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更新日:2023/08/17 Thu 22:59:10NEW!
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「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
藤原 道長(966-1027)
天皇家と強力な外戚関係を結び、摂関政治の最盛期を築いた、平安時代を代表する貴族政治家。
天皇すら凌ぐ権勢は「帝王の如し」とまで畏れられた。
【日本史上最も幸運な男】
後の摂政・藤原兼家の五男として誕生。
父の引き立てで26歳の若さで権大納言(大臣に次ぐ地位)に昇進したものの、道隆・道兼ら兄の陰に隠れて目立たない存在だった。
……だが、道長30歳のとき。歴史は大きく動き出す。
995年、兼家の後を継いでいた長兄の道隆が43歳で急死。
時同じくして起こった麻疹大流行により次兄・道兼ら上級貴族たちが次々に倒れ、自身より高位の6人のうち5人がわずか数ヵ月の間に死亡してしまう。
残った藤原伊周(道隆の子)に勝利して内覧・左大臣となり、朝廷最高権力者の座を手にした道長は、
長女・彰子と一条天皇の間にのちに後一条天皇、後朱雀天皇となる外孫の皇子たちと順調に権力を固めていく。
もっとも、本当に恐ろしいのはここからで、彼に敵対した人間はもれなく不運に見舞われる。
- 藤原定子
一条天皇の皇后。伊周の妹。
25歳のとき出産時に死亡。
- 藤原伊周
下らないいざこざで花山法皇に矢を射かける事件を起こして自滅、失意のうちに37歳で病死。
- 藤原顕光
右大臣。道長の従兄。
道長に対抗して娘を天皇に嫁がせたが、妊娠したはずの娘は「水を産んで」赤っ恥をかく*1。
- 三条天皇
一条天皇の従兄。道長の次女の夫。
36歳という壮年で即位、道長とは不仲だった(道長の娘を入内させたけど)。持病の眼病が悪化して政務をとれなくなり、わずか5年で退位。
まさしく「持ってる」男。
引退後は出家して浄土信仰に傾倒、寺社建設に情熱を注ぐが、息子・娘たちに相次いで先立たれる不幸に見舞われ*2、最期は自ら築いた法成寺阿弥陀堂で極楽往生を願いながら死去。享年62。
【エピソード】
- 人物像
平安時代の貴族にナヨナヨしたイメージを持たれている方もいるかもしれないが、
道長はどちらかというとかなり豪胆で活発な――悪く言えばヤンチャな――男であったようだ。
花山天皇が「月明かりのない夜、真っ暗なままで殿に行ってこい」と肝試しを命じた時には、
他が尻込みして逃げ帰ってしまう中、堂々と真っ暗な殿の中に入って木屑を手渡し、「これを明日、殿の柱の傷と合わせてください」と言ったという。
もちろん当時は現代のような煌々とした灯りなど無い上に、「闇には物の怪がいる」という迷信も深く信じられていた時代で、度胸を示す手段としてはこの上ないものだった。
「百鬼夜行」という言葉が説話に登場していたような時代である。
帝はその報告を受けて「大したものだ」と笑ったという。
また弓馬に長け、特に競射では若い頃から名手と認められていた。
『大鏡』の『競べ弓』の段では競射で兄弟を負かした上に「自分の家から帝や后が立つならばこの矢よ当たれ!」と言いながら矢を放ったところ本当に当たったという描写がある。
- 文学的貢献
道長は創作に熱心で、特に漢詩を好み詩作の宴をよく主催した。
『大鏡』「三船の誉の段」などからもこのことは窺い知れる。
道長の日記『御堂関白記』は直筆本が残っている極めて貴重な史料で、国宝に指定されている。
ただ大ざっぱな性格だったのか誤字脱字が多く、サボっている日も結構ある。
冒頭の有名な「望月の歌」を詠んだのは陰暦の16日夜で、実は満月が昇った日ではなかった。
このせいで和歌が下手なうえに傲慢というイメージがあるかもしれないが、ただ道長自身は酔っぱらっていた上に「即興の作」と断っており、
日記にも歌集にも入っていない*3ので、本人的には黒歴史、あるいは「酔った勢いで適当に言っただけ」だったようだが、
道長に批判的だった貴族・藤原実資が「こいつこんな歌詠んでやがったよ」と記録したものが有名になってしまったのだ*4。
ちなみに実資はこの時、道長に「俺も詠んだんだからさ!」と返歌を振られたが、
彼は返歌を断って代わりに「いい歌だしみんなで繰り返そう」と皆で吟じることを提案している。
結果として晒し上げを食らった道長は浄土で何を思うだろうか……。
同時に道長は優れた文学者を保護するパトロンでもあった。
紫式部の雇い主で、一説には愛人関係にあったとも言われ、
彼女が主役となる2024年の大河ドラマでは、二人の関係が描かれる予定である。
- 日本最初の糖尿病患者
好物は蘇蜜(古代のチーズにはちみつをかけたもの)。信仰上の理由で殺生を嫌い、肉食・魚食は避けた。
さらに平安時代のグルメというのはとにかく「普通の人が食わないもの(うまいとは言ってない)」が基本だった*5ため、そもそも健康に悪い。
そんなのが祝賀に呼ばれまくってるので健康を崩すのは当然である。
それ故にか、晩年は喉の渇きや吹き出物に倦怠感・視力の低下などに苦しみ、おまけに狭心症まで併発していたらしい。
その症状がまさしく糖尿病のそれであるため、現代の糖尿病学会から「日本最初の糖尿病患者」に認定されており、
学会のイメージキャラクターとして切手にもなっている。
…それでも「健康」とかの概念が無いに等しく、平均寿命が30代程度のこの時代に62歳まで生きたというのは途轍もないのだが。
【余談】
摂関政治の象徴と言われ、かつ当時最も権勢をふるった人間として有名だが、意外なことに関白にはなっていない。摂政だけ。ここを読む時間で勉強した方がいいと思うがテストの引っかけ問題にたびたび出題されるので要注意。ここ読んで間違えたら赤っ恥だ。
道長は孫にあたる後一条と後朱雀に自分の娘を嫁がせている。つまり叔母甥婚。
彼らの父親・一条天皇もその母は道長の姉である。
近親相姦?いいえ人間ダビスタです。危険な配合ってレベルじゃねーぞ!*6
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▷ コメント欄
- 道長以来、戦国、幕末、戦前戦後といつの間にか復活してるんだもんな〜
藤原氏 -- 松永さん (2013-03-26 20:50:24) - まぁ晩年はツケが回ってきたのか、かなり祟られてたみたいだけどね -- 名無しさん (2013-06-19 14:55:53)
- 道長自身は、意外と政敵に厳しく当たっていない。伊周を許すよう天皇をとりなしたりもしている。政敵にきつく当たりすぎないのも、彼の一つの処世術なのかもしれない。 -- 名無しさん (2013-10-25 20:59:41)
- ↑3 戦後に藤原氏復活ってなにかあったっけ?? -- 名無しさん (2013-10-29 19:54:24)
- ↑確か 血族ではないが、戦後の政治家も色んな所と縁戚になるうち 藤原系になったって話は聞くな
あくまでも家系図上だけでも -- パキスタン (2013-10-29 20:03:28) - 藤原氏か、三柱鳥居が社宅にあるから
秦氏って説きいたが
明治維新の時の番頭 三野村は 正に偉人 -- 松永さん (2013-11-04 19:56:44) - ↑失礼
三井と間違えた -- 松永さん (2013-11-04 19:58:03) - ↑ぶっちゃけそいつ等とも 婚姻関係だったし もう藤原関係ない日本人探すこと自体もう無理何じゃ -- パキスタン (2013-11-09 21:15:47)
- 伊藤とか佐藤とかの○藤は元をただせば藤原氏の関係者って話はよく聞くな。もちろん血縁者だけとは限らず荘園の農民とかも含めてだけどね。今の苗字の割合で考えたらどんだけの土地(権力)持ってたんだって話 -- 名無しさん (2013-11-10 19:17:31)
- タグの平安時代のスターリンに違和感が ヨシフおじさんより 長続きしてる気がする -- 松永さん (2013-11-11 11:33:02)
- そして彼もまた某エロゲーにて美少女キャラになりました -- 名無しさん (2013-11-11 12:19:44)
- 平将門の乱と平忠常の乱の間に生きており大変な幸運児。平忠常の乱が起きたのは死後半年後。 -- 名無しさん (2013-11-11 13:07:37)
- ↑↑↑御堂様とタワーリシチが萌え美少女化したら 許そう -- パキスタン (2013-11-11 22:47:03)
- スターリンほど苛烈では無い気が -- 名無しさん (2014-05-28 10:38:14)
- スターリンは言い過ぎだろう。政敵を追放はしたけど粛清はしてないんだし。 -- 名無しさん (2014-11-04 19:23:03)
- だよな -- 名無しさん (2015-10-24 16:55:20)
- 尚晒し上げた張本人は後に道長に助けて貰ったという -- 名無しさん (2016-01-18 11:11:53)
- ツイッターみたいだな>「こいつこんな歌詠んでやがるwwww」 -- 名無しさん (2016-08-04 15:47:33)
- 松永氏、戦後の藤原氏とはいかに?不勉強で申し訳ない -- 名無しさん (2016-08-04 17:40:36)
- 戦前で藤原氏といえば近衛文麿じゃね?戦後だと細川元総理(文麿の外孫)とか -- 名無しさん (2017-01-05 01:36:05)
- ただ政治的に立派な政令を作ったりとか悪政を敷いたとかは聞かないんだよな・・・ -- 名無しさん (2017-08-11 15:10:08)
- ↑平安貴族の代表格として現在まで有名になってるような気がしないでもない -- 名無しさん (2017-08-11 15:38:26)
- この世をば~ の歌は和歌としては出来が悪い方なのか 学習まんがではわが世の春で自信満々に詠み上げてる風に描かれがちだけど -- 名無しさん (2020-04-02 11:18:34)
- 御堂関白記を書いているが彼自身が鳴ったのは摂政だけで関白にはなっていない。学校の試験で道長が摂政・関白になったと書いて減点を食らうクラスメイトがうようよいた。(自分はトリビア本で知ってて難を逃れた) -- 名無しさん (2021-08-29 15:37:56)
- 冒頭の詩を日記に書いた人は後世の人に「こいつめっちゃ調子にのっております」と馬鹿にするために載せたのだっけ -- 名無しさん (2022-03-19 14:49:47)
- 『大鏡』だとまだ出家していない頃のエピソードでも語り手に「入道殿」と呼ばれているので、高校の古典の時間にアタマが混乱した学生諸君も多かろう。まあ『源氏物語』で出家後の藤壺様が「入道」と書かれているのよりはマシですが… -- 名無しさん (2022-03-19 18:11:13)
- すごい強運。文字通り桁違いの天運(もちろん実力も)を持って生まれてきた方。 -- 名無しさん (2022-03-19 19:49:09)
- ↑7 そう、悪政すら碌にしていない。それだけの権力持ってるのに酒池肉林もおとなしければ重税で民が苦しんだって話も(少なくとも道長が原因とするような話は)ない。地震とかの天災すらほぼ見舞われてない。本当に天運が凄まじい。 -- 名無しさん (2022-03-19 20:15:27)
- 昔の糖尿病は贅沢病だったらしいし、痛風も持ってそう -- 名無しさん (2022-03-19 20:43:03)
- こいつあれかなあ?案外、カメレオンの矢沢みたいに運と勢いで上り詰めちゃっただけで、中身的には当時の平々凡々とした平安貴族だったんじゃね? -- 名無しさん (2022-11-08 09:16:07)
- ここまで政敵が急死・失脚が相次ぐと暗殺なり仕組んでそうな気もするが「政治家としての評価の賛否すらないよう『生まれが一応貴族の身分だった以外は本当に幸運だっただけの(元の身分相応に)凡庸な人』なのか、自分に不利となる要素は徹底的に隠匿抹消し尽くした『あの時代の宮中への適応に特化した狡猾な謀略家』」だったのか…… -- 名無しさん (2022-11-17 19:59:03)
- 祖先の基経の時点で天皇を謝罪させるくらい権勢を築いてたからな。その流れの中で最盛の時(しかし同時に凋落の兆候でもある)に回って来た感じ。 -- 名無しさん (2023-03-11 00:58:24)
- 実は過去には摂関体制回帰一揆も何度も起きてて意外に農民層に慕われてんだよな藤原氏 -- 名無しさん (2023-05-28 10:37:19)
#comment
*2 三男・顕信、次女・妍子、三女・寛子、六女・嬉子が道長に先立って亡くなった。
*3 お気に入りの作は「~~と詠んだ。みんなに誉められた」と日記に書いている
*4 ただし実資はこの歌に対しては単に記録としてとどめただけであり、批判の意図はなかったとする学者もいる。彼は日記に様々なことを記しており、「殿上において暑すぎて氷室の氷水を飲んだ」なんていう話も残しているほどであり、さほどの重要性はなかったのではないかという意見である。もちろんそれでも晒しものとして後世に残そうという意図はあったのかもしれないが、少なくともかつてこの項目に書かれていたような嘲笑の意図が文章から読み取れないことは確かである。
*5 食事が食材から調理方法へシフトしたのは鎌倉時代以降と言われている。実利重視の鎌倉武士と、禁葷食の仏教によって「煮しめ」をはじめとした技術が発達したという話である。この辺はアニヲタ的には「逃げ上手の若君」の解説あたりが一番接しやすいかもしれない。
*6 当時としては近親相姦という考えの範疇の外にあったことに留意すること。摂関政治全盛のこの時代、63代冷泉天皇から71代後三条天皇まで両親は皆従兄弟以上の近親者である。
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