チンギス・カン

ページ名:チンギス_カン

登録日:2020/07/25 Sat 07:42:00
更新日:2024/05/20 Mon 13:21:37NEW!
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チンギス・カン(英語表記:Cinggis qagan、中国語表記:成吉思汗、1162年4月16日~1227年8月18日)は、イェケ・モンゴル・ウルス(日本語訳で『大モンゴル国』)、通称モンゴル帝国の創始者である。
チンギス・カーンと伸ばして表記したり、チンギス・ハン(ハーン)、
チンギス・カアン、ジンギスカンと表記されることもある。
幼名はテムジン(鉄木真)。「鉄の男」の意。



経歴(概要)


誕生

モンゴル平原にてボルジギン氏族の首長イェスゲイ・バアトルとホエルンの子として生を受ける。
誕生の直前にイェスゲイは敵対部族であるタタール族と戦っており、死闘の末にその首長テムジン・ウゲを破り捕縛して連行、
直後にホエルンが産気づきデリウン岳で誕生したとされている。
父はタタール族への勝利の記念として生まれたばかりの子供にテムジンと名付けたという。


ただし当時のモンゴルには記録を残すという習慣がなかった為、誕生年に関しては諸説あり、
公式では1162年とされているがそれ以前とも、それ以降とも言われている。


イェスゲイの死

テムジンはすくすくと成長し9歳になった時のこと。
将来の妻を見定めるべくイェスゲイに連れられてオンギラト氏族の首長デイ・セチェンと出会い、娘を紹介される。
娘の名前はボルテ。テムジンより1歳ほど年上であった。
だがイェスゲイはボルテを一目見て気に入り、息子の将来の妻にするようにデイ・セチェンと交渉する。
その際に出された条件は婿としてオンギラト氏族に身柄を置くことであった。
イェスゲイはこれを承諾し、幼きテムジンを置いて自分の家へ向かった。
その途中喉の渇きを覚えたイェスゲイは途中でタタール族が宴を開いているのを見て飲み物を分けてもらった。
だが以前ボルジギン氏族に敗北したタタール族は彼の事を覚えており、敵であるボルジギン氏族へ復讐する絶好の機会と
言わんばかりに飲み物にを仕込んでおいた。
そうとは知らずに飲み物を飲んだイェスゲイは毒に侵されてしまい、体調を崩してしまう。
それでもなお最期の力を振り絞って3泊4日かけて家へたどり着くとそのまま命を落としてしまった。
死の直前、近くにいたチャラカ翁の子モンリクに「テムジンを連れ戻し、残った者達を頼む」と遺言を残したという。


遺言通りオンギラト氏族の元へ訪れたモンリクはテムジンを連れ、そのまま戻るが
イェスゲイを失った氏族はほとんどがボルジギン氏族を見限り、他の地域へ移住するために立ち去ってしまう。
チャラカ翁は見捨てないでほしいと必死に説得したが槍で背中から刺され重傷を負う。
騒ぎを聞きつけて駆け付けたテムジンは事の真相を聞き、泣いて立ち去った。
夫に先立たれたホエルンは女手一つでテムジンやその兄弟たちを育て上げ、その甲斐あってテムジンは立派に成長した。


部族統一

しかし力をつけてきたテムジンを見て将来の権力を脅かされるのを
恐れたタイチウト氏のタルグタイ・キリルトクはテムジンを捕らえ、そのまま抑留した。
当然権力を脅かしかねないテムジンを生かしておく保証はなく、いつ処刑されてもおかしくない。
そんな絶体絶命の危機を救ったのがタイチウト氏に隷属していた一族であるソルカン・シラの助けもあって何とか脱出し事なきを得ている。
危機を脱してから数年経ち、成人したテムジンに今度は敵部族であるメルキト部族連合の長トクトア・ベキ率いる軍勢に
宿営地を襲撃された上、妻であるボルテも攫われてしまう。
このピンチに力を貸したのが亡き父の盟友であったトグリル・カンやジャジラト氏の首長ジャムカであった。
彼らの協力もあって、テムジンはボルテを奪い返すことに成功する。


ボルテ奪還からほどなくして長男であり、モンゴル語で"旅客"という意味であるジョチが誕生する。
名前の由来に関しては諸説あり、旅の途中で生まれたためという説やボルテがとらわれていた頃にメルキトの男と結婚させられており、
自分の子ではないのではないかと父に疑われていたからという説がある。
『元朝秘史』によれば、この話はジョチ存命の頃から囁かれていたようで、
次弟チャガタイは父の面前で「メルキトの子」とジョチを罵るなど、この二人は不和だったと伝えている。
実際にこのようなことがあったかは不明なものの、ジョチとチャガタイが不和だったことと、ジョチの出生を問題視する動きがあったことは事実である。


メルキトとの戦いに勝ったテムジンは勢いを取り戻し、モンゴル部で一目置かれる存在となり、
寛容な振舞いから彼のもとに父の盟友やジャムカに仕えていた多くの部族が集い、仕えるようになった。
そのおかげで勢力を着々と広げていくがジャムカは自身に仕えていた部族を取られたからか段々とテムジンに対して冷たく接するようになり、
ジャムカの一族がテムジンの宿営地へ侵入し馬を奪おうとして殺された事件を機に関係は完全に決裂してしまう。


一族を殺され、激怒したジャムカは軍勢を率いてテムジンの宿営地へ襲撃し、対するテムジンもジャムカ率いる軍勢を迎え撃った。
しかし軍勢の差で多勢に無勢であり、ジャムカに敗れたテムジンはジェレネ狭間へ逃走した。
捕らえた敵をジャムカは容赦なく釜茹でにして処刑したがこの行いが仇となって見限られてしまい、敗れたテムジンにつく部族が続出した。
同じ頃、ケレイト部での内紛によってトグリルが王位を降ろされ、兄弟であるジャガ・ガンポがテムジンの元へ助けを求めに亡命した。
一方王位を降ろされ、追放されたトグリルもウイグルや西夏の地域を転々としながら逃げ続け、なんとかテムジンの元へ合流する。
テムジンはトグリルが父イェスゲイの盟友であったことを利用して義理の親子の関係を結び、
そのおかげでトグリルは王へと復権することができ、オン・カンという称号を得た。


1201年には元盟友にして宿敵でもあるジャムカを盟主とした部族同盟が結ばれたがボルテの実家の協力もあって全て筒抜けであり、
これを利用して奇襲を仕掛け、服属させている。
その後も部族同盟の残党が攻め入っていたようであるが苦戦の末にこれを返り討ちにし、高原の中央部の覇権を得た。
だが、トグリルの息子と仲違いしてしまい、さらに翌年には亡命してきたジャムカによって唆されたトグリルによって牧地を襲撃され、
攻撃から逃れるべくオノン川を越えてバルジュナ湖周辺地域で力を蓄えながら暫く身を潜めることとなる。
同年の秋に機が熟したとみたテムジンは再び高原に戻り、ケレイトの本営を探り、オン・カンの軍勢を奇襲して勝利。
これによって高原の中央部を手中に収めた。


しかし、宿敵のジャムカは砂漠に残る大勢力である西方部族・ナイマンのタヤン・カンらと組んでテムジンと戦い、
テムジンがそのタヤンを破ると、今度は北方のメルキトの下に逃れたため、テムジンは追撃を仕掛けてメルキトも破った。
いよいよ追い詰められたジャムカは、自分を見限った部下に裏切られて捕らわれ、テムジンの下に引き渡されることとなったが、
私利私欲で自らの主を裏切るという卑劣な行為にテムジンは激怒し、自分からの褒美を期待していたその部下たちを全員斬首刑とした。
そして、テムジンは捕らえられたジャムカに旧交から助命を持ち掛けるが、ジャムカは軍門に下ることを拒否して潔く死を望んだため、やむを得ず、処刑することとなった。
その処刑方法は、ジャムカを皮袋に包んで身動きを取れなくした上で、馬の大群に踏ませるというもので、現代の視点では残虐に思える処刑方法であるが、
この方法は当時のモンゴルでは貴人に対して行われるもので、テムジンなりのジャムカへの敬意や配慮を示しているとされる*1


皇帝に即位~チンギス・カンへ

全ての部族を手中におさめ、支配下に置いたテムジンは諸部族の首長や功臣をオノン川上流に集め、クリルタイと呼ばれる最高部族会議を開き、
諸部族を統べる首長のさらに上である大カンとなり、ここにイェケ・モンゴル・ウルスが成立する。
その際に盟友でかつてイェスゲイの最期を看取ったモンリケの息子でシャーマンのココチュ・テプテングリにより、チンギス・カンという名前を授けられる。
モンゴル帝国とその創始者チンギス・カンが誕生した瞬間であった。
チンギスという言葉の意味は未だに不明であり、古いモンゴル語で「支配者」を意味する言葉、
そもそもモンゴル語ではなくテュルク系民族の言葉で「海」を意味するテンギズとも言われている。


中国征服

モンゴル帝国を築き、テムジンからチンギス・カンとなった彼は手始めに
当時の中国の王朝である金朝への侵略計画を企て、1211年に実行に移した。
その際に確実に攻め落とすべく三軍に分かれ、長城を超えた後、黄河と長城の間にある領域で金軍と激突するがこれを破り、中国北方を荒らし回った。
この時点では野戦に特化していて城を落とす術を持っていなかったので流石に堅固な城壁に阻まれた都市は攻め落とすことはできなかったが、
中国人を見て城を落とす術も徐々に学習し、遂には戦争の歴史上世界でも上位の実力を備えた征服者となったという。
その後も中国領土を次々に陥落させていき、1214年には金によって一応の和平が結ばれたものの、
無断で首都を移された事を背信と判断したチンギスによって報復攻撃が行われ、
1215年にはとうとうかつての首都であった燕京を陥落させ、手中に収めてしまった。


同じ頃、西遼(現在の中央アジア地域)へ逃れたナイマン部族連合の首長クチュルクを討とうとしたが
度重なる戦で消耗が激しく、とても長期戦のできる状態ではなかったため、
腹心のジェベに2万の軍勢を与え、尖兵としてクチュルクに当てることとした。
クチュルクは仏教徒となって元々住んでいたイスラム教徒の民に対して圧政を敷いていた為、
ジェベは西遼に攻め入った際にイスラム教徒の民に対して「自分たちの配下に加われば宗教の信仰は自由である」と反乱を起こすように唆した。
するとたちまち西遼の各地でイスラム教徒による反乱が勃発し、混乱に陥った隙を突いてクチュルクを襲撃。
これにたまらずバダフシャーンへと逃走するが結局捕縛され、そのまま処刑された。
その勢いのまま西遼をも手中に収めると今度は西方のイスラム系国家であるホラズム・シャー朝へ侵略することを決めた。


西方遠征

1218年、侵略への一歩としてチンギスはホラズム・シャー朝へ使いを送るが、
オトラル(現在のカザフスタン南部)の統治者はあろうことか欲に駆られ彼らを皆殺しにしてしまう。
この行いに激怒したチンギスは弟テムゲに帝国の本拠地であるモンゴルの護衛を任せ、4人の息子達を含めた軍勢を率いて自ら出陣した。
この時金朝に侵略したときと同じく三手に分かれて中央アジアに侵攻し、
サマルカンドやブハラといった主要都市を次々に征服し、従う勢力には寛容な態度で受け入れたが
抵抗する勢力に対しては見せしめとして破壊の限りを尽くしたという。
こうして1220年にはホラズム・シャー朝を崩壊させてしまった。


しかしホラズム・シャー朝の王であったアラーウッディーン・ムハンマドにはさらに西へ逃げられてしまい、
チンギスはジェベとスベエディの二人にアラーウッディーンへの追撃を命じた。


その後アラーウッディーンはイランに逃げ延びたものの、二人が討つ前にカスピ海の島で死亡してしまう。
これを好機と見た二人は更なる進撃を続け、1121年にグルジア(現在のジョージア)を経て、遂にルーシ(現在のロシア)南部へと到達した。
ルーシにはテュルク系民族のポロヴェツ族がいたがこの事態に逃げ出し、
指導者のコチャンは当時のルーシ大公に救援を依頼し、連合軍を結成してカルカ河でモンゴル軍を迎撃した。
だが撤退するモンゴル軍を見て罠と知らずに追撃を加えてしまい、まんまと罠にはまった連合軍は
即席の軍隊であるために碌な連携も取れず、逆にモンゴル軍に囲まれ、大敗を喫してしまった。
この戦いがやがて西ヨーロッパ諸国にも伝わり、当時の侵略者の代名詞であるタタールとして恐れられることになったのである。


連合軍を破ったモンゴル軍はその勢いのまま分隊をヴォルガ・ブルガールへ送り込んだが悉く返り討ちに遭い、
敗北を知ったチンギスはこれ以上の進撃は無意味だと諦め、1222年頃にモンゴル本土への帰還を始め、
その最中腹心であるジェベが病死してしまう悲劇に見舞われながらも1225年にモンゴル本土に無事にたどり着く。


晩年~突然の死

西方への遠征から帰還したチンギスは自らの子供達に広大になった領地を分け与えることを提案し、
更に長男ジョチにはシベリアから南ロシアといった将来征服する国も含めた全ての土地、次男チャガタイには中央アジアの西遼だった土地を、
そして三男オゴデイにはモンゴルの西の地域とジュンガリア(現在のウイグル自治区北部)の支配権を与えた。
しかし末っ子のトルイだけはこの時点では支配権は与えられなかった。後にトルイはチンギス死後その財産をすべて引き継ぎ、トルイ家は帝国最大の勢力となる。


この時、支配下にあった西夏の皇帝は西方遠征の際のホラズム・シャー朝征服の際に援軍を送ることを渋っていた上、
チンギス本人がイランへ出向いて不在の隙を突いて金と同盟を結び、反乱を企てていた。
これを知ったチンギスは制裁の為に力を蓄えるべく暫くの休養と軍の編成を行い、1年後の1226年にそれを実行に移した。


チンギスの率いる軍勢は西夏の城を次々に攻め落とし、凍結した黄河を渡って霊州に攻め入り、
霊州への援軍として送り込まれた西夏の軍勢を返り討ちにするとそのまま進撃を続け、遂には西夏をも陥落させた。


翌年には興慶攻略のためにオゴデイに東の金の領域を攻めるように命じ、自らは各都市を次々に攻め落とした後、
南宋方面へ向かい、夏には苦手な暑さを避ける為に六盤山を宿営地にした。


西夏の残存勢力や金に和平の申し出を出されたが前者は受け入れたものの、後者はかつて裏切られた経験がある為か拒否した。


だがチンギスは宿営地であった六盤山で突然体調を崩してしまう。
これを知ったモンゴル軍は帝国本土へ撤退を始めたが体調は回復することなく寧ろ悪化するばかりであり、
同年8月18日、生きて故郷の土を踏む事は叶わず、この世を去った。


死後

チンギスの遺体はモンゴル高原へ還り、埋葬されることとなったが、
彼は死の直前に「自分の死が知られれば敵国に攻められる可能性があるので絶対に公表せぬように」と家臣たちに遺言を残した。
また、チンギスの遺体の埋葬地には、歴代ハーンの遺体も死後埋葬されたと考えられているが、
その具体的な場所は重要機密として扱われ、チンギスの遺体を運ぶ隊列を見た者は機密保持のために全て殺され(『東方見聞録』)、
さらに埋葬後にはそこに一千頭もの馬を走らせて地面を踏み固めさせ、埋葬の痕跡を入念に消したとされる。


その甲斐あってというべきか、現代でもチンギスの遺体の埋葬地の具体的な場所は判明していないが、
「ブルカン・カルドゥン」というモンゴル族の聖地である山、及びその近辺が有力視されている。


そういった事情もあり、彼の祭祀は埋葬地ではなく、生前の彼の宮廷であったオルドで行われた。


子孫

名前が知られているだけでもジョチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイの四人の息子を
筆頭に娘達にも恵まれており。有力な氏族や支配下に置いた国の王族の元へ嫁いだという。
これだけ子が多いことから有名な孫も多い。

  • ジョチ家

バトゥ…ジョチ次男。オゴデイ時代に西方大遠征の総司令官となり、モンゴルの更なる肥大化に貢献。
西方の巨大政権ジョチ・ウルスの礎を築く。


  • オゴデイ家

グユク…オゴデイ長男。…ではあるが、所謂庶長男であり、大カンに推戴される可能性は高くなかった。
しかしオゴデイ死後に、実母ドレゲネの策謀もあって、当時トルイ家長であったモンケ(と後援者のバトゥ)と5年間も後継者争いをした挙句、バトゥの同意なしにクリルタイが強行され3代大カンに推戴、即位した。
西方遠征のおける内輪もめや上述の後継者争いなどによって、バトゥと深刻な対立関係にあり、一触即発の事態にまで発展するが、グユクが謎の死を遂げて戦争状態は避けられた。
カイドゥ…オゴデイ5男カシンの子、つまりオゴデイの孫にあたる。
カシンはオゴデイ在位中に若年で世を去っているが、彼はどうもオゴデイから事実上の皇太子として扱われていたようで、その子であったカイドゥもモンゴル皇族の中では高貴な出目と見られていたとする説がある。
クビライとアリクブケの後継者争いの隙に勢力を拡大し、有名な「カイドゥの乱」で「カイドゥ・ウルス」(「カイドゥの王国」)という独自の巨大勢力を成立させ、モンゴル帝国の大権力分立状態を確立した大物。
後述するクビライの最大のライバルであり、生涯にわたってクビライを悩ませた。


  • トルイ家

モンケ…長男。
グユク死後に後継者争いを経て4代カアンに即位。
グユクの代から続く対立で揺れていたモンゴルを、オゴデイ家・チャガタイ家の粛清・弾圧によって半ば強引に立て直し、更なる東西遠征を弟達に行わせ、再拡大に成功。
個人としても非常に優れた君主だったが、南宋国遠征中に突然の病で亡くなる。
一度まとまりかけたモンゴルであったが、強引な引き締めを行っていたモンケが急死したことで再び混乱を起こすことになり、モンゴルは大分立の時代を迎える。
フレグ…3男。
モンケ治世時に西方遠征の総司令として活躍。
未だ何とか生き残っていたイスラーム王朝アッバース朝を滅亡させ、イラン・中東地域を征服。
兄のクビライと弟のアリクブケの後継者戦争には静観の立場を取り、イラン・中東地域で巨大政権フレグ・ウルスの地盤を固める。
アリクブケ…4男。
モンケ治世時は、兄達が遠征に行く中、自身はモンケと共に本拠地モンゴル高原の統治、あるいはモンケ出征時の留守を務めた。
その為兄弟の中では、モンケ政権の面々の支持が最も厚く、
モンケ死後にクビライが一方的にカアンに即位したのに対抗して即位すると、その支持者は旧モンケ政権の主要勢力が多かった。
次兄クビライとカアン位を巡る内戦を繰り広げるも敗北し、まもなく病死する。
クビライ…次男にして、恐らく世界史的な影響力が最も大きい、数多くのチンギスの孫の中で最も有名な人物。
モンゴル帝国を巨大な陸上帝国から、海をも支配する「世界商業帝国」へ進化させた、モンゴル第二の創業者。




彼の死後もその血脈と遺伝子は脈々と受け継がれ、その血統自体がある種のブランドのようなものとなっており、
モンゴル帝国が存在していた時代は勿論帝国が崩壊してからもその流れを汲む国の王族や貴族にとって
彼の血を引いていることそれ自体が君主や貴族としてのある種のステータスとなっていたほどだ。
まるでギリシャ神話ゼウスである。
さらに、彼以降のモンゴル系諸政権(大元、ジョチ・ウルス、チャガタイ・ハン国、イルハン朝)にて、
カアン(モンゴル最高君主号)やカンに即位するのは『チンギス・カンの男系子孫のみ』という原則、いわゆるチンギス統原理が根付いた。
例えば土木の変を起こしたことで有名なエセン・ハーンは、モンゴル帝国のカアンとして即位したが、
チンギスの男系子孫でなかった(母方はチンギスの血統だが)ために、モンゴル高原の人々の大きな反発を招き、即位翌年には反乱を起こされて殺害されている。




なにより攻め落とした国の女を片っ端から食っていた(性的な意味で)と言われるほどのヤリっぷりから子孫も凄まじい数がいるとされており、
ある大学がY染色体を調べたところ、なんと中国やモンゴルは勿論のこと、
東ヨーロッパ地域、果ては中東地域にて1600万人もの子孫がいることが判明している。(ただし反論する研究もあるので注意されたし)



人となりについて

簡単に言えばカリスマ性を備えた豪傑にしてドS


幼少期不遇だった過去から、例え異教徒でも従う限りは受け入れる寛容さを持っていたが
反抗した者に対しては一切の慈悲をかけずに容赦なく処刑する程の苛烈な性格だった。


かつて裏切られまくった経験からか、敵味方問わず裏切りという行為そのものが大嫌い
なので敵であろうと主君への忠誠心に殉じるものは高く評価したが、
逆に主君を私利私欲で容易く裏切るような輩に対しては例えこちらに利益があったとしても嫌悪したほどである。


また、彼の性格を表すエピソードとして以下のものがある。


重臣の一人であるノヤンに男の最大の快楽とは何かと問いかけた際に、


「春の日、逞しい馬に跨り、手に鷹を据えて野原に赴き、鷹が飛鳥に一撃を加えるのを見ることであります」


と返答が返ってきた。



同じことを将軍であるボロウルに聞いたがノヤンと同じ返答が返ってきたため、これに呆れたのかこう言った。


「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」


お、恐ろしい…*2



余談ではあるがコナン・ザ・グレートでも引用されている。]


酒の量を弁えていたと言われており、特に将軍や指導者といった、
少しの判断ミスが命取りとなる役職の者に対しては判断を鈍らせるので控えるように言っていた。
「最高でも3杯までで飲まないのが理想ではあるが、飲まない者はいないだろう」とも言っている。



容姿について

姿について記述された記録がほとんど残ってないので詳しい姿は不明である。
しかしながら数少ない記録によれば身体が立派、顔はひたいが広く、ひげが長いとされており、
他にも背が高く、頑丈な体、猫のような眼、まばらな白いヒゲといった特徴が述べられている。
身長に関しては上で述べたように大柄であったと伝わる一方で小柄だったとも伝わるので一定していないが、
現在は大柄だったという説の方が有力視されており、一説には身の丈2mを超える屈強な大男であったともいう。



源義経との関係

そんなチンギス・カンだが日本においては一時期、源義経と同一人物であるというトンデモ説が流布され、その説を推す書籍も発行された事がある。
それによれば義経は衣川の戦いで実は死んでおらず、海を渡って蝦夷地(現在の北海道)へ渡り、更にそこから海を渡って大陸に入り、
モンゴルにて遊牧民を纏めて帝国を築き、チンギス・カンとなったとされているのだ。
というのもモンゴル民族は文字が存在せず、記録を残す習慣もなく、もっぱら口承で後世に伝えていったのと、
そもそもチンギス・カンの生年や前半年が不明な点がかなり多いことから、
義経である説を否定する材料もないと言えるが、それを考慮しても無理のある説である。


まず、源義経が活躍した年代とチンギス・カンの活躍した年代は微妙にかみ合わず、
次に身長に関して、源義経がかなり小柄だったと伝わるのに対し、
チンギス・カンは一説には2mはあろうかという屈強な大男だったと伝わるのでそこも異なる点である。



余談

晩年の彼は上で述べた通り自身の死が知られれば今まで征服した国に反乱され、
まだ征服していない敵国にも攻め入られるので絶対に公表したり知られることがあってはならないと遺言を残し、
それを家臣に命じるなど今までの彼らしくない用心深さ*3を見せている。
その徹底ぶりは遺体を運ぶ隊列を見た者は誰であろうと容赦なく処刑したと言われるほどであり、
このことから現在においても彼の埋葬された墓は見つかっていない。


死因に関してだが病死と伝わるだけで詳しくはわかっていない。
だが上で述べた通り性豪であったことは確かだったようでこれが仇となったとする説も存在する。


享年は66歳前後と言われているがこれは当時の遊牧民としてはかなりの長寿であったという。
なお、孫のクビライに至っては享年80歳と、現代日本の男性の平均寿命レベルの長寿であった。


北海道の有名な名物料理としてジンギスカン鍋というものがあるが、
これは彼が兵士の士気を高めるために兜などの鉄でできたものを熱し、
鍋や鉄板代わりにし、羊の肉を焼いて食べさせたとされる逸話に由来する。
ただし彼が実際にそういうことをしたのかは不明であり、そもそもこの逸話が作り話という可能性の方が高い。


似たような理由で名付けられた料理にモンゴリアンバーベキューというものも存在する。
こちらも台湾発祥の料理でチンギス・カンやモンゴルとは一切関係のない料理である。



チンギス・カンが登場する創作作品

意外と多い。世界史においてアレキサンダー大王と並ぶ有名な征服者であり、後に広大な領土を誇る大帝国を築いた人物だからか。
また、子孫の多さから本人が登場せずとも、その末裔を名乗る人物が登場することもある。



ゲーム

  • 蒼き狼と白き牝鹿シリーズ

日本のゲームでチンギス・カンを主人公とした作品は、と聞かれればまず挙がるシリーズ。全4作。
光栄(現コーエーテクモ)による歴史SLGで、征服した国のお姫様を後宮に囲えるという実にジンギスカニズム溢れた設定。
ただし負けると妻たちは全員攫われ、取り返すと好感度が0になって戻ってくる。そんな所までリアルにせんでも。


  • 信長の野望 烈風伝パワーアップキット

家庭用ゲーム機版のみに登場するシナリオ「諸王の戦い」にモンゴル勢力として
子孫やマルコ・ポーロ共々ゲスト出演している。


様々な歴史上の人物などをモチーフとしたキャラが登場する格闘ゲーム。
初代から彼をモチーフとしたJ・カーンという名前のキャラが登場する。


小説

  • 蒼き狼

井上靖の小説でチンギス・カンの生涯を描いた作品。
ちなみに作者は小説を書いた時点ではモンゴルに行ったことがなかったりする。


本作においては義経=チンギス・カン説を取り入れており、その末裔が登場する。


  • 戦国ベースボール

蒙古の王だけに阪神タイガースかぶれなオジサン。その出自故に義経の親友という設定。
2巻『信長VS鎌倉将軍!』にて鎌倉グッドカントリーズの助っ人外人として登場したのち、13巻『VSワールドヒーローズ』で再登場した。


  • 平安夜伽草紙 源義経妖艶伝

本作では義経=ジンギスカンというオチになっており、義経が日本でヤりまくった後、大陸でも子孫を残しまくることが示唆されている。


  • チンギス紀

北方謙三の小説で、少年期から始まるチンギス・カンの生涯を描いた作品。
大水滸伝完結から約20年後が舞台となっているため、大水滸伝読者からすればニヤリとできる要素も多数存在する。


漫画

  • 王狼

三浦健太郎作画・武論尊原作の漫画作品。続編『王狼伝』も存在。
本作でも義経=ジンギス・カン説を採用しており、80年代の日本からタイムスリップした青年・伊波健吾が義経に接触してモンゴル軍に参加するのが序盤の大筋。


  • 天幕のジャードゥーガル

『ダンピアのおいしい冒険』でも知られるトマトスープによる、実在人物ファーティマ・ハトゥンをモチーフとした漫画作品。
チンギス・カンが率いる遊牧民の軍勢が結果的に主人公シタラ/ファーティマの運命を狂わせた原因であるため、その存在は大きく描かれているが、
本作にてクローズアップされるのはその一族である息子達やその妻達であり、ファーティマが作中で接触したのは連載第7幕のラストでその姿を一瞬遠目に望んだのみで、
その直後にチンギス・カンの崩御にまで話が一気に進む。
ちなみに作中ではイメージも含めて終始後ろ姿のみで、チンギス・カンの顔は演出上一切描かれていない。


その他チンギス・カンをモチーフとしている、あるいはその血を引いている設定のキャラなど

  • マンダリン(アイアンマン)

マーベルの『アイアンマン』に登場するメインヴィランの一人。
チンギス・ハンの末裔を自称しており、古代の宇宙船から得た指輪による超能力を武器にしている。


GOD悪人軍団のトップバッターを務めた怪人で、名前の通りチンギス・カンとコンドルがモチーフ。


  • チンギス・半殺し(キック・アス/ジャスティス・フォーエバー)

悪の首領マザー・ファッカーの部下。


名前がナポレオン+チンギス・カン+ヒトラーで顔は東条英機と(少なくとも当時の)独裁者のモチーフをこれでもかと突っ込んだデザインの、革命によって皇帝となった元発明家ロボット


モチーフは明言されていないが彼が統べる白色彗星帝国の銀河を移動しながら文明を
次々に攻め落とす侵略手段から指導者である彼はチンギス・カンもモチーフではないかと言われている。




追記・修正はユーラシア大陸を征服してからお願いします。


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  • ジン♪ジン♪ジンギスカーン♪(以下ドイツ語) チンギス・ハンって本当にあんな性豪というかヤバげな奴だったのか -- 名無しさん (2020-07-25 08:44:03)
  • あの事件によって天皇と同等の存在である事を思い知ったな。 -- 名無しさん (2020-07-25 09:16:10)
  • あの事件ってコロコロの?そりゃ怒るだろうとしか…… -- 名無しさん (2020-07-25 10:40:47)
  • 「袋詰めにして馬に踏ませる」という処刑方法だけど、「血を大地に垂らすのは失礼」という配慮によるものじゃなかったっけか。後にフレグが滅ぼしたアッバース朝のカリフ(イスラームにおける教皇的立ち位置)に対しても行ったはず。 -- 名無しさん (2020-07-25 10:43:51)
  • 子孫1600万は眉唾説だろう。後、墓所の所在に関しては候補自体はほぼ絞られてるって本で読んだな(古墳と同じで発掘調査に及び腰なだけで) -- 名無しさん (2020-07-25 10:45:38)
  • 2↑数代遡るだけでも二桁は先祖がいるんだから、徹底的に調べれば子孫1600万もあり得る。 -- 名無しさん (2020-07-25 10:55:20)
  • まさに暴虐の覇王の貫録だな。フィクションにおけるモンゴルの狂暴性のモデルというか -- 名無しさん (2020-07-25 11:33:28)
  • 容姿の伝承、義経と言うよりもむしろ弁慶に似ているんだよな… -- 名無しさん (2020-07-25 11:54:01)
  • コロコロがチンギス・ハンを侮辱したこと一生許さないわ、 -- 名無しさん (2020-07-25 11:55:25)
  • 今はゴーストオブ対馬で蒙古ブーム来てるな -- 名無しさん (2020-07-25 12:58:34)
  • 最近になって校長という新興勢力に敗れ去ったという -- 名無しさん (2020-07-25 13:30:42)
  • ノストラダムスの予言の大王の正体がチンギスハンレベルのモンゴルの王が現れるって説があるくらいには西洋では恐れられてたそうな -- 名無しさん (2020-07-25 13:38:09)
  • 自分に矢を当ててきた敵兵を殺さずに腕をみこんで味方に引き入れたとか懐が深い話を聴いたけどなんだったかな -- 名無しさん (2020-07-25 17:32:37)
  • ↑恐らくジェベのことではないかと思われます。ある戦が終わった後にチンギス・ハンの前に現れて自身が狙撃し、矢を当てたことを告白したところチンギス・ハンは処刑するのではなく寧ろその高い腕を認めて誘いをかけ、自軍に引き入れたと言われています。 -- 作成者 (2020-07-25 17:45:39)
  • でも例の『元朝秘史』ってどこまで史実に忠実なんかねえ…ホラズム事件だって本当にあちら側に責任があったのかどうか… -- 名無しさん (2020-07-25 20:17:01)
  • 幼名テムジンと聞いて「GetReady」のあのシステムボイスとBGMが頭で思い浮かんだのは俺だけでいい。 -- 名無しさん (2020-07-25 20:56:54)
  • 例の歌の和訳を見た時は魔王の歌やんけ・・・・・・と唖然とした思い出 -- 名無しさん (2020-07-25 21:44:05)
  • つか、モンゴルでは現在でも神同然に崇拝され、慕われてるぞ -- 名無し (2020-07-25 22:18:21)
  • 立て主にはモンゴル帝国や元寇の項目も是非作って欲しい -- 名無し (2020-07-25 22:19:44)
  • 当時のことはよくわからんが、昔戦ってた相手のところに一人で水もらいにいく父ちゃん不用心すぎない? -- 名無しさん (2020-07-26 01:24:54)
  • 天地創造というゲームには金持ちのテムジンというやつがいたな。モンゴル辺りのロウランに出てくる -- 名無しさん (2020-07-26 08:53:12)
  • ここの記事見て思ったんだがモンゴル軍の虐殺ってチンギスよりそれ以降のほうが酷い気がしてならん。ホラズムと西夏が壊滅したのは知ってるが、それ以外はどうだったんだろ -- 名無しさん (2020-07-26 09:09:02)
  • ギャグマンガ日和に出てきて欲しいと思ったけど、怒られるから出せないのかな? -- 名無しさん (2020-07-26 20:15:59)
  • ↑2有名どころではホラズム王国の首都で当時中央アジアで最も繁栄していた都市であるサマルカンドの住民が皆殺しにされ廃墟と化した。現在のサマルカンドは後にティムールが再建したもので位置も微妙にズレているため厳密には別の都市 -- 名無しさん (2020-07-27 02:43:11)
  • 宗はあるのにモンゴル帝国の記事ってないんだな…同時代で日本での知名度も負けてないのに -- 名無しさん (2021-03-09 23:04:31)
  • 「男の最大の快楽」の逸話、『蒼天航路』版董卓を地で行くような言葉だな……。「例え自らにとって益となるとしても裏切りは心底忌み嫌った」辺りも「自身を敵視し否定的な立場を取りながらも信念と能力のある人物は認める」と思えば近いし -- 名無しさん (2021-08-18 17:58:44)
  • 記事の内容を更新した者です。モンゴル帝国の記事は是非とも欲しいし、できるなら作ってみたいとは思うのですが、モンゴルに関しては取り扱う範囲があまりに広く量も膨大になってしまい、また近年の研究でだいぶ見方も変わってきているため、作成は至難の業ではないかと思ってもいます。 -- 名無しさん (2024-04-12 10:35:49)
  • 昔、時空警察というドラマでまぁトンデモドラマの類だが、「義経=ジンギスカンは真実!」って明言しちゃってて当日学生ながらもオイオイオイ!?って突っ込んだ覚えが。 -- 名無しさん (2024-04-16 19:34:04)

#comment(striction)

*1 当時のモンゴルでは大地に血を落として死ぬと生まれ変わる事が出来ないと信じられており、故に皮袋に受刑者を詰め、馬に踏ませ(轢かせ)ることで、大地に血を落とさずに死に至らしめようとしたのである。過去の日本で例えるならば、武士が死罪となった際に斬首や磔ではなく切腹を申し付けるようなものである。
*2 『集史』『モンゴル帝国史』に引用される非常に有名な逸話だが、異論もあり「敵を破り,財産を強奪し,敵対者のハトゥンたちを獲得してこれを愛でること」という解釈も存在する。もっとも略奪相手の妻子を自分の物にするのはモンゴル帝国に限らず非常にありふれたことであった
*3 父が亡くなった途端掌を返して見捨てられていった事を教訓にしたとも言える。

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