チホ車(戦車)

ページ名:チホ車_戦車_

登録日:2022/08/19(金) 22:05:38
更新日:2024/06/25 Tue 13:55:36NEW!
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チホ車とは大日本帝国陸軍が1938年から1940年にかけて開発していた中戦車である。この車両は既に量産されていた九七式中戦車 チハに代わる、八九式中戦車の真の後継機として開発が始まった。書籍やネットでは九八式中戦車と呼ばれるが誤り


なお、結果論であるが残念で微妙なヤツになってしまった為採用されておらず、代わりに一式中戦車となるチヘの開発計画へ移行している。




開発前史

八九式中戦車の後継機としてまず、2つの案が存在した。後に採用されたチハ案とその試作競争相手であるチニ案である。
チハ案は戦車部隊よりの意見を取り入れた、いわば性能重視した高級志向型であった。一方のチニ案は上層部よりの意見を取り入れた、安かろう悪かろうの生産性重視型である


一見、チニ案はデメリットだらけで、チハ案を採用すべきかのように見えるが、チニ案は既存の九五式軽戦車ハ号と多くの部品を共通化することで、修理や整備の容易化を図っていた。特に搭載されたエンジンはハ号と同一の空冷式6気筒ディーゼルエンジンであり、最大出力も120馬力しかないが、当時の国産の戦車用エンジンの中でも一番壊れにくいものであった。


ならばチハ案はというと、高級志向と言えば聞こえはいいが、当時の技術的にはかなりの大冒険であり、設計どおりの性能が出せない可能性が高かったし、数が揃えづらく、より弱い戦車で代用せねばならない場面が増える可能性もあった*1
特に開発会議の最大の焦点となっていた、渡河作戦に使用する架橋器材*2の想定重量を超えてしまうことが忌避されていた*3


両者の意見は拮抗していたが、このまま行けばチハ案の一部を取り入れたチニ車が採用される可能性が高かった。
ところが、日中戦争の勃発により陸軍予算が大幅に増加したことで、一刻も早く八九式中戦車の後継機の戦力化が急務になったため、上層部は完全に納得していなかったものの、暫定的な後継機という形で、半ば強引にチハ案が選ばれることとなる。


開発

当面はチハの量産でしのぐという方針となり、改めて八九式中戦車の後継機となる、新たな中戦車の開発計画が1938年末~1939年初頭にかけてスタートした。
この中戦車は「チホ」というコードネームを与えられ、「チホ車」と表記されることも多かった。チホ車はチハとチニの中間に近い性質を持っていたが、チハとチニのように、上層部よりの参謀本部案と現場よりの戦車学校案、そして中間の技術本部*4案の3種類あった。


ぶっちゃけ、部分的にはチハを上回るところもあったが、全体的には微妙な代物であった。


構造

参謀本部案と比べて技術本部案のほうが大きく、それぞれ細部が異なっていたものの、共通して九七式中戦車よりも小型化している。弾薬や燃料などを含めた重量は、参謀本部案で約11t弱、技術本部の案だと12tとなっていた*5。戦車学校側の案もあり、こちらの重量は14t強となっていたが具体的な仕様は不明である
以下は特に説明がなければ、基本的に共通の仕様である。

武装

主武装

当初は九七式中戦車と同じ九七式五糎七戦車砲を主砲としつつも、今後戦車同士の戦闘が増えるであろうことを考慮して、将来的には長砲身47ミリ砲を搭載することになっていた。
だが開発中に発生したノモンハン事件の情報を通して最初から47ミリ戦車砲を搭載することとなった。
なお「長砲身47ミリ砲」と聞いてピンと来た人もいるだろうが、この主砲は後々にいわゆる新砲塔チハに搭載されることになるが、この段階ではチハに搭載させ量産する予定はなかった。


なお、この47ミリ戦車砲の性能は、新砲塔チハの原型が現れた1940年の段階ではギリギリ世界水準だった*6が、新砲塔チハの量産か決まった1941年末には陳腐化していた。これは戦車の武装の主流層が、長砲身75ミリ砲へと移り変わる境目が1941年あたりだったからである*7

副武装

副武装として車載機関銃を2丁搭載し、内1丁は車体正面に、もう一丁は従来の日本戦車には珍しく、砲塔の後ろではなく正面の戦車砲の脇に取り付けられていた*8。これは現場の意見を取り入れた要素であり、敵歩兵との近接戦闘の際に有利なために装備されていた。諸外国では当たり前の形式であったが、日本では珍しかった。

防御面

装甲は参謀本部案、技術本部案ともにチハと同じく最大25ミリとしていた。参謀本部案の方は正面と側面の一部を25ミリとしそれ以外はできる限り薄くすることになっていた。
25ミリという装甲厚は敵の対戦車砲を防ぐには不足していたが、当時はまだまだ研究不足かつ試行錯誤の手探り状態だったこともあり、陸軍からは十分な厚みであると過剰評価されていた。
しかし、ソ連との紛争でもあるノモンハン事件の経験を経て、敵の対戦車砲に対する脆弱性が露呈してしまう。
この防御力不足の問題が後にチホの不採用に繋がった理由の1つとなる。

機動性

エンジン

チホに搭載されたエンジンは参謀本部案だとハ号と同じ、空冷式6気筒ディーゼルエンジンであり最大出力は120馬力であった。最大速度は時速30km程度ではあるが、不整地であれば国産トラックに追随可能な機動性であった。


技術本部案は当初は150馬力のガソリンエンジンの搭載を計画していたが、これはディーゼルエンジンの製造が難しかったがゆえのコスト削減ためでもある。またディーゼルエンジンは同じ馬力でもガソリンエンジンよりも重くなりやすいため軽量化の意図もあった。騒音の低減も利点である。しかし最終的には8気筒160馬力ディーゼルエンジンが搭載されたという。
こちらの速度は最大時速41kmを発揮したらしい。


いずれもチハより劣化しているように見えるが、そもそもチハに搭載された空冷12気筒ディーゼルエンジン(通称チハ機)というのが曲者であったのだ。
当時の技術的には難しい直噴式*9だったため、設計上は200馬力の最大出力を発揮できることになっていたものの、実際には耐久性を考慮して140馬力*10に制限されていた。チハ機が無駄にデカくて重いクセに 実質的なパワーはハ号に毛が生えた程度の失敗作スレスレの代物になってしまったということを考慮すれば、チホは信頼性や生産性、軽量化の面だけでなく機動性の部分でも進歩しているといえる。


変速機

日本陸軍の戦車に限ったことではないが、操縦機構の構造にもよるものの、重量が増せば増すほど変速レバーが重くなり、操作のクセが増し、運転が難しくなったり、想定以下の機動性しか発揮できなくなる可能性が高かった。
日本の場合、チハの段階でこの問題が顕著に現れており、操縦士の育成に時間がかかり、操縦士不足が発生する可能性があった。*11それだけでなく訓練期間が長くなり、人件費も嵩んでしまう。
そこで2種のチホ車のうち、技術本部案では変速機に油圧サーボと呼ばれるのアシスト装置を組み込むことで操縦の容易化を図っていた(試験では油圧サーボの性能は満足すべきものだったらしい)。
一方の、参謀本部案は単純に軽量化することで対策を取っている。

その他

搭乗員数は参謀本部案で3名、技術本部案では4名となっている。参謀本部案の搭乗員数はかつてのチニと同じだが、チニが車体に2人、砲塔に1人という内容だったが、チホ車では砲塔が2人で車体が1人となっていたらしい。チホが不採用となり、後の一式中戦車となるチヘの開発計画へ移り変わったのは1940年(昭和15年)とされているものの、その翌年になぜかチホの試作が2台作られておりどういった意図なのか不明。チホは資料が少なく、多数の試作車があったとされるがよくわかってない。



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*1 実際この懸念は的中してしまう。書類上では中戦車部隊だが実際には軽戦車で構成されていた部隊もあった。
*2 分解式のボートや支柱、踏み板などで構成される仮設の橋。
*3 この会議では戦車の通行を考慮して昭和3年ごろに採用された架橋器材である甲車載式架橋器材に焦点をおいていたが、この器材は部品の組み合わせによって最大で16t級戦車の通過が可能だったものの、河が悪天候で荒れている場合は12tに制限された。その為会議の始め辺りで、チハは12tに押さえることを要望されている。
*4 兵器開発を司る部署
*5 この重量設定は渡河作戦に使用する架橋器材の性能を考慮したもので、巷で言われるような海上輸送に使う輸送船のクレーンまたはデリック性能は関係ない。戦車などの輸送を担当したモノは25tから30tの重量物をつり上げられるヘビーデリックを搭載していた。太平洋戦争では、九七式中戦車よりも重い上陸舟艇(特大発)やそれらよりも遥かに重い重砲(七年式三十糎榴弾砲など)を前線に運び、デリックで積み降ろしをしている。
*6 日本陸軍の第一の仮想敵であったソ連では、長砲身76ミリ砲を搭載したKV -1やT-34が完成しているが、当時の世界的には破格の性能である。
*7 実際に各国が戦車の武装を長砲身75ミリ・76ミリ砲にすることを考え始めるのは1940年辺りからであるが、日本でもこのような考えはあったが、情勢の楽観視等の理由から構想で止まっている。
*8 古くは双連機銃と呼び、現代では同軸機銃と呼ばれる
*9 理論上は高性能になる方式だが、欧米列強の技術をもってしても制御が難しいとされる。日本がモノにできたのは戦後の61式戦車からとなる。
*10 巷でよく見られる出力150~170馬力という値は好条件下の数値である
*11 戦前~戦中までの日本では車の運転は特殊技能の類いであり、希少であった。その中でも戦車や自走砲を運転できるものはより少なかった

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