貴族

ページ名:貴族

登録日:2018/05/22 Tue 12:41:39
更新日:2024/02/26 Mon 13:35:46NEW!
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貴族とは、封建社会における特権階級。
一般大衆とは比べ物にならない大きな権力を持ち、その権力は主に世襲により受け継がれる。



▽目次


貴族の必要性

原始農耕社会は基本的に共産的である。
コミュニティ内の全ての住民が直接食料生産に携わり、自分の食べるものは自分で手に入れる、というシンプルな構造の社会において貴族は必要ない。


しかし、コミュニティの大型化と分業制が進むにつれ、コミュニティ同士が利権をめぐって争うことも増えてくる。
そうなると、他コミュニティとの交渉・調停をする、あるいは戦争に臨むために、コミュニティの統率を行う強力な権力者が求められるようになる。


だが、直接的には食料生産には一切貢献しないその権力者すなわち「政治家」は、短期的な視点で見ると「浪費者」でしかない。
昔の社会で「働かず食える人間」を養う余裕というのは僅かしかない。
よって、一人またはごく数人の「働かずに政治だけやっていればいい人間」を何とかして決める必要がある。


だが、その決め方が問題だ。
今の社会と違い、民衆への教育も不十分な原始社会では選挙などするのは難しいし、やっても衆愚政治になるだけである。


かといって、いちいち競い合わせていたら社会そのものが疲弊してしまうし、
「誰でも勝てば政治家になれる」としてしまうのは権力争いを加速させるばかりで、コミュニティ崩壊の原因になる。


だからこそ「貴族という特権階級を最初から決めてしまい、権力はこの血族の中でだけ回していく」という社会構造が世界各地で自然と出来上がっていったというわけ。


貴族制というと、民主主義に比べて劣っているように見られがち。
だが、実際にはこのように「資源の不足」「教育の未熟」が合わさって自然発生したものであるため、
そのような問題が解決していないのに貴族制を無理に廃止しようとすることはかえって混乱の種になる。
現在の社会にどちらが適しているか?」というだけの問題なのだ。



貴族の特権と責任

貴族は、一般人から納められた税金を使って生活することが認められている。
但し、基本的にその建前は世界中どこであっても「戦争準備金」である。
つまり、貴族は民衆から金を集めてそれで軍備を整え、いざという時に戦争に乗り出すことが義務として課せられているのである。
これを「ノブレス・オブリージュ」と言う。
「普段楽をしているのも、戦争の時に最前線に立つため」というわけである。
実際に古代ローマでは、出陣していたファビウス氏族がたった1人の幼い男子を残して一族郎党全員が戦死するという事態も起こっており、「ノーブレスオブリージュ」の典型ともされている*1


「戦争になる前に敵対する可能性のある他の勢力の下に説得に赴く」「戦争中の相手に和平交渉を担う」「人質として同盟相手の下に逗留する」という外交的な仕事も貴族の責任である。
女でも、政略結婚先となった他のコミュニティーが母国の敵に回らない様に気を配ると同時に、母国が嫁ぎ先の我慢の一線を越えない様に警告しなければならないので、無能な人間には任せられない。いざとなったら、開戦寸前の息子の軍勢の間に自ら割って入ってでも、同盟や平和条約の破綻を防がねばならないのだ。
また、春秋時代の楚の荘王の王妃は令尹(宰相)を批判した際に「自分は夫の(主に政治的な)利益に繋がると思えば自分以上の美人を含めた女性を何人も紹介したのに令尹は一人もこれぞという人物を王に推挙していない」と苦言を呈している。
王妃の立場としては夫を独占したいだろうし、自身の息子を王太子に立てたいと思うのは当然だが、国の為に有益と思えば私情や私利を殺し、有能だったり人脈を持っている人物を推挙したりする自制心と、自身が推挙した相手が暴走しない様にいざとなったら抑止できる政治力が必要とされるのだ。


またそれだけでなく地域のために民衆を集めて労働させたり、地域内の揉め事を裁定したりということも貴族の特権・義務として存在している。



世界の貴族

ヨーロッパ

フィクションでも頻繁に登場するタイプの貴族なので、爵位同士の上下関係は覚えておくといいかもしれない。
なお、ヨーロッパの爵位は基本的に「個人」ではなく「土地」に冠せられるものである。
「○○男爵領」という土地を保持している人が「○○男爵」と呼ばれるのであり、一つの家が複数の爵位を保持していることも割と普通にある。
基本的には「公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵」の5段階が多いだろう。騎士はその下。


日本と異なり、イギリスなどでは現在でも貴族という立場そのものは健在である。
イギリスでは授与された本人のみに適用される一代貴族と言う制度もあり近年はこれで貴族になるのが主流。
現在では貴族としての特権はほぼ無いものの、先祖伝来の土地や文化財により裕福な暮らしをしている人もいる。
一方で、そのようなものは手放してしまい名前だけは貴族のものを受け継いでいても、暮らし向きはごく平凡、という人もまた多いようだが。



中国

一般に「貴族」とは呼ばれないが、周王朝以前は広大な中華大陸を治めるのに「封建制」を施行し、革命期に活躍した武将たちを封建領主に据えていた。
彼らは与えられた領土を運営し、いざ戦役となると兵士や戦車部隊などを束ねて中央に馳せ参じる義務を負っているなど、一般にイメージされるヨーロッパ的な「貴族」そのものの特徴を持つ*2
欧州貴族階級の訳語として広く使われる「公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵」という五段階の称号も、もともとは周朝の封建領主の称号である*3


しかし、この貴族制を内包した封建制は、春秋戦国時代を経て官僚を派遣して土地を治める郡県制に取って代わられていき、秦の始皇帝漢の高祖によって完全に消滅した。


三国時代に大いに勢力を誇った地方豪族が、魏国の「九品官人法(九品中正法とも)」を足掛かりとして中央政府に進出した。そうした地方豪族を「貴族」と呼ぶこともある。
但し、当時・当人たちは「士大夫」と称していたし、中国では「士族」と呼ぶ*4ので、ほぼ日本限定のローカル呼称であることは注意
また「士大夫」という呼び方は紀元前の周代から二十世紀の清代、比喩まで含めると現代までとにかく幅広く使われる用語*5なので、うかつに使わないほうが無難。


さてこっちの「貴族」だが、前身の豪族のころから、彼らは中央政府の意向に面従腹背を繰り返してきた。
それがさらに中央政府への足場を作り、それらを世襲させたことで、魏晋南北朝時代にあってはそれはそれはすさまじい派閥闘争と君権の無力化を生じさせた。
後漢全盛期の人口が6000万だったのに、魏呉蜀「三国」の人口がたった800万ほどしか「登録」されなかった、つまり「国家が徴税・徴兵などの実効支配を及ぼすことができたのは、全人口の15%程度だった」といえば、少しはわかるだろうか。
それもあって君主や国家の権力は大変脆弱で、ある皇帝などは「生まれ変わりがあるなら、二度と皇帝には生まれたくない!!」と叫んだとされるほど。


国家よりも強いこうした貴族の存在はもちろん国家の悩みの種だった。
しかし、隋の文帝が作り上げた科挙制度は、貴族層が掌握していた「人事権」を皇帝が握る布石となった。
さらに唐の太宗が制定した貞観氏族志によって「貴族」の素性を暴いて権威を落とし、逆に科挙官僚の社会的地位を引き上げたことで、貴族の影響力は衰退。
中華史上唯一の女帝・武則天が人材発掘にいそしみ科挙官僚を手足として抜擢し、玄宗がその遺産を引き継いだことで、貴族層は無力化した。
最期は唐滅亡期の戦乱の中にとどめを刺されたという。



日本

「源平藤橘」の四家が有名。この中では藤原氏が最も力を付けた貴族として知られるだろう。
藤原氏は「南北式京」四家に分かれ、最も盛隆を誇った北家からは「近衛・九条」の各家が、さらに近衛家から鷹司家、九条家からは二条家・一条家が分かれた。
この五家が現在まで続く「五摂家」で、太平洋戦争期まで度々国の中央の要職を担ってきた。
戦後もこの一族から神職や赤十字などの要職、内閣総理大臣に就いていることなどからしてその影響力は衰えていないと言える。
藤原氏からはさらに「清華家」と呼ばれる、太政大臣になれる「三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川」の六家(村上源氏の久我家も加えて七家。後に広幡・醍醐を加えた九家)もあり、この家も歴史に幾度となく顔を覗かせている。


発生初期は諸外国のものとあまり変わりはないのだが、その後大きな変化がある。
なんと貴族自身が「武力」を完全に手放し、実際の政治と直接かかわることから離れてしまったのだ。
これ以降の貴族は「公家」と呼ばれる。


その後、自警団などに端を発する地方武装勢力と清和源氏・桓武平氏・秀郷流藤原氏などの下級貴族が結びついて武士団を成す。
流石に貴族のトップである摂関家だけは強力な私兵集団を擁していたが、其れも保元の乱で自壊し、武士から新たに清華家として台頭した平家と河内源氏も短期間で滅亡し、承久の乱で天皇家の親衛隊も大打撃を受けたので、朝廷の武力は武士の組合である幕府にとても及ばないものになってしまった。
「武力の外注」という他の国の貴族にはまず見られない現象である。前述のような貴族の成り立ちを考えるとある意味当然だが。
武士に権力を奪われた後は「建武の新政」などの一時期を除きほとんど完全なお飾りと化していた。
日本人の感覚からするとピンとこないかもしれないが、「軍部が700年間実権を握っていたのに一度も易姓革命が起こらなかった」は普通の国ならまずあり得ない事態である


……が、幕末になると王政復古の動きが加速。
明治維新と共に貴族は新たに旧大名家とともに「華族」として身分制度の中に組み込まれ、西洋風の五爵制度も取り入れ、完全な別物と化した。
日本国憲法の公布と共に華族制度もまた終わりを告げたのだが、現在でも華族の末裔は所謂「名家」扱いされることが多い。
旧華族一覧が平成以降の世になっても作成されたり旧華族の集いが定期的に開催されたりしているなど、権力や身分は失っても完全に概念が消えた訳ではないようだ。



韓国

朝鮮王朝時代に存在していた官僚「両班ヤンバン」が、良民(両班、中人、常民)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる身分階級の最上位に位置する貴族階級(中華帝国における士大夫)に相当した。この両班は官僚を輩出する一族そのものを指す名称でもある。


この両班は自然発生的に形成されてきた他国の貴族とは少々成立の経緯が異なる。
基本的に朝鮮王朝は自らを偉大な中華帝国文化圏の一員と位置付ける「小中華思想」に基づいて成り立ってきたため、高麗建国の際統治機構として唐や宋の制度を参考に武官、文官の二系統の官僚組織を立ち上げた。
本来はこの武官(武班)と文官(文班)の二つを合わせた官僚組織そのものの呼び名こそが両班だったのである。


無論宗主国に倣い朝鮮も西暦958年に科挙制度を導入するのだが、五品以上の上級文臣の子は自動的に官吏になれるというルールがあったため、それら上級文臣が世襲によって権力を独占し門閥を形成し始める。
高麗はこれら王族と貴族化した門閥文臣によって支配されていた。この体制は1170年に起きた武官側の軍事クーデターによる政権乗っ取りと続く元軍の侵略で一旦崩壊するが、このとき雌伏していた文官の生き残りたちは「新興儒臣」という集団を形成。元崩壊後の李氏朝鮮王朝成立に伴う政界再編に乗じてさらに版図を広げ、これが後に貴族階級としての両班のルーツとなる。
李氏朝鮮王朝では軍事政権時代に権力を握っていた郷里出身の文臣を官僚から追放、科挙の受験資格を大幅に制限したことで科挙は事実上受験費用を賄える門閥貴族のボンボンの専売特許と化し、次第に両班という言葉はこれら門閥貴族階級のことを指す言葉となっていった。
つまり両班とは地方豪族が中央に進出して政治権力を握ったものではなく、最初から政治屋として産み出された官僚が権力の集中と門閥化により貴族へと成長したものだといえる。


この両班だが、厄介なことに重税を湯水の如く使い潰す上に自身は特権により他国の貴族なら負うであろう貴 族 の 責 務ノブレスオブリージュを免れた挙げ句、人民に対する横暴も許されるというあんまりにもあんまりなテンプレ腐敗官僚そのものなのだ。*6
そもそも儒教の影響で肉体労働とは下賎な下等民のやるものという傲慢な思想に染まりきっていたので、真面目に働いて稼ごうという意識がなく、自国民にまで「盗賊」「転んでも自分で起きない」「箸と本より重い物は持たない」などと唾棄されるほど腐敗を極めた。
おまけに両班の特権を金で売り買いする不届き者が横行したため、李氏朝鮮王朝末期には金で特権を買った「自称両班」が大増殖。血みどろの権力闘争を繰り広げる世紀末状態に……!
その惨状を、マリ・ニコル・アントン・ダヴリュイは自身の著書『朝鮮事情』において「世界一傲慢な貴族」とまで評した。


当然、当時は立憲君主国として発展していた日本に此等の特権が認められるはずもなく

  • 教育を受ける権利と子女に教育を受けさせる義務*7
  • 職業選択・居住の自由
  • 私有財産の尊重
  • 法律の根拠無しに逮捕・監禁されない権利
  • 納税の義務
  • 止むを得ず国民の権利を制限せざるを得ない場合は国民の代表である国会の賛同を経た法律の手続きを順守しなければならない

と併合後は両班の特権を悉く潰す政策が施行された


韓国は儒教文化により「家柄」「血筋」のブランドを過剰に崇拝する権威主義の強い影響を受けており、朝鮮王朝が滅亡した現代でも、血筋を鼻にかけて高級官僚や財閥トップの座にいる一族が未だに影響力を持ち続けている。
因みに朝鮮民主主義人民共和国は労働者の国を標榜している(共産主義)ため、ブルジョワ階級である両班の血統はむしろ忌避される傾向にある。



ローマ

ローマの建国王ロムルスによって百人の有力者が集められたのが始まり。
彼らはラテン語で「父」を意味する「パーテル」*8と呼ばれ、元老院を構成した。
当初はあくまでも王に対する助言機関だったが、七代目の王タルクィニウスの時代にやりたい放題やった王を追放。以後は国家ローマの意思決定機関となる。
だがローマが地中海世界の覇権を握る頃になると、統治能力の衰えからスッラやカエサル等の独裁を許し、初代皇帝アウグストゥスによってローマが帝政に移行した後は、皇帝に対する助言機関に戻る。



アメリカ

国の成り立ち、政治の構造上・制度の上での貴族は存在しない。
しかし歴代の国の重鎮には、ヨーロッパから渡ってきた王侯貴族の血を受け継いだものが多いのもまた事実である。
またブッシュ家やクリントン家、ケネディ家といった大統領・有力政治家を多く輩出してきた家系が「貴族階級」と揶揄されることもある。



フィクションにおける貴族キャラ

ファンタジー世界観の場合大抵一度は出てくる。
概ね、「体制よりの保守派」の悪役として出てくることが多い。


味方サイドであっても、無能だったりギャグキャラだったりとあんまりいい扱いはされない場合が多い。
これは、味方サイドの有力貴族が有能であった場合、本編における(権力財力が求められる・あれば即座に終われる)多くの問題を鶴の一声で解決できうる存在になってしまいかねず、そうなると(大体平民だったり旅人だったりな)主人公の出る幕が無いから……と言うのが原因だろう。
上述したまっとうな貴族だった場合は、主人公サイドからは疎まれつつもやるべきことはきっちりやっている有能ぶりを発揮していたり、主人公とは敵対しつつも一定の敬意を持たれていることもある。
もちろん主人公サイドとも敵対せず、有能・友好的な場合もある。


その一方で主人公として活躍するパターンも当然ある。
その場合は選民思想の薄い公平な視点を持った異色の貴族として登場することが多い。
主人公格の貴族だと召使や平民など下々に対する態度が柔らかく、そこから恋愛感情が生じて……、というパターンは昔から少女漫画では使い古された展開である。


かように「身分差を強く意識し、下層に惨く当たる選民思想(そして無能)」か「身分差を全く気にせず、下層にやさしく接する博愛主義(そして有能)」の二分化が激しく、「身分差は厳然として意識をするが、とりたてて下層につらく当たるわけではない(有能か無能か、もしくは真ん中辺りか)」といういわば「普通の貴族」は主要キャラとして登場することは稀で、そもそも登場することもあまりない(登場する例としては、例えば下記に出てくる『王様の仕立て屋』の場合は、服飾を語る上で貴族を多く登場させているため、「普通の貴族」もわりと多く登場している)。


また、その血筋から財閥・王族系キャラとかぶりやすいのが特徴である。
初めて「ノーブレスオブリージュ」という言葉が使われたのは「『貴族が義務を負う(ノブレス・オブリージュ)』ならば、王族はそれに比してより多くの義務を負わなければならない」という文脈なので、違いがわかりにくいからかもしれない。


なお、日本語における爵位はヨーロッパ各地の時代や国によって制度が異なる爵位を、中国語由来の言葉に強引にコンバートし、更に日本独自の解釈を加えたものなので、実体とは微妙に~完全に異なる部分がある
(もっともポピュラーな「王」ですら、絶対的トップの王から実権が無い王まで色々あるが、爵位も同様なのだ)
なので聞きかじりの知識で「○○伯は名前から田舎っぽいが実は偉い」とか「市民が○○になれることは通常ない」などと断言すると実は間違ってる可能性があったり、ましてや現実とルールが異なる異世界モノの貴族制度にツッコミを入れると爵位警察になってしまったりするので注意が必要。


あと辺境伯がすっごい人気
よく使われる辺境伯の設定としては「国境の最前線の領地を預かる貴族」
「戦争に直結する領を守るための強力な武力、他国との交易による富力、他人種と交わることによる開放的な気風、領としての独立性を持つなど強大だが、首都から離れているため田舎貴族と舐められることもある」などである。
あまりに人気が高すぎて色んな作品で出るため、辺境伯の概念は知ってるけど、リアルの歴史で具体的に誰が辺境伯だったかは知らない、なんて人も多いのではないだろうか。



主な貴族キャラの特徴

  • 高慢
  • 選民思想
  • 金髪碧眼
  • 極端なイケメンor怠惰な生活で肥満体
  • 貴族でないものは人として扱わない
  • 見栄っ張り
  • 無能
  • 俺様キャラ
  • 世間知らず、または浮世離れしている
  • 貴族としてのプライドが良くも悪くも高い



フィクションにおける貴族系キャラの一覧(善悪問わず)





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*1 当時のローマは多方面に敵がおり、ファビウス氏族は「ある敵とは軍事面・資金面ともにファビウス氏族だけで戦う」と提案、それが受け入れられていた。そしてこの戦いまでは敵を撃退し続けていたのだ。
*2 孟献伯という大臣(伯爵)が、庶民の貧困を気にして、馬車は小振りで従者も少なく、と質素倹約をしていたところ、「それは公務の放棄で、いざ戦いとなった時にその馬車に乗って従卒を率い、戦闘に出ることを無視している。名声を求めて本義を忘れた姑息な男だ」と批判された話もある。
*3 例えば、桓公や管仲で有名な「斉」は「侯爵」。ちなみに「公爵」は殷王朝の末裔である宋国のみで、伯爵以下は勢力が小さく実質は臣下で、有力国家クラスの封建領主はほとんど侯爵だった。「諸侯」と呼ばれるのはこれが由来。
*4 中国語版Wikipedia「維基百科」では「士族 (中国)」と表記。
*5 というか「中国史における、広義の官僚or知識人」といった程度の意味。
*6 全部は書ききれないが、例えば兵役は免除されており賦役など大半の税も納付義務がなかった。そのくせ家・衣服・墳墓・祭礼に関して常民以下から好き勝手に財産を巻き上げても罪に問われないどころか、その事が権利として保証されている。
*7 尤も、法律に使われている公用語である日本語の授業導入や朝鮮語授業も「文法が似ている日本語の教科書をベースに作った方が労力が省ける」と考えて教科書や授業マニュアルを作ったので「言語を奪った」と戦後に非難される要因になったが
*8 この言葉から後に貴族を表す「パトリキ」という言葉が生まれた。

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