ヨハン・シュトラウスⅡ世

ページ名:ヨハン_シュトラウスⅡ世

登録日:2011/05/07(土) 07:10:46
更新日:2023/08/10 Thu 16:32:24NEW!
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クラシック音楽 作曲家 オーストリア 音楽家 親子二代 ヨハン・シュトラウスⅱ世 ワルツ




ヨハン・シュトラウスⅡ世((1825~1899)は19世紀、オーストリアの音楽家。
またの名を“ワルツ王”。当時大衆音楽に過ぎなかったワルツやポルカに高い芸術性を付与し、現代までその名と珠玉の名曲を残した。


父は同じく音楽家で、やはり“ワルツ王”と呼ばれた、“ラデツキー行進曲”で有名なヨハン・シュトラウス1世。
人気音楽家である父の下、息子であるヨハンは当然のように音楽に親しみ、音楽家を志す。
だが父ヨハンは音楽家が不安定な職で、人気を失ったが最後、焼き肉店のBGM屋にまで落ちぶれる事を知っていたため、断固反対し、
息子のヴァイオリンをへし折るなどした。


しかし音楽への情熱は冷めず、浮気で家をあけがちな父に愛想を尽かした母の支援もあり、息子ヨハンは音楽家への道を歩き出す。
晴れて音楽家となったヨハンに転機が訪れる。全ヨーロッパ規模で発生した1848年革命である。
保守反動と、力を付け始めた中産階級の対立から始まったこの革命で、父ヨハンは中産階級の代表者と言う意識から一も二もなく革命を支持したが、
息子ヨハンは慎重に状況を見定め、革命有利と判断してから革命支持に移る。


これがよくなかった。


当初こそ慎重だった息子ヨハンだが、次第に革命の熱気に当てられて暴走、ウィーンでマルセイエーズをかき鳴らし、革命支持者の代表的人物の一人に。
しかしそうこうしている間に革命派は力を失い、各地で敗退。
革命そのものの意味すら社会主義に塗り替えられ、幻滅した父ヨハンは反動派に鞍替え、息子ヨハンは気づけば宮廷から深い恨みを買い、孤立していた。
結局息子ヨハンも社会革命からは離れ、目をつけてきた警察に対して転向者めいた言い訳をするほどであった。


1849年の父ヨハンの死後、子ヨハンはその楽団を吸収しヨーロッパ各地に演奏旅行を重ね、再び宮廷の楽人として評価されるようになっていった。
オーストリア、ロシア、そしてアメリカ。
彼の音楽(オペレッタ、バレエ音楽、ワルツなどなど…)はまさしく当時の世界を50年近くも席巻し続けたのだった。
1863~70年には王室舞踏会の指揮者に任じられた。


晩年になっても彼の姿は若々しかったが(残ってる写真を見るとよい)、やはり衰えは隠せず、肺炎をこじらせて1899年に亡くなった。


生涯で残した作品は500曲を超える。
ワルツ…170曲以上
「美しき青いドナウ」
「芸術家の生涯」
「ウィーンの森の物語」
「ウィーン気質」
「春の声」
「南国のばら」
「皇帝円舞曲」
「朝の新聞」
「酒、女、歌」
などなど
ポルカ…120曲以上
「トリッチ・トラッチ・ポルカ」
「アンネン・ポルカ」
「ピチカート・ポルカ」(弟ヨゼフとの共作)
などなど
オペレッタ…18曲
「こうもり」
「ジプシー男爵」
などなど



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