。(沿線の人々が赤穂線開業を応援していたのも大きいが)
そして、この前例の元で国鉄は西大寺鉄道廃止に関する補償金も支払わないと告げたのである。


…当然ながら、西大寺鉄道(当時は両備バス)側はかんかんに怒った。
毎年巨額の収入を出してくれる宝の山を国の都合で潰され、しかも何の見返りも無いとなれば当然だろう。
赤穂線の開通と西大寺鉄道線の廃止があったのは1962年だが、その後も交渉は続き、1966年にようやく補償金を得る事が出来た。
しかし、その金額は申請した額に対し半分以下の4割だけだったと言う。


ただ、この時の問題がきっかけとなり、
その後似たような事態になった際は並行する私鉄の廃線跡を一部購入するという形を補償金代わりにするという解決方法がとられるようになった。
江若鉄道(現在の湖西線)などもその例である。



★その後
当初、車両たちは記念館に保存するという計画があったのだが、実現しないまま車両は朽ち果ててしまい、ほとんどが廃車解体されてしまった。
しかし全てが消えたわけでは無く、一部の客車や貨車は今も別の場所で保存されている。


その中で、現役当時の主力であったキハ7も整備をしっかりとされながら保存されている。
日本国内に残る914mmゲージの気動車として最後に残っているなどの希少価値が認められ、2004年には「推薦産業遺産」にも認定された。


小さな軽便鉄道として創業した西大寺鉄道は、やがて両備バスと名を変え、鉄道廃止後もバスやタクシーなど交通を支える企業となった。
事業はさらに拡大し、機械整備、不動産業、さらにスーパーなども手がけ、多くの交通会社も傘下に収める「両備グループ」となり、現在に至っている。
岡山を代表する一大企業となった今でも、会社創業の礎となったこの西大寺鉄道は非常に大事にされており、
2009年の創業100周年イベントの際はキハ7の車内公開や初公開の写真の展示などで大いに盛り上がっている。



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  • モロ地元ネタを作ってくれて嬉しいわw因みに両備バス西大寺駅ターミナル近くの両備プラッツは両備プラッツの第一号店です -- 名無しさん (2014-07-10 01:10:13)

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